世界のひらけはじめ 天地開闢(てんちかいびゃく)

古事記(日本古典文庫:古事記/日本書紀 福永武彦 訳)によれば、宇宙の初め、天も地もいまだ混沌としていた時に、天のいと高いところ高天原に三柱の神、 初めに天の中央に有って宇宙を統一する天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に宇宙の生成をつかさどる高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、同じく神産巣日神(カミムスビノカミ)が現れました。

天と地とのけじめのつかぬ、形らしい形もないこの地上は、水に脂を浮かべたように漂うばかりで頼りのないものでありましたが、そこに水辺の葦が春先いっせいに芽吹いてくるように萌え上がって行くものがありました。

その中から二柱の神が生まれました。はじめは宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ うるわしい葦の芽の天を指し上る勢いを示す男性神)、次は天之常立神(アメノトコタチノカミ 永遠無窮の天そのものを神格化した神)でした。以上五柱の神はいずれも単独神で、姿を見せることはなく、地上に成り出でる神とは別の天神(あまつかみ)と称せられます。

以上の天に現れた神々に対して、地においても次々と神々が現れます。まず、国之常立神(クニノトコタチノカミ 生まれるべき地を神格化した神)、次に豊雲野神(トヨクモノノカミ 脂のようなものが次第に凝り固まり、広々とした沼のようになって行くことを示しています)、この二柱の神も単独の神で、姿を見せることはありませんでした。

次に、大地が固まっていく過程を示す男女四組の神々が現れ(備考に示す)、その後、大地の表が不足なく整った後、男神の伊邪那岐神(イザナギノカミ)と女神の伊邪那美神(イザナミノカミ)が現れました 互いに誘(いざな)いあった神を意味します。

地において現れた最初の二柱と後に現れた五組の男女の神を其々一代と数えてこれを神代七代(かみよななよ)と言います。

さて、初めに宇宙にあらわれた三柱の天神は、相談の上、伊邪那岐命(イザナギノミコト)と伊邪那美命(イザナミノミコト)に「地上の有様は、まだ脂のように漂っているばかりである、お前たちはかの国を、人の住めるように作り上げよ」と命じられ、天沼矛(あめのぬぼこ)という玉飾りの美しい矛を授けました。

二柱の神は天と地との間に懸けられた天の浮橋(あめのうきはし)に立って、その矛を海の上に脂のように漂うものの中に突き下してぐるぐるとかき混ぜました。かき混ぜるうち水のように薄いものが次第に“こおろこおろ”とかたまっていき、やがて矛を引き上げるとき、滴り落ちた潮が次第に積もりかたまってついに島となりました。これを淤能碁呂島(おのころじま)と呼びますが、これは神の生んだ島ではなく、しぜんと凝り固まって出来た島、と言う意味になります。

二神は淤能碁呂島(おのごろじま)に降り立ち、程よい所に太い柱を立てそれを中心に八尋も有る広い御殿を建て、次々に国を生み出しました。最初は淡道之穂之狭別島(あわじのほのさわけのしま 淡路島)、次に伊予之二名島(いよのふたなのしま 四国)、隠岐之三子島(おきのみつごのしま 沖合の三つの島)、筑紫の島(つくしのしま 九州)、伊伎の島(いきのしま 壱岐)、津島(対馬)、佐度の島大倭豊秋津島(おおやまととよあきづしま 本州)の八島、いわゆる大八洲を生み出していきました。それから瀬戸内海、北九州沿岸の島々六島を生み出しました。

国を生む仕事が終わってイザナギ・イザナミは様々な神(家、土地、海、風、木、山、野など自然や物の神様)を生み出していくのですが、火之迦具土神(ヒノカグツチノカミ 火をつかさどる神)を生んだとき、イザナミは火傷を負いそれが因でついにこの世を去って黄泉国(よもつくに)へ旅立ちました。

東(つま)霧島神社

都城市高崎町

イザナギノミコトを主祭神とする。霊峰高千穂の峰を取り巻く六社権現の一つで山岳信仰の神社である。

境内には妻イザナミの死を悲しんだイザナギの涙が凝固したという「神石」が在る。地図

この神石に一滴の水を注ぐと必ず神雨が降り注ぐと云われ、干ばつの時にはこの神石に雨乞いをして五穀豊穣を祈ってきた。

イザナミの亡骸は出雲の国と伯伎(ほうき)の国との境である比婆の山に埋葬されたと言われます。

イザナギは悲しみと怒りの余り、長さ十握(とつかみ)もある十拳剣(とつかつるぎ)を抜いて、火之迦具土の頸を切り放ってしまいます。

神  石

都城市高崎町

神石もうひとつのいわれ

イザナギは妻イザナミの死を悲しみ、その因になった火の神カグツチを十握(拳)の剣で三段にきりわけ殺してしまった。カグツチが石となりここに在るという。

でも、二つしか石が見えませんね。そう、一つは勢いあまって宮崎市大島町 的石神社(矢的原神社合社)に飛び、祀られているといいます。或いは、出雲に飛んだとも都城市母智丘の母智丘巨石群の中にあるともいわれます。

それでも悲しみの癒えぬイザナギはイザナミを探しに黄泉国(よもつくに 夜見之国)へと地下の世界へ降りて行ったのです。しかしイザナミはすでに変わり果てた姿になっており、身体には蛆(うじ)がたかり、頭、胸、腹などには雷(いかずち)が取り付いていました。

イザナギは驚き、恐れおののきながら逃げ出しました。恥ずかしい姿を見られたイザナミから次々繰出される追手から逃れてほうほうの体で黄泉国から脱出したのです。

イザナギは黄泉の穢(けがれ)れを清めるため「筑紫(つくし)の国の、朝日さす、橘の木の青々と生い茂った河口のあたりの阿波岐原(あわぎはら)」で禊ぎ祓いの儀式を行いました。

阿波岐原(あわきはら)

[(c)miyazaki-pref.] 今は無き巨大ドームプールが写っている

「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あわきはら)」(古事記)

「筑紫(つくし)の日向の小戸の橘の檍原(あわきはら)」(日本書紀)

宮崎市に阿波岐原町(あわきがはらちょう)があります。檍(あわき=日本書紀)とかいて「あおき」と読む地区も阿波岐原町に隣り合って在ります。 シェラトングランデオーシャンリゾート、トムワトソンゴルフコースの西側一帯、植物園フローランテ、市民の森がある辺りを指します。

江戸中期の国学者・本居宣長により(その地名が)「見当たらず」とされたためか、人々の記憶には薄いが、古より現存する地名である。地図

この時、「杖・帯・衣」など身に着けた物を投げ捨てると、それらから次々と神々が生まれて行きました、いよいよ川を見やって流れの程よい中の瀬あたりに下りて行って身体に水を注ぎかけ洗い清めると、清めるたびにそれを表す神々が生まれました。

御池(みいけ)

宮崎市阿波岐原町・市民の森の松林の中にあります。ここがイザナギが禊祓いをしたところと謂われています。

別名「みそぎがいけ」として市民に親しまれています。地図

次に水の底深く沈んで身体を濯ぐと底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)次に底筒之男命(ソコヅツノヲノミコト)、次に水の中ほどで中津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)次に中筒之男命(ナカヅツノヲノミコト)、次に水の表に出て身体を濯いだいだとき上津綿津見神(ウワツワタツミノカミ)次に上筒之男命(ウハヅツノヲノミコト)が生まれました。これらの神々は海路を守る神であり綿津見(海神)神社(底・中・上津綿津見神)、住吉神社(底・中・上筒之男命)に祀られる神々となりました。

住吉神社

市民の森の北、松林の続き、市営動物園の入り口右側にあります。

イザナギノミコトが禊祓へをされたときに生まれたという住吉三神(上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命)を祀る。地図

丸に元という文字の紋章を持ちます、住吉の元宮であるしるしと伝えられます。

続いてイザナギが左の眼を洗って生まれた神の名は天照大御神(アマテラスオホミカミ)、右の眼を洗うと月読命(ツクヨミノミコト)が、鼻を洗うと建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)が生まれました。

ここにおいてイザナギは「子供を次々に生んできたが最後において三人の世にも尊い子供たちを得たのは何という嬉しい事だろう」こう言って天照大御神に「お前は私に代わって高天原を治めよ」と命じられ、仕事を任せた印に頸の玉飾りを手渡された、月読命には「夜之食国(よるのおすくに)を治めよ」と命じ、建速須佐之男命には「海原を治めよ」命じ、仕事を任せました。こうして昼の国と、夜の国と、海原とが、三人の御子たちの手に委ねられたのです。

しかしスサノオは母イザナミのいるという地の底の根之堅洲国(ねのかたすくに 黄泉の国)へ行きたいといつまでも泣きわめき、海原は大荒れに荒れ、あらゆる禍という禍が一時に起こってきました。

ついにイザナギはたいそう立腹し、「そういうことを言うのなら、お前は好きにするが良い、この国に住んではならぬ。」こう命令され、スサノヲを追い払ってしまわれました。

日向(宮崎)神話の舞台

江田神社

江田神社はイザナギノミコトを(後にはイザナミノミコトも)祀っています。

市民の森に隣接し、「みそぎが池」から至近。「続日本紀」・「延喜式」などに社名が出ている古くからの神社です。近年はスピリチュアルスポットとして参詣も多くなっているようです。

「大八洲」創造の神を祀る神社にしては寂しいが、国学者本居宣長に(その地名)「見当たらず」とされた阿波岐原に在る悲運を嘆いている様でもある。地図

江田神社 御神木

何時の頃からか幸運を招くと参詣者が撫ぜるうちにこのように・・・

イザナギ・イザナミノを祀っていることから、恋愛や子宝の御利益を授かろうと各地から御参りする人が多いとか

一葉(ひとつば)稲荷神社

元は江田神社の境内の西にあったといわれます

創建:紀元740年代。貞亨(1684-88)のころ、現在の地に遷座。

このころ境内に、一葉の松の木が生じ、住吉の神威の顕れと人々は信じました。

このころより一葉稲荷大明神、一葉住吉大明神と称せられるようになりました。

御祭神は倉稲魂命(ウガノミタマノミコト)・塩土老翁命(シオツチノオキナノミコト)・猿田彦命・大国主命である。倉稲魂命は稲荷神です、稲の神霊とされています。地図

小戸(おど)神社

宮崎平野を流れる大淀川河口左岸にイザナギを祀った小戸神社が建てられました、河口部に小戸町があります。

創建の地は1662年西海大地震で沈んだといわれる沖の「小戸の瀬」とされます。地震や道路拡張で二度三度変遷を余儀なくされ現在は少し内陸部、鶴島町に移転されています。

古くは港の安全・航海の安全などを祈願する神社でした。

“おど”は「古事記」では小門・「日本書紀」では小戸と書かれています地図

東(つま)霧島神社 鬼岩階段

その昔この地方を支配していた豪族は「鬼」と呼ばれるほど住民に悪の限りを働いていたが、村の娘に恋をした。しかし取り合ってもらえず、ますます悪行の限りを尽くしておりました。

村人の願いを聞いて、霧島の神は鬼に「この神殿に一夜で1000個石を積み上げて階段を作ったら願いを聞いてやろう」と約束しました。

力持ちの鬼は軽々と石段を作り始め、夜が明けるまでに出来上がりそうな勢いに、これには神も驚いて、夜明け前に長鳴き鶏を鳴かせて、鬼に夜明けと思わせました。

999個まで積み上げていた鬼だったが夜明けと勘違い、一個残してすごすご退散したという。この乱れ積の170段ほどの石段がその階段といわれます。地図

矢的原(やまとばる)神社

昭和13年、霧島神社(矢)・的石神社(的)・原権現神社(原)を合社したものと由来に記されている。 境内に的石神社の祠が在り、その中に霧島神社の由来記と飛んできた東霧島神社の神石の一部とされる石が祀られている。地図

神石の一部とされる的石神社の石

矢的原(やまとばる)神社に合社されている 石質からは同じ石とは見えぬが、土地の人々はそう信じて崇敬してきたのだろう。