宮崎県西都市には高千穂に降臨されたニニギノミコト一行が「良い国」を求めて海路お越しになり、到着されたのがここ笠沙の岬(御前)で、当時は奥深い入り江になっていたという。神々の舟がここに鎮まっているといわれ、その舟を祀るという御舟塚がある。当時は古墳群のある西都原の台地近くまで奥深く入り江になっていたと言う。ニニギノミコトとその妃コノハナサクヤヒメを祀る都万神社のすぐ近く。地図
<ニニギ(邇邇芸命)の御子誕生>
ニニギは国津神オオヤマツミ(大山津見神・大山祇命)の娘コノハナサクヤヒメ(木花咲耶姫)と笠沙(かささ)の御前(みさき)で出逢い結婚を申し込みました。
笠沙の御前(かささのみさき) 御舟塚(西都市)
宮崎県西都市には高千穂に降臨されたニニギノミコト一行が「良い国」を求めて海路お越しになり、到着されたのがここ笠沙の岬(御前)で、当時は奥深い入り江になっていたという。神々の舟がここに鎮まっているといわれ、その舟を祀るという御舟塚がある。当時は古墳群のある西都原の台地近くまで奥深く入り江になっていたと言う。ニニギノミコトとその妃コノハナサクヤヒメを祀る都万神社のすぐ近く。地図
父のオオヤマツミはそれを大変喜んで、姉のイワナガヒメ(石長姫・磐長姫)も一緒に添えて差し上げた。ニニギはイワナガヒメのあまりの醜さに怖気をふるって父神のもとへ送り返してしまい、コノハナノサクヤヒメだけを留めて、一夜、寝所に入って共に寝た。
残念に思ったオオヤマツミは「コノハナノサクヤヒメの方のみお留になったので、天神の御子のお命といえども桜の花の散るようにはかないものとなりましょう」と言いおくった。それで代々の天皇の命はながくはないのだと古事記にはある。
イワナガヒメ(石長姫)のその後
ところで宮崎の伝承では、ニニギに帰されたイワナガヒメは悲しみの日々を送っていましたが、ある日鏡を見るとその中に竜の姿を見ました。ヒメは驚いてその鏡を投げ捨てました。
鏡は高く飛んで竜房山(宮崎県西都市 地図)の頂上にある大木に引っかかりました。
そこから西の麓の村を明るく照らしたと言います。それでその村を『白見村』と言うようになったそうです。
イワナガヒメは鏡の行方を知りたくなり白見村まで来てそこに隠れました。
村人はその鏡を木から下ろし祀りましたが、その鏡が銀製だったので『白見』が『銀鏡(しろみ)』と表されるようになったと言われています。西都市銀鏡地区の銀鏡神社はイワナガヒメと父オオヤマツミノ命を祀っています。
銀鏡神社(西都市)
この故事から山の神は女神であり、あまり美しくはないのだそうです。女人が山に入ると山の神が嫉妬するので「山は女人禁制」のおきてがうまれたそうです。
宮崎県綾町では女の子が生まれると山の神に感謝して、三月のひな祭りには座敷に自然の木、苔、岩を用いて山の景色を作り、その中にひな壇を飾る「雛山」の風習が古くから続いています。
この後になってコノハナサクヤヒメがニニギに御子を授かったことを告げますが、一夜で身籠ったことにニニギは「私の子ではなく国神の子ではないか」と疑いを持ちました。
疑いを晴らすため、コノハナサクヤヒメは子を産むときに出入り口の無い産屋(無戸室・うつむろ)に火を放ち、「もし国神の子であれば無事には産まれません、天神の御子ならば無事に産まれましょう」と中に籠りました。
無事に三柱の子が産まれその御子の名を
• 火の盛んに燃えあがった時に生まれた子をホデリノミコト(火照命=海幸彦)
• 火が盛んに燃えている時の子をホスセリノミコト(火須勢理命)
• 火が収まりかけた時の子をホオリノミコト(火遠理命=山幸彦、またの名をアマツヒダカヒコホホデミノミコト・天津日高日子穂穂手見命 日は高く輝き、その日の神の御子であるとともに稲穂が盛んに実る意味)といいます。
日本書記には 三人の御子誕生後 ニニギは久しくしてからこの世を去った、そこで筑紫の国の日向の可愛(え)の御陵に葬った とある
可愛之山陵・ニニギノミコト(邇邇芸命)陵墓
宮崎県北・延岡市北川町にある可愛岳(えのたけ・かわいだけ)の東麓に経塚と呼ばれる古墳がある。ニニギの陵墓伝承地として指定されている。地図
西都市にある西都原古墳群(311基)の中の最大の古墳 男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)もニニギノミコト・コノハナサクヤヒメの御陵と伝えられている。地図
ニニギ埋葬地である「日向の可愛の山陵」の伝承地は南九州各地にあるが宮内庁は薩摩川内市の新田神社と正式に決定している。明治維新後、ことごとく神話伝説の地は薩摩に持って行かれたと宮崎では切歯扼腕したと古老は云う。
新田神社は大正3年に宮内省直轄となり、新田神社のある神亀山の5分の4が御陵の領域で、現在は宮内庁書陵部桃山監区可愛部事務所が置かれ、内閣府事務官が陵墓守部として管理されている。御陵と神社が一体となっているのは全国でも珍しい形態である。
「鬼の窟(おにのいわや)」物語
コノハナはニニギと結婚する前、この地に住む乱暴者の悪鬼から求婚されていました。父オオヤマツミは「可愛いい娘をそのような鬼の嫁などにやれるものか」と断るために、「もし夜明けまでに岩の宮殿を造れたら許してやろうと」言いました。
しかし、力持ちの鬼は簡単に一晩で造りあげてしまいました。でも、疲れと安心からか、うっかりそこで寝込んでしまったのです。この間に、オオヤマツミは天井の石を一つ貫(ぬ)いて投げ捨て、「まだ完成していない」と鬼の求婚を断ることが出来たそうです。
地元では(西都市西都原古墳群にある)鬼の窟(おにのいわや)古墳こそがその「岩の宮殿」だと伝えられています。
鬼の窟古墳には環濠が有りますが、だまされたと知れば鬼は死後も祟りをもたらすかもしれません、そこで鬼の墓には環濠を造り、その霊を厳重に封じたのではないか。鬼の窟古墳(下に写真)にはそのような興味をそそられる物語があります。地図
「鬼の窟(おにのいわや)」古墳
環濠の外から望む
環濠
内部を覗く
「鬼の窟(おにのいわや)」と名づけられている古墳です。
オオヤマツミから天井の石を貫かれてコノハナへの求婚を断られたと云う鬼が一晩で造った「岩の宮殿」と言われます。
或いは、鬼の墓そのものであり、環濠を作ってだまされた鬼の魂を厳重に封じたではないか?とも言われます。
何処にあった岩が貫き取られたのでしょうか?
中に入って捜してみては?
さて、その貫(ぬ)かれた岩が落ちた辺りに石貫(いわぬき)神社が建てられています、御祭神はオオヤマツミノ命。
神社から西都原の台地に上がる所に石貫(いわぬき)階段があります。上りきった所にオオヤマツミ塚古墳があります。地図
オオヤマツミ塚
オオヤマツミ塚と呼ばれ、コノハナサクヤヒメの父オオヤマツミの墓とされている。
日向(宮崎)神話の舞台
都万神社(西都市妻一丁目)
逢初川(あいそめかわ)(西都市)
笠沙に移り住まわれたニニギノミコトは、この小川で水汲みをしていたコノハナサクヤヒメを見初め結婚の申し入れをされたと伝えられる。小さな流れであるが、奥のほうから清水が湧き出ている。地図
清酒発祥の地(西都市)
三皇子を育てるには母乳が足りず、コノハナが甘酒を造って飲ませたという伝承から、都万神社境内には「日本酒発祥の地」の碑が立てられている。
北西に西都原古墳群があり、ニニギとコノハナの陵墓とされる古墳(男狭穂塚・女狭穂塚)がある。
木花神社(宮崎市)
ここもコノハナサクヤヒメが祀られている。 この地区の海岸部を木崎浜と呼ぶ、コノハナがニニギの妃になった所なので「きさき」と呼ぶようになったとされています。
木花神社にも無戸室の跡と伝えられる場所が有る、社殿脇にあります。 火を放った産屋の中で無事3皇子を出産されたことから安産の神として崇敬されています。地元の人々が守り続けてきた神社です。地図
男狭穂塚・女狭穂塚(西都市)
男狭穂塚(おさほづか)・女狭穂塚(めさほづか)は 西都原古墳群(311基)の中の最大の古墳でニニギノミコト・コノハナサクヤヒメの御陵と伝えられている。地上からは巨大すぎて全容がわかりません。地図
森の中にあり、全長219mと174mあります左はその形状と位置関係を表しています。
西都原は斎殿原(さいとのはる)から変化したとされる。 祭祀を行う神殿のある場所の意
この男狭穂塚・女狭穂塚は陵墓参考地として宮内庁により厳重に管理されています。