セーメーバン山頂から桜沢峠へ下る(2004年)

南東尾根からセーメーバン

雑誌『新ハイキング』を購読していると、セーメーバンの東に延びる尾根を上り下りする記事がときおり掲載される。桜沢峠へと下るとき左手に急激に高度を下げていく尾根が見えるが、それがその尾根だ。セーメーバン自体は2004年の春に続けて3度も登ってしまったが、いつも主稜線を上下するばかりで変化がなかった。
7年も経ってようやくバリエーションルートがあることを思い出して出かけてみたが、カメラを持ってきたもののデジタルデータ記録用のカードを抜いたままだった。これで同じ山域の楢ノ木尾根を登ったとき同様に撮影不可となった。登りに来る2回に1回は撮影できない山はこのセーメーバンだけだ。写真などどうでもよいと思わせるものがあるのだろうか。ただ単に五月の連休はうっかりしがちなだけなのかもしれないが。


駅前再開発中の大月駅からタクシーを奮発して田無瀬のバス停に出る。ここは三叉路になっており、本日は葛野川に背を向けて小和田集落への舗装路を辿る。賑やかなせせらぎが追ってくる周囲は新緑が横溢し、菜の花やタンポポの黄色が鮮やかで、彼方にはところどころヤマザクラが霞む。左手下の谷間の向こうには百蔵山から落ちてくる尾根末端に大洞岩が目立つ。あれも登ってみたいところの一つだ。
眺めがなくなると右手に分岐する車道が現れる。標識が立っていて小和田入口だという。こちらだこちらだと斜面をからむ道のりで高度を上げていくと再び眺望が開け、中天に権現山の鋸尾根が険阻なコブを連ならせている。近ごろ低い里山ばかりを登っていたので稜線を見上げるだけでも爽快だ。暗い舗装道が開け、明るいなかに入っていくと小和田の集落で、新しい家もあるが昔ながらの大きな農家も建ち、古くからの農村だということを教えている。
集落の最奥に寺があり、真新しい本堂が日に輝いている。門前に着いてみると脇に山道の入口があって山名標識が立ち、「セーメーバン(小和田山経由)」と記されていた。こんなところにも標識を立てるくらいだから大月市は山を真剣に考えているようにみえる(そのわりに広報が足りていないようにも思えるが)。振り返ってみると葛野川が構成する河岸段丘が市街中心地に向かって延びている。右手に立ち並ぶのはセーメーバンから下ってきて岩殿山に至る尾根筋だ。川の左岸に立つ百蔵山山塊の下には朝から見慣れた大洞岩が顕著な三角錐に見える。正面奥には猿橋近くの住宅造成地が異様な平坦さだ。
山道に入ってみると足下は切り払われていて、恐れていたようなヤブ道ではない。とはいえ枝が差し渡すところがあってまったく快適というわけではない。道筋はかなり抉れていて、古くからの峠道かと思われる。泥のなかに足跡があり、人が辿らないわけではないのだなと思ってよく見ると、鹿らしき偶蹄目の足跡だった。尾根の上に出ると陽春の光が溢れている。葉が広がったばかりの季節なので一面が明るい。
山道は最初のうちだと仕事道も兼ねているようで、標識がなければまっすぐ行ってしまいそうなところもあった。かつては地図と首っ引きで歩かれていたはずだ。三角点がある場所に着くが、通路風情なので先に進む。ひょろっとした赤松が一本立っていて、その脇を行く踏み跡を登ると真新しい石祠が立つ小和田山だった。登り出しの寺(東光寺)から半時ほどかかっていた。伐り開きがあって遠望も利き、岩殿山に延びる稜線の上に九鬼山らしきが頭を出し、稜線の手前、足下には日影集落が静かに広がる。腰を下ろしてしばし休憩するものの、季節柄、虫がたくさん飛んでいて少々落ち着かない。大きなマルハナバチがホバリングしていてなかなか動かないのがいちばん気になる。このあたりでは花も咲いていないのに何をしているのだろう。
小和田山からしばしで尾根が広がってきて、桧の大木が立ち並ぶ重厚な雰囲気となった。落ち葉で覆われた地表はよく見ないと道筋がわかりにくく、古い赤テープも参考に方向を考えつつ進む。右手の斜面にヤマザクラが二本うっすらと白く、新緑ばかりの山腹にアクセントを添えていた。足下にもサクラの花弁が散っているので頭上を仰ぎ見てみたが、すでに葉桜になってしまったのか花天井とはいかなかった。彼方には木々の合間から台形の宮地山が窺え、山深さも感じられる。地図上に小さなコブが3つ並ぶあたりの稜線はすべてピークを巻くので楽に歩ける。左手にはセーメーバンから岩殿山へと続く尾根筋が長く、セーメーバンそのものはまだだいぶ高い。山頂に立つクスノキとその付近の送電線鉄塔がよい目印だ。


三つコブを過ぎると再び登り出す。地図では点線で表される古道が尾根を外れて下っていくように読めるのだが、稜線上の山道は再び抉れたようになり、まだ峠道が続くようだった。倒木が目立ってやや歩きにくくもなる。徐々に強まる傾斜を登り上げると気づかないうちに外れていた峠道が合流してきたり、風情ある巨木の足下にえんじ色に塗られた石祠が置かれていたりする。石祠など、手前には狛犬代わりか差し渡し30cm程度の白い岩が配置されていて多少なりとも聖域の雰囲気だ。祠の裏に回ってみると建立日付として平成の年号があって正直拍子抜けだったが、いまだに道のり自体が大事にされている証でもあった。
桜沢峠の石祠(2004年)。灰焼場の下にある石祠も同じようなものだった。
桜沢峠の石祠(2004年)。
灰焼場の下にある石祠も同じようなものだった。
 
祠の先で踏み跡は稜線を忠実に辿るものと、左手の谷間を見下ろす山腹を行くものとに別れ、後者を辿る。稜線は左へとゆるやかに弧を描き、そのさきにセーメーバンがある。すでにかなり近く、あと半時ほどで達するだろう。淡い光の溢れる谷間は眺めるだけで心地よい。再び稜線に乗ると右手後方から合流してくる踏み跡があり、せっかくなので入ってみると2,3分で三角点のある地点に着く。岩科小一郎氏『大菩薩峠』の「岩殿山付近」図にて"灰焼場"とされているところだ。開けた眺望はないが小広く開けて休憩によい。腰を下ろし、梢越しにセーメーバンを眺めながら昼食とした。
休んでいるうちから風が強く吹き出した。低気圧が近づいてきたらしい。見上げるアカマツの木々がしなるように揺れている。明日から雨だが本日一日はもつと予報は言っていた。とはいえここは山の上だ。休憩して1時間、時刻はすでに2時、そろそろ出発しなければ。
平坦な道のりが登りに転じると、右手に宮地山が近く、堂々と大きい。よく見ると山腹はまだ冬枯れから抜け切れていないのか、赤茶けた色合いが強い。右手奥には大峰から下ってくる瀬戸境の尾根が霞んでいる。思わず脚を止めてしまう眺めだ。ヤセ尾根を越し、またまた現れる抉れた道を辿っていく。落ち葉が散り敷かれているためクッションが効きすぎて歩きにくい。いよいよ山頂というところで、峠道らしきは手前で右手に屈曲して稜線に合流しようとする。合流しようとするのだが、その前に道形が山腹斜面に呑み込まれて消えてしまう。適当に稜線に出たが、振り返ってみると出たところがすでに判別不能なのだった。
7年ぶりのセーメーバンはいつものように誰もいなかった。もう2時半過ぎなので当然だろう。山頂に立つクスノキは南側にばかり枝が張りだしているものだったが、今や下から2番目の枝が折れてしまっていて、かつて感じた不均等さが目立たなくなっている。いつ折れたのか不明だが、折れ口は黒ずんでいてだいぶ時間がたっているようだった。


当初は灰焼場に戻って葛野川の畔に下ろうかと思っていたが、風が強くなってきたので主稜線を桜沢峠に下ることにした。南東尾根に比べて足下の障害物がなく歩きやすい。峠から金山民宿村に出ると新緑のなかにヤマブキとレンギョウが咲いていた。停留所のある遅能戸ではバスが来るまで1時間あったので、いつものように大月駅まで歩いて出た。駅では帰京する人がホームに列をなしていた。
2011/04/30

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