小金沢連嶺から雁ヶ腹摺山と大樺ノ頭(左)

雁ヶ腹摺山と楢ノ木尾根(一)

山歩きを始めたころ、ちょうど首都圏近郊の山についての山行エッセイ集が新刊として書店に出ていたので手に取った。そのころは聞いたこともないような山名が並んでいる中で、初見であっても親しみが湧くものがいくつかあった。雁ヶ腹摺山(がんがはらすりやま)はそのなかの一つだ。
特異な名称だが専売特許ではなく、なんと同じ大菩薩山系に牛奥ノ雁ヶ腹摺山に笹子雁ヶ腹摺山と、ご近所の範囲に三つも同名異山がある。しかも高さは”牛奥”のほうが高い。とはいえこれは小金沢連嶺の一峰で遠望するとやや個性に欠ける。笹子を冠するほうはその台形の山容からどちらかというと別名の笹子御殿のほうがしっくりくる。やはり本家は大菩薩連嶺主脈から一歩離れて丸い頭を堂々ともたげる山と思える。


ところがこの本家、奥秩父の国師岳のように山頂近くの峠まで車の走れる林道が通ってしまっていて、楽をすればろくに歩かずにてっぺんに登れてしまう。大峠という峠に道が通じたのは1981年だそうだが、それまでは大菩薩山系のなかでも最も奥深い山の一つだったのが、今では高尾山より簡単だと言われる始末だ。しかし山の大きさが変わったわけではなく、必要以上に容易に登れてしまうと「舐めた」印象しか残らないだろう。さてどう登るべきか、湯ノ沢峠から黒岳を越えて車道の越す大峠に下って登り返すとか、大菩薩峠から小金沢連嶺を縦走して黒岳から雁ヶ腹摺山へという案も考えたが、前者は湯ノ沢峠までの車道が長くてそもそも足が向かず、後者は連嶺縦走が長すぎて雁ヶ腹摺山が付け足しになってしまう気がした。この調子でぐずぐずしているうちに五百円硬貨が世に出て財布のなかから五百円札が消えていき、山頂からの富士山の眺めが札裏の図柄になっていることを確認しに行く気も減じていくのだった。
2月の浅川峠から雁ヶ腹摺山と大峰を初めとする楢ノ木尾根
雁ヶ腹摺山(中央左)、大樺ノ頭から楢ノ木尾根(右端に泣坂ノ頭、大峰) −2月の浅川峠から−
雁ヶ腹摺山は大きな山なのでいくつかの目立つ尾根を派生させている。北へ伸びる尾根筋の先には大樺ノ頭(おおかんばのあたま)というピークがあり、ここから東に向かう大きな尾根を楢ノ木尾根という。大月周辺の山々を歩いてこの尾根を仰ぐとその向こうには空しか見えない。大菩薩連嶺主脈ほどの規模ではないものの、同様に天を区切って彼岸と此岸を分けている。
そのなかでも目立つのは鋭く尖る大峰だ。脇に鈍重な泣坂ノ頭を従えつつ何もない空に孤高の三角錐を突き上げる。その存在に気づき、名を知ってしまったものには忘れがたい山だ。北都留三山から西に眺め、宮地山から北に間近に仰ぎ、九鬼山近くから遠望するうち、あれはどうにかして歩かねば登らねばという思いが募ってくる。これだけを狙って麓の上和田から山腹を登るという手もある。
だがやはり楢ノ木尾根のスカイラインを歩くという案は魅力的だ。そして尾根を歩くのなら、その尾根が尽きるところまで歩いてみたい。いずれにせよ雁ヶ腹摺山には登る。この山の大きさを実感したいので、かつてのクラシックルートであり、現在は歩く人がそう多くないはずの金山峠コースを登路としよう。まずは大月からバスで遅能戸に出て桜沢峠からセーメーバンの尾根に取り付き、大岱山あたりで幕営する。峠を越えて雁ヶ腹摺山に登り、荷が重いので楢ノ木尾根のどこか途中で二泊目を迎える。大峰を超え、上和田へは下らず、奈良子(ならご)入口まで伸びる尾根を歩ききる。
これで雁ヶ腹摺山と大峰を屈曲点としたコの字形縦走計画のできあがりだ。大月周辺の地域として見れば、山と尾根の大きさを実感し、探検気分も少しは味わえる充実の山行となるだろう。実施は五月の連休とした。計画が計画だから喧噪とは無縁だろう。


じつはこの計画、一年前の同じ時期にも立案して初日の幕営までは実行したものの、二日目の朝に大岱山から雁ヶ腹摺山を仰ぎ見てほとんどが雲の中なのを知り、すっかり行く気をなくしてセーメーバンの尾根を引き返し、桜沢峠から廃道になった踏み跡を東奥山へと下ったのだった。しかし今回は初日、山に入る前から撤退気分に陥っていた。天気は問題がない。昼過ぎのバスを遅能戸の停留所で降り、車道を登山口まで登ってきて、さてこれから山道という段になって、カメラを忘れてきたのに気づいたのである。なにも記録できないのかと思うとやる気が失せていく。よくみると携帯電話のバッテリーも切れているではないか。久しぶりのテント泊で慌てて準備した結果がこれだった。
桜沢峠入口の新緑 桜沢峠入口の新緑(一年前)
セーメーバンの尾根を辿る セーメーバンの尾根を辿る
重い足取りで登りつつ思う。大岱山までは昨年の写真があり、山じゅうに横溢する新緑の清々しい若葉のきらめきは今年も同じだ。ちらほらと目に入るツツジの赤い色も同じだ。ともあれ本日の予定はこなすことにしよう。考えてみれば山には歩きに来ているのであって、撮影に来ているわけではない。どうも本末転倒な態度でいたようだ。何度も訪れたセーメーバンに着くころには、写真などどうでもよくなっていた。ここまでが急坂なのでくたびれていたのもあるが。
「またまた来ましたよ」と山頂の樅の木に挨拶し、次に来るときの準備として山頂から東奥山方面に向かう踏み跡があることを確かめる。セーメーバンを越えると尾根の斜度はゆるやかになって歩きやすい。五月としても気温が高く、遠方の山は靄で霞んでいて見えないが、それでも右手に宮地山が見えてくると、大岱山は近い。山頂は広い尾根の上に少し盛り上がったコブのようなもので平坦地はなく幕営には適当ではない。楢ノ木尾根を見渡すことのできる林のはずれに移動して栗のイガが転がっていない場所を探し、多少の矮性なイバラは我慢してテントを張った。
大岱山から夕暮れの泣坂ノ頭(左)、大峰 大岱山から夕暮れの泣坂ノ頭(左)、大峰
もう夕方の5時に近いが日は長く気温も高かった。飛び交う虫を避けるために籠城していると蒸し暑いくらいだったが、冷気が漂ってきて初めていつのまにか眠ってしまっていたことに気づいた。暗くなる前に食事を済ませ、温かい飲み物を2杯も飲み、それでもランタンを点けるまでもない明るさのまま、シュラフを引っ張り出して就寝した。夜半、鹿だろうか、鋭い鳴き声が3度ばかり響いた記憶がある。その正体が何にせよ、それほど近くではないと判断してそのまま眠り続けた。


何度目かに目覚めてみると、真っ暗だったはずのテント内部が明るくなっている。しかしまだ3時半だ。外に出てみると半月が皓々として星々を圧倒していた。抗するのはわずかばかりの一等星だけだ。あたりは森閑として風もなく動くものはない。はるか下から沢音が囂々と響いてくるだけで、それほど人跡から遠くないのに隔絶感は強い。テントに戻ってシュラフの上に座り、寝ぼけた状態で長いことただ耳を澄ませていると、早起きの鳥が控えめにさえずりだした。よし5時には出よう。これから向かうのは人気の山だ、早く出発するに越したことはない。
幕営の痕跡である四角く乾いた地面を後にして、大岱山から金山民宿村へを指す標識に沿って金山峠に下っていく。突然眺めが開け、視界いっぱいに現れたのは雁ヶ腹摺山だ。朝の光を浴び、手前の峠を前に高く大きい。その量感たるや畏怖させられるが、やっとこれほど近くまで来れたと嬉しくもなる。その右手彼方には泣坂ノ頭と大峰。こちらはかなり遠い。当初の予定では本日は泣坂ノ頭まで行ければよいと考えていたが、ほんとうに行き着くのかとも思える。しかしもし昼頃までに着けるのなら、奈良子入口までの尾根を一日で歩ききることも可能だろう。
朝5時半の峠はひとけがない。賑やかなのは西奥山活性化対策委員会という長い名前の団体が立てたいくつもの道標だけだ。奈良子からの林道が延々と延びてきている百軒干場は砂防堰堤工事で沢岸がかなり荒れている。地元警察署の「自然と緑を大切に」という看板が皮肉にしか見えない。「河を瀬切って魚を獲る」場所だったそうだが、いまでも魚はいるのだろうか。
林道を上がり、右手に登り返して尾根筋の山道に乗る。その名も「登り尾根」というここは前半がかなり急だ。荷が重いので上半身は元より首もろくに回らず足下ばかり見て歩くが、小さなスミレの仲間が咲いていたり、左右に視線を走らせれば新緑の洪水だったりなのでいくらか気が紛れる。右手上方、雁ヶ腹摺山から突き出すような双耳峰が見えている。秀麗富岳12景の一つに選ばれた姥子山で、寄り道すれば往復30分強というところだろう。しかし今回のところは尾根筋踏破に体力を温存するため立ち寄らない。比較的最近に開かれたらしい林道を渡り越していくと、白樺平と呼ばれる高原風情の林のなかだ。平坦地が広がるわけではなく白樺が林立しているわけでもないが、高山めいた雰囲気は十分だった。
山はツツジの季節(セーメーバンの尾根にて) 山はツツジの季節
草地のテラスが見え始めると、もう山頂の一角だった。静かな頂を期待していたが、三方を樹林に囲まれた山頂にはすでに男性4人の一団が陣取り、コーヒーを淹れていた。自分の背後には女性ばかり4人のパーティがやってくる。おそらくみな大峠から上がってきたのだろうが、まだ朝の8時半、行動が早いものだ。樹林を正面に登ってきたので予想に反して暗い感じを受けてもいたし、朝からの霞んだ空気に眺めはないだろうとも思っていたので、振り返って開けた空間を眺めても最初はなにも目に入らなかった。意識の焦点がやっと合ってきて、中天に富士山が浮かんでいるのがわかって驚いた。三ツ峠山滝子山を足下に侍らせ、山頂周辺の木々が作り出す額縁の奥に広がる光景。陳腐な言い回しだがまさに絵のようだ。カメラを持ってこなかったのが本当に残念だった。
(続く)

雁ヶ腹摺山と楢ノ木尾根(二)へ


回想の目次に戻る ホームページに戻る


Author:i.inoue
All Rights Reserved by i.inoue