百蔵山猿橋駅付近から百蔵山

 旅行ガイドを出す出版社は多いが、山のガイドまで出しているところとなると限られる。しかも山に関するエッセイまで出しているとなるとさらに少なくなる。実業之日本社はそのひとつだ。
 ここから出ている山の本でロングセラーと言えば、山村正光さんの書かれた『車窓の山旅・中央線から見える山』が挙げられるだろう。1985年に書店に並んで以来というもの着実に部数を増やしているようだ。見開き2ページに原則一山として、新宿から松本まで左右の遠近に見える山々を山名の故事来歴やご自分の経験などと併せて紹介されている。


 このなかで「桂川沿いの車窓からのながめの中ではいちばん空間のひろがりの大きさを感じさせる」とされているのが百蔵山である。なかなか魅力的な評言で、これはひとつ行ってみなければならないという気になった。本が出てまだ二、三ヶ月しかたっていない五月初旬にさっそく訪れてみると、山の麓には端午の節句の幟がはためき、タンポポ、アヤメ、シャガの花々が道ばたにあふれていた。
 案内されているとおりに猿橋駅から車道を上がっていき、大月市営グラウンドを右に見て途中の三叉路を左に行った。造成中の住宅地を過ぎると植林の山道で、ヤマブキの黄色い花や薄桃色のツツジが華やかさを添えている。桜の木が花を残している山頂にはわりとあっけなく着き、足下から響いてくる中央自動車道の轟音が気になるものの、秋山・道志側の見晴らしがよい。晩春の日差しのなかで淹れたコーヒーがおいしかった。
 この山にはその後二度ばかり登っている。扇山から縦走してのときは北側からの山頂直下の登りにやや参った記憶がある。連れをともなって再度猿橋駅から登ったこともあり、頂までは二時間ほどなので山を歩き始めたばかりだった連れにはちょうどよい行程だった。ほんとうは扇山に行くつもりだったのが、列車のなかで歩行時間の短い方に急遽変更したのだった。


 最初に訪れたときは山頂から中央線方面へ往路とは異なる急な下りを辿って市営グラウンド前まで戻ってきた。そのあたりで山の写真を撮っていると、地元の方らしい男性が畑の様子を見に来た。どこに登ってきたのという質問に百蔵山と答えると、あまりおもしろくなかったでしょう、と言われる。
 そのころは山を歩き始めた頃なので山の面白みというものはよくわからなかったのだが、今となっては駅からの最短ルートを辿るのは確かに惹かれるものがない。百蔵山は遠望するとうずくまって首を地面に沿って伸ばした牛の姿に見えることから臥牛山とも呼ばれるという。どちらかというと眺める山としての性格が強いかもしれない。しばらくの間、このあたりを通る中央線の列車に乗るときに、どちら側の座席に座るかで悩んだものである。
 しかし登ってまったくつまらないと断じるのは早計だろう。たとえば西麓の福泉寺から登るというルートは静かだということだし、扇山まで縦走して権現山方面に向かい、途中の浅川峠から浅川側に下ればかなり充実するにちがいない。そのうちまた行ってみようと思う。
1985/5、その他

回想の目次に戻る ホームページに戻る


Author:i.inoue
All Rights Reserved by i.inoue