岩殿山
 初めて中央本線に乗った人は大月駅に差し掛かったところでこの岩殿山(いわどのさん)の姿に驚かされるはずだ。小さな山だが剥き玉子のようなつるっとした感触の大岩壁が駅側の山の中腹から山頂まで覆っている。車窓から見える山としては知名度が高い山だそうで、車掌さんに山名を訊かずにいられない乗客が多いのだろう。山に上がる途中の小広い平坦地には城郭建築を模したような「岩殿山ふれあいの館」という建物があり、急いでなければ立ち寄って、15分ほどの大月市観光ポイント紹介ビデオをじっくり見ていくのもいい。もちろん岩殿山も登場する。


 岩殿山を語るときはどうしてもこの山の歴史に触れないわけにはいかない。岩殿山はまず修験道場として開け、次いで天然の要害である点に着目されて山城とされた。山頂からの眺めもよく、山中に水も湧き、頂上部は比較的平坦で多人数を留めておけるのだから当然だろう。
山頂部
山頂部
 この岩殿城が造られたのは古く鎌倉時代末期だそうで、このときの城主小山田氏が戦国時代まで続く。小山田氏最後の城主は信茂といって武田氏の家臣だったが、最後まで忠実だったわけではない。主君武田勝頼が織田信長の圧倒的な軍勢に追い落とされ、籠城しようと岩殿城をめざしたときに、これを阻んだのが誰あろう小山田信茂本人だった。この期に及んでの家臣の仕打ちに歯がみしつつ、勝頼はどこか他に落ちのび場所を求めなくてはならなかった。
 信茂はこれだけ見れば単なる裏切り者だが、勝ち目のない籠城を選ぶより勝頼を追い払う方が領地領民を救うことになると考えたのなら筋の通った話だ。このあたりの事情は大月市史に記載され評価されている。うまくいけば信長に取り入って我が身も救えるのなら拾いものだっただろう。しかしそのかいもなく、勝頼が甲斐大和の田野で最期を遂げてから半月も経たないうちに、信茂は一族とともに甲府に設けられた信長の本陣に引き出されて処刑されてしまうのだった。いずれにしても死ぬ運命にあったわけだが、結果的に華々しい虚名を残すのではなく地味ながらも実のある判断をしたわけで、生き残った領民とその子孫から恩人と言われる資格は十分にある。


 岩壁に鎧われた岩殿山は一見どこから登るんだと思えるが、実際には簡単で、就学前の子供でも歩けるような整備された山道が山頂直下まで続いている。最高点には無線設備などあって殺風景だが、その手前にあたる広い山頂部には大手門やら馬場やら城跡の遺構があちこちにあって飽きない。もちろん見下ろす大月市の眺めもよい。驚くのは飲み水用と水浴び用の二つの井戸が極めて高いところにあることだ。いまではオタマジャクシの住処に成り下がっているが、小さいとはいえ澄んだ水が湛えられていて往時は重宝されたことだろう。
 大月駅から岩殿山を往復するなら一時間半ほどあれば十分だが、稜線をたどって「稚児落とし」の岩壁まで足を延ばせば半日のよい山歩きになる。そこまでの山道は多少なりともアップダウンがあり、岩場に取り付けられた鎖を掴まなければならない場所もある。そういうところは眺望もよく、ひとり絶壁の上に腰を下ろしては谷を埋め尽くす木々の緑を見下ろし、涼しい風に吹かれながら肩の力を抜いていく。爽快だ。
 だがこの山歩きのクライマックス、その名も曰くありげな「稚児落とし」の岩壁のへりに出ると、開けているのに谷底に引き込まれるような感触に息を呑む。別な世界が口を開けているかのような光景だ。垂直の大岩壁が八十度くらいで向き合っている場所なのだが、うっかりしていると正面の岩壁の見事さに心を奪われて、いま立っている絶壁の縁から足を踏み外してそのまま転げ落ちてしまう。天然のものとしては巧妙につくられた死の罠。岩でできた蟻地獄だ。織田氏に追われて岩殿城を落ちのびて来た信茂の妻が、追っ手に気づかれるのを恐れ、泣きやまない子供をここで谷底に投げ落としたというが、そんな陰惨な話が今に伝えられているのもわかる気がする。
「稚児落とし」の岩壁の、一部
「稚児落とし」の岩壁(の、ほんの一部)
 信茂の妻は、自分のしたことに耐えられなかったのだろう、子供の後を追ってここで身を投げたという.....。そんなことを考えながら一人で岩壁のふちに佇んでいると、夕方近くとはいえ必要以上に涼しくなってくるのだった。
2001/6/10

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