立岩から大屋山大屋山

大屋山(おおやさん)は西上州の山のガイドに必ずと言っていいほど名前が載る。それは登路の途中に蓼沼(たでぬま)という集落があるからだろう。集落と言っても二軒しかないが、ここの眺めは格別のようだ。
「谷間を抜けると,眼前に半円形に広がる畑となる。....自然のコロセウムのようで感激するのは私独りではあるまい。」
(浅野孝一氏: ブルーガイド ハイカー『東京付近の山』)
「お椀の内壁のような斜面に山畑が広がる、桃源郷といいたい山村だ。」
(内田□一氏: ヤマケイ アルペンガイド 『奥日光・足尾・西上州』 ※□は金偏に英)
「....蓼沼の2軒だけの集落とそれを取り巻く風景は一日眺めていても飽きないほど、のどかですてきな所である。」
(山本雅夫氏: 『岳人』#641 2000年11月号)
これだけ言われれば、「ではどんなところか見に行ってみようか」という気にもなるものである。


上信電鉄下仁田駅から勧能行きのバスに乗り、六車(むくるま)で下りて南牧川を渡り、車道を登り出す。電力会社の使うようなリフト装備の車が一台停まっているが、電線の工事をしているのではなく、道路際にある背の高い木から柿をもぐのに使っているのだった。時刻は正午、晩秋の山間は日陰に入るととても寒いが、今日は日差しが強いのか日向に出ると汗ばむ。
大屋山までは車道歩きが長い。だが右下に見える沢が岩を抉って流れているのを眺め、岩壁に紅葉が映えるのを見上げながら歩けば、そう苦にならない。人家が途絶えて、両側から岩壁が迫る場所をしばらく行くと、谷の向こうに再び人家が見え出す。そこは山仲の集落で、驚くほど家が多いが、うるさい音が立つところはなく静かなものである。集落最後の家を過ぎ、立派な車道をさらに上がると右手に荷物運搬用のモノレールが設置してある平坦地がある。車道はさらに延びて行くが、山道はここから始まる。
ただの山道ならありきたりだが、生活道路と思えば感心せざるをえない沢の脇の細い道である。車道が通じる前は荷を背負ってここを上り下りされていたはずだ。沢は分岐し、さらに谷が狭くなる。眺める分には小さなナメに小さな釜があって楽しい。少し明るくなると堰堤のようなものにぶつかり、これを上ってみると先ほど別れた車道だった。ふたたび山道に入って斜面をジグザグに絡んで登ると、家の屋根が見え始める。


蓼沼の集落は、手前に一軒、奧の高みにもう一軒。下の家の脇には柿の木が一本、たくさんの赤い実を付けている。背後に稜線がゆったりとカーブを描き、そのなかにさらに小さなカーブがあって、そこに作られた段々畑が確かに円形劇場のようだ。南を向いた畑は谷を見下ろすようにせり上がっており、日を遮るものは何もない。地形を活かしているのがよくわかり、開拓者の慧眼と努力を感じさせられる。しかしなぜこれほどの山の上に畑を開かれたのだろう。暮らす上では苦労があるものの、収穫はよいことを見込まれたからだろうか。それぞれの家の背後に円形劇場があるが、なかには長いこと使われていないらしい部分も見受けられる。いまでは全てが耕されているわけではないようだ。
蓼沼の集落
蓼沼の集落
目の前の山の稜線には送電線の鉄塔、中腹にはここまで上ってきている車道の白いガードレールも目に入る。眺望の点ではこれらがなければとは思うが、所詮よそ者のわがままである。しばらくこの風景に見入ったあと、舗装された立派な道まで上がり、縁に腰を下ろして谷を隔てた桧沢岳黒滝山などを見やりながら昼にした。
しばらくすると静かな山あいの彼方からエンジン音が聞こえてくる。予想通り登山者を乗せていた。「ここは大屋山のなんという登山口ですか」と質問されたので、「蓼沼というところで、大屋山の一般的なルートが通っています」と言うと、「ここが蓼沼ですか」と驚いていた。車が使えるようになって便利になり、集落の人たちにとってはよかったと思うが、お手軽な登山者が増えたことも確かだろう。林道が数多くあるせいか、西上州は車で日帰りという人が多いようで、私みたいにバス停から歩いて上がってくるのはかなり珍しいに違いない。車で来るのが悪いとは決して言わないが、あまり楽をしすぎると見落とすものが多くなる気もするのである。


簡単な食事を終え、上の家の脇を通らせてもらって畑の上の道に出る。植えられているのは下仁田ネギで、今年は天気に恵まれたものだろうか、かなり太いように思える。賑やかな声がして家族連れが下りてきた。中学生くらいの女の子のあとに、小学校一年生くらいの男の子、そのあとにおじいさんおばあさんと母親らしき人。男の子の笑顔がとてもかわいい。すれ違うとき、利発そうな瞳でこちらの顔をにこにこしながら見上げている。
すぐに暗い植林に入る。少し行くとやや明るくなるが、杉の木ばかりは変わらない。古いガイドによればこのあたりは以前カヤ場であったらしい。最近の農家の屋根はトタン葺きになっていてもはやカヤは不必要になり、いまでは木を植えていた方がましなのだろう。稜線に出ると集落の名になった蓼沼という小さな池が光る雑木林だった。そこからふたたび植林の中を上がり、針葉樹が落葉広葉樹に変わるのを横目に見て岩の出た道を歩くようになると、山頂へはあとひと登りだった。
蓼沼
蓼沼、かつての雨乞いの池
三人で満員になってしまいそうな頂は三方が開けていて見晴らしがいいものの、西方はかなりの陽気の良さにもやで霞み、期待した碧岩(みどりいわ)の姿はただのシルエットになってしまっていた。振り返れば鹿岳四ツ又山稲含山などは梢越しだがはっきり見える。その右手彼方には、西上州の山並みを越えて両神山の鋸歯状の稜線が浮かんでいる。逆光に滲む碧岩の右手遥かには蓼科山の姿も見えるが、さらにその右に目をやろうとすると木々に邪魔され、立岩(たついわ)や毛無岩(けなしいわ)はすっきりと見ることができない。西峰まで行けばよい眺めが得られたのだろうが、すでに三時近くで、この時期に山の上で時間を食っていると下山する前から暗くなりそうなのでやめにした。
山頂からは往路を下り、蓼沼と山仲の集落を抜けて六車のバス停まで戻った。大屋山そのものは「沈思する白頭の哲人」と呼ばれたそうだが、なぜかは未だにわからない。雪がつくころ、立岩あたりからこの山を眺めれば、そんな風情に思われるのかもしれない。
2000/11/23

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