駒音は聞こえない!
小野田 学「好きこそものの上手なれ」と言う。
好きだから「上手」なのか、上手になる素質に恵まれたから「好き」なのかを知らない。ともかく、名言である。だが、例外はいくらでもあるもの。僕の将棋などはその好見本である。
僕が将棋を教わったのは、もう半世紀余も昔、岡崎盲学校在校当時のこと。全盲の恩師から教わったものだ。時来そのおもしろさとか魅力とか奥深さとかに魅せられ、「好き」になってしまったものである。
ぱちりぱちりと言うあの駒音を聞くと、やはり盤側に寄って覗きたくなる思いは、齢を重ねた今に至るも変わらない。ただ、全盲の悲しさで、盤上に繰り広げられた二人の戦いの様子が、つまりは駒の配置がまるっきり分らないのだが・・・・・。「好き」では有っても少しも上達しないどころか、齢を重ねるごとに目立って弱くなってしまった。めったに手合わせしないためもあろう。思えば、寂しさひとしおである。
諺には例外は付きもの。
「下手の横好き」。
これほど短い諺に生活の知恵を凝縮させた先人たちの知恵のすばらしさに、ただただ敬服するばかりである。
それでは、「将棋」とはどの様なゲームなのか。もう大方はご存知だろう。
33センチと36センチのいくらかは長方形。木の盤の上に、縦・横各10本ずつの線を引くと、その線に囲まれて81個のますが描ける。そこに敵・味方それぞれ8種類20枚の駒を並べて、「各駒に与えられた動かし方」と、勝負のルールとに従って、「王様」と名づけられた駒の取り合いをするのが「将棋」と言う知的ゲームである。
盤を挟んで向かい合った二人が、交互に1手づつ駒を動かして、どちらが早く敵の王様を「取ることができる状態」にまで到達できるかを戦うゲームである。
ここ半世紀余特にプロの将棋界の活動も盛ん。女流プロ棋士も目立って多くなってきている。
新聞を開けば、たいてい新聞社主催の「棋戦」の観戦記が掲載されている。
こんなことからも、将棋の奥深さ、将棋を支える人々の数の多さが知られようというものだ。
盤面を凝視しながら、「あの手・この手を思案する」ことこそ叶わないまでも、全盲者でも健常者とほぼ互角に近いまでの形で=視覚障害者ゆえのハンディキャップをほとんど与えられずに楽しみあうことができる。それゆえに、このゲームがもっと視障者の間で持てはやされても良いように思える。
が、やはり「誰でもが好きになれる」ほど簡単なゲームでもなさそうだ。
将棋好きにとってあのぱちりぱちりと言う盤上で駒を動かす音は、たまらない魅力である。
「駒音にげたも桂馬に脱ぎ捨てる」と言う古川柳がある。
桂馬と言う名の駒は、1ます超えてそれより斜め前のます(右でも左でもよい)へ飛び上がる動かし方を与えられている。桂馬とは実におもしろい動き方を与えられた駒である。
道を歩いてきた将棋好きが、ふと聞こえた駒音に、さては?と将棋好きの虫がうごめき始め、げたをそろえる余裕もなく、あたかも桂馬の飛び上がるような様にげたを脱ぎ捨ててその家へ飛び込んだ様を言い表した古川柳である。
(将棋好き飯も1度は桂馬する)と言うのもある。
食い意地の張った僕にはそこまでのめり込むことなど、とても叶わない。だからこそ(下手の横好き)の域を1歩も出られないのだろう。
目が見えるか見えないか?それは将棋を楽しむ上でそれほどのハンディキャップとはならない、と僕は豪壮に記した。
だが、一寸待って頂きたい。将棋は二人で楽しむゲーム。将棋好きの相手と会わない限り、楽しむことはできない。(あの人の家を訪ねなければ)、方々にある(将棋会所)迄出かけなければ楽しむことが叶わぬのである。(上手になる」には、多勢の相手と、強い相手と数多く戦わねばならないのである。
その「出かける」ことが不自由な全盲者は、その分「上手」には成れないというものだろう。
この程度の自己弁護は、お許し頂こう。
将棋は好きだ。楽しむ相手が欲しい。だが、外出はままならない。そんな辛さ、不自由さの中からついに「郵便によって将棋を楽しむ」同士を集めて「点字通信将棋会」なる組織を立ち上げた人がいた。
静岡の全盲の将棋好きであり、彼は滅法強かった。それから半世紀。この「点字通信将棋会」なる組織は今も続いており、会員も6、70人。10人くらいの相手と同時に手合わせし、1局を戦い終わるのに1年もかかろうと言う気の長過ぎるやり方で、10人のグループ内で勝負を争い、順位を決めようというのだ。
盤を挟んでの手合わせなら、1局1、2時間で終わろうと言うところを、点字郵便の往復に託して1年もかけて将棋を楽しもうと言うのだから、6、70人もの会員どものおつむりの作りはよほどどうかしていると言われそうだ。
それほどにしてでも「将棋を楽しみたい」と言う将棋好きのほどをお分り頂きたい、と言うことだ。
「通信将棋」。あのぱちりぱちりと言う冴えた駒音は、とうとう聞こえなくなってしまった。
「初手26歩と飛車先を突きます」、「貴方の26歩には、34歩と角道を開きます」。1行か2行の点字文の往復。なんとまあ味もそっけもない手紙だろう。
「アズナブール思いながら ・・・・・ 貴方様をお慕い申してそうろう」(ずいぶん御古いですなあ)などと言う繊細な乙女心を託したような手紙と一緒に、「52金右と指します」などと言う手紙とでは、ポストの中をふと覗き見た神様は果たしてなんとのたまうことだろう。
そんなことを思っただけでも、ふと笑いがこみ上げてきそうである。
ところが ・・・・・ である。僕はある日ふと(全国〒碁の会会長)と名乗る人が、ラジオで対談していたのを聞いたことが有った。嬉しくなりましたね。囲碁の1局(1石と言うべきですか?)が葉書の往復で2年近くもかかるそうだ。囲碁は打ちたし時間はないし、と言うビジネスマン、営業マン、経営者などが会員の大方だそうだ。
健常者の世界でも(2年くらいかかって囲碁を1石楽しみたい)と言う、よほど気の長いというのかつむじのふつうでないお方が居られるというのは、聞くだけでも嬉しくなりますね。
ところが ・・・・・。1局を1年もかかって、などというどうにも間延びした将棋など、がまんならないと言うのは、将棋好きの本音の人情と言うものだ。
誰が始めたものかこの頃Eメールを使って指し手を交換することが始まっている。
最近では、どなたかが(メーリングリスト)を立ち上げてくれたので、パソコンを開いてそのサイトを覗けば、対戦相手は幾人もいるもの。未だ立ち上がって間もないこのリストに既に20人くらいの視障者の名前が見えている。
「どなたか私と手合わせしませんか?」との呼びかけが毎日のように送られてきている。
そして、1局が終わると、またそのリストに勝負の結果と指し手順を記した「棋譜」が報告される。
ここでは、半月か二十日くらいで1局が楽しめると言うものだ。100手以上の将棋を三日くらいで指し終わったつわものがいたのには恐れ入りました。
自分の指し手のほかに、身辺の話題とか障害者福祉の話題などが記されることも多い。それがまた互いの親近感をいっそう深めてくれる。互いに「自分の方が強い」などと嘯きながら、メール将棋の楽しさにのめり込んでいるのである。
ここでももちろん駒音などは聞こえてはこない。ただ「色気も何もない、指し手を告げる数字と駒の名前だけ」が、全国に張り巡らされた通信回線を伝わって行き交っている。
「よくもまあ飽きもせずに」などとおっしゃいますな。
「偽札の作り方教えます」とか、「死にたいお人はこの指止まれ!」などと言うとんでもないけしからぬメールに比べれば、よほどましと言うものだ。
今、手合わせ中の相手は聞きしに勝るつわものである。どうやら負けを覚悟しなければならないようだ。
「こう指す。敵は多分こう指すだろう。その時は自分はこう指す!」。やはりどう思案しても勝将棋に導くことはできないようだ。
将棋の世界では「3手の読みをしっかりと!」と教える。負けそうな悔しさ無念さを胸に今日もパソコンを開いてみる。
ここでも先人はうまいことをおっしゃる。「下手な考え休むに似たり」と。
いやはや、下手な将棋に長長お手合わせ頂き誠に有難う御座いました!楽しい半月間であり、貴方のメールにほのぼのとした和やかさを覚えた半月間でもありました。近々またお手合わせするそのときには、いま少しましな手合わせを楽しみ合ましょう。 敵よ どうぞお元気で! (ぺこり)
なお、本文は、豊田市の視覚障害者協会機関誌に掲載されたものであり、筆者のご厚意と豊田市視覚障害者協会の了解のうえ、ここに掲載させていただいたものです。