「おいあくま」
永田 敏男「おいあくま」とは、「怒るな」・「威張るな」・「焦るな」・「腐るな」・「負けるな」などの頭文字をとったものである。これが実行できれば一回り大きな人間に成れる事請け合いです。
「怒るな」は、どうでしょうか。政治家の贈収賄、警察官の不祥事、惨忍な犯罪など、数えれば腹が立つことばかりだと思います。
私の先輩は、患者さんに治療代をいただいて、おつりを出したとき、間違えて1万円札ばかり出して、受け取った患者は、なにも言わずに帰ってしまったということです。
あるいは、何かのトラブルで話し合いになったとき、やはり眼の動き、表情で、自分の訴えが、相手に伝わることが大であると思いますが、それができないのも、我々視覚障害者の不利な点だろうと思います。
夫婦で喧嘩をしても、眼からの訴えがないと、説得力は半減するように思います。
なんと言おうと、視力の再現は無理なので、これらを抑えて「怒るな」が、実行できれば、今年は成功だと思います。
次ぎに「威張るな」ですが、私には、どこを探しても「威張る」材料がないのです。この材料としては、頭が良いか、肉体的な力があるか、人より優れた能力があるか、などなど、どれを見ても私には存在しない能力です。
最も「威張る」ということは、事実上能力を持たないのに、あたかもその力があるように振舞うのが「威張る」ということかもしれません。そういう点では、私の中にも存在するかもしれません。
得意になって、パソコンの指導をしたら、全く違っていたというハプニングもその例ではないだろうか。
「焦るな」は、日常茶飯事である。現在も、私のない知恵を搾って、こうして原稿を書いているのですが、タイムリミットが近づいているのに、なかなか書けない。編集を受けている私にとって、これは、なによりも焦りである。
正月を迎える度に一休さんのいわれた「正月は、冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」を思い出します。後何年生きられるのだろうか。こんな時間の使い方で良いのだろうか。これも焦りです。落ち着きを失い、慌てるだけの行動が焦りだろうと思います。
「くさるな」はどうでしょうか。「腐る」ということは、がっかりして落ち込んだり、堕落して怠けたり、というのが、その意味ではないかと思います。
何かの問題に遭遇したとき、それに立ち向かうか、身を引いて落ち込んでしまうか、その岐路に立ったときの判断ではないかと思います。気力を失い、積極的に解決しようと努力しないことが「腐る」ではないかと思います。
しかし、世の中には、どうしようもない出来事も多いですね。
今回の中越地震で、ローンを抱えながら、家の倒壊にあった人たちは、どうするのでしょうか。男泣きに泣いている人もありますし、もう一度這い上がろうと決意を新たにする人もあります。
どうにも動きが取れず、悶悶として悩んでいる人もあろうかと思います。これでは、私なら「腐って」しまいます。
最後は、「負けるな」です。スポーツにおいては、「負けるな」という強固な精神力が必要でしょう。日常においては、あまりこれが前面に出ると争いの元になります。
これは、難しい問題に当たって、やはり前向きになるか、交代するかの違いだろうと思います。
この「負ける」ということは、スポーツでは特に言えることですが、応援があると、プレイアーは、はりきって力を十二分に発揮できます。
現在の若者たちは、朗らかに冗談を交わして付き合ってはいますが、いざ何かのトラブルにあったり、友達が深刻な悩みを持っていたりしても、その友達と同じように悩んだり、考えたり、時には同じように悲しんだり、そういう本当の友達、真の友人がないといわれます。そんな友達があれば、自殺もしないだろうし、自暴自棄に陥って大事な将来をふいにすることもないだろうと思います。そこにこそ友達の本当の友情と価値があると言えると思います。
「おいあくま」を、どれだけ実行できるか、それは、良い友達を持つということにも関わると思います。そして、人間の弱さは、自らが前進を取るか、後退するかで決まるような気がします。