ゆっくり歩けばいいのだよ
近藤 貞二「ゆっくり歩けばいいのだよ。そうすれば向こうからよけてくれるし、ぶつかっても大けがはしないから…」
これは、ある病院で医療ソーシャルワーカーをしている知人が、おもて参道の雑踏の中を歩きながら私に言ってくれた言葉です。
たしかにその日のおもて参道には人があふれていて、私はその雑踏の流れに負けないようにと、緊張した顔で歩いていたのでしょう。
しかしそんな中、見えない私をつれて、人の流れに乗って歩くことは彼女には大変だったのだろうと思います。ましてや速く歩く必要なんてなかったし、それよりも何よりも、きっと彼女の中には「ゆっくり歩く」という選択肢があったのだろうと思います。
しかし私は、その知人が言ってくれた言葉の意味の大きさを理解しました。それは、ゆっくり歩くことはもちろんのことですが、「もっと肩の力をぬきなさい」と言われたような気がして、これは人生でも同じだと思い、今までを振り返ってはっとしたことを思い出されます。
考えてみれば、子どものころから早くしなければいけないことばかりを教えられてきて、ゆっくりすることは教えられてこなかったように思います。
例えば両親からは、「早く起きなさい」 「早く顔を洗いなさい」 「早くご飯を食べて早く学校へ行きなさい」 「道草しないで早く帰ってきなさいよ」…とせわしくおくりだされて、学校から帰れば帰ったで、「早く宿題をすませなさい」 「早くおふろへ入りなさい」 「早くご飯を食べて早く寝なさい」…と、まるで早くできることに価値があり、ゆっくりしていてはいけないことばかりを植え付けられてきたように思います。
いつかのおもちゃ箱でも書きましたが、私は不器用でそのうえグズなものですから、何をするにも人の数倍の時間がかかってしまいます。
でも私には、負けず嫌いというほどの根性はありませんけれど、それでも人より早くしたい、人並みにできなければダメだと強く思ってきました。というより、子どものころから植え付けられてきた、人と同じように早くできなければだめな人間という精神的ストレス、さらにはそれが自己嫌悪と発展し、早くできない自分をうとましく思うこともしばしばでした。
そんな時、「ゆっくりでいいのだよ」という言葉は、私にとっては新鮮な響きであり、衝撃的な響きでもありました。
「そうか、ゆっくりでいいのだ」と思えば、私の体の力もいつしかすっと抜け、これまで背負ってきた重い荷物が肩から下りたような気がしました。
何事もうまくできればそれにこしたことはありませんけれど、いつもいつもそうばっかりともかぎりません。むしろ中途半端になったりできないことが精神的なストレスになって悩むなら、ゆっくりでもいいから確実にすすみたいというのが私のライフスタイルになりました。
しかし、もう一歩踏み込んで考えてみれば、私自身が人と比べているところにも問題があることにも気づきました。
気づいたからといって比べなくなったかといえばそうでもなく、今も気づけば相変わらず人と比べては、うらやんだり落ち込んだりやってます。
でも、何事も否定ではなく、とりあえずポジティブに受け入れるよう心がけるようにしています。
これも、知人が言ってくれた「ゆっくり歩けばいいのだよ」という一言が教えてくれたことでした。
晴れた日はすばらしい…曇っていてもすばらしい…雨の日もまたすばらしい、そしてゆっくりもすばらしい…という感じで・・・。