日本の歴史認識南京事件第6章 否定論とその反論 / 6.6 市民への暴行はわずか!? / 6.6.1 難民区は安泰!?

6.6 市民への暴行はわずか!?

この節では田中氏が第5の論拠で主張する「難民区は安泰だったので市民への暴行はわずかしかない」、とスマイス報告に関する否定派の主張、及びそれらに対する反論について紹介する。「南京安全区档案」の事例リストから市民への暴行が少ないことを主張する冨澤繁信氏らの否定論もあるが、そちらは 4.6.2項、4.6.3項を参照願いたい。

図表6.22 市民への暴行はわずか!?

市民への暴行はわずか!?

6.6.1 難民区は安泰!?

(1) 否定派の主張

田中氏は、第5の論拠で「難民区は安泰」であり、南京在住の非戦闘員は安全区(難民区)に避難していたので、市民の犠牲はほとんどなかった、と主張する。(以下、「南京事件の総括」,P44-P52を要約)

① 12月14日、歩7連隊は安全区の出入口10数個所に歩哨を立て、無用の者の立ち入りを禁止して掃蕩を行った。歩36連隊脇坂連隊長は、中に入ろうとしたが歩哨にとがめられ、入れなかった。

② 安全区には一発の砲弾も打ち込まれず、空襲もなかった。放火もなく、一部の不心得者による、強姦・暴行・窃盗事件等が国際委員会の公文書に記録されているが、婦人・子供の殺害は全然起きていない。紅卍会の埋葬死体一覧表の中にも、婦人・子供は皆無に近い。便衣兵と誤認されたり、徴用、拉致等の扼に遭った者は若干いたが、概してこの地区は平穏だった。

③ 南京の全市民は例外を除き全員ここに蝟集していたから、安全区が安泰ということは、南京の全市民が安泰であったということである。

④ ラーベは日本軍が安全区を攻撃しなかったことに対して感謝する書簡を送り、マッカラムは日本兵の善行を日記にしたためている。

⑤ 同盟特派員の前田雄二氏は1959年の週刊誌『世界と日本』で、「 … 同盟通信社の旧支局は難民区の中にあり、入城4日目にはこの支局に拠点を移し寝泊りしていた。住民居住区の情報はちくいち私たちの耳目に入っていたが、万はおろか千あるいは百をもって数えるほどの虐殺がおこなわれるなど、あり得るはずがなかった。捕虜の処刑はあったが、戦闘行為の枠内であり、非戦闘員の多量虐殺の事実はなかった」と述べている。

⑥下関から北へ1.8キロの宝塔橋街には保国寺難民区があり、6~7千人の難民と約2万人の市民は不安に脅えていた。14日、砲艦比良艦長の土井申二中佐は、該地区の整備確保を行い、紅卍会支部長陳漢林総代表から感謝状を受け取った。このような将兵や司令官が婦女や子供もむげに殺害するような命令を下すはずがない。

(2) 史実派の反論

「南京大虐殺否定論 13のウソ」ではこの否定論に触れていない。

(3) 安全区の警備 _(1)の田中氏主張①

歩7連隊は安全区内の掃蕩作戦の一環として歩哨を設置したのであって、治安維持が主目的ではない。「無用の軍人は入れるな」という命令が出ていたので、「入れてくれ」と高級将校が頼んでも入れなかったのは当然だが、侵入しようと思えば周囲10キロにもなる安全区の境界線を越えて入ることは簡単なことだったろう。

このような任務は職務権限を持った憲兵が行うべきものだが、陥落時に憲兵はわずか30名ほどしかいなかったとみられる註661-1。国際委員会は14日に歩哨の設置を要求し、15日に特務機関長が「歩哨をたてる」と約束している註661-2が、その後も12月16日から20日まで連日憲兵の配置を要求し、12月26日、1月2日にも特定の場所を指定して要求している註661-3

ミニー・ヴォートリンが管理していた女性専用難民収容所(金陵女子文理学院)では、12月20日、高級将校が視察に来た際、女性を拉致しようと侵入してきた日本兵がみつかり高級将校から叱責を受けたが、その夜から25人の憲兵が配置された。ところが、その憲兵が2人の女性を強姦したため、翌日から屋外の警備だけをするように変更した註661-4。これでヴォートリンの収容所では強姦がほとんどなくなったが、それ以外の所ではまだ発生していた。

(4) 安全区の治安 _同上②

(a) 一発の砲弾も打ち込まれず、空襲もなかった!?

空襲がなかったこと、砲撃対象でなかったことは事実だが、流れ弾が2発落ちていることは、東中野氏も認めている( 6.4.1項(3) )。「一発も打ち込まれず」は誤りである。

(b) 放火もなし!?

スマイス報告( 図表4.23 )によれば、安全区内の建物1493棟のうち0.6%(=9棟)が放火により損傷を受けており、「南京安全区档案」の事件簿(事例番号75)にも安全区内で放火があったことが報告されている註661-5。城内(安全区外)では13%、城外においては何と61.6%もの建物が放火の被害を受けているので、それらと比較すれば「安全区内の放火は極めて少ない」といえるが、1000棟に6棟もの割合で放火があるのに「放火もなし」と胸を張って言いきれるものではない。

(c) 婦人・子供の殺害は全然起きていない!?

「南京安全区档案」に記載されている事件のうち、殺人事件33件( 図表4.7 )について調べてみると、犠牲者総数65人のうち、女性は19人、子供(15才以下)が7人もいる註661-6。事件は安全区外で起きたものも含まれるが、4.6.1項(1)でも述べたようにこれは南京事件全体から見れば氷山の一角にすぎない。実際、スマイス報告(図表6.22)では、女性の殺害者数650名と報告されている。

また、紅卍会の埋葬記録によれば、城内で収容した遺体のうち女性は78人、子供は46人である( 4.7.5項(3) )、これには白骨化して性別が分からなくなったようなものは除かれているとみて良いだろう。「婦人・子供の殺害は全然起きていない」は全くの誤りである。

(d) 便衣兵と誤認されたり、徴用、拉致等の厄に遭った者は若干いた!?

田中氏は第8の論拠で、{ 拉致されたもの、つまり行方不明者は4200人 … }( 6.6.2項(1) )と述べているが、4200人を"若干"というのは非常識であろう。

(5) 南京のほとんどの市民は安全区にいた!? _同上③

すでに、6.1.1項で述べたように、南京の全市民が安全区にいたわけではない。

(6) 感謝状 _同上④

ラーベは日本軍とケンカをしてもいいことは何もないことを知っていたから、ヨイショした方がいいときにはヨイショしているだけ。ラーベは12月30日の日記に次のように書いている。

{ 松の盆栽を二つ買った。平たい磁器の鉢に入った立派なものだ。福井氏と南京地区西部警備司令官の佐々木到一少将に渡す年賀だ。ふたつともあまりきれいなので、手放すのが惜しくなってしまった。だが、ごのご時世だ、日本人をたてておかなければ。}(「南京の真実」,P179)

マッカラムの日記は、都合のよい部分(下線部)だけを引用している。

礼儀正しく、而も尊敬して、私共を処遇して呉れました、若干の大変愉快な日本人がありました。他の者は非常に残忍で、私共を脅迫し殴打したり、平手打等をやりました。リッグス氏はもっともひどく平手打をされました。私は時々、一日本兵が若干の支那人を助けたり、又、遊ぶ為に支那人の赤子を拾ひ上げて居るのを目撃しました。… 而して良心的な日本兵は極く少く、全然有るか無いかです。}(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P119<東京裁判のマッカラムの宣誓口供書(12月29日の日記)>)

(7) 前田雄二氏(同盟特派員)の証言 _同上⑤

前田雄二氏は、その著書「戦争の流れの中に」で次のような事件を目撃した、と述べている。(同書,P117-P121を要約)

さらに{ 兵隊たちは、めぼしい家の扉を破ってまわったのだ。もっとも部隊では、こうした行動を「掠奪」とはいわず、「徴発」といった。}(同書,P80) ともいう。

当時の上司であった松本重治氏は前田氏ら南京駐在の記者たちから次のような話を聞いている。この話を聞いた時期は田中氏が引用した雑誌よりあとになると思われるが、相手により言い方がずいぶんと違うものである。

{ … 三氏が話してくれた共通の点は、戦闘行為と、暴行、虐殺との区別がなかなかできないということであった。… 女子に対する暴行、殺人も極端にまで行われたらしいが、軍隊として組織的にやったものとは信ぜられないという。… 何十万とかいう「大虐殺」事件はなかったようだといい、戦闘以外の虐殺被害者は、まず、1,2万というところではないかともいっていた。また、前田氏は社会ダネを拾って駆けまわったが、そのほか、占領直後、14日,15日には便衣隊狩りが相当行われたことも聞いているが、12月20日頃を境にして、市民の生活には、街頭にも平常の雰囲気が取り戻されていたという。}(松本重治:「上海時代(下)」,P374)

(8) 宝塔橋街の難民区 _同上⑥

南京城からわずか1.8キロ北に6千人とも2万人ともいわれる人たちがいた、ということは「南京市民のほとんどは安全区にいた」という田中氏の主張と明らかに矛盾する。

詳細な資料が残っていないので治安の良し悪しは不明だが、城内の安全区や郊外の棲霞山難民キャンプ( 4.5.3項(4) )の情況をみれば推して知るべしであろう。土井申二艦長が感謝状をもらったのは事実だろうが、ラーベの感謝状と同じようなものではなかろうか。

(9) 憲兵による摘発

秦氏は憲兵による摘発について、次のように述べている。

{ … 柳川第10軍の法務部陣中日誌が発見され、『続現代史資料(6)』(みすず書房)の「軍事警察」に収録されている。3か月余りで軍法会議にまわされた殺人、強姦、放火などが62件、118人を数えるが、第10軍憲兵隊長の上砂勝七【かみさご しょうしち】中佐が、「わずかに現行犯で目に余るものを取り押さえる程度」と自認しているぐらいで、全貌を察するには程遠く、アトローシティの主役である上海派遣軍のデータは行方不明のままだ。}(秦:「南京事件」,P206)

(10) まとめ

安全区の治安が区外と較べれば良かったことは間違いないが、「南京安全区档案」に報告された凶悪犯罪(殺人、強盗、強姦)だけでも、東京都の180倍もの事件が起きている( 図表4.14 )のである。
南京戦に参戦した将兵たちの多くは善良な人たちだったが、理性で自らの感情や欲望を制御できなくなった将兵が少なからずいたのも事実であろう。国際委員会の報告書やミニー・ヴォートリンの日記によれば(註661-3、註661-4)、彼らは数人のグループで徘徊しながら獲物を狙ったようだ。そのような連中を取り締まる憲兵の体制が貧弱だったり、見つけても軽い説諭やビンタくらいで放免してしまったり、あるいはこうした行為を黙認してしまう指揮官がいたり、統制面の不備もあった。

秦郁彦氏は次のように述べている。

{ 参加者の間では「予後備兵が悪かった」,「前線より後方部隊の方がひどかった」と語る人もあり、お行儀の悪い特定の部隊(16師団を筆頭として、赤羽工兵隊、内山砲兵旅団、101師団の谷川連隊など)を名指しする人もいるが、いずれも狭い視野からの見聞で、参加部隊の汚染度は似たり寄ったりではなかったか、と思われる。}(秦:「南京事件」,P223)


6.6.1項の註釈

註661-1 憲兵の数

{ 東京裁判の日高信六郎証言によると、12月17日現在の城内憲兵はわずか14人で … 南京占領直後に城内で活動していた正規の憲兵は、両軍あわせても30名を越えなかったと思われる。その不足を補うために一般兵から臨時の補助憲兵を集める予定にしていたが、実際の配置は1週間近くおくれた。これでは効果的な取締りを期待するのは困難というより、不可能に近かったであろう。}(秦:「南京事件」,P102)

{ 12月19日 … 【日本大使館員から】 われわれのきいたところでは、最近、憲兵が17名到着したので、彼らは秩序を回復するのを助けるだろうとのことでした。5万余りもの軍隊にたいしてたったの17人!といっても、われわれは大使館の3人の人にたいしてむしろ好意をもっております。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P36 <戦争とは何か フィッチの日記>)

{ 1月初めには定員約400名の中支那方面軍憲兵隊が編成され、… }(秦:「南京事件」,P178)

註661-2 国際委員会と日本軍との面会

12月14日 第1号文書「南京日本軍司令官への手紙」 { 私どもは国際委員会が以下のことをできるように謹んで要請するものであります。 1.安全地帯の入口には日本軍歩哨1名を立てて頂くこと。… }(「安全地帯の記録」,P138-P139)

12月15日正午 第6号文書「特務機関長との会見の覚書」 { … 1.中国人兵士を捕まえるため市内捜索がなされるべきである。 2.安全地帯の入口には歩哨を立てるであろう。 3.人々はできるだけ速やかに各自の自宅に戻るべきである。それゆえ我々は安全地帯を捜索せざるを得ない。 4.武装解除された中国人兵士を取り扱うにあたっての日本軍の人道的態度を信頼されよ。… }(「安全地帯の記録」,P146-P147)

註661-3 国際委員会からの憲兵配置要求  出典はすべて「安全地帯の記録」

12月16日 第7号文書「福田氏への手紙」 { … 1.捜索はすべて責任ある将校のもと正式に組織された部隊により行われること(トラブルのほとんどは将校のいない3,4人のうろつく兵士達に起因しています)。 2.夜間は、そして可能ならば日中も、安全地帯の入口全てに歩哨(昨日少佐が提案)を立て、はぐれ日本兵が一人も安全地帯に入ることのないようにすること。・・・ }(P149-P150)

12月17日 第9号文書「日本大使館への手紙」 { … 1.日本帝国陸軍は掠奪、家屋侵入、婦女暴行、拉致の現場を見つけられた兵士を逮捕する完全な権限をもって昼夜を問わず安全地帯を巡察する正規の憲兵隊の制度を立ち上げること。… }(P158-P159)

12月18日 第10号文書「日本大使館への手紙」 { … 1.昨日の要求と同じく安全地帯を憲兵が昼夜通じてパトロールすることを繰り返し要求します。・・・ }(P165)

12月19日 第14号文書「日本大使館への手紙」 { … 我々は貴方がたが歩哨を、昨日リストに挙げました18の難民収容所と今朝のウィルソン氏が要請した大学病院に、立ててくださることと心から信じております。・・・ }(P174)

12月20日 第16号文書「日本大使館への手紙」 { … 今日まで他の方法はとられていないので、我々は歩哨が今晩以降18の難民収容所と大学病院に立てられ、また日中には五台山のふもと金陵女子学院の向い側の我々の粥炊き出し所と大学運動場にも立てられるよう切望する。・・・ 貴下の手中にある憲兵の数は事態に適合するには十分ではないのである。}(P189)

12月26日 第24号文書「日本大使館への手紙」 { … 今まで、夜間、問題が起ってきた場所が3ケ所あります。とりわけ①聖書師資訓練学校収容所、ここでは最近の4夜、7人の兵士が少女達を強姦に来ていますし、昨夜などは兵士はそこで夜を過ごしさえしました。②漢口路小学校収容所、及び③五台山小学校収容所です。・・・ これら3ケ所に、少なくとも数夜、憲兵を配置して下さるようお願い致しました。}(P209-P210)

1月2日 第29号文書「日本大使館への手紙」 { 安全地帯内を徘徊する兵士達に、安全地帯の外にいるよう命令したとの29日付けの貴下の声明を感謝しております。これにより事態は非常に改善されました。しかしながら、昨日今日と残念なことが起っております。多くの安全地帯入口は警備がなく、5~6人の兵士達の数グループが腕章をつけずに安全地帯内を徘徊しています。… }(P219)

註661-4 女性専用収容所への憲兵配置  「ミニー・ヴォートリンの日記」,P69-P79

{ 12月20日(月) … 3時に日本軍の高級将校が部下数人を伴ってやってきた。建物内と避難民救援業務を視察したかったのだ。将校がキャンパスにまだいる間に日本兵がきてくれることを大まじめに願っていた。中央棟にひしめく避難民の視察をわたしたちが終わったとき、果たせるかな、北西の寄宿舎の使用人がやってきて、日本兵二人が寄宿舎から女性5人を連れ去ろうとしていることを知らせてくれた。大急ぎで行ってみると、彼らはわたしたちの姿を見て逃げ出した。一人の女性がわたしのところに走り寄り、跪いて助けを求めた。わたしは逃げる兵士を追いかけ、やっとのことで一人を引き留め、例の将校がやってくるまで時間を稼いだ。将校は兵士を叱責したうえで放免した。その程度の処置で、こうした卑劣な行為をやめさせることはできない。
… 驚いたことに、夕食のすぐあと、今夜の警備要員として憲兵25名がキャンパスに派遣されてきた。どうやら午後発生した事件の効き目があったようだ。

12月21日(火) … 朝食のあと、例の25人の警備兵が昨夜危害を及ぼした(女性二人が強姦された)件について事情を聴取した。しかし、こうしたことには慎重に、しかも臨機応変に対処する必要がある。そうしないと兵士の恨みを買うことになり、そのほうが当面している災難にもまして始末が悪いかもしれない。… わたしたちは領事に、たいへん申し訳ないが、あんなに大勢の兵士に石炭や茶やお菓子を出すことはできないし、それに夜間に派遣してもらう憲兵は2名だけ、昼間は1名のはずではなかったか、と言った。領事はとても察しのよい人で、昨夜は25人もの警備兵がキャンパスにいたにもかかわらず、万事うまくいったわけではないことを理解した。

12月22日(水) … 毎晩、25人の警備兵がキャンパスに派遣されている。彼らが配置された最初の晩、いくつかの不幸な事件が発生した。昨夜は何事もなく平穏だった。今夜も昨夜と同じ方式、つまり、日本兵には外を警備してもらい、中はわたしたちが警備するという方式をとることを上手に提案した。・・・

12月25日(土) クリスマス・ディナーのときにサール・ベイツが「地獄のクリスマス」と題して記事を書いているところだ、と言った。実際のところ、この金陵女子文理学院ではそのようなことはない。このキャンパスは多少なりとも天国である。… 昨夜も平穏な一夜だった。校門に警備兵25人が配置され、漢口路と寧海路を巡回してくれた。ここ何週もの間で初めて朝までぐっすり眠った。… } 

註661-5 放火事件の例

{ 第75件 12月19日の夕方午後4時45分頃、ベイツ博士は平倉巷(Ping Tsang Hsiang)16号の家に呼ばれた。そこは日本兵が数日前に難民を追い出した所である(リッグス、スマイス、スティール目撃)。彼らはそこで掠奪を終え、3階に火をつけていた。ベイツ博士は消火につとめたが、既に遅すぎ家は全て焼け崩れた。(ベイツ)}(安全地帯の記録」,P191)

註661-6 婦人・子供の殺害者数

対象データの詳細は4.6.1項を参照。 数字は事例番号、カッコ内は殺害者数で記入ないものは1人。

・婦人;62、63(2)、139、188、195、205、219(4)、223(2)、270(2)、299、303、425、本文

・子供;219(5)、本文(2)