日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.7 犠牲者数 / 4.7.4 スマイス報告

4.7.4 スマイス報告

(1) スマイス報告とは…

スマイス報告は正式名称を「南京地区における戦争被害・1937年12月~1938年3月・都市及び農村調査」(War Damage In the Nanking Area December,1937 to March,1938 Urban and Rural Surveys)といい、安全区国際委員会委員で金陵大学社会学教授のルイス.S.C.スマイス(Lewis Strong Casey Smythe)博士らが行なった戦争被害調査の報告書である。

図表4.21 スマイス報告とは

スマイス報告とは

この調査の目的は、戦争で被害を受けた市民の復興のため、人的被害及び経済的被害の正確な実態を調べることにある。

調査は都市部と農村部に分けて、一定の比率でサンプリングした住民にヒアリングを行い、全体を統計的に推定したもので、精度の高い調査といわれている。南京事件が市民に与えた被害を調査した唯一かつ信頼できる史料であり、多くの研究者がこれを参考にしている。

調査を実施したのは、1938年3月上旬から4月上旬にかけてで、報告書は「安全区国際救済委員会」の名前で同年6月に刊行された。報告書の日本語訳が洞富雄編「南京大残虐事件資料集 第2巻」(「大残虐事件資料集Ⅱ」と略す)に掲載されているので、ここではそこから引用させていただく。

(2) 都市部調査

調査方法

南京城内及びその周辺(下関、中華門外、水西門外)を対象に、調査員が住居地図をもとに人が居住している住宅を数えながら50軒に1軒の割合で調査対象家族を選択し、家族状況などをヒアリングをして所定の家族調査票に記入していった。こうして調査した結果を50倍して全体を推計している註474-1。実際に調査したのは949世帯で、調査項目は、家族構成、死傷者や拉致者、職業、建物や財産の被害状況、などである。

人的被害の状況

図表4.22は死傷者など人的被害をまとめたものである。表によれば、南京城内とその周辺での市民の死者は3,400人、うち2,400人が兵士の暴行によるものである。拉致された者の大半はそのまま殺されたとみて、2,400+4,200=6,600人を城内とその周辺での死者とする研究者が多い。

図表4.22 スマイス報告(都市部の死傷者数) (単位:人)

スマイス報告(都市部調査)

注1) 「大残虐事件資料集Ⅱ」,P254<スマイス報告 第4表>による

注2) 「軍事行動]とは、爆撃、砲撃、戦場における銃撃を指す。

建物の損害

スマイスは、建物の損害状況も調査している。放火された建物は城内では13%ほどだが、城外では61%にもなる。これには中国軍が空室清野作戦で放火したものも含まれる。安全区で放火、略奪された建物は圧倒的に少なく、他地域と比べて治安状況が良かったことがうかがえる。

図表4.23 スマイス報告(建物の被害)

スマイス報告(建物の被害)

注1)「大残虐事件資料集Ⅱ」,P258<スマイス報告 第11表>の一部を抽出。

注2)*: 原文に以下の註釈あり。{ 安全区では0.2%の建物が砲弾を受けたが、3月時点の調査では被害は認められない。}

(3) 農村部調査

調査方法

南京市と近郊4.5県註474-2の農村を対象に次のようにしてサンプル(=調査対象家族)を決めた。すなわち、サンプルを無作為に抽出するため、2人の調査員はその地域の主要道路を進んだ後、8の字を描きながら道路を横切ってジグザグに戻ってくる。その途中で3つに1つの割合で農村を選び、さらにその農村で10家族に1家族の割合でヒアリング調査を行う。地区別に調査結果の平均値を求めた上で、別の調査で判明していた家族数を掛けて註474-3その地区の数値を算出している。調査した家族数は4.5県全体で905家族、206家族に1家族という抽出率になった。農村部調査では、人的被害のほか、建物や家畜、農機具、種苗類などの損失額も調査された。

人的被害の状況

下図は県別の死者数である。"暴行"は日本兵によるものとされている。南京市は江寧県にあるので城内とその周辺以外の地区(郷区と呼ぶ)の被害者数は江寧県に含まれることになる。スマイスは次のように述べている。

{ 殺された男子は、45歳までが全体の84%を占めるが、女子は83%が45歳以上である。若い婦人の多くは、安全を求めて避難したか、安全なところに移されていた。留守番役の老婦人が被害にあったのである。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P239 <要約>)

図表4.24 スマイス報告(農村部の死者数) (単位:人)

スマイス報告(農村部調査)

注) 「大残虐事件資料集Ⅱ」,P269 <スマイス報告 第25表> 見やすくするため、表示項目の順番は原文と変えてある。

(4)スマイスのコメント

以下は、スマイス自身が報告書に記したコメントの一部である。

都市部調査関係

・調査結果による人口は221,150人であるが、われわれが推定した3月下旬の人口は25万ないし27万だった。その差は、調査員の手の届かぬ人々や移動中の人たちがいたことである。5月31日に市政公署で登録された住民は27万7000人であった … 。(同上,P251)

・ここに報告されている数字は一般市民についてのもので、敗残兵がまぎれこんでいる可能性はほとんどない。(同上,P222)

・日本軍の報復を恐れて死傷の報告が実際より少ない可能性がある。それは、暴行による幼児の死が少なからずあったにもかかわらず、1例も記録されていないことにあらわれている。(同上,P222-P223)

・6月にいたるまで拉致された者について、消息のあったものはほとんどない。これらの人々は大半がこの時期の初期に殺されたものと考えられる。実際には、多くの婦人が短期または長期の給仕婦、洗濯婦、売春婦として連行された。しかし、彼女らのうち誰一人としてリストされていない。(同上,P223)

・拉致された男子は少なくとも形式的に元中国兵であったという罪状をきせられた。さもなければ彼らは荷役と労務に使われた。そういうわけで拉致された者のうち、55%が19歳から29歳の者であった。その他の36%は30歳から44歳の者であった。 (同上,P224)

農村部調査関係

・調査によれば、当初【南京攻略戦以前】の住民のわずか70%しか3月現在で居住していない。戦時下の移動が家族ぐるみで行われたことを示唆している。(同上、P246)

・市部でも農村部でも共通して見られたことは、概して家を離れた家族は現地に残って家を守っていた家族より大きな損害を蒙ったということである。(同上,P247)

・死亡者の数は、戻っていない30%の家族の死亡率が、居住している家族の死亡率と大きく異ならない限り、変更されることはない。おそらく、初期に移動した家族やかなり遠くに行ったか南京市内でも比較的安全な地区にいた家族は他の家族よりうまく暮らしていけただろう。他方、移動したまま帰ってこなかった家族は、家族自体あるいは一緒に行った隣人たちが兵士による殺害・傷害・放火を体験したからだった。(同上,P247)

(5) 南京戦史及び板倉氏の見解

「南京戦史」は、都市部調査の「兵士による暴行死」2,400人、「拉致」4,200人、及び農村部調査の江寧県の暴行死9,160人の合計15,760人を市民の最大被害者数として採用する。板倉氏はこの中から不法殺害は3分の1から2分の1であるとして、5~8千人と推定する。

南京戦史は、スマイス報告について、{ 日本軍は埒外におかれ、協力もしないが圧力をかけたこともない。}(「南京戦史」,P373) と述べ、次のように評価している。

{ 中国官民総がかりの大々的調査の行われた4ケ月後の南京で書かれた東京裁判の宣誓口供書の中で、スマイス氏は8年前の調査書について訂正の意思表示をしていないのは、その精度に十分の自信があったからであろう。もし、その意思があればこの時点で、占領日本軍の調査妨害があったことを口実に、いかようにも調査書記載数字の訂正が可能であったと思う。}(「南京戦史」,P370)

一方で次のような問題点も指摘している。

{ この調査の特徴は「戦争被害調査」であって、その加害者が日・中いずれであるかを全く問題にしていない点である。ただ「前書き」において、ベイツ氏は次のように述べている。「城壁に接する市街部と東南部郊外の焼き払いは中国軍、城内と近郊農村の焼き払いの多くは日本軍、略奪と暴行は日本軍、1月下旬以降中国人による略奪と強盗、後に建物の破壊、農村部での深刻な強盗の増加(日本軍に匹敵、時にこれを凌ぐ)」
 また、農業調査付属の調査地図における被害分布と、本書で解明した日本軍の作戦行動とは必ずしも一致せず、中国軍による堅壁清野戦術や敗残兵の逃走時の行為と推察されるものもかなり多い。おそらく人的被害に於いても同様であると思われる … }(「南京戦史」,P371)

(6)秦氏の見解

秦氏は、{ 日本兵の暴行による死者と拉致者(ほとんど行方不明)の計は市街地で6,600人、農村部で26,870人である。}(秦:「南京事件」,P212) とした上で、{ スマイス調査(修正)による一般人の死者2.3万、捕われてから殺害された兵士3万を基数としたい。不法殺害としての割引は、一般人に対してのみ適用(1/2か1/3)すべきだと考える。}(秦:「南京事件」,P212) とし、市民の犠牲者数は8千から1万2千とする。

なぜ、「スマイス調査(修正)」で、6,600+26,870=33,470が、2.3万になるのかは明らかにしていない。病死率を補正した可能性があるが、計算を間違えている註474-4。また、南京事件の地理的範囲を「南京城とその周辺」とするのであれば、南京戦史と同様に江寧県だけを対象にすればよいのに、なぜ6県全体の数字を採用したのかも疑問である。秦氏はこの部分、手を抜いたようにみえる。

(7) 笠原氏の見解

笠原氏はスマイス調査を尊重しつつも、犠牲者数には採用せず、調査結果はミニマムの数字であること、民間人の犠牲者は城内より近郊農村の方が多かった、ということに着目している。

{ この調査は、38年3月段階で自分の家にもどった家族を市部で50軒に1軒、農村で10軒に1軒の割合でサンプリング調査したものであるから、犠牲の大きかった全滅家族や離散家族は抜けている。それでも、同調査は当時おこなわれた唯一の被害調査であり、犠牲者数はまちがいなくこれ以上であったこと、および民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる。}(笠原:「南京事件」,P227)

{ 調査対象は帰村している農家のみであり、誰も帰宅していない農家は、家族全員が殺害された可能性もある。また、6県全部の調査ではなく、農村より人口の多い各県城の被害も含まれていない。
これらの事実を勘案すれば南京近郊区4.5県の農民の死者は3万人を超えると推定される。}(「南京難民区の百日」,P387<要約>)

(8) まとめ

秦氏を含めて歴史学者たちは、みな、持論に都合がよいようにスマイス報告を解釈するが、この数字は下記に記載のことを除けばかなり信頼性の高い数字である。調査対象となった母集団が都市部、農村部ともに洩れているものがあるので、その分は増加するだろうが、これより少なくなる可能性はほとんどないといってよいだろう。
ただし、日本軍史料にある安全区での敗残兵摘出6.67千人(図表4.18No.15)、兵民分離に伴う2千人(同No.16)などにはかなりの市民が含まれているとみられるのでこれは重複している。

・犠牲者の中には中国人によるものや戦闘に巻き込まれた者も多少はあるだろうが、多くは日本軍によるものではないだろうか。調査票などをみると「日本兵による暴行」かどうかが調査の際の確認ポイントになっていたようにみえる。

・スマイス自身が指摘しているように、都市部調査では調査から漏れた母集団(家族群)があったためで、それは推計人口の少なさに表れている。

・農村部調査では母集団(総家族数)の大きさは変わらないので、帰還していない家族の死亡率に依存するが、その範囲では大きな変動はないのではないだろうか。ただ、農村部調査は農村だけが対象になっており、近郊6県の都市部は対象外なのでそこでの犠牲者は別枠になる。


4.7.4項の註釈

註474-1 都市部調査の標本数(=調査した家族数)

下の表はスマイス報告の第1表で、都市部調査の調査家族数と人口(=家族員数合計)を示している。この表を見ると調査方法のイメージが湧くのではないかと思う。([大残虐事件資料集Ⅱ],P251)

図表4.25 都市部調査の調査家族数と推定人口 (単位:人)

調査家族と推定人口(都市部調査)
註474-2 農村部調査の標本数(=調査した農家数)

下の表は、スマイス報告の第17表から耕地面積などの項目を除外したものである。農家数は1932年にバック教授が調査した結果を利用していると思われる。家族員数は小数点以下1位まで表示していないので、そのまま掛け算すると誤差が出るため、参考までに小数点以下3位までを逆算して表示した。

南京近郊6県ではなく、4.5県になった理由についてスマイスは、調査員が中国人当局からスパイと間違われて留置されたため、高淳県ではまったく調査できず、六合県では半分しか調査できなかった、と述べている。

図表4.26 農村部調査の調査農家数と推定人口(単位:人)

農家数と推定人口(農村部調査)
註474-3 標本の平均値×総家族数について

都市部調査では、標本の合計値に50(=総家族数/標本数)をかけて全体の値を求めているが、農村部調査では標本の平均値に総家族数を掛けて求めている。どちらの方法でも結果は同じになる。

註474-4 秦郁彦氏のスマイス調査(修正)

本件は、「南京事件―日中戦争 小さな資料集」というサイトを運営する“ゆう”氏の検討結果による。“ゆう”氏の主張を要約すると次のようになる。詳細は、こちら

{ … 板倉氏は、「スマイス調査」における「1000人あたりの病死者数」が少ないことに着目し、「病死」の一部まで「暴行」として報告されているのではないか、という疑問を提出しています。農業調査では住民千人あたりの病死者は3.8人となっていますが、バック教授の調査結果では、「住民千人あたり7.4人」であり、 この数字で暴行による死者数を補正すると30,950人から22,998人に減ります。
しかし、ここには大きな見落としがあります。これは「農業調査」のみの数字であり、「市部調査」による「6,600」がカウントされていないのです。秦氏の数字はこの分だけ「上方修正」される、ということになりそうです。}

筆者はこの見解を支持するが、いくつかの追加コメントを述べたい。

①正確な計算式は次のようになる
補正後犠牲者数 = 26,870-((1,078,000/1000×7.4)-4,080)=22,972.8
 農村部犠牲者数: 26.870人(近郊4.5県合計)
 農村部人口(スマイス報告): 1,078,000人
 病死者数; スマイス報告: 4,080人(3.8人/千人) バック教授調査(1932年): 7.4人/千人

②スマイスは、病死者が暴行による死者に混ざっている可能性はあるが、それはわずかである、と述べている。

{(病気による死亡は)100日間で1000人当たり3.8人になる。これは報告数がきわめて少ないように見える。たとえば5才以下のものについては一人も病死者として回答されていない。 … 当初の質問では病死と殺害されたものと混同されたこともありうる。そして、この混同による限界は、平時の死亡率と比較して検べてみれば殺害された者として回答のあった数に著しく影響するほど大きくはありえない。この100日間は2年続きの豊作に続く、例になく温和で天候の良い季節であった。疫病や変わった病気が全然なかったことは明らかである。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P239)

③「見落とした」6,600人は、捕虜や敗残兵殺害として日本軍の記録にある数字と重複している、と秦氏がみなした可能性はある。安全区掃蕩や兵民分離などで多数の市民が殺害されたが、スマイス報告の死者数にはこれらが含まれている。