日本の歴史認識南京事件第5章 事件のあと / 5.3 太平洋戦争への道 / 5.3.1 三国同盟

5.3 太平洋戦争への道

太平洋戦争は、日中戦争における日本の侵略行為に反発して蒋介石政権への支援を続けるアメリカやイギリスなどと日本との対立がエスカレーションした結果起きた戦争である。南京事件後ドロ沼化した日中戦争がその後どうなったか、簡単に見ておきたい。

図表5.4 太平洋戦争への道

太平洋戦争への道

5.3.1 三国同盟

(1) 日米通商条約の破棄

1939年4月、日本の傀儡政権の中国人官吏が天津のイギリス租界内で殺され、その犯人の引き渡しをイギリスが拒否したため、陸軍が租界を封鎖するという「天津租界事件」註531-1が起きた。結局、イギリスが大幅に譲歩して事件は終息したが、日本では反英運動、イギリスでは反日の声が盛り上がった。
和解成立直後の1939年7月26日、アメリカは日米通商航海条約の廃棄を通告してきた。ハル国務長官は次のような声明を出している。

{ 日本が中国におけるアメリカの権益に対し、勝手なことをしているのに、なぜアメリカは通商条約を維持しなければならないのか、日本のスポークスマンが「東亜の新秩序」とか、「西太平洋の支配権」とか、「イギリスは日本に降参した」とか、日本は「徹底的外交の勝利」を得たとか叫んでいる。今こそ、アメリカがアジア問題に対する態度を再声明する機会が到来した。}(半藤一利:「昭和史」,P257)

中国との貿易拡大を望んでいたアメリカは日本を牽制し、日本もアメリカと敵対関係になることを避けてきたが、1938年11月に発表した「東亜新秩序」声明( 5.2.2(1)項参照 )はアメリカの強い反発をかい、天津租界事件にいたって、ついに日本への制裁を発動することになった。
アメリカの破棄宣言後、日本は暫定的な通商協定の締結を提案したが、アメリカは受付けず、1940年1月に条約は失効した。このあと、アメリカの日本への経済制裁は徐々に強化されていく。

(2) 三国同盟(一次交渉)

1938年夏、ドイツは日本及びイタリアとの三国軍事同盟の締結交渉を始めた。陸軍は三国同盟の推進を主張したが、海軍や有田外相は英米を敵にすることになる、として反対、昭和天皇も反対だった。反対の先頭にたっていた海軍省の山本五十六次官は、次のような主旨の質問状を送っている。(半藤一利:「昭和史」,P246-P247を現代語に要約)

①独伊との関係強化は中国問題の処理上、かえって対英米交渉に不利になるのではないか?

②日独伊ブロックに対して米英仏が経済的圧迫をしてきたときの対策はどうするのか?

③日ソ戦になったとき、ドイツから実質的な援助は期待できるのか?

④この条約を締結すると独伊に中国の権益の一部を譲ることになるのではないか?

同盟推進派は反対派の山本五十六や海軍を脅迫する註531-2が、両派はにらみあったまま、1939年1月に近衛内閣は総辞職する。後継の平沼内閣が、ノモンハン事件や天津租界事件などに振り回されているうちに、ドイツはソ連と不可侵条約を結び、9月にはポーランドに侵攻する。日本はソ連を仮想敵としていたので、三国同盟は対ソ戦略としての意義を失い、平沼内閣は「欧州の天地は複雑怪奇なり … 」という言葉を残して総辞職、三国同盟の第一次交渉は頓挫した。

図表5.5 開戦前の主要閣僚

開戦前の主要閣僚

注) 首相欄のカッコ内は、民間人は前職、軍人は階級。

(3) 三国同盟推進論

ドイツの快進撃と同盟推進論の再燃

1939年9月、ドイツがポーランドに侵攻した直後、イギリス・フランスはドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦がはじまった。1940年5月、ドイツは大攻勢をかけ、オランダとベルギーをあっという間に降伏させて6月にはパリに入城、8月にはイギリス本土も空襲、という快進撃を遂げた。すると、日本国内には「バスに乗り遅れるな」、「日独伊三国同盟を締結せよ」という声が大きくなる。

米内内閣の倒閣

陸軍は三国同盟を推進するが、1940年1月に天皇の推薦を受けて発足した米内内閣は、三国同盟には見向きもしなかった。陸軍首脳部は畑俊六陸相に辞任を勧告、畑は7月16日辞表を出す。米内首相は代りの陸相を出すように陸軍に要求するが、陸軍は「協力できる人はいない」と拒否したため、米内内閣は総辞職せざるを得なくなった。

第二次近衛内閣発足

1940年7月22日、米内内閣の後をついで第二次近衛内閣が発足する。外相には三国同盟に反対だった有田八郎にかわって、松岡洋右註531-3が就任した。松岡は米国西海岸のオレゴン大学に学び、元来は自由主義的政策が持論であったようだが、外相に就任すると三国同盟推進を唱え、軍部の傀儡というより軍部を引っ張っていくようになる。松岡は日独伊にソ連を加えた4国が結べば、英米に対抗できる、と主張した。しかし、当時のアメリカは民主主義を守るため4国協商となろうともナチス・ドイツと徹底的に戦う覚悟を決めていた註531-4

(4) 三国同盟締結

ドイツとの交渉

9月7日、ドイツの特使としてシュターマーが来日し、三国同盟の協議を始める。シュターマーは、松岡が主張する4国同盟に対して、{ 三国同盟締結の暁において、ソ連をしてこれに加盟せしむるように取りはからう … }(重光葵:「昭和の動乱(下)」,P23) と答え、松岡や陸軍を喜ばせ、交渉はとんとん拍子に進んだ。9月12日、首相、外相、陸相、海相の4相が意思決定の会談をしたが、海相は態度を保留した。

海軍の対応

海軍は第一次交渉のとき、三国同盟に反対したが、山本五十六が連合艦隊司令長官として中央から離れると条約推進派が急速に台頭してきていた。12日の4相会談をうけて、海軍幹部は対応策を検討し、積極的賛成ではないものの条約締結には賛成することになった。

9月15日、海軍は東京に幹部を集めて首脳会議を開く。山本五十六も出席して「アメリカと衝突したらどうするのか?」註531-5などと質問するが、軍令部伏見宮総長の「ここまできたら仕方がないね」の一言で賛成することが決定された。

条約締結

海軍が賛成にまわったことで、9月19日の御前会議で三国同盟の条約締結が決定された。天皇や枢密院の元老の多くは締結に反対だった註531-6が、近衛内閣は「三国同盟は戦争回避が目的であり、同盟を結ばなければ日米開戦の危険が大きくなる」と説明していた。ドイツがイギリスに勝利すれば、アメリカは手を出せなくなる、というのがその前提であったが、9月15日に行われたイギリスへの大規模空爆でドイツは大きな損害を被り、イギリスへの上陸作戦をあきらめざるをえなかった。

三国同盟は、アメリカを敵とみなす、と宣言したに等しく、日米開戦に向って大きく前進してしまった。


5.3.1項の註釈

註531-1 天津租界事件

1939年4月、日本の傀儡政権である中華民国臨時政府が任命した海関(税関)監督が天津のイギリス租界内で殺害された。日本はその容疑者の引き渡しをイギリスに要求したがイギリスは拒否、北支那方面軍の山下奉文参謀長と武藤章副参謀長が乗り出してきて、6月にはイギリス租界を隔離してしまった。

{ 境界に陸軍部隊が立ち、電流を通した鉄条網を張り、いちいち身体検査など検問を行い、男女とも出入りする人を時には民衆の面前で素っ裸にして調べあげるというような強硬なものでした }(半藤一利:「昭和史」,P253)

日本側の要求は容疑者の引き渡しにとどまらず、イギリスの援蒋政策の見直しや東亜新秩序建設への協力にも広がった。

1939年7月、東京で有田外相とクレーギー英大使との交渉が行われ、7月24日イギリス側が大幅に譲歩することで合意が成立した。この事件を日本の新聞は大きく書きたて、街には反英の看板が並び、世論は反英で沸き立った。一方、英国でもこの事件は報道され、英国人への侮辱的扱いなどが非難されて反日世論が盛り上がった。

事件の経緯などについては、外務省:「日本外交文書 日中戦争 本巻の概要 七.天津英仏租界封鎖問題」 が詳しい。

註531-2 三国同盟反対の山本五十六や海軍を脅迫

陸軍とそれを支持する国粋主義者らは、三国同盟を締結するために強硬な手段をとった。

(a)山本五十六; 第一次交渉で山本五十六が公然と反対を唱えたとき、同盟推進派は山本を中傷する宣伝を行い、暗殺の風評を流した。山本は遺書をしたため、死を覚悟で反対運動を続けた。平沼内閣の次の阿部内閣の海相には山本、という声もあったが、米内光政は山本が暗殺される可能性を危惧して海軍中央から遠ざけ、連合艦隊司令長官とした。(Wikipedia:「山本五十六」)

(b)海軍への脅迫; { 陸軍は、脅迫的に海軍省前で部隊演習を行った。海軍も「向こうがその気なら」とばかりに省内に兵器、弾薬、食糧をはじめ、自家発電装置まで備え … }(半藤一利:「昭和史」,P251)

註531-3 重光葵の見た松岡洋右

{ 米国西海岸のオレゴン大学に学んだ、米国仕込みの政治家であって、… 満州問題については、強硬意見を表示したが、支那問題については、元来自由主義的穏健政策の持主であったことは、第一次上海戦争の時に日支の停戦交渉成立を援助して活動した、ことからでも明らかである。
彼は、外相就任後間もなく、支那及び東亜問題について、無賠償、無併合及び主権尊重の政策を公表したくらいで、記者等は、欧州の一角から、今度こそ、いずれも自由主義を解する近衛、松岡の連繋によって、軍部の力を押さえ、日本を正道に引き戻すようになるのではないかと、一時はひそかに期待した次第である。}(重光葵:「昭和の動乱(下)」,P10-P11)

※「記者」は重光葵のこと、重光は当時駐英大使だった。

註531-4 アメリカの対独戦覚悟

{ 松岡外交の核心は、毅然たる態度で三国同盟を結べば、米国は譲歩してくる。米国をして日本の既成事実と大東亜共栄圏を承認させ得るというところにあった。しかしそれは米国を最もよく知っているつもりの松岡の大誤算であった。…
その致命的な誤りは、当時の米国政府首脳が日本に対してはともかく、ナチス・ドイツを民主主義の敵と見なしてともに天を戴かず、決して宥和せず、機会を捉えてこれに参戦しこれを絶滅しようとする覚悟であることに気づかなかったことにある。… かりに日独伊ソの4国協商なるものが成立しても、米国は屈せず、民主主義対全体主義の闘争を戦い抜いたであろう。}(大杉一雄:「日米開戦への道(上)」,P292)

註531-5 海軍幹部会議

{ これまでの経緯を阿部軍務局長が説明したあと、及川大臣が言いました。「もし、海軍があくまで三国同盟に反対すれば、近衛内閣は総辞職のほかはなく、海軍としては内閣崩壊の責任はとれないから、この際は同盟条約にご賛成願いたい」すると軍令部総長の伏見宮がすぐに口を開きました。「ここまで来たらしかたがないね」 …
 山本五十六が静かに立ち上がって言いました。「現状では航空兵力が不足し、とくに戦闘機や陸上攻撃機を2倍にせねばならないのであります。しかし、条約を結べば英米勢力圏の資材を必然的に失うことになります。増産にストップがかかります。ならば、その不足を補うためどういう計画変更をやられたか、この点をお聞かせいただきたい。連合艦隊長官としてそれでなくては安心して任務を遂行できないのです」
この発言を豊田次官は完全に無視し、こう言いました。「いろいろご意見もありましょうが、大かたのご意見が賛成という次第ですから」 … }(半藤一利:「昭和史」,P292-P293)

註531-6 三国同盟反対論

{ 天皇のほか、西園寺はじめ宮廷上層部はもちろん、重光葵英大使など在外有力外交官をはじめ、知英・親米派の人々は同盟に反対であった。8月29日、前駐英大使吉田茂はドイツの英本土上陸は困難で、究極の勝利も疑わしいと述べ、… さらに9月17日付近衛宛書簡で、「其特使(シュターマー)特派の事実こそドイツが勝利に自信をもっていない証拠」と指摘している。…
しかし、表立って反対するものはなく、9月14日、連絡会議下打合せ会における松岡の「英米に結ぶも手で全然不可能とは考えぬ。併しそのためには支那事変は米の言う通り処理し、東亜新秩序等の望みはやめ少なくとも半世紀の間は英米に頭を下げるならいい。それで国民は納得するか。10万の英霊満足できるか」という強硬発言にリードされたのである。}(大杉一雄:「日米開戦への道(上)」,P289 要約)