日本の歴史認識南京事件第5章 事件のあと / 5.2 日中戦争のその後 / 5.2.2 終結に向けた政治工作

5.2.2 終結に向けた政治工作

図表5.2(再掲) 日中戦争のその後

日中戦争のその後

(1) 新東亜秩序声明

日中戦争が長期化することが明確になり、これまでのように「蒋介石政権はけしからんから叩き潰す」だけでは、国内も世界も納得させられない。そこで、1938年11月3日、近衛首相は「アジア(東亜)に新しい秩序を作るために戦う」と宣言した。その要旨を現代文で列挙する。原文は註522-1を参照。

日満支3国が連携するという考え方は日中戦争以前からあったが、この理念はしだいに拡大され、西欧列強からアジア(東亜)の国々を解放する、という「大東亜共栄圏」の構想に発展していく。それらは、いずれも「相互連携」を謳いながら、日本の「指導(支配)」を前提としていたから、それまでアジアに権益を保有していた欧米とは手を切ると宣言したも同然になった。

(2) 日支新関係調整方針

11月30日の御前会議で「東亜新秩序建設」の具体的目標を示す「日支新関係調整方針」が採択された。この「調整方針」は極秘として公開されなかったが、 「…支那の領土および主権を尊重し …」と述べつつ、北支及び内蒙、揚子江下流域、海南島などにおいて日本の権益を要求、北支及び内蒙には防共目的での日本軍駐留、などを定めたほか、「新支那の政治形態は分治合作主義による」と中国の統治形態まで決めている。

{ これは中国を地域的な国家に分割し、その国民国家としての統一を否定する、すなわち中国ナショナリズムに対する無理解を露呈したもので、とても中国国民の支持を得られるものではなかった。これは伝統的な日本の大陸政策の観念であり、「最近の統一趨勢をわきまえざる所謂支那通の旧弊思想」(堀場一雄「支那事変戦争指導史」)であった。}(大杉一雄:「日米開戦への道(上)」,P110)

日本の政府・軍幹部らの中国情勢の認識がこの程度であったことが、日中戦争がドロ沼化した原因のひとつであろう。

(3) 汪兆銘工作

1938年3月28日、日本軍は南京自治委員会にかわって「中華民国維新政府」を成立させた。一方、北京には1937年12月14日に成立した「中華民国臨時政府」があり、日本はこの2つを統合するために、蒋介石と対立関係にあった汪兆銘を説得し、1940年3月「維新政府」と「臨時政府」を統合して、汪兆銘を首班とする南京国民政府と呼ばれる政権を樹立した。日本は南京国民政府を支援して、蒋介石政権を打倒しようとしたが、南京国民政府は国民の支持を得られずに孤立し、日本の敗戦とともに消滅した。以下、汪兆銘政権樹立までの経緯を概観する。

基本構想の密議

蒋介石の徹底抗戦方針に対して、和平によって国民の犠牲と国土の荒廃を防ごうと主張したのが汪兆銘一派であった。彼らは1938年に個別のルートから日本側の和平条件を打診しはじめていた。一方、日本側も新政権構想を検討していたが、「維新政府」と「臨時政府」を統合した政府の首班として実力者の汪兆銘がたてられれば蒋介石に対抗できる政府ができるのではないかと期待を持った。
1938年11月、中国側(高宗武、梅思平など)と日本側(影佐軍務課長、今井参謀本部支那班長など)が上海で密議し、新政権の基本的事項を定めた「日華協議記録」を作成した。ちょうどこの時期、上記の「日支新関係調整方針」が策定されていたが、中国各地での日本の権益主張や日本軍の駐留についてはあいまいであった。

汪兆銘、蒋介石政権を離脱

「日華協議記録」の合意を受けて、汪兆銘は1938年12月に重慶を脱出しハノイに移った。汪兆銘はここで和平派の結集を働きかけたが、うまくいかず刺客に命を狙われて側近が殺されてしまった。そこで日本軍は1939年4月、日本の船で汪兆銘を上海に避難させた。5月31日には日本を訪問して日本政府首脳と新政権樹立について懇談した。

内約交渉

汪兆銘は正当な国民政府としての成立を目指し、中国としての主権確保をねらったが、国民政府側から賛同するものはほとんどいなかった。そうした状況下で1939年11月から、新政府の運営に関する条件(内約)について交渉を始めたが、日本側は満州式傀儡政府にすべし、との意見が大勢を制し、「日華協議記録」とは大きくかけ離れた条件になった。一部の側近は日本の対応に落胆して離脱したが、汪兆銘側はすでに行き場を失っており、涙を飲むしかなかった。

南京国民政府(汪兆銘政権)の成立

こうして1940年3月30日、日本政府の庇護のもとに南京国民政府は発足した。日本がこの政府を承認したのは同年11月30日で、イタリアなど枢軸国も承認したが、英米蘭ソなどは承認しなかった。汪兆銘政権は中国民衆の支持を得られず、日本が期待した蒋介石政権の弱体化はできず、和平への通路はほとんど閉ざされてしまった。

(4) 蒋介石政権との和平交渉

日中戦争終息のための工作は、汪兆銘政権設立によるものと並行して蒋介石政権と直接交渉する工作もいくつか行われたがいずれも失敗に終わった。

宇垣外相による交渉(1938年7月~9月)

1938年5月、広田外相にかわって近衛内閣の外相に就任した宇垣外相(元陸相、陸軍大将)は、国民政府行政院長孔祥煕の秘書を通じて和平交渉を進め、孔―宇垣会談が実現寸前までいったが、宇垣が突然外相を辞職し、交渉は挫折した。辞職の原因は諸説あるが、大杉一雄氏は{ 高宗武―汪兆銘路線の巻き返しを謀る軍部の圧力が激しくなり、宇垣も辞めざるを得なくなったのではないか。}(大杉一雄:「日米開戦への道(上)」,P78) と述べている。中国側は宇垣に対する信用と期待をもっており、国民政府と直接交渉できる貴重な機会であった。

桐工作(1939年12月~1940年9月)

蒋介石夫人宋美齢の弟という触れ込みの宋子良を通じて陸軍が極秘で進めた交渉で、板垣陸相-蒋介石―汪兆銘の3者会談が決りかけたが、土壇場で蒋介石側から拒絶の通告があり、日本側も工作を打ち切った。この話は蒋介石側の謀略、という説もある。

銭永銘工作(1940年9月~11月)

松岡洋右外相の発案で浙江財閥の巨頭である銭永銘を通じて蒋介石政権と交渉しようとしたが、汪兆銘政権の承認が先行してしまったため、交渉は頓挫した。

(5) 日中戦争の長期化

敗戦時に外相だった重光葵は、日中戦争が長期化したことについて、次のように述べている。

{ 支那問題を自力をもって解決するの自信を失った軍部は、支那戦争がますます激化拡大せられて行くに従って、その原因を、主として英、米、仏の態度に求めるようになった。日支紛争の解決が困難なのは、全く英米の妨碍【ぼうがい】によるものであり、しかもこれらの諸国が蒋介石を援助し、対日戦争の継続を強要する結果である。日本の敵は支那に非ずして英米等であるとの宣伝が、次第に効果的となって、日本の世論はますます反英米に傾いていった。日本の国運に最も危険なこの反英(米)の宣伝がかくも有効であったことは、理性的判断を超越したものであった。}(重光葵:「昭和の動乱(上)」,P209)

また、大杉一雄氏は日中戦争が解決できなかった原因は、{ 「相手にせず声明により汪兆銘傀儡政権を作ったこと」と「中国を第二の満州国にできるとの幻想」にあった。}(大杉一雄:「日米開戦への道」(上),P218) としている。

日中戦争の長期化がアメリカとの対立を激化させ、太平洋戦争へと盲進していくことになるが、敗戦後、支那派遣軍の幹部たちには、日中戦争を長期化させたという責任意識はほとんどなかったようだ。このような大局観のない人たちが、当時の日本の政治を牛耳っていたのである。

{ 支那派遣軍の参謀は、戦後になっても、「これは支那派遣軍全体の気持ちなのだが、我々は負けているのではない、全部戦いは勝っている。本店が商売に失敗してノレンをおろすから仕方ない、黒字の支店も閉店する。実力上は万全の体制にあるんだ」と回想している。}(石川禎浩:「革命とナショナリズム」,P234)


5.2.2項の註釈

註522-1 東亜新秩序建設の政府声明(1938年11月3日)

{ 今や、陛下の御稜威に依りて帝国陸海軍は、克く広東、武漢三鎮を攻略して、支那の要域を戡定したり。国民政府は既に地方の一政権に過ぎず、然れども、尚同政府にして抗日容共政策を固執する限り、これが壊滅を見るまで、帝国は断じて矛を収ることなし。
帝国の冀求する所は、東亜永遠の安定を確保すべき新秩序の建設に在り。今次征戦究極の目的亦此に存す。
この新秩序の建設は日満支3国相携え、政治、経済、文化等各般に亘り互助連環の関係を樹立するを以て根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以なり。
帝国が支那に望む所は、この東亜新秩序建設の任務を分担せんことに在り。帝国は支那国民が能く我が真意を理解し、以て帝国の協力に応へむことを期待す。固より国民政府と雖も従来の指導政策を一擲し、その人的構成を改替して更正の実を挙げ、新秩序の建設に来り参するに於ては敢て之を拒否するものにあらず。
帝国は列国も亦帝国の意図を正確に認識し、東亜の新情勢に適応すべきを信じて疑わず。就中、盟朋諸国従来の厚誼に対しては深くこれを多とするものなり。
惟うに東亜に於ける新秩序の建設は、我が肇国の精神に淵源し、これを完成するは、現代日本国民に課せられたる光栄ある責務なり。帝国は必要なる国内諸般の改新を断行して、愈々国家総力の拡充を図り万難を排して斯業の達成に邁進せざるべからず。
茲に政府は帝国不動の方針と決意とを声明す。}(重光葵:「昭和の動乱(上)」,P321-P322)