日本の歴史認識南京事件第5章 事件のあと / 5.3 太平洋戦争への道 / 5.3.2 開戦へのプロセス

5.3.2 開戦へのプロセス

図表5.4(再掲) 太平洋戦争への道

太平洋戦争への道

(1) 戦時体制の強化

1938年5月に国家総動員法が制定されたが、1939年に入って戦時体制の強化に向けた活動が活発になり、女性や子供を含む非戦闘員の国民にも耐乏生活を強いるようになった。
「国民精神総動員委員会」が1939年3月に設置され、ぜいたく禁止、ネオン全廃、男の長髪・女のパーマ禁止、中元歳暮廃止、などが布告され、国民の戦意昂揚のための戦時標語がかかげられた。

{ 「欲しがりません勝つまでは」 「ぜいたくは敵だ!」 「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」
「遂げよ聖戦 興せよ東亜」 「聖戦だ 己れ殺して 国生かせ」 「進め一億火の玉だ」
「石油(ガソリン)の一滴、血の一滴」 「全てを戦争へ」 }(Wikipedia:「国民精神総動員」)

1940年になると、 "ラグビー"、"スキー"といった外来語は敵性言葉として使用禁止となり、「産めよ殖やせよ」のキャンペーン、ダンスホールの閉鎖などが行われ、国民全体が軍隊的な生活を強いられるようになってきた。

(2) 北部仏印進駐  ※仏印は、現在のベトナム、ラオス、カンボジア

北部仏印(現在のベトナム北部)は、蒋介石に援助物資を送る援蒋ルートのひとつだった。フランスがドイツに降伏すると日本は仏印総督に援蒋ルートの遮断と軍隊の駐在を申し入れた。9月22日に協定が成立し、23日から進駐が開始されたが、交渉が長引いたことなどに憤慨した日本軍は仏印軍を攻撃してしまい、無用の血を流す結果になった。
アメリカはこの進駐に対して屑鉄の輸出全面禁止の措置をとった。

(3) 日ソ中立条約

松岡外相は、独伊との連携強化及びソ連の同盟参加促進を目的に、1941年3月から4月にかけてヒトラーとスターリンに会いにヨーロッパを訪問する。ドイツで大歓迎を受け、ヒトラーからはシンガポールを攻撃するよう要請された後、モスクワに向かう。モスクワではスターリンと会談し、あっという間に日ソ中立条約が調印されてしまった。スターリンはまもなく開始されるであろうドイツのソ連侵攻にそなえて東の安全を確保したかったのであるが、松岡は有頂天になって日本に凱旋した。
1941年6月、ドイツはソ連に侵攻註532-1し、松岡が夢見た日独伊ソ4国同盟の可能性はなくなった。

(4) 日米諒解案による交渉

1941年4月1日、元外相で海軍大将の野村吉三郎が駐米大使に任命され、ワシントンに赴任した。野村大使は、前年秋から日米の民間人ベースで検討されてきた「日米国交打開策」をもとに「日米諒解案」をつくり、これを日本政府が了解すればルーズベルト大統領と近衛首相が会談することをハル国務長官と合意する。
4月17日、「日米諒解案」を日本に送り、近衛首相も陸軍・海軍もこの案の主旨に同意したが、近衛首相はドイツ・ソ連を訪問中だった松岡外相の意見を聞いた上で決断する、と自らのリーダーシップを発揮しなかった。数日後、日ソ中立条約締結という大きなお土産をもって帰国した松岡外相は自分が関与しないところで進められたこの案に反発、5月に入ってアメリカに対案を提示するが、それは「日米諒解案」とはかけはなれ、しかも「陸海軍案より更に強硬」であった。
これに対して6月21日にアメリカ政府案が提示される。この案はいわゆるハル4原則――①すべての国の主権尊重、②他国の内政不干渉、③機会均等の原則尊重、④太平洋方面における現状維持――に沿ったもので、日本側にとっては非常に厳しい内容だった。

(5) 南進か北進か … 日米開戦を辞さず!

独ソ戦が始まると、ドイツとともにソ連を攻撃しようという北進論と南方に進出して資源を確保しようという南進論が議論されたが、南進論が優勢になり、7月2日の御前会議で次のように決められた。

{ 帝国は大東亜共栄圏を建設し … 支那事変処理に邁進し、自存自衛の基礎を確立するため、南方進出の歩を進め、また情勢の推移に応じ、北方問題を解決す。… 本目的達成のために対英米戦を辞せず。国家として戦争決意を公式なものとした、運命的な決定であったと思います。}(半藤一利:「昭和史」,P350)

この方針は各国の大使館などに打電されたが、アメリカはすでに日本の外交文書の暗号解読に成功しており、これらの機密情報は筒抜けだった。 アメリカはこの時点で日本が開戦を決意していることを知ったのである。

(6) 南部仏印(ベトナム南部)進駐

進駐の背景と目的

蘭印(現在のインドネシア)は、当時オランダの植民地で本国オランダはドイツに占領されたが、政権はロンドンに逃れ、蘭印もその政権の管轄下にあった。前年から石油などの資源輸入量を増やす交渉を行っていたが、ドイツの同盟国となった日本への供給をしぶる蘭印側は逆に供給量を減らそうとし、6月には事実上の交渉決裂となった。これに圧力をかけ、資源を確保するとともにいざというときには蘭印に軍事進出する足掛かりをつくることが目的だったが、公式の目的は「仏印を他国の侵略から共同で防衛すること」であった。

南部仏印進駐

1941年7月23日、サイゴン及びその周辺への進駐作戦が決まった。{ 日本の輸送船団は25日、海南島を出港、28日~31日に上陸したが、北部仏印進駐の場合と異なり、陸海軍の協調も保たれ、日仏間の軍事紛争も起らなかった。}(大杉一雄:「日米開戦への道(下)」,P29)

(7) 石油禁輸

7月25日、アメリカは日本の在米資産をすべて凍結することを発表し、8月1日には石油の全面禁輸に踏み切った。南進によりアメリカが経済制裁を強化するリスクは、松岡外相などが指摘していたが、「仏印だけで蘭印に手をつけなければ米国は動かないだろう」という希望的観測のもとに強硬派の意見が採用された。

(8) ルーズベルトの仏印中立化提案

石油禁輸の発表に先立ってルーズベルト大統領は、7月24日、野村大使に「仏印から日本軍が撤兵すれば、仏印は中立化し日本の物資調達にも協力する」と、仏印の中立化提案註532-2を行った。これは、日米交渉を通して唯一といってよいアメリカからの建設的提案であり、提案に同意すれば日米開戦を避けられる可能性もあった。
近衛首相は提案に乗気であったが、陸軍が「撤兵は南進方針をくつがえすことになる」と強硬に反対したため、8月6日に拒否の回答をしている。
強硬派の代表のような存在であった参謀本部作戦部長の田中新一中将は、{ 「平和か戦争かではない、屈服か戦争かである」という立場に固執して対米妥協を拒否し、東條や杉山の陰にあって彼らを主戦の方向に動かした … }(大杉一雄:「日米開戦への道(上)」,P416) という。

(9) 日米首脳会談

近衛首相はルーズベルト大統領との首脳会談を決意し、8月8日野村駐米大使経由でアメリカ側に申し入れた。ルーズベルト大統領は乗り気でアラスカでやったらどうか、などと野村大使に語っていたが、ハル国務長官は8月28日、「事前に日米間の基本問題について合意が成立しない限り首脳会談はできない」と回答してきた。日本側はその後、基本問題についての合意をとるべく交渉したが、両者の主張の溝は大きく、首脳会談を開くことはできなかった。軍部には、首脳会談が実現すれば日本はアメリカに妥協するのではないか、という懸念もあった註532-3


5.3.2項の註釈

註532-1 松岡外相は独ソ関係悪化を知っていた

{ ドイツ首脳との会談によって、… 独ソ対立の現実を目撃した松岡の心理は複雑であったろう。すでにヒットラーからソビエト攻撃を暗示されていた大島駐独大使は、国境まで見送った際、松岡に対し日ソ中立条約を締結しないよう進言したが、彼は考えようと返事したという。}(大杉一雄:「日米開戦への道(上)」,P324-P330)

{ 松岡君は、三国同盟締結当時の形勢とは全然異なった情勢の欧州に、乗り込んで行ったのである。日本側の欧州事情の判断は、表面的の現象のみを追って希望的にまたは感情的に、材料を取捨するがために、何時も見方に半年1年の食い違いが起る。日本人の国際情勢に関する感覚は遅鈍である。ドイツがすでに断念したときに、今にも英本土上陸作戦が行われるように思ったり(ドイツの宣伝を信じ)、ドイツがソ連と戦うことを決心したときに、前にソ連との親善を説いたドイツをそのままに見ようとする。}(重光葵:「昭和の動乱(上)」,P40)

註532-2 仏印中立化提案

{ 8月4日、ウェルズ国務次官より若杉公使に次のような追加説明があった(8月5日野村電)
「日本の仏印進駐は、一は英支連合(多分米をも加えならんと附言す)の脅威に対する防衛と称し、二は原料資源を獲得する為なる由を以て、大統領は日本が撤兵するに於ては日米英支(あらかじめ蘭を加え)に於いて、各国共仏印に脅威を及ぼさざる協定をなし、同地を中立とする時は、日本側の第一理由は満足せらるべく、・・・ 又原料資源の獲得については、仏印の物資を以て日本の需要を満たし得べしとは信ぜざるも、右の協定叶ならば、大統領に於いて関係諸国(蘭支を含むという)をして均等の基礎に於いて日本の要望に応ぜしむるの覚悟ありと明言し、この提案に対し日本側の回答を期待し(ている)」  ウェルズのいうことは、日本が大統領提案に応じれば、米国は経済封鎖を解くと言っているのに等しいのである。}(大杉一雄:「日米開戦への道(下)」,P34-P35)

註532-3 首脳会談に対する軍部の見通し

{ 軍部内では佐藤賢了軍務課長が「アメリカも間抜けだわい、無条件に会えば万事彼らの都合通りにいくのに」と語り、石井軍務課員も「会談の随員の内命を受けたとき、実に悲しいやるせない思いをした。近衛『ル』会談する。近衛頑張る、『ル』容れず、近衛は東京に向けこれ以上は出来ません電報する。三宅坂(陸軍省)が突っ張る。しかし陛下が御裁定になり、陸軍に優諚が下る。万事窮する。というのが私の政治的見通しであった」という(「石井回想録」)(大杉一雄:「日米開戦への道(下)」,P70)