日本の歴史認識南京事件第5章 事件のあと / 5.2 日中戦争のその後 / 5.2.3 軍紀引締め策のその後

5.2.3 軍紀引締め策のその後

図表5.3 軍紀引締め策のその後

軍紀引締め策のその後

(1) 軍紀引締め策の成果

4.5節でも述べたが、南京事件で実施された軍紀引締め対策を列挙すると次のようになる。

こうした対策は効果をあげたのだろうか? 漢口作戦の主力を担った第11軍の司令官だった岡村寧次大将の手記を引用する。

【昭和】13年10月10日、蘆山南側星子の兵站司令官友清大佐の報告によれば、同地附近の村長連名を以て殺戮、強姦、放火、牛掠奪の4件禁止を要請しこれ等の条件容れらるれば、他の要求には凡て応ずべしという嘆願書を提出してきたとのことなので、憲兵を急派して調査させたところ既に強姦だけでも20件あるも犯人未検挙、偶々強姦現行直後の者を捕えたが、その所属隊長は、該犯人が歴戦功績者だとの口実を以て釈放を強請したという。この口実は当時到る処で行われたことである。・・・ 昭和14年以後はこうした犯罪は漸く減少した。2,3年後は中国南北戦線を通じ激減したが、その最大の原因は軍紀刷新努力の結果と言わんよりも、寧ろ下士官兵の素質が老兵は殆んど皆無となり、現役兵と若年補充兵のみとなったからであろう。}(「岡村寧次大将資料」(上),P314)

また、1939年「日華事変の陸軍記録」と題する文書に「支那事変地より帰還の軍隊・軍人の状況」という極秘資料があって、そこに『軍紀・風紀上注意を要する主なる言辞の事例』が20件以上のっており、帰還兵が話したことが掲載されている。その一部を以下に紹介する(「大残虐事件資料集Ⅰ」,P336-P338)。この資料は東京裁判で証拠採用されている。(詳しくは小論報「資料 帰還軍人の言動」を参照)

(2) その後の軍紀引締め対策

秦氏は、ポスト南京の諸対策として次のように述べている。

{ 日中戦争が持久戦になるとそれまでのように「反日を懲罰する」ではなく、「民心を日本にひきつける」ことが必要であることに陸軍は気づき、モラルや軍紀・風紀を再建するために、遅ればせながら硬軟とりまぜた各種対策に乗り出した。

①作戦休止と部隊の新陳代謝
この作戦休止は2か月もしないうちに変更され、徐州作戦やそれにひきつづく漢口作戦へ発展、兵員の新陳代謝もほとんど実行されずに終った。

②「従軍兵士の心得」から「戦陣訓」へ
1938年夏までに「従軍兵士の心得」を印刷して全軍に配布し、敵意なき支那民衆を虐げてはならない、捕虜に対しても同様、特に婦女を姦し私財の略奪、放火は絶対に避ける、などと戒めている。それでも不軍紀行為の横行に頭を悩ませた教育総監部は「戦陣訓」を作り、1941年1月東条陸相の名で全軍に配布した。「戦陣訓」には「生きて虜囚の辱めを受けず」が明記されていた。

③陸軍刑法の改正
1942年2月に公布された陸軍刑法では、上官暴行や逃亡の刑罰を重くしたほか、略奪の併合犯でしかなかった強姦を独立した犯罪として規定した。しかし、強姦は親告罪であることに変りはなかったため、後難を恐れた中国人婦女が告発する例は稀だった。岡村寧次大将のように被害者を説きつけて告訴させた例註523-1もあった。

④慰安婦の大量投入
日中戦争では1937年末、軍の要請で御用商人が北九州の遊郭から集めて上海に開設したのが慰安所第一号とされている。1938年以降、戦線が拡大すると部隊が慰安婦をつれて進撃するのが慣例化した。}(秦:「南京事件」,P235-P239 要約)

軍紀弛緩の根本原因は、陸軍の風土や組織構造にあり、このような対策では十分な成果は望めない。秦氏が述べているように、それらを変革するのは敗戦を待つしかなかった。

{ 日独を比較して、計画性・科学性の差はあるとはいえ、戦場犯罪としての悪質さは甲乙つけがたい、というのが筆者の率直な感想である。そして、こうした日独両軍の暴虐性を、侵略戦争におけるファシズム軍隊の必然的産物としてとらえるとすれば、それは敗戦による全体制の崩壊によってしか根絶できなかったはずである。}(秦:「南京事件」,P234-P235)


5.2.3項の註釈

註523-1  強姦被害者に告訴させた事例

{ 五十嵐憲兵隊長報告のため来訪、小池口における上等兵以下3名の輪姦事件を取り調べたところ、娘は大なる抵抗もせず、また告訴もしないから、親告罪たる強姦罪は成立せず、よって不起訴とするを至当とするとの意見を平然として述べた。同列した軍法務部長もまた同じ意見を述ぶ。
それに対し、私は叱咤して云った。強姦罪が親告罪であることぐらいは予もこれを知っている。これは法を作ったとき内地を前提としたものであろうことを深慮しなければならない。抑々われわれの出動は聖戦と称しているではないか。神武の精神は法律以前のものであり、また一面被害の良民は銃剣の前に親告などできるものでないことを察しなければならない。憲兵は須らく被害者をみな親告せしめよ、そうして犯人はみな厳重に処分すべしと。・・・ 爾来憲兵隊は軍司令官が厳しいからその口実の下に、かなり厳重に取締ったらしい。 }(「岡村寧次大将資料」(上),P300-P301)