日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.1 東部・北部における掃討戦 / 4.1.3 和平門,太平門での捕虜殺害

4.1.3 和平門、太平門での捕虜殺害

図表4.1(再掲) 陥落直後の東部・北部における事件

東部・北部における事件

注)赤丸に白抜きの数字は、上表左端の①~⑦の各事件の発生場所を示す。

※ 各派評価 それぞれの事件が不法な事件かどうかについての各派の評価
史: 史実派(笠原氏) 中: 中間派(秦、板倉、偕行社) 否: 否定派(東中野氏)
〇:不法又はそれに準じる
△:研究者により異なる
-:合法又は調査対象外

(1) 和平門周辺の捕虜(図表4.1④)

佐々木少将は下関の追撃戦終了後、南東に下って和平門に進み、その周辺で敗残兵の掃蕩を行った。以下、佐々木少将私記からの引用である。

{ 午後2時頃概して掃蕩を終って背後を安全にし、部隊を纏めつつ前進和平門に至る。その後俘虜続々投降し来り数千に達す、激昂せる兵は上官の制止を肯かばこそ片はしより殺戮する。多数戦友の流血と10日間の辛惨を顧みれば兵隊ならずとも「皆やってしまへ」と云ひ度くなる。}(「南京戦史資料集」,P378)

(2) 太平門の捕虜(図表4.1④)

12月13日朝、歩33は第6中隊を太平門の守備に残して下関に向い、歩38と合流して追撃戦にあたった。一方、太平門の第6中隊は多数の敗残兵に直面するが、その対応について、佐々木少将は{ 太平門外の大きな外濠が死骸で埋められゆく }(「南京戦史資料集」,P379)、中島師団長の日記には{ 太平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約1300}註411-1(ページ外)、とあるだけで詳しい状況はわからない。南京戦史では次のように記している。

{ 参戦者の回想を要約すると「13日午前9時13分、太平門を占領し、主として城外から城内に遁入しようとする敵に対し、迎撃の態勢をもって城門附近の守備にあたっていたところ、まず白旗を掲げて投降の意思表示をした中国軍大部隊があり、ついで白旗を掲げたに拘らず反抗した約300人ぐらいの中国軍部隊もあった。我が方は反抗した中国軍部隊に対しては断乎として撃滅手段をとった」旨記載されている。しかし投降部隊の総人数、武装解除の処置、収容した捕虜に対する対応等については記述がなく不明である。}(「南京戦史」,P321)

(3) 14日の佐々木支隊の掃蕩

14日は、13日に引続き下関と城内北部などの敗残兵掃蕩を行った。その模様を佐々木少将は14日の日記に次のように記す。

{ 到る処に潜伏している敗残兵を引き摺り出す、が武器は殆ど全部抛棄又は隠匿してゐた。5百、千とゆふ大量の俘虜が続々連れられてくる。}(「南京戦史資料集」,P379)

歩33連隊機関銃中隊の島田勝巳中隊長は獅子山(城内北部)で140~150名の敗残兵を殺害したと記録している。

{ 太平門のあたりでは、多くの敗残兵を捕えたが、“ヤッテシマエ”と襲いかかるケースが多かった。城内掃蕩中でも、獅子山付近で百4,5十名の敗残兵を見つけたが、襲いかかって殺した。
中国兵は、小銃を捨てても、懐中に手榴弾や拳銃を隠し持っている者が、かなりいた。紛戦状態の戦場に身を置く戦闘者の心理を振り返ってみると、「敵を殺さなければ、次の瞬間、こちらが殺される」という切実な論理に従って行動したのが偽らざる実態である。}(「証言による南京戦史(9)」,P5)

秦氏は、そのほかにも次のような敗残兵殺害の証言をあげている。要約して引用する。

歩33西田上等兵の日記; {11時30分入城、【挹江門】広場において我小隊は敗残兵370名、兵器多数監視、敗残兵を身体検査して後手とし道路に坐らす。我は敗残兵中よりジャケッツを取って着る。面白いことこのうへなし。自動車、オートバイ等も多数捕獲す。各自乗りまはせり、8時頃小銃中隊に申し送り、昨夜の宿に帰る。敗残兵は皆手榴弾にて一室に入れ殺す。}(秦:「南京事件」,P120)

歩38志水一枝軍曹の日記; { 城壁を攀じて開門を施す傍ら横行せる敗残兵を捕捉殲滅す。一部降りて和する者ありしが行動不穏の為92名を刺殺せり … 城内に潜伏或は横行せる敗残兵無数にて其の醜状其極に達しあり。勇躍せる中隊は尚一部抵抗ある敗残兵を随所に殲滅しつつ城内粛正に一段の光彩を放ちたり}(秦:「南京事件」,P120-P121)

(4) 捕虜を受付くるを許さず!

佐々木支隊長は、14日朝に第30旅団命令として「各隊は師団の指示あるまで俘虜を受付くるを許さず」などを出した。中島師団長は13日の日記に、 { 大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる … }註411-1(ページ外)と書いており、この命令は中島師団長の方針に沿ったものであるとみられる。 この方針は心ある将校にとってはショックだったようで、歩38連隊副官の児玉義雄氏は次のように述べている。

{ 連隊の第一線が、南京城1.2キロ近くまで近接して、彼我入り乱れて混戦していた頃、師団副官の声で、師団命令として「支那兵の降伏を受け入れるな。処置せよ」と電話で伝えられた。私は、これはとんでもないことだと、大きなショックをうけた。
師団長、中島今朝吾将軍は豪快な将軍で好ましいお人柄と思っておりますが、この命令だけは何としても納得できないと思っております。… 命令やむを得ず、各大隊に下達しましたが、各大隊からは、その後何ひとつ報告はありませんでした。激戦の最中ですからご想像いただけるでしょう。}(「証言による南京戦史(5)」,P7)

南京戦史は次のように弁明している。

{ … 下関に向う急進戦闘間、大量の投降兵を武装解除して収容しようとすれば戦機を逸し、退路遮断の任務を放棄することになる。加えて捕虜として収容監視するに足る予備の兵力もなく、また釈放すれば、12日夜(13日未明)仙鶴門鎮でおきたような我が後方部隊の襲撃事件を招くことになる。}(「南京戦史」,P321)

捕虜殺害の問題については6.5節で詳述するが、第一線にいる将兵の問題というより、日本軍の本質が関連した問題である。

(5) 12月16~17日の城外掃蕩(和平門~復興橋/江岸)(図表4.1⑤)

中島師団長の命により、第30旅団は紫金山北側一帯の掃蕩を行った。歩38は和平門~復興橋間、歩33は和平門~揚子江岸間を掃蕩しているが、その戦果は戦闘詳報などには記載されていない。佐々木少将私記には、 { 獲物少しとは云え両連隊ともに数百の敗兵を引き摺り出して処分した。}(「南京戦史資料集」,P380) とある。南京戦史はこの犠牲者を400人とみているが、他の研究者はこれを犠牲者にはカウントしていない。

(6) 各派の見解

歩33の戦闘詳報(12月10日~14日)(「南京戦史資料集」,P605) には、3096人(うち将校14人)の捕虜を得て、それを「処断」したことが記載されている。その内訳は不明だが、下関や太平門、和平門、獅子山などで収容した捕虜を殺害したものであろう。

史実派は佐々木少将私記などをもとに、12月13日の「敗残兵殺害」1万数千、「投降捕虜殺害」数千、太平門における捕虜殺害1300、を犠牲者数とみなしている。

中間派の板倉氏と秦氏は戦闘詳報記載の3千を採用、南京戦史はこの3千を2千と見るかわりに獅子山の200人を別にカウントしている。

否定派の東中野氏は、敗残兵の殺害は戦闘行為、捕虜の殺害は「反抗したので殺害」であり、すべて合法としている。しかし、敗残兵殺害はさておき、戦闘詳報という公式資料に「捕虜処断」と書いてある以上、それらがどこでどのような状況で行われ、「万止むを得ざる状況」であったことを示さない限り、合法と言い切るのは無理がある。