日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.1 東部・北部における掃討戦 / 4.1.1 堯化門の捕虜

4章 第4章 南京事件のあらまし

この章では、南京が陥落したあと12月13日未明以降に、南京城周辺で起きたできごとについて述べる。南京事件の範囲は研究者によって異なる部分もあるが、この章で述べる範囲が南京事件を構成する主要なできごとになる。
20万とも3万ともいわれる犠牲者数は、個々のできごとの内容や解釈に依存し、それは研究者により異なる。各節や項の最後には史実派/中間派/否定派それぞれの見解を記した。

4.1 東部・北部における掃蕩戦

この節では、南京城の東部と北部を担当した京都第16師団(師団長 中島今朝吾中将)の掃蕩戦やその間に獲得した捕虜への対応などについて述べる。
佐々木到一少将率いる歩兵第30旅団は、歩38連隊が紫金山北麓を進んで下関を目指し、歩33連隊は13日朝に紫金山山頂を制して、同じく下関に向った。一方、草場辰巳少将率いる歩兵第19旅団は13日未明に中山門を占領し、城内と紫金山周辺の掃蕩を行った。

図表4.1 陥落直後の東部・北部における事件

東部・北部における事件

注)赤丸に白抜きの数字は、上表左端の①~⑦の各事件の発生場所を示す。

※ 各派評価 それぞれの事件が不法な事件かどうかについての各派の評価
史: 史実派(笠原氏) 中: 中間派(秦、板倉、偕行社) 否: 否定派(東中野氏)
〇:不法又はそれに準じる
△:研究者により異なる
-:合法又は調査対象外

4.1.1 堯化門の捕虜

(1) 紫金山における脱出軍との戦闘(図表4.1①)

12月12日の夜、中国の第66軍、36師団など総勢1万以上といわれる大部隊が太平門から、紫金山北麓を経て東方への脱出を図ろうとした。この部隊は、13日未明に仙鶴門鎮付近で上海派遣軍の後方部隊である集成騎兵隊と攻城重砲兵隊を攻撃した。「証言による南京戦史」はその模様を次のように伝えている。

{ 敵の大縦隊は無統制のまま夜陰に乗じ、味方の屍を乗り越えて東進をつづけ、わが重砲陣地まで乱入した。この激戦は翌13日午前9時ごろまで続き、敵に与えた損害も大きかったが、わが部隊の犠牲も上陸以来の最大に達した。}(「証言による南京戦史(8)」,P10)

この中国軍部隊はその後分裂し、一部は湯水鎮にあった上海派遣軍の司令部を襲撃、わずかな兵力しかない司令部は一瞬「覚悟を決めた」らしいが、中国軍は脱出を優先したため、何とか危機をしのいだ。分裂した他の一部は脱出に成功したものもあったようだが、大部分は歩38連隊などを攻撃(4.1.2項)したあと、(2)で述べるように投降して捕虜となった。

(2) 堯化門の捕虜(図表4.1②)

13日早朝、仙鶴門の日本軍を攻撃した中国軍が、同日夜に再び日本軍を攻撃してきた。その時の状況を独立攻城重砲兵第二大隊 砲兵少尉沢田正久氏の証言から要約引用する。

{ 当夜【13日夜】は真っ暗でしたが10時過ぎ、遥か西方から敵の大集団らしい喊声、チャルメラ、迫撃砲の音が聞こえ、 … やがて仙鶴門鎮付近で夜間戦闘が展開されましたが、数時間の白兵戦のうち、敵の主力は引き返していきました。 …
翌14日】午前8時ごろ、… 敵はチェコ機関銃で盛んに射撃してきました … やがて、友軍増援部隊が到達し、敵は力尽き、白旗を掲げて正午頃投降してきました。
その行動は極めて整然としたもので、既に戦意は全くなく、取りあえず道路の下の田圃に集結させて、武装解除しました。多くの敵兵は胸に「首都防衛決死隊」の布片を縫いつけていました。
俘虜の数は約1万(戦場のことですから、正確に数えておりませんが、約8千以上おったと記憶します)でしたが、早速、軍司令部に報告したところ、「直ちに銃殺せよ」と言ってきたので拒否しましたら、「では中山門まで連れて来い」と命令されました。「それも不可能」と断ったら、やっと、「歩兵4コ中隊を増援するから、一緒に中山門まで来い」ということになり、私も中山門近くまで同行しました。}(「証言による南京戦史(5)」,P7)

この捕虜を収容した歩38連隊の戦闘詳報(「南京戦史資料集」,P594)には、俘虜7200人(内将校70人)と記載されている。

(3) 捕虜のその後

14日昼ごろに収容した捕虜は武装解除され、いったん仙鶴門鎮附近に集められ、翌15日麒麟門の近くにある「工路試験所」に移された。さらに入城式の終った17日午後に中山門を経由して中央刑務所に転送されている。野戦郵便長の佐々木元勝は、それらのシーンを次のように記録している。

{ 麒麟門から少し先、右手の工路試験所の広場には、苦力みたいな青服の群がおびただしくうずくまっている。武装解除された4千の支那兵である。道端にもうんといる。ぎょろっとした彼らの眼の何と凄かったことか。}(佐々木元勝:「野戦郵便旗(上)」,P215)

{ 夕靄に烟る頃、中山門を入る前、また武装解除された支那兵の大群に遭う。乞食の大行列である。誰一人可憐なのは居ない。7200名とかで、一挙に殺す名案を考究中だと、引率の将校がトラックの端に立乗りした時に話した。船に乗せ片付けようと思うのだが、船がない。暫らく警察署に留置し、餓死さすのだとか … }(「証言による南京戦史(9)」,P11)

中央刑務所に収容したあとのことはよくわかっていない。第16師団の中島師団長は12月13日の日記で、{ 此7,8千人を片付くるには相当大きな壕を要し中々見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のケ所に誘きて処理する予定なり}註411-1と処置に困り、「処刑」を決めているようにもみえる。

上海派遣軍の捕虜管理担当だった榊原少佐は、{ 刑務所に収容した捕虜は4~5千で、半数を上海に移送、残りを南京に残した}(「証言による南京戦史(11)」,P8) と証言しており、戦闘詳報記載の7200人が過大だったのか、一部は殺害又は釈放されたのか、実態はわからない。

(4) 各派の見解

史実派はこの7200人すべてが殺害されたとみなし、中間派と否定派は収容されたとみなしている。ただし、秦氏は日付と場所を記入せずに歩38連隊関係で2000人の犠牲者あり註411-2としており、一部が殺害されたとみているのかもしれない。


4.1.1項の註釈

註411-1 中島今朝吾日記(12月13日);

この日の日記は2千字を超える長文だが、主な部分を抜粋する。

{ 12月13日 天気晴朗
早朝20iの将校斥候は中山門に入りて敵兵なきを発見し玆に南京は全く解放せられたりと知る …
一昨夜第一線各隊の奮闘に対し聊か謝意を表する為南京攻略後の祝酒として携行せし酒を第一線に追走分配したり
本日正午高山剣士来着す  捕虜7名あり直ちに試斬を為さしむ  時恰も小生の刀も亦此時彼をして試斬せしめ頸に二つを見込(事)斬りたり …
◎捕虜掃蕩 12日夜仙鶴門堯化門付近の砲兵騎兵を夜襲して尽(甚)大の損害を与へたる頃は敵も亦相当の戦意を有したるが如きも其後漸次戦意を失ひ投降するに至れり …
大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなしたる(れ)ば中々実行は敏速には出来ず 斯る処置は当初より予想だにせざりし処なれば参謀部は大多忙を極めたり
後に到りて知る処に依りて佐々木部隊丈にて処理せしもの約1万5千、大(太)平門に於ける守備の一中隊長が処理せしもの約1300其仙鶴門附近に集結したるもの約7,8千人あり尚続々投降し来る
此7,8千人、之を片付くるには相当大なる壕を要し中々見当らず一案としては百二百に分割したる後適当のケ(カ)処に誘きて処理する予定なり
此敗残兵の後始末が概して第十六師団方面に多く、従って師団は入城だ投宿だなど云う暇なくして東奔西走しつつあり … }(「南京戦史資料集」,P322-P326)

註411-2 歩38の2千人の犠牲者

「表5 捕われて殺害された中国兵の推計」 で期間と場所が空欄のまま、歩38で2000人の犠牲者をリストアップしている。(秦:「南京事件」,P210)