日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.1 東部・北部における掃討戦 / 4.1.2 下関の追撃戦

4.1.2 下関の追撃戦

図表4.1(再掲) 陥落直後の東部・北部における事件

東部・北部における事件

注)赤丸に白抜きの数字は、上表左端の①~⑦の各事件の発生場所を示す。

※ 各派評価 それぞれの事件が不法な事件かどうかについての各派の評価
史: 史実派(笠原氏) 中: 中間派(秦、板倉、偕行社) 否: 否定派(東中野氏)
〇:不法又はそれに準じる
△:研究者により異なる
-:合法又は調査対象外

(1) 敗残兵との戦闘

佐々木到一少将指揮の第16師団右側支隊(歩38連隊、歩33連隊の一部など)は、下関に向って紫金山の北側を進軍し、12日夜、紫金山北麓の寒村で宿営した。翌13日朝、敗残兵の攻撃を受けた。この敗残兵は仙鶴門で集成騎兵隊などを襲った中国軍の一部とみられ、南京からの脱出を目指していた。このときの様子を佐々木少将は次のように記している。

{ 12日夜は到る処に激烈なる銃声を聞き、後半夜には砲声さえも聞えた。…
焚火を掻き立てて煤けた寝台に横になり忽ち熟睡、午前8時頃ふと目を醒ませば至近の距離に激烈な銃声がしてゐて、通信手や行李の輜重兵特務兵までが銃を執ってバタバタやってゐる。
「何事だ?屋外を走りかけた副官に尋ねる。
「いま撃退したところです、紫金山から真っ黒になって降りてきました」
「敗残兵か?」
「チェッコを腰だめで撃ってくるのです。それが何回も何回も五六百一所になって」
「鉄砲を取りあげろ」
「降伏なんかするもんですか、皆殺しです」
くるわ、くるわ、あっちにもこっちにも実に夥しい敵兵である。彼等は紫金山頂に在った教導師の兵で血路を我支隊の間隙に求めて戦線を逆に討って出たものであった。銃声の間に怒号罵声すら聞こえてゐる。家屋に立て籠もっていつ迄も抵抗するもの、いち早く便衣に替へて逃走を計るもの、そして三々五々降伏する者は必ず銃器を池の中に投じ、或は家の中に投げ込んで放火してゐた。}(「南京戦史資料集」,P376-P377)

教導師; 教導総隊のこと。ドイツ式訓練を受けた国民政府の精鋭歩兵師団。

(2) 下関の追撃戦(図表4.1③)

敗残兵を撃退し、佐々木支隊の先頭が下関に到着したのは午前10時頃であった。下関は、揚子江を渡って対岸に脱出しようとする中国兵で埋めつくされていた。前夜、司令官の唐生智が揚子江を渡って脱出したのち、次々と脱出する兵が舟らしきものは使いはたし、逃げ遅れた兵士たちは即席の筏や木片などにつかまって渡江していた。佐々木支隊はこれに襲いかかった。

{ 軽装甲車中隊午前10時頃、先ず下関に突進し、江岸に蝟集し或は江上を逃れる敗敵を掃射して無慮1万5千発の弾丸を射ち尽した。… この日、我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千に上りその外、装甲車が江上に撃滅したもの並各部隊の俘虜を合算すれば我支隊のみにて2万以上の敵は解決されている筈である。}(「南京戦史資料集」,P377-P378)

「南京戦史」には、{ 指揮官日記に書かれた戦果に関する数字は特に誇大な表現のものが多い … 参戦した歩33の幹部も一様に、「佐々木少将私記に記載の戦果に関する数字は著しく過大である」と証言している。}(P362-P363) ので、敵屍1万数千とか2万以上解決という数字はかなり割り引いて見た方がよさそうだ。

揚子江

下関(中山碼頭)附近の揚子江(2016年5月)

(3) 海軍艦艇からの掃射(図表4.1③)

13日は陸軍の南京攻略にあわせて海軍の艦艇も下関方面に向かっていた。以下は、軍艦「保津」の乗組員だった橋本以行氏の証言である。

{ 午後1時38分、保津が南京下流の閉塞線を突破した頃には、既に渡江していた小舟の数は減りつつあるように見受けたが、今度は桟橋用の箱舟や筏が現れた。もう乗る舟がなくなったのであろう。
先頭を進むわが「保津」では主計兵、機関兵まで駆り出し、艦砲、機銃はもちろん、小銃まで持ち出して前後左右に射ちまくった。…
しばらくして、機銃と八糎砲の残弾少数と伝えてきたので、好目標しか狙わぬこととした。双眼鏡で艦側近くを流れる戸板の上に横たわっている中国兵をみると、顔をシャベルでかくして背後にチェコ機銃を横たえ、死んだようにしている。このように小銃や機銃を大事に携帯していても、正規兵の服装をした者は一人も見当たらない。}(「証言による南京戦史(10)」,P29-P30)

(4) 各派の見解

犠牲者数については、歩38の戦闘詳報に{ 渡江中の敵5,6千に徹底的大損害を与え }(「南京戦史資料集」、P585) とあり、歩33の戦闘詳報では{ 殲滅せし敵2千を下らさるものと判断 }(「南京戦史資料集」,P601)とある。海軍の戦果について、秦氏は{ 3千とも1万とも報告されているが、誇大に過ぎる。}(秦:「南京事件」、P116) と述べている。

中間派と否定派は、この戦闘は合法的なものとして犠牲者数にカウントしていない。史実派は、{ 戦意を失って必死に逃がれようとする無抵抗の群衆に対する一方的な殺戮 }(吉田裕:「天皇の軍隊と南京事件」、P110) として歩38(5~6千)、歩33(2千)、海軍の戦果(1万)すべてを合計して1万7千~1万8千の犠牲としている。