日本の歴史認識南京事件第2章 背景と経緯 / 2.1 第1次大戦後の世界情勢

dog第2章 背景と経緯

2.1 第1次大戦後の世界情勢

図表2.1 第1次大戦後の世界情勢

第一次大戦後の世界情勢

(1) 欧米

平和のための国際協調

第1次世界大戦(1914~18年)は、大規模かつ長期にわたる戦争だっただけでなく、機関銃、戦車、飛行機など近代兵器が登場したことにより、犠牲者総数が1600万人註21-1といわれる悲惨な戦争となった。このような戦争を2度と起こさないようにするために、国際連盟の設立、軍縮条約註21-2や不戦条約註21-3の締結など国際協調の活動が行われた。

植民地の独立・民族自決運動の高まり

第1次世界大戦が終了したとき、アメリカのウィルソン大統領は民族自決・植民地解消を提唱註21-4したが、英・仏などの反対で東欧など一部を除いてほとんど実現されなかった。しかし、植民地獲得競争は終わり、インド、中国、朝鮮などで独立運動が高まっていった。

共産主義の台頭

ロシア革命(1917年)により、ソ連(ソヴィエト社会主義共和国連邦)が成立。ソ連は世界革命を目指してコミンテルン(共産主義インターナショナル)を設立(1919年)し、各国の共産主義運動を支援した。ソ連およびコミンテルンはたくみな宣伝活動で、民衆、知識層を引きつけたが、英米などの自由主義国、日独伊などの全体主義国では、反共政策を推し進めた。

世界大恐慌と全体主義

1929年ニューヨークでの株価暴落をきっかけとして、大不況が全世界に波及した。英・米・仏などは、保護主義的な政策で乗り切ろうとしたが、日独伊は全体主義による統制、他国の侵略などにより危機を脱しようとした。両者は対立し、ついに第二次世界大戦に突入することになった。

(2) 中国

軍閥割拠から中国統一へ

辛亥革命(1911年)で清朝が倒れ、その後を袁世凱の独裁体制が引き継いだが、袁世凱が死ぬ(1916年)と各地に軍閥が割拠する時代になった。1926年、孫文の後を継いだ蒋介石が北伐(ほくばつ)を開始、この時点で中華民国の正式な政府は北京にあったが、張作霖、段祺瑞、馮玉祥らの軍閥が抗争を繰り返していた。蒋介石はこれらの軍閥を倒し、日本軍に殺害された張作霖の息子張学良が蒋介石のもとに降ることにより、1928年には中国をほぼ統一して南京国民政府が中華民国の正式な政府となった。1935年には英米の協力を得て行った幣制改革(通貨制度の改革)が成功し、経済面でも統一が実現している。

中国共産党

1921年に結成した中国共産党は、コミンテルンの支援を受け蒋介石の北伐に協力した。1927年、北伐の途上で中国軍が日米英の領事館などを襲撃する(第1次)南京事件が起き、これを共産党が仕組んだものと判断した蒋介石は上海で共産党指導者を処刑し、共産党討伐を開始した。1933年には共産党の拠点があった江西省の瑞金に大規模な攻撃を加え、壊滅的打撃を与えた。共産党は「長征」と呼ばれる逃避行を決行し、1934年に拠点をソ連に近い陜西省延安に移した。さらに、1936年に張学良が引き起こした西安事件(2.3節(2))をきっかけに、蒋介石の下で抗日運動を展開する。抗日運動を通して主として農民の支持を獲得し、勢力を盛り返した。

九か国条約で日本を牽制

九か国条約は1922年のワシントン会議で、アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、オランダ、ベルギー、ポルトガル、中国、日本の間で締結された条約で、中国の門戸開放、機会均等、主権尊重などを取り決めており、ドイツとロシアの後退に乗じて中国への進出を拡大しようとした日本を牽制するものであった。

激化する排日運動

中国に侵出する列強への排外運動は、清朝末期からさかんになり、1900年には義和団事件が起きた。排日運動が始まったのは、1915年に日本が中国(袁世凱政権)に対して行った対華21カ条要求註21-5 のとき以来だと言われている。

第1次大戦後、中国に対して最大の権益を持っていたのはイギリスで、日本とフランスがそれに続いていた。イギリスは1927年の漢口事件で漢口の租界を返還するなど融和政策をとったため排英運動は下火になり註21-6、武力を背景に高圧的姿勢で中国に迫る日本に排外運動は集中していった。

蒋介石は共産党討伐を優先し日本には譲歩する"安内攘外"策を採ったが、中国共産党は排日運動を煽動し、民衆だけでなく中国軍将兵にも反日思想が広まり、満州事変以降は日本人や日本関係者を狙ったテロが頻発するようになった。

(3) 日本

列強の仲間入り

第1次大戦によりドイツやロシア、フランスなどの力が衰え、日本はアジアのリーダーとして米英につぐ位置にのしあがった。明治維新以来目標としていた列強の仲間入りをわずか50年で果たしたことになる。しかし、軍事力ではトッペレベルでも、経済力ではGDPがアメリカの6分の1以下、政治や文化でも世界に通用するレベルには至っていなかった。

図表2.2 数字でみる日本の状況

数字でみる日本の状況

※1;出典:Wikipedia:「歴史上の推定地域人口」(Hyde(2006)による各地域別人口推定値 なお、古川隆久:「昭和史」によると1925年の国勢調査による内地人口は64.45百万、外地を含む合計は91.79百万、となっている。

※2;出典:「数値で見る国力の推移」
購買力平価とは、各国の通貨を一般の為替レートでなく、モノの実態価格の差から算出したレートでUSドルに換算したもの。一人当たりは1930年の推定人口で割り算しているので目安として見て欲しい。

※3;出典: 古川隆久:「昭和史」,P53

※4;出典: 同上,P54 世界の貿易額に占める日本の割合は3%程度

※5;出典: 同上,P52 国家予算に占める軍事費の割合   

※6;出典: 同上,P39 なお、2015年の一般紙(スポーツ紙以外、電子版を除く)の発行部数は4069万部(2000年は5370万部)

※7;出典: 同上,P41・P62

 

政党政治の崩壊

大正デモクラシーの波に乗って、本格的な政党内閣である原敬内閣が誕生したのは1918年9月であった。その後、1925年に普通選挙法を成立させ(同時に治安維持法も成立)、政党内閣は全盛期を迎えたが、政党間の対立が激しく党利党略優先で財閥と結んで金権政治を行った、などと批判された。そうした政治の腐敗や民主化を憂いた右翼や軍人により3人の首相(原敬、浜口雄幸、犬養毅)が暗殺註21-7され、1932年の犬養内閣が最後の政党内閣となった。

軍部の台頭と統制の乱れ

関東大震災(1923年)、金融恐慌(1927年)、昭和恐慌(1930年)など不景気風にあおられ、日本経済は低迷して国民の苛立ちと不安はつのっていった。

政党政治に対して天皇中心の政治を求める右翼国粋主義者が世論の支持も得て勢力を伸ばしていった。そうした閉塞感につつまれたなかでの満州事変の成功は国民の喝さいを浴び、これを契機に軍部の力は強大化していく。


2.1節の註釈

註21-1 第1次大戦の犠牲者数

Wikipedia:「第1次世界大戦の犠牲者」による。

註21-2 軍縮条約

ワシントン海軍軍縮条約(1922年)、ロンドン海軍軍縮会議(1930年)、など

註21-3 不戦条約

パリ不戦条約(1928年)で、「国際紛争の解決および国策遂行の手段としての戦争を放棄し、平和的手段により解決する」 ことを規定した。日本も批准。

註21-4 14カ条の平和原則

1919年1月から開かれたパリ講和会議で、アメリカのウィルソン大統領は「14カ条の平和原則」を発表し、これを第一次大戦講和の基本原則とするよう提案した。14カ条には、秘密外交の禁止、軍備縮小、植民地問題の公正解決、国際平和機構の設置、などが謳われていた。

註21-5 対華21カ条要求

対華21カ条は、大きく5項目に区分され、うち4項目はドイツから山東省の権益を引き継ぐことや満州などの既得権益の期限延長に関するものなどで列強諸国も容認していたが、第5項は中国政府に日本人顧問を採用すること、兵器は日本から調達すること、などが含まれており、最終的に取下げられた。 (Wikipedia:「対華21カ条要求」)

註21-6 排英運動の消滅

1936年10月に雑誌「改造」が開催した"上海在留日本人座談会"で、船津振一郎氏(在華紡績同業会総務理事)は次のように語っている。{ 私が当時漢口に行ったとき、"英国は不倶戴天の敵"としてどうしても打倒しなければならぬというようなスローガンが町いっぱいに貼りだされていた。その後、英国は中国に対する新外交方針の声明を出し、漢口で衝突があったとき英国は漢口の租界をとられた。第三者からみると屈辱的だと見られた態度をとり、鎮江の租界をも返すというふうに退却を始めた。その結果、中国人の英国に対する感情というのはすっかり変わって、今日では英国をいちばんの友邦だといっている。} (松本重治:「上海時代(上)」,P70)

註21-7 首相暗殺

1921年11月原敬、1931年8月浜口雄幸が右翼青年により東京駅で暗殺され、1932年5月犬養毅は5・15事件で海軍将校により暗殺された。