日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.1 イギリスの産業革命 / 3.1.2 産業革命の影響

3.1.2 産業革命の影響

産業革命は、経済の重心の移動、世界資本主義システムの確立、労働者階級の出現、都市の発達と女性の社会進出、人口の増加、などをもたらした。

(1) 経済の重心の移動註312-1

近世以前の世界経済の中心はインドや中国のあるアジアにあったが、産業革命によりそれはヨーロッパ(およびその関連国)に移動した。

{ 近世のアジアは、ヨーロッパよりも豊かで成熟した政治・経済・文化を営んでいた。… 東西の力関係が転換するのは18世紀のある時点である。オスマン帝国の後退、プラッシ会戦におけるクライヴ※1の勝利、広州の開港といった転換の兆しに、科学革命と啓蒙ヨーロッパの奮闘努力が加わって、K・ポメランツのいう「大きな分岐」が生じた。}(近藤「イギリス史10講」,P192)

※1 クライヴ イギリスの貴族、軍人。インド・ベンガル地方プラッシーの戦いでイギリスを勝利に導いた。

下図は、地域別の国内総生産(GDP)の変化をあらわしたものである。産業革命後の1870年にはヨーロッパはアジアを追い越し、その後さらに差を広げていく。

図表3.2 世界の地域別国内総生産

世界の地域別国内総生産

出典)君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P11
(原典はMaddison,2003,pp.256-262)

(2) 世界資本主義システムの確立註312-2

近藤和彦氏は、産業革命により3層構造の「世界資本主義システム」が構成された、という。このシステムのモデルは藤瀬浩司「近代ドイツ農業の形成」(1967)で唱えられているものだが、ウォーラーステインが「近代世界システム」(1974)で採用したモデルとよく似ている。

第1の層は、世界経済の中枢をなす国で、この時点ではイギリスである。イギリスは、「世界の工場」、「世界の銀行」、「世界の総司令部」として機能する。
第2の層は、対抗群と呼ぶ国々で、西ヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国などである。イギリスの工業製品の圧力を感じながら、殖産興業と富国強兵を国策として推し進めた。
第3の層は、従属群とよぶ国々で、ラテンアメリカ、アジアなど、中枢国の需要に応じて原料を提供するとともに完成品の市場と位置付けられ、経済的従属を強いられた。

こうした構造によって、中枢国に富が集中し、従属国はジリ貧を強いられる、という関係が構築された。なお、ウォーラーステインのモデルも同様であるが、詳しくは ( こちら→小論報「近代世界システム」感想文) を参照願いたい。

図表3.3 世界資本主義システム

世界資本主義システム

(3) 労働者階級の出現註312-3

産業革命によって工場労働者が増加し、工業都市などに集中して住むようになった。一方、農村は先行して始まった農業革命――技術改良や農法の変化、大規模化など――により農民の人口は減り、都市への人口集中が進んだ。

図表3.4 農村/都市人口比の変化

農村/都市人口比の変化

出典)福井「近代ヨーロッパ史」,Ps1572(原典はJ.P.La revolution indusrielle1780-1880,Paris,1971)

そのため、治安の悪化、病気や衛生の問題、ごみ処理、教育、など従来はなかった社会問題が発生し、都市警察、下水システム、公園、病院など様々な施設や制度が設置されていった。加えて、低賃金、長時間労働、危険な労働環境など、労働者は厳しい生活環境に置かれ、労働運動が活発になっていった。

カール・マルクスが共産主義を提示したのは、ちょうどこのような時期であった。こうした問題は工業化が進んだ国々ではしだいに減少していったが、ロシアなど後発の国々では対応が遅れた。

(4) 都市の発達と女性の社会進出 註312-4

以下は、川北稔氏の指摘である。

産業革命以前の農耕主体の社会では、労働の単位は家族であり、女性や子供はその一員として猛烈に働いていた。社会的にはこの家族が単位で、その代表は男性の戸主であり、女性はその陰に隠れて社会の一員として認められていなかった。ところが、都市に住んで女性やこどもも独立した労働者として労働するようになるとそこで稼いだお金は、戸主の管理に吸い上げられるのではなく、稼いだ人が自分の好きなように使いたくなる。

産業革命によって売れるようになったのは、衣料品、陶器、鍋釜、織機、装飾品などで、これらを買うのは女性が多い。女性がこうしたものを買えるようになったのは、上述のように女性自身が収入を得たからだと考えられる。こうして、産業革命とそれに伴う都市化は、女性の社会進出がはじまるきっかけにもなった。

この変化は、歴史学者W.マクニールが指摘する変化のうちの一つとしてよいだろう。

{ 田園からの大規模な脱出にともなう日常経験や習慣の変化は、おそらく人間社会を根本的に変えることになろう。それは人類が単なる捕食者をやめ、食料を生産しはじめたときと並ぶ、根本的な変化であるにちがいない。}(W.マクニール「世界史(下)」,P215)

(5) 人口の増加註312-5

W.マクニールは、次のように述べている。

{ ヨーロッパにおいては、1800年における全体陸の総人口はおよそ1億8700万人であった。1900年には、総人口はおよそ4億に達している。その間の1世紀のあいだには、ほぼ6000万人が海外に移民し、… こうした人口の急速な増大をもたらした主な要因は、死亡率の急激な低下であったが、その原因となったのは、ひとつには医学や公衆衛生の改善であり、一つには食料供給の拡大であり、さらにまた人々の物質的な生活面が総じて改善されたことであった。}(W.マクニール「世界史(下)」,P215)

下図は、世界の地域別人口の推移である。推定者によって数字は若干の差があるが、1800年及び1900年のヨーロッパの人口は、マクニールの数字とほぼ同じである。しかし、同じ時期(19世紀)の他の地域をみると、アフリカ以外はいずれも顕著な伸びをみせており、なかでもアジアは15世紀以降加速度的に伸びている。つまり、ヨーロッパの人口増加要因のひとつに産業革命はあるかもしれないが、世界的な食糧事情の改善などの影響も大きいのではないだろうか。

図表3.5 世界の人口推移

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出典)地域別人口は、Wikipedia「歴史上の推定地域人口」(Biraden)、国別は同左(McEvedy&Jones) 2000年は国連人口統計による。イギリスは、アイルランドを除く。ロシアの1900年までは旧ソ連のヨーロッパ地域が対象。


コラム 産業革命は「革命」か?

産業革命は、イギリスで1760年代にはじまり1830年代に終わる、とされているが、経済史や社会史の視点からは、そのような長期的かつ緩慢な変化は「革命」と呼ぶに値しない、単に「工業化」と呼ぶべきである、という「産業革命否定論」がある。福井憲彦氏はその否定論とは次のようなものだという。

{ 機械が生産に使われるようになったのはたしかだが、すぐに蒸気力が主流になったわけではなく、19世紀に入っても水力が主流だった。消費や流通、労働の変化というのも、19世紀後半まで1世紀ほどのスパンをとったときに言えるのであって、革命という表現は馴染まない。}(福井「近代ヨーロッパ史」,Ps1381-<要約>)

これに対して、福井氏は「革命」と呼ぶことを肯定している。

{ 産業革命という概念を否定して、工業化の過程一般にならしてしまって良いとは思わない。確かに、経済的・社会的変化は1世紀近くをかけて変化していった。だが、人類史の長いスパンで考えたとき、ここで起きた構造的変化は極めて本質的なものであった。}(福井「同上」,Ps1394-)

また、近藤和彦氏も産業革命と呼ぶべきだという。

{ イギリスの国内生産の年成長率は、1780年までは0.7%前後で80年代になって1,3%を越え、1801年以後は1.97%に達した。この数字は20世紀の高度成長を知る者からすればもどかしいものだが、人類史の画期となった産業革命は、たとえ国内生産の成長率が年1%あまりであっても、それが数十年続いたのだから、「革命」という名がふさわしい。}(近藤「イギリス史10講」,P191-P192<要約>)

I.ウォーラーステインは、経済・社会史的視点で「近代世界システム」を論じているが、下記のように産業革命は、循環的な経済変動の一部に過ぎない、と主張している。

{ 1760年頃から1840年頃にかけてイギリス(イングランド)で起こったことは、循環的な経済変動の一部であり、工業生産の上昇局面にあたったということである。… 産業革命は、全体としての世界経済の変動の一過程であり、世界システムの新たなヘゲモニー国家の地位をめぐる抗争でフランスに勝利したため、イギリスにあらゆる利益が集積されるようになっていった結果でもあった。}(I.ウォーラーステイン「近代世界システムⅣ」,P334<要約>)

確かに、産業革命はある時点をもって経済や社会がガラっと変わったものではないし、好況不況の循環的活動の過程として起きたものでもあろう。しかし、この期間を通じてモノづくりの方法が職人芸から機械を主体とした大量生産方式に代わり、それによって経済や社会が大きな影響を受けたことは間違いないだろう。たとえ、長期間におよぶ変化だとしてもそれを「産業革命」と呼ぶことに、少なくとも私は違和感をもたない。


3.1.2項の主要参考文献

3.1.2項の註釈

註312-1 近藤和彦氏の指摘

近藤「イギリス史10講」,P192 君塚「近代ヨーロッパ国際政治史」,P10-P11

註312-2 世界資本主義システム

近藤「イギリス史10講」,P194-P197

I.ウォーラーステインは、近藤氏のいう「中枢」、「対抗」、「従属」を、それぞれ「中核」、「半周辺」、「周辺」と呼び、それぞれ次のように定義している。

・中核; 資本主義的世界経済の中心になる国や地域。19世紀前半においては、イギリス、フランス、ベルギー、西ドイツ、スイス、アメリカ合衆国が該当する。

・半周辺; 中核と周辺の中間に位置する国や地域。19世紀前半は明示されていないが、17世紀頃においては、スペイン、ポルトガル、フランドル、スウェーデン、プロイセン、オーストリア、英領北米大陸などがこの位置にいた。

・周辺; 中核や半周辺に対して従属的な関係を強いられる国や地域。これも19世紀の該当地域は明示されていないが、17世紀時点で東欧、南欧、南米、カリブ海地域などがあり、18世紀になるとインド、オスマン帝国、ロシア、西アフリカが加わる。

註312-3 労働者階級の出現

福井「近代ヨーロッパ史」,Ps1510- 川北「イギリス近代史講義」,Ps1969- W.マクニール「世界史(下)」,P213-P214

{ 産業経済においては都市が基盤となる。その都市では、19世紀後半からはデパートなどの大型消費施設が姿を現わし、… こうした経済の変化で裕福になった成功者と、労働者との格差はたいへん厳しいものがあった。… 一日あたり8時間の労働は、20世紀はじめでも労働運動の最重要な要求項目であり、労働現場の安全性などをめぐる立法措置や社会保障は、多くの国において課題であり続けていた。}(福井「同上」,Ps1604-)

川北氏は、産業革命の評価には悲観論と楽観論の2つがある。悲観論は「劇的な変化があり、工場労働者はつらい厳しい低賃金労働に苦しんだ」というもので、楽観論は「産業革命は漸進的変化であり、人々の生活水準はよくなった」というものだが、この論争は今でも続いている、と述べている。

註312-4 女性の社会進出

川北「イギリス近代史講義」,Ps2102-

{ 妻やこどもが独立の労働者になることで、その所得も明確化されました。誰が稼いだのかがはっきりすると、処分権にも影響を与えるものと想定されます。ただ、いまでも、日本ほど妻が家庭の財布を握っている国はないと言われていますので、当時のイギリスにおいて、奥さんが家庭内で、どこまで強く発言できるようになったのかはわかりません。それでも、妻や子が自分の稼ぎを、現金収入というかたちで持つようになった、これが産業革命で起こったことのひとつであることはまちがいありません。
しかも、女性や子どもは、いままでの戸主のそれとはちがう支出のパターンを持ったものと想定されます。おそらくは、ナイフやフォークや陶磁器のような台所用品とか、綿織物のような衣料品などといったものを買う方向に向かったのではないでしょうか。つまり、それこそ、産業革命の初期に大発展をとげた産業の製品でした。}(川北「同上」,Ps2159-)

註312-5 人口の増加

産業革命の影響として、人口の増加をあげているのは、私の調査した範囲ではマクニールだけである。