日本の歴史認識ヨーロッパが歩んだ道第3章 / 3.2 フランス革命 / 3.2.1 フランス革命勃発

3.2 フランス革命とナポレオン帝国

フランス革命は1789年4月、パリのバスティーユ監獄の襲撃に始まり、1799年11月にナポレオンがクーデターにより総裁政府を倒すまでに起きた一連の事件をいう。この革命は、絶対主義王政に対する反発を起爆剤にして自然発生的に発生したもので、革命の進行とともにその方向性は変化する。

フランス革命の推進主体になったのはブルジョアと民衆だが、ブルジョアは自由主義経済を求めたのに対し、民衆は階層間の平等や生活水準の向上を求めた。ブルジョアが指導的役割を果たしたものの、民衆の要求を受け入れようとするグループとブルジョアの利益を優先するグループに分かれて、激しく争った。そこに、旧体制を維持しようとする貴族や自国への革命の波及を恐れるオーストリアなど外国からの干渉もあって、革命は二転三転し、やがて反対者を徹底的に粛正する恐怖政治にいたった。

結局、民衆の要求をある程度受け入れつつ、ブルジョア的要素の強い共和政体を構築することにより革命は一段落した。しかし、そこで安定した政治体制ができたわけではなく、その後もナポレオンによる帝政(1804~)、復古王政(1814~)、立憲王政(1830~)、共和政(1848~)、帝政(1852~)と目まぐるしく変わり、安定するのは1870年の共和政まで待たねばならなかった。

図表3.7 フランス革命

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3.2.1 フランス革命勃発

この項では、革命発生前夜から、勃発後ブルジョア志向の立憲王政の枠組み(1791年憲法体制)ができるまでについて述べる。

(1) 革命の背景註321-1

18世紀末のフランスでは、貴族/ブルジョア/民衆という3つの階層それぞれに政治や社会に対する不満が鬱積していた。それはごく簡単にいえば次のようなものであった。

・貴族; 貴族は免税や領地内での自治権など特権を持っていたが、絶対王政が強力になるにつれて、王権への発言権が失われていったことに対する反発が強くなっていた。

・ブルジョア; ブルジョアとは都市の商工業者や自営農民、あるいは医者、弁護士、学者など、平民ではあるが比較的裕福な平民上層階級の人たちをさす。これらの人たちは経済力をつけていくことによって貴族になる道があった。しかし、産業が発達し経済が活発化してそうした人々が増えていくと、貴族になる門は狭くなっていく。経済力は旧来の貴族よりあるのに、貴族の特権の恩恵に預かることはできない、そういう不満がどんどんたまっていった。

・民衆; ここで言う民衆とは都市の労働者や農村の小作農、貧農などで、国民の大多数を占めていた。この層は貴族やブルジョアから搾取されてきた人たちである。1788,89年は凶作の年で、穀物価格の上昇や不況による実質賃金の低下などにより一揆や暴動が増加していた。

(2) 革命前夜

きっかけは財政危機註321-2

フランスの国家財政は、ルイ14世(在位1643-1715)時代の大きな赤字を抱えたままだったが、アメリカ独立戦争(1775-83年)への参戦で破産状態に陥った。ルイ16世(在位1774-92)は財政改革を試みるも、平民の税負担は極限に達していたため、聖職者と貴族が持っていた免税特権に手をつけるしかなくなった。
1787年2月、国王が指名する名望家(ほぼすべてが貴族)を集めて名士会議を開き、新しい税の導入を骨子とする財政改革案の承認を求めた。

名士会議から三部会へ註321-3

名士会議は開催されたものの、貴族たちは新税の導入に反対し、逆に全国三部会※1の開催を要求した。貴族たちは、絶対王政のもと1615年以来開催されていなかった全国三部会を復活させて王権を制限し、国政に対する発言権を確保しようとしたのである。ルイ16世は1789年5月に全国三部会を開催することに同意せざるを得なかった。

※1 全国三部会 フランスの中世末から絶対王権確立期まであった身分制議会。聖職者・貴族・平民の三身分の代表者から構成される。国王の諮問機関的存在である。

三部会から国民議会へ註321-4

1789年5月5日、フランス全国から1200人近い三身分の代表がヴェルサイユに集まって全国三部会が開催されたが、採決の方法でもめた。王や貴族たちは、聖職者、貴族、平民がそれぞれ1票ずつもち、身分別の会議でその1票の内容を決めて採決する、という従来の方式を主張したが、旧来の身分体制を打破し国民による立憲王政に変えようとした平民たちは、出席者全員が1票ずつ持ち全員の投票で決めるべきだ、と主張した。

平民たちは6月17日に自ら「国民議会」と名乗り、憲法を制定するまで解散しないことを誓い合った。これをみた自由主義的思想を持つ聖職者や貴族がこれに合流し、7月9日には議会の正式名称を「憲法制定国民議会」とした。

なお、三部会に参加していた「平民」代表は各地にあった政治的・文化的なサロンやサークルに所属し、平民上層にいるブルジョアや弁護士などの知識人たちであり、都市や農村の下層民の代表ではなかった。

(3) 革命勃発 ― バスティーユ襲撃

民衆の蜂起註321-5

民衆の蜂起は、1789年より前から多発していた。原因は領主の貢租や国王への税金への反発、労働争議など多様だが、最も多かったのは食糧暴動だった。特に1788年は不作だったこともあって、パンの価格が高騰し、89年の冬から春にかけて全国の都市や農村で食糧暴動が多発していた。民衆は、食糧不足は不作のためではなく、領主の隠匿や悪徳商人による買い占めによるものであり、当局がそれを見過ごしていることへの怒りであり警告であると考えていた。また、それらは「貴族の陰謀」※2ではないか、という疑念もあった。

※2 貴族の陰謀 アリストクラートの陰謀ともいう。1789年春頃からフランス民衆のなかに広まった貴族の策謀の噂。全国三部会の武力制圧,外国との提携,穀物独占と隠匿,浮浪者を雇っての夜盗団の略奪ということがすべて貴族によって計画されているという観念で,この結果,大きな社会不安を生み,逆に民衆の生活防衛の動きを誘った。(コトバンク〔ブリタニカ国際大百科事典〕)

バスティーユ襲撃註321-6

国王政府は1万8千の軍隊を集めて、武力で国民議会を解散させる計画を進めていた。7月12日朝、民衆の期待を集めていた改革派の財務総監が解任されたという報がパリに届くと、政府の軍事行動が近いとおそれた市民たちは食糧や武器を求めて狂奔し、市内は騒然となった。

バスティーユはパリ東部にある要塞だったが、この当時は刑務所として利用されていた。7月14日朝、民衆は武器弾薬を求めてバスティーユに押しかけたが、武器の引き渡し交渉が長引く中、待ちかねた群衆が構内に乱入し銃撃戦の末にこれを占拠した。

(4) 「8月4日夜の決議」と人権宣言

大恐怖註321-7

バスティーユ襲撃はフランス各地に伝えられ、貴族が黙っているはずがない、浮浪者や野盗を雇って村に押し寄せてくる、といううわさが流れた。こうした「貴族の陰謀」におびえた農民たちは「大恐怖」とよばれるパニック状態になり、7月末から8月にかけて、領主の館を襲う事態になったところもあった。

8月4日夜の決議註321-8

国民議会には領主や地主の議員も多く、軍事力で農民の暴動を鎮圧すべきという意見もあったが、国民議会は農民の反感を買うことをおそれ、8月4日夜、自由主義貴族の一部が領主権を放棄することを宣言し、続いて身分制や領主制、教会10分の1税や売官制など旧体制の根幹となる制度の廃止を一挙に決議した。これらは8月11日までに法制化され、「大恐怖」のパニックはひとまず沈静化した。ただし、領主権の中核をなす領主地代(貢租)は、農民が多額の補償金を払って領主の土地を買い戻さなければならないとされため、火種は残ったままであった。なお、実態は次のようだった。{ 8月4日以後の有償方式でも、農民はもう無償なんだと理解して、事実上地代は払ってない。}(柴田「フランス革命」、P125)

人権宣言註321-9

ついで8月26日に国民議会は、「人間および市民の権利の宣言」(人権宣言)を採択した。前文と17条からなるこの宣言は、第1条で「人間は生まれながらにして自由であり、権利において平等である」と宣言したうえで、自由、所有権、安全、圧政への抵抗が不可侵な権利であること、思想や言論の自由、主権は国民にあり、国民は参政権を持つこと、などが定められている。{ 人権宣言はなによりも過去の否定を … 意味したが、それと同時に、実現すべき理念の提示でもあった。}(松浦「フランス革命の社会史」,P32)

国王はこれらの決定を承認しなかったが、10月に民衆がヴェルサイユ宮殿に押しかけて国王一家をパリに連れ戻すに至って、国王はやむなくそれらを承認した。

(5) 人権宣言の制度化註321-10

1789年秋以降、国民議会は人権宣言の内容を具体的に制度化していった。その主なものは次のとおりである。

(6) 91年憲法註321-11

こうして制定された法を集大成したのが、1791年9月に制定された「91年憲法」であるが、人権宣言の趣旨とは異なる次の2つの制度が含まれていた。

91年憲法が樹立した政体は、国民主権にもとづく自由主義的立憲君主政であった。これを作った憲法制定国民議会の多数派を占めていたのは、自由主義貴族と上層ブルジョアたちであり、91年憲法は旧体制を破壊したものの、ブルジョア指向の憲法であった。

{ この91年憲法体制は、アンシャン・レジーム下において最もすすんだネットワークを持っていた自由主義貴族の主導のもとに進められ、第三身分の政治化は一歩遅れていた。民衆は自由主義的諸改革を不満として、なおも全国的に騒擾状態を続ける。}(柴田「フランス史10講」,P126)

91年憲法体制は時間をかければ定着したかもしれないが、王家の逃亡(1791年6月)、旧体制からの反発と外国からの干渉、などに揺さぶられて不安定な状態が続くことになる。

(7) 立法議会発足註321-12

1791年9月30日に国民議会は解散し、10月1日、新憲法に立脚して立法議会が発足した。この議会は国民議会で主導権を握った保守系と共和派及び無所属の中間派の議員で構成された。


3.2.1項の主要参考文献

3.2.1項の註釈

註321-1 革命の背景

柴田「フランス革命」,P50-P75

{ 18世紀後半には貴族とブルジョワの間に一種の社会的な混合が起こっている… 貴族がブルジョワ化し、ブルジョワが貴族化しているのです。…
新興ブルジョワジーが経済活動によって上昇し、大きな経済力をもちながら身分的にはゼロに等しい平民にとどまっている。こういう事態が広範にでてくると、国家の秩序の維持は非常に困難になります。…
18世紀の好況期に入って、社会的上層のはしごをのぼろうとする志願者がどんどん増えてきて、すそ野が非常に拡大するにもかかわらず、そのハシゴが狭い。… この閉塞状況がフラストレーションを起こさせることになる…}(柴田「フランス革命」,P54-P58)

註321-2 きっかけは財政危機

柴田「フランス革命」,P64-P66 松浦「フランス革命の社会史」,P22-P23 遅塚「フランス革命」,P78

註321-3 名士会議から三部会へ

松浦「同上」,P23-P24 遅塚「同上」,P78

註321-4 三部会から国民議会へ

松浦「同上」,P25-P29 遅塚「同上」,P79-P81 柴田「フランス史10講」,P117-P119

三部会への身分別出席者数はつぎのとおり。(Wikipedia「フランス革命」)
 第1身分(聖職者) 300人、第2身分(貴族) 270人、第3身分(平民) 600人

註321-5 民衆の蜂起

柴田「フランス史10講」,P120 遅塚「同上」,P82

註321-6 バスティーユ襲撃

柴田「フランス革命」,P91 遅塚「同上」,P82 Wikipedia「バスティーユ襲撃」

{ 民衆の要求は、武器とくに火薬を引き渡して欲しいということと、城壁の上にある大砲を取り除いて欲しいという2点だった。市の代表が中に入っていって交渉し、司令官は大砲をひっこめることは受諾した。ちょうど11時ごろになったので昼食をすすめ、代表がそこで食事をする。外で待っている群衆は、代表たちがなかなか出てこないのは何かあったからではないか、と塀を乗り越えてなかに入って城門をあけ、群衆がなかにどっと入る。そこで守備兵がびっくりして発砲し、大混乱となる。結局最終的には占領ということになった。そういうわけでバスティーユの占領はいわばハプニングだった。}(柴田「同上」、P91<要約>)

註321-7 大恐怖

柴田「フランス革命」,P92-P95 遅塚「同上」,P83-P84

{ 当時の農村には日雇いで暮らす貧農が多かったが、飢饉の年には仕事を失い、村を離れて乞食をしてまわった。こうした浮浪者は全国で数万、数十万にものぼった。門前払いをすると、家畜を殺したり、畑に火をつけたりされるので、農民にとっては恐ろしい存在だった。1789年には飢饉のため浮浪者が増えていた。}(柴田「同上」、P93<要約>)

註321-8 8月4日夜の決議

柴田「フランス革命」,P95-P97 遅塚「同上」,P84-P85 松浦「同上」,P29-P31

{ 領主地代は、補償金を払わなければ廃止されないことになり、その補償金の額を毎年の地代の額の20倍と決めた。この20倍という金額は、それを借金したときにかかる利子が、支払っていた地代の額と変わらないことから、この制度を利用する農民はほとんどいなかった。結局、この制度は、封建制的な領主地代をブルジョワ的契約に組み替えただけであった。}(遅塚「同上」,P97-P98、松浦「同上」、P30-P31<要約>)

註321-9 人権宣言

松浦「同上」,P31-P32 柴田「フランス革命」,P101-P102

註321-10 人権宣言の制度化

松浦「同上」,P35-P37 遅塚「同上」,P94

註321-11 91年憲法

松浦「同上」,P37-P38 遅塚「同上」,P78 服部・谷川「フランス近代史」,P62

{ 選挙権を持つ「能動的市民」が全国で約430万人に対して、それを与えられない「受動的市民」がおよそ300万人といわれている。都市では受動的市民の方が多い。}(柴田「フランス革命」,P103)

{ 立憲議会の多数派が推進した革命路線は、立憲君主政の枠内で有産者の寡頭的な政治支配をうちたてることによって、アリストクラート層とブルジョワジーの妥協を実現しようとするものであった。しかしながら、…(それは)成立不可能だった。すなわち、一方では、国王と多数の貴族が外国と結んで革命を圧殺しようと策動を続けており、他方では独自の経済的利害をもつ都市民衆と農民が革命の徹底化を求めて激しい運動を展開していたからである。}(服部・谷川「同上」,P62)

註321-12 立法議会発足

柴田「フランス史10講」,P126 Wikipedia「フランス革命」