30歳(一説には35歳)で悟りを開きブッダ(仏陀)の境地に達した仏教の開祖お釈迦さま(釈尊)は、80歳で亡くなるまでの50年間、一切衆生の平等を強く主張され、人間そのものへの深い内省や清く生きるための道などを、やさしく穏やかに説かれました。人々の能カや資質、あるいは置かれている境遇などに応じて、譬喩を交えながら説かれるその教えは、聞く者の気づきを促し、じわりと心に染み入っていきます。
釈尊が亡くなられた後(入滅後)、それらの教えを後世に残すため、主な弟子たちが集まって教えの編纂(結集)を試み、そののち数百年を経て、文字で書かれた教えとしてのお経(経典)ができ上がりました。こうしてまとめられた「ブッダの教え」を「仏教」といいます。
時を超え、お経として現代に伝えられてきた釈尊の教えは、多くの人びとの精神的なよりどころとなり、現実の生活と心の実際にふれる、生きた指針として、私たちの心を満たしてくれます。
今から約2500年前のある年の4月8日、釈尊(ゴータマ・シッダールタ)はシャカ(釈迦)族の王である父シュッドオーダナ(浄飯王)、母マーヤ(摩耶)の長男として、現在のネパールの地ルンビニー(藍毘尼園)に誕生しました。
生後7日で母が他界したせいもあってか、王家の後継者として何不自由ない生活を送っていた釈尊も、やがて生・老・病・死をはじめ「思い通りにならないこと」の多い人生の無常を感じ、出家を志します。
6年間に及ぶ苦行の末、快楽主義でも苦行主義でも人生の無常は克服できないことを知った釈尊は、ラージャグリハ(現ラージギル)近郊に位置するガヤー(伽耶)のピッパラ樹(後の菩提樹)の下で瞑想に入り、30歳(一説に35歳)の12月8日の未明、明星(金星)が昇るとともに悟りを開いて覚者(仏陀)となったと伝えられます。この時の釈尊の悟りは、「縁起の法」(森羅万象の存在・現象などの諸法は縁によって起こり、縁によって滅するという真理)と呼ばれます。
仏陀となった釈尊は、かつてともに苦行を積んだ5人の出家者(五比丘)を訪ね、ヴァーナラシー(波奈羅斯)近郊のサールナート(鹿野苑)に赴きます。31歳の1月8日、釈尊は自身の悟りを五比丘に語り始めます。
仏陀としての最初の説法(初転法輪)で、釈尊は、苦行主義でも快楽主義でもない「中道」という偏らない生き方を示し、その具体的方法として「八正道」を明らかにしました。
その後の釈尊の伝道の足跡は、ガンジス河中流域の、当時繁栄を極めていた二大都市、マガダ(摩竭提)国の首都ラージャグリハ(王舎城)からコーサラ(喬薩羅)国の首都シュラーヴァスティー(舎衛城)にまで及びました。ラージャグリハ近郊のグリッダクータ(霊鷲山)での説法は、『妙法蓮華経』『大方等大集経』『大般若波羅蜜多経』など多くの経典にまとめられています。
80歳を迎えた釈尊は、ラージャグリハに滞在していましたが、身体の衰えと死期を覚知し、弟子の阿難を従え故国に向かって、350kmにも及ぶ最後の旅に出ました。
途中立ち寄ったクシナガラ(拘尸那竭羅)の地で、釈尊は、2本のサーラ樹(沙羅双樹)の間に、頭を北に、右腹を下に向けて横たわり、弟子たちに最後の教えを遺し、80歳の2月15日、涅槃に入ります。
その後、仏陀釈尊の教えは、2500年の時を経て世界各地へと伝播していきます。仏陀の教えが、多くの人々に支持され、今なお、その輝きを失わないのは、そこに説かれる言葉が「真実」であるからにほかなりません。
日蓮宗で信奉する法華経も、今日まで生き続けている経典のひとつです。それは、決して我々の日常とかけ離れた教えではないからこそ、現代まで絶えることなく受け継がれてきたといえるでしょう。
四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々の苦難に堪えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。『スッタニパータ』第42詩
ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり行なったりするならば、福楽はその人につき従う。影がその人の体から離れないでいるように。『ダンマパダ』第2詩
他人に教えるとおりに、自分でも行え。自分をよくととのえた人こそ、他人をととのえるであろう。自己は実に制し難い。『ダンマパダ』第159詩
一つの岩の塊が風に揺るがないように、賢者は非難と賞賛とに動じない。『ダンマパダ』第81詩
正しい知慧によって解脱して、やすらいに帰した人、そのような人の心は静かである。ことばも静かである。行いも静かである。『ダンマパダ』第96詩
実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことはない。怨みを捨ててこそ怨みは息む。これは永遠の真理である。『ダンマパダ』第5詩
すべての者は暴力におびえる。すべての者にとって生命は愛おしい。己が身にひきくらべ、殺してはならぬ、殺さしめてはならぬ。『ダンマパダ』第130詩
身の装いはどうであろうとも、行ない静かに、心おさまり、身をととのえて、慎みぶかく、行ない正しく、生きとし生けるものに対して暴力を用いない人こそ、道の人というべきである。『ダンマパダ』第142詩
怒らないことによって怒りにうち勝て。善いことによって悪いことにうち勝て。わかち合うことによって物惜しみにうち勝て。真実によって虚言の人にうち勝て。真実を語れ。怒るな。請われたならば、乏しいなかから与えよ。『ダンマパダ』第224詩
何ぴとも他人を欺いてはならない。たといどこにあっても他人を軽んじてはならない。悩まそうとして怒りの想いをいだて互いに他人に苦痛を与えることを望んではならない。『スッタニパータ』第148詩
自分を苦しめず、また他人を害しないことばのみを語れ。これこそ実に善く説かれたことばなのである。『スッタニパータ』第451詩
「これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人。かれはこのような「わがもの」という観念が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。『スッタニパータ』第951詩
弱いものでも強いものでもあらゆるものに慈しみをもって接せよ。心の乱れを感ずるときには「悪魔の仲間」であると思って、これを除き去れ。『スッタニパータ』第967詩
* 『ダンマパダ』や『スッタニパータ』は、前3世紀以前の成立とされる現存最古の経典類で、主に南方アジア諸国の上座部という小乗仏教教団で用いられます。後世の大乗仏典にみられる煩瑣な教理は少なく、人間として清く生きる道が風格ある簡潔な句に表されるところから、これらの経には仏陀の本来の言葉が遺されていると考える学者もいます。
法華経は、釈尊が最晩年に説かれたお経のひとつです。説かれた場所は、インドにかつて存在したマガダ(摩竭提)国の首都ラージャグリハ(王舎城)近郊の山で、グリッダクータ(耆舎崛山、霊鷲山)と呼ばれます。霊鷲山は、釈尊が最も好んだ説法の霊場で多くの教えがこの山で説かれました。その中でも、法華経は、釈尊が72歳から79歳(釈尊がこの世を去る前年)までの8年間に説かれた、まさに遺言の説教にあたります。
原語は、Saddharma-pundarika-sutra(正しい法の、白蓮華のような教え)といい、鳩摩羅什という僧侶によって漢文に訳出され、『妙法蓮華経』と名付けられました。全8巻28品(28章)からなり、内容は、以下の3つの要点にまとめられます。
@ 開会の思想
釈尊による法華経の説法の大きな目的は、法華経以前の教説を方便の教えと見なしてひとたび開き、真実の教えに会して、釈尊の本懐を披瀝することにありました。このように、従来の説法をひとたび開いて、より高い次元の真実の教えに会していくことを、「開会」と呼びます。
法華経の開会では方便品を中心に「仏なるもの」の空間的普遍性、如来寿量品を中心に「仏なるもの」の時間的不変性(永遠性)が説かれます。
「仏なるもの」の空間的普遍性からは、一切の衆生がおのおの「仏」を内在することになるので、衆生はみな釈迦牟尼仏と一体不二となり、これにより善悪・賢愚・貧富などの二元的価値観を越えたあらゆる衆生の成仏が実現します。
「仏なるもの」の時間的不変性からは、まもなく滅する有限の釈迦牟尼仏ではなく、久遠かつ永遠に存在する釈迦牟尼仏が明かされることで、釈尊在世中の衆生の救済にとどまらず、釈尊入滅後も永久に衆生と仏とが結びついて、未来永劫の救済が実現します。
A 付嘱の儀式
法華経の中盤の説法は、霊鷲山の空中(虚空)で行われたところから、その会座を「虚空会」と言います。そこでは、如来神力品を中心に釈尊滅後における法華経の弘教を委嘱する「付嘱の儀式」が執り行われます。
法華経は釈尊の本懐が示された遺言の教えでありましたから、自分の亡き後にこの教えが永遠に廃れないよう、弟子に付託する必要があったわけです。
前述の如来寿量品や、この如来神力品に代表される虚空会での説法の目的は、釈尊滅後の衆生の救済にあったことがわかります。
B 法華菩薩道の実践
法華経の重要な教えの3点目は、「菩薩道の実践」です。
法華経の後半は、薬王菩薩・妙音菩薩などもろもろの菩薩たちによる菩薩道(法華菩薩道・大乗菩薩道)の実践が提示されます。これらは、法華経に根ざした「こころざし」「ふるまい」の実践例となります。
約2500年前にインドで釈尊によって創始された仏教は、中央アジア・中国大陸・朝鮮半島などを経由して、6世紀の中頃、日本にもたらされました。
それから現在に至るまでの1400有余年という長い歴史の歩みの中で、さまざまな宗派が中国から伝えられました。
仏教が始めて日本に伝えられたのは六世紀中頃の、538年(一説に552年)であったとされます。奈良時代(710〜794)に入ると、いわゆる「南都六宗」とよばれる三論宗・成実宗・法相宗・倶舎宗・華厳宗・律宗が中国から相次いで伝えられました。これらは後代に独立してくる宗派とは違って、一種の学派(学問の流派)的存在で、大部分の僧侶は一つの特定の宗派に属するというよりも、六つの宗派の教義を兼学していたのです。
平安時代(794〜1192)の仏教の主流は、伝教大師最澄(767〜822)によって伝えられた天台宗と、弘法大師空海(774〜835)によって伝えられた真言宗です。特に最澄の最大の功績は、朝廷より認可を得た大乗菩薩戒の戒壇を比叡山に建立したことです。それまでの出家者は、「日本三大戒壇」で知られる大和(奈良)東大寺、下野(栃木)薬師寺、筑紫(福岡)観世音寺のいずれかで、僧は二百五十戒、尼は五百戒もの具足戒(小乗戒)を守ることを誓約して受戒しなければ僧尼になれなかったのですが、大乗菩薩戒は、五戒・十重戒・四十八軽戒などの純粋・肝要の戒(梵網戒)を専らとするものでした。以後、天台宗は、鎌倉新仏教の祖師をはじめ多くの僧尼を輩出するなど、日本仏教の頂点に君臨することとなります。なお、平安時代の末期に、浄土教の一つの流れである融通念仏宗が現れます。
末法思想とよばれる一種の仏教的末世観によって、三つの仏教の流れが新しく独立してくるのが鎌倉時代(1192〜1333)です。これらが、現在に至るまでの日本仏教の主流になっています。すなわち、浄土・禅・法華(日蓮)の三宗で、浄土系としては、平安時代の末に独立した、良忍(1072〜1132)による融通念仏宗のほかに、法然(1133〜1212)の浄土宗、親鸞(1173〜1262)の浄土真宗、さらに、一遍(1239〜1289)の時宗があります。禅の流れには、栄西(1141〜1215)によって伝えられた臨済宗と、道元(1200〜1253)を開祖とする曹洞宗があり、日蓮宗は日蓮(1222〜1282)によって開宗されました。なお、禅の流れには、中国僧の隠元(1592〜1673)によって江戸時代の初期にわが国にもたらされた黄檗宗があります。
その後、江戸時代には、徳川幕府の宗教政策によって寺請制度・檀家制度が定められ、庶民はいずれかの宗派の寺院の檀家として所属することが義務づけられました。これにより、幕府は、庶民の戸籍を管理し、自由な土地の移動を制限し、またキリスト教などの流入を防いだのです。
明治元年(1868)、神道国教化政策を理想とする維新政府の祭政一致の方針に基づいて神仏分離令が布告されると、廃仏毀釈というような粗暴な措置に出る藩が多く現れ、仏教教団は打撃を受けます。その後、大正時代になると、仏教系の新興宗教も多く誕生し、第二次世界大戦の敗戦を機に、祖先崇拝や家制度が動揺する中、在家仏教運動や現世利益などを標榜した新興宗教が勢力を拡大します。
ちなみに、日蓮系の新興宗教には、創価学会・霊友会・国柱会・立正佼成会・仏所護念会・立正安国会などがありますが、いずれも日蓮宗の教義とは少なからず同異があります。
日蓮宗は、鎌倉時代の仏教者である日蓮聖人の教えを継承し信仰する宗派です。古来より法華宗あるいは日蓮法華宗などとも称されてきましたが、今日の宗教法人「日蓮宗」の名称は、明治9年(1876)に公許されました。
宗祖は日蓮聖人(1222〜1282)、開宗は建長5年(1253)4月28日、所依の経典(依経)は如来最要の教法たる『妙法蓮華経』、信仰の対象(本尊)は法華経本門の教主たる久遠実成の釈迦牟尼仏、総本山は身延山久遠寺(山梨県)です。
日蓮聖人は、仏教の開祖である釈尊(釈迦牟尼仏世尊)が説いた数多くの教えのうち法華経(妙法蓮華経)を根本経典に位置づけます。
特に、法華経後半の「本門」と呼ばれる部分を重視し、本門の法華経への帰依を表明する「南無妙法蓮華経」の題目の実践を信行(信仰と修行)の主軸に据えます。
日蓮宗では、この七字の題目に法華経の精神をこめた日蓮聖人の教えに導かれて信行に励み、この教えを弘めることによって、世界の平和と幸福の実現を目的とします。
日蓮聖人は、貞応元年(1222)、安房国(現、千葉県)小湊の海村に、漁師であった父貫名重忠・母梅菊の第4子として誕生しました。幼名を薬王丸(善日麿)といいました。
その後、16歳にして故郷の清澄寺で出家した日蓮聖人は、永年の仏教研鑽の結果、建長5年(1253)4月28日、法華経に根ざした信仰を立宗宣言します。これを立教開宗と呼びます。
清澄寺での法華経勧奨の宣言は痛烈な念仏批判を伴うものであったため、熱心な念仏信者であった地頭の東條景信の逆鱗に触れ、同寺を追放されます。その後、日蓮聖人は、鎌倉幕府の拠点相模国(現、神奈川県)鎌倉に出て布教を開始します。
当時の国内は天変地災・飢饉・疫病が流行し、人々の困窮は目に余るものとなっていました。日蓮聖人は、災難の原因が、厭世的・刹那的な宗教思想の瀰漫にあると考え、文応元年(1260)年、『立正安国論』を述作、幕府の政道・宗教政策を批判します。しかし、その提言は用いられず、日蓮聖人は鎌倉武士や念仏信者の迫害を受け、伊豆国(現、静岡県)伊東に配流されます(伊豆法難)。
伊豆配流を赦免された翌年、母危篤の知らせを受けた日蓮聖人は、故郷安房に帰郷します。これを絶好の機会と待ち受けていた東條景信は、一行を襲撃。日蓮聖人は、弟子を殺傷され、自身も眉間に刀疵を蒙ります(小松原法難)。
文永5年(1268)、大陸の蒙古国より日本の隷属を迫る国書(牒状)が到来します。かつて『立正安国論』で警鐘を鳴らした内憂外患が現実味を帯びてくる中、日蓮聖人の言動は激しさを増していきます。
文永8年(1271)9月12日、幕府は日蓮聖人と門弟の言動を反社会的運動として弾圧。多くの門弟が捕らえられ、日蓮聖人も相模国(現、神奈川県)龍口で斬首の危難に遭いますが、「ひかりもの」の奇瑞が起こり辛くも難を免れたと伝えられます(龍口法難)。
龍口斬罪を免れた日蓮聖人は、当初の罪名通り佐渡配流となります。極寒の地佐渡国(現、新潟県)での配流生活は、文永11年(1274)に赦免されるまで、あしかけ4年間に及びました。
配流中、日蓮聖人は、信仰と思想の深化を『開目抄』『観心本尊抄』に表します。この間、京都・鎌倉では北条一門の権力抗争がおき、また蒙古の圧力も高まりをみせたこともあり、幕府は意見を求めるため日蓮聖人を鎌倉に還しました。
しかしながら、政治・外交・軍事的解決を目指す幕府と、宗教的問題の解決を迫る日蓮聖人の意見は対立。日蓮聖人は漂泊の思いにかられ鎌倉を後にし、甲斐国(現、山梨県)身延へと入ります。この年の10月、ついに蒙古が北九州に襲来します。
身延での晩年の9ヶ年で多くの弟子や信者を得た日蓮聖人でしたが、長年の苦難が身体をむしばみ、常陸国(現、茨城県)に湯治に向かう途中、弘安5年(1282)10月13日、武蔵国(現、東京都)池上で60年に及ぶ波乱の人生に幕をおろしました。
あを(仰)ぐところは釈迦仏、信ずる法は法華経なり。『盂蘭盆御書』
法華経を信ずる人は冬のごとし。冬は必ず春となる。いまだ昔よりき(聞)かず、み(見)ず、冬の秋とかへれる事を。いまだきかず、法華経を信ずる人の凡夫となる事を。『妙一尼御前御消息』
今法華経の時こそ、女人成仏の時、悲母の成仏顕れ、達多悪人成仏の時、慈父成仏も顕るれ。此の経は内典の孝経なり。『開目抄』
我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口なり。『忘持経事』
法華経と申すは手に取れば其の手やがて仏に成り、口に唱ふれば其の口即ち仏なり。『上野尼御前御返事』
法華経を信じまいらせし大善は、我が身、仏になるのみならず、父母仏になり給ふ。『盂蘭盆御書』
花は根にかへり、真味は土にとどまる。此の功徳は故聖霊の御身にあつまるべし。『報恩抄』
父母は常に子を念(おも)へども、子は父母を念はず。『刑部左衛門尉女房御返事』
親は十人の子をば養へども、子は一人の母を養ふことなし。『刑部左衛門尉女房御返事』1805頁
平(たいら)かなるは人(にん)なり。『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』
愚人にほめられたるは第一のはぢなり。『開目抄』
教主釈尊の出世の本懐は、人の振舞にて候けるぞ。『崇峻天皇御書』
夫れ浄土と云ふも地獄と云ふも外には候はず。ただ我等がむねの間にあり。これをさとるを仏といふ。これにまよふを凡夫と云ふ。『上野殿後家尼御返事』
末代の凡夫出生して法華経を信ずるは、人界に仏界を具足する故なり。『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』
仏の入滅、既に二千余年を経たり。然りと雖も法華経を信ずる者の許に仏の音声を留めて、時々刻々念々に我死せざる由を聞かしむるなり。『守護国家論』
此の法華経は三途の河にては船となり、死出の山にては大白牛車となり、冥途にては灯となり、霊山へ参る橋なり。霊山へましまして艮の廊にて尋ねさせ給へ、必ず待ち奉るべく候ふ。『波木井殿御書』
霊山浄土にてはかならずゆきあひたてまつるべし。『是日尼御書』
大地はさゝばはづるとも、日月は地に堕ち給ふとも、しを(潮)はみちひぬ世はありとも、花はなつ(夏)にならずとも、南無妙法蓮華経と申す女人の、をもう子にあわずという事はなし。『上野尼御前御返事』
我が門家は夜は眠りを断ち昼は暇を止めて之を案ぜよ。一生空しく過ごして万歳悔ゆること勿れ。『富木殿御書』
鳥と虫とはなけ(鳴)どもなみだ(涙)をちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし。此のなみだ、世間の事には非ず。ただ偏に法華経の故なり。『諸法実相鈔』
人の寿命は無常なり。出づる気は入る気を待つ事なし。風の前の露、尚譬へにあらず。かしこきも、はかなきも、老いたるも、若きも定め無き習ひなり。されば先づ臨終の事を習ひて後に他事を習ふべし。『妙法尼御前御返事』
極楽百年の修行は、穢土の一日の功に及ばず。『報恩抄』
蔵の財よりも身の財すぐれたり。身の財より心の財第一なり。『崇峻天皇御書』
命と申す物は一身第一の珍宝なり。一日なりともこれをのぶ(延)るならば、千万両の金にもすぎたり。『可延定業御書』
*日蓮聖人のことば「今月の聖語」のバックナンバーはこちら(https://www.nichiren.or.jp/words/)から
日蓮宗では、「南無妙法蓮華経」の題目七字を受け持ち、あるいは唱えることが、成仏のための主要の行、すなわち「正行」となります。これに対して、経典の読誦は、信行を増進する助縁の行、すなわち「助行」であり、日蓮宗では主要経典として『妙法蓮華経』を用います。
日蓮宗の勤行(日々のお勤め)や法要(法事・法会)では、その趣旨・内容によって種々の経文が読誦されますので、一様ではありませんが、これら法要儀礼を通じて仏祖三宝への礼拝、法華経の礼誦、仏徳の讃歎、報恩謝徳、祈願、回向などの意趣を表明することができます。
一般的な次第は、
@礼拝
三宝・仏壇等に向かって身を整え、心を静めて合掌・礼拝する。
A勧請
仏祖三宝等の来臨を請う。
B開経偈
経を開くに先立って唱える。
C読経
経文(法華経の諸品)の読誦。
D祖訓(御妙判)
宗祖日蓮聖人の文章を適宜拝読。
E唱題
「南無妙法蓮華経」の題目を心を込めて唱える。
F宝塔偈
法華経受持の功徳を讃えた見宝塔品の一節を唱える。
G回向(廻向)
営為の功徳を、志す相手のみならず、あらゆる者にたむける。
H四誓(四弘誓願)
諸仏・諸菩薩に共通の誓願をもって仏道に励むことを誓う。
I玄題三唱
最後に「南無妙法蓮華経」の題目を三遍唱えて心を正して結ぶ。
J礼拝
修し終わった感謝の念をもって仏祖三宝を拝す。
以上の順となります。
このうち、Cの読経では、法華経の中心的教義が説かれた方便品・如来寿量品を読むのが慣例ですが、檀信徒(在家)の法事や葬儀で、故人が女性や子供の場合には、提婆達多品を読むこともあります。
また、日蓮聖人の命日10月13日を前後して営まれる報恩会式(お会式)では、如来神力品の読誦も行われます。
人には10代溯ると約2000人、20代溯ると約210万人、30代溯ると約21億4700万人ものご先祖がいます。それだけ多くの祖先から命の襷を受け継いで、我々は現在に大切なものを託されているのです。
先祖は過去の人であると同時に、今も我々に寄り添っている家族の一員であり、そして死後に必ず自分が出会うことになる未来の人でもあると昔の人は考えました。ですから、その時ご先祖さまに顔向けができないようなことをしてはいけない。ご先祖さまの名に恥じないように生きよう、日本人は、先人のことを思うたびに、そう決意してきたのです。
これは、日本の誇るべき信仰形態でした。家族は生きている人だけで構成されているのではありません。先祖を含み、いつも先祖に見守られていてこその家族なのです。
では、生命の授与者である祖先から命の襷を受け取った我々は、どのように生きればいいのでしょうか。
人間は、歴史的に生きる存在である以上、私たちは、ご先祖や人類の祖先たちの成功も失敗も含めて、彼らのたどった試行錯誤の成果や先人の努力や犠牲を受け継いで、今を生かされているのだということを忘れてはなりません。
したがって、「生きる」ということは、目に見えないものに対する畏敬の念や感謝の念を忘れず、いつも神仏や祖先に見守られているのだという意識で行動するとともに、自然界や世の中からいただいた恩恵、今を生きる人々や先人達からいただいたご恩に報いるために、一隅を照らす志で「己が分を尽くす」ということに尽きるわけです。
仮に人生80年として、人が生まれたときに持っている持ち時間は僅か70万時間。どうせ死ぬのに、なぜ生きるのか、どうせ死ぬなら、どう生きるのか、一度立ち止まり、考えてみてはいかがでしょうか。
仏教では、人は死後に仏様の住む浄土に生まれ変わるという教えがあり、様々な浄土が経典に説かれています。日蓮宗では、仏様の浄土は、私たちの生きているこの世界(娑婆世界)にあると考えます。その名を「霊山浄土」と言います。
これは、インドに実在する霊鷲山という山を浄土に見立てたものです。お釈迦様は、この山をこよなく愛され、この山で多くの説法をされました。日蓮宗で信奉する法華経は、この霊鷲山でお釈迦様が最後に説かれた、まさに遺言の教えなのです。
お経の中でも、お釈迦様は、「我常にここに住して法を説く」「常にここにあって滅せず」、あるいは「常に霊鷲山にあり」などと繰り返し説かれております。お釈迦様は約2500年前にこの世を去られましたが、その魂は、現在も霊鷲山に留まり続けているというのです。つまりそこは、法華経信仰者の安住の地であり、日蓮聖人も当時の信者たちに「この世を去る日が来ましたら、霊山浄土で再会しましょう」と何度も言葉をなげかけておられます。
法華経の信仰に生きる我々は、肉体的な「死」を迎えると、その魂は、この「霊山浄土」に往くのです。そこでは、お釈迦様や日蓮聖人に拝顔し、あるいは法華経の信心に生きた人々やご先祖に再会するよろこびが待っています。
ですから、私たちは、いつこの世の別れが来ても決して後悔することのないように、時々刻々を法華経に生き、日々の生活をお題目信仰に捧げて祈るのです。来世に霊山浄土に詣でることができるよう、「霊山の契り」の結び目を太くして参りましょう。
我が此の山は天竺の霊山にも勝れ、日域の比叡山にも勝れたり。然れば吹く風も、ゆるぐ木草も、流るゝ水の音までも、此の山には妙法の五字を唱へずと云ふことなし。日蓮が弟子檀那等は此の山を本として参るべし。此れ則ち霊山の契りなり。『波木井殿御書』
一、辺を過ぎて詣ずべし。ただし寄り道を要せず。
お寺の近くへ来たらお詣りをしなさい。但し遠回りすることはありません。
二、暇をつくりて詣ずべし。ただ無理を要せず。
間をみてお寺詣りをしなさい。暇は無いのでなく作るのです。しかし、無理をすることはありません。
三、思いたてば詣ずべし。ただし家業を欠くを要せず。
思い立ったらお詣りをしなさい。静かに考えることです。しかし、仕事を放ってくることはありません。
四、迷いあらば詣ずべし。ただし望外に望むべからず。
心配事があったらお詣りをしなさい。しかし、出来ない事や欲の深いことはいけません。
五、憂いきわまりて詣ずべし。ただしすべてを委すべし。
どうしていいか分からなくなったらお詣りをしなさい。その時こそ、仏様にすべてをおまかせなさい。
六、志たたば詣ずべし。ただし加護を信ぜざるべからず。
大事な計画や決断のことがあったらお詣りをしなさい。仏様のお力を自分の覚悟の上にお願いしなさい。
七、喜びありて詣ずべし。ただしこれ信心のおかげなり。
嬉しい事があったらお詣りをしなさい。お寺は悲しい時だけ来るところではありません。
八、忌日命日に詣ずべし。ただし自発的な心を以てなり。
自分の気持ちから進んでお詣りをしなさい。他人から命ぜられて義務的に来るようではいけません。
九、招かれて詣ずべし。これ願ってもなき好機なり。
お寺からの案内や知人のすすめがあったら、これこそ絶好の機会です。嫌がらずお詣りをしなさい。
十、正法を求めんとして詣ずべし。人たるのつとめと心得べし。
お寺は法を授け、正しい道を求める大切な場所です。人の生きる本当の力を与えていただきましょう。
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