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日蓮宗 法住山 要傳寺

五大部解題works synopsis

日蓮聖人(1222-1282)の代表的著作のうち、『立正安国論』『開目抄』『観心本尊抄』『撰時抄』『報恩抄』の書誌・解題。
当ホームページ作者が、最新の研究成果を反映し、従来の学説に囚われず、また深く読み込むことによってのみ到達できる秘奥の深義をわかりやすく解説します。
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『立正安国論』

 「りっしょうあんこくろん」とよむ。
 国宝。1巻。文応元年(1260)7月16日に、得宗被官宿屋最信を介して、鎌倉幕府前執権北条時頼に上奏した書。述作地は相模国鎌倉と伝えられる。本書の原本(幕府上呈本)は伝わらないが、日蓮はその後も本書をしばしば複製しており、この日蓮直筆の親写本が伝存する。今日、真蹟3本の存在が確認され、(a)山梨県身延久遠寺曽存本。全20紙。文応元年(1260)7月16日の記年があったと伝えられる。明治8年(1875)の大火によって焼失。(b)千葉県中山法華経寺所蔵本。国宝。全36紙(第24紙欠)。文永6年(1269)12月8日書写の記年あり。(c)京都府本圀寺所蔵本。全24紙。無記年(推定、建治弘安の交)、が伝わるほか、真蹟断片14紙が10箇所に散在し、現存2本の真蹟以外にも書写された『立正安国論』の存在が想起される。この事実は、日蓮が本書の意義をことのほか重視していたことを意味している。
 本書の主旨は、当初は主に法華勧奨と念仏批判(後には諸宗批判全般)に置かれ、法華経への帰依がなければ、自叛他逼(『薬師経』所説の七難のうち自界叛逆難と他国侵逼難)の二難が興起することを予言・警告した。日蓮の為政者に対する諫暁はこれにとどまらず、文永8年(1271)9月12日、及び文永11年(1274)4月8日には、得宗被官中最大の有力者であった平頼綱に対して、第二・第三の国諌に及んでいる。日蓮はこれについて、建治元年(1275)6月の『撰時抄』において、「三度のかうみやう(高名)」(『定遺』1053頁)、「三ツの大事」(『定遺』1054頁)と称している。いわば、その後の日蓮の生涯を貫いた行動理念の原点は、本書『立正安国論』にあったことが知られるのである。
 本書は、日蓮の私的勘文としての性格を濃厚に表している。六老僧日興の写本によれば、幕府上奏本には、題号の下に「天台沙門日蓮勘之」との記述があったことがみえ、また本圀寺本には「沙門日蓮勘」の記述がなされている。つまり、日蓮は本書を「勘う」という意図のもとで執筆したことが読みとれるのである。これは、数多くある日蓮遺文の中でも特異な事例で、「撰」(『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』『報恩抄』等)や「述」(『撰時抄』『法華取要抄』等)と記される遺文とは、自ずと性格を異にしていることを物語る。
 そもそも「勘う」には、思いはかる、思案する、事のわけを明らかにする、処置を思いめぐらす、つき合わせて調べる、などの意味がある。すなわち、『立正安国論』は、眼前に興起する天変地夭の災難の実状を、仏教経典に照らし合わせ、その災難興起の根源を究明し、これに対処する方策を打ち立てた書であると規定できるのである。それ故に、本書は「勘文」と位置づけられるのである。このことは、日蓮が著した『安国論副状』(『定遺』421頁)、『法門可被申様之事』(『定遺』455頁)、『富木殿御返事』(『定遺』743頁)、『種種御振舞御書』(『定遺』959頁)、『智妙房御返事』(『定遺』1287頁)などの諸書において、自ら本書を勘文として性格づけていることからも疑う余地のないところである。
 法華経寺本『立正安国論』の論旨の展開は、概ね以下の通りとなる。
(1)第一番問答
 近年国内に興起する災難の由来について質疑応答が交わされ、日本国中が万祈(利剣即是・衆病悉除・五瓶禳災・坐禅入定・七鬼神符など10種の祈祷・祭祀等の具体例を挙げる)を修して災難を対治しようとしても効験がないのは、正法を蔑ろにするという人々の「背正帰悪」の行為が原因となって、「善神捨国」「聖人辞処」を引き起こし、結果として「悪鬼致災」となっていることを憂うところから始まる。
(2)第二番問答
 仏教徒の立場から災難の原因を仏典に求め、『金光明経』『大集経』『仁王経』『薬師経』等の7種の経証を挙げて、諸経における災難の具体的説示を整理し、その原因が仏法なかんずく正法を謗る「謗法」の行為に起因することを明かす。
(3)第三番問答
 正法を蔑ろにする謗法行為の証拠を求める質問に対して、『仁王経』『涅槃経』『法華経』等(広本ではこれに『守護経』『金光明経』『大集経』等を加える)の経証を論拠に、謗法がいかなる行為にあたるかを提示し、日本国の現状がまさに謗法の様相を呈していることを明かす。
(4)第四番問答
 謗法の人とその教えとは具体的に何であるかについて、中国浄土教三師の曇鸞・道綽・善導らの教義を紹介し、これを「準(准)之思之」(215頁1行目)すなわち拡大解釈して日本に展開した源空の邪義を明らかにし、謗法の人とはすなわち法然房源空、謗法の法とはその著『選択本願念仏集』であることを明示する。
 なお、『立正安国論』には、「実乗の一善」の具体的内容について開陳されていないといわれているが、第四番問答にみえる「一代五時の肝心」(216頁7行目)が「法華経」に比定されていることは注目に値する。この表現は「一代五時の妙典」(216頁13行目)、「実乗の一善」(226頁6行目)と等価値であると見なすことができ、すなわち「立正」の「正」の語の指し示すところが『法華経』であることを暗示するものと思われる。
(5)第五番問答
 謗法がもたらした不祥の先例について中国・日本の史実を紐解き、念仏を重用した国主の末路として、三武一宋の廃仏毀釈の第三「唐武の廃仏」を行い身を滅ぼした武宗皇帝の例と、源空の浄土教が流布した鎌倉時代、朝廷公家政権が武家政権の鎌倉幕府に敗退した承久の乱において、流罪に処せられた後鳥羽上皇の例などをあげている。
(6)第六番問答
 為政者に対する上奏の可否について論じ、上奏の可を力説する段。広本では、『法華経』『涅槃経』の経文を引いて、上奏は正法を受持する持経者の責務であるとして、自説を補強する。
(7)第七番問答
 災難の対処法として謗法対治の具体的先例を仏典に求め、『涅槃経』『仁王経』『法華経』より10種の経文証拠を引き、謗法に対する止施・禁断謗施、あるいは正法護持者(為政者等)による執持刀杖の必要性を主張する。ここでは、『法華経』とならんで『涅槃経』をも「一代五時の肝心」(216頁6行目)と定めているが、これはあくまでも謗法禁断を説く経典群としての位置づけであって、「立正」の「正」の語の指し示すところが『法華経』であることには変わりはない。日蓮の初期教学の特色のひとつとされる法華涅槃未分の論拠には、決してなり得ない。
(8)第八番問答
 謗法断罪の是非について論じる段。「全く仏子を禁むるにあらず。ただ偏に謗法を悪むなり」(224頁4行目)とあるように、「罪を憎んで人を憎まず」が日蓮の立場であり、第七番問答で引用した10の経証は、謗法禁断のためには斬罪も辞さないような強烈な表現もみられたが、日蓮の目指すところはそのような過激な処罰ではないことを説いている。なお、広本では、ここにおいて禅宗破を標榜する『大集経』の引用がみえる。
(9)第九番問答
 謗法根絶の意義と立正安国の理想が述べられる段。広本では、ここにおいて律宗破・真言破を標榜する説示がみえる。更に広本では、謗法堕獄の経証として、『般若経』『大集経』『六波羅蜜経』『法華経』『涅槃経』が引かれる。第九番答では、『薬師経』七難のうち自界叛逆難・他国侵逼難、『大集経』三災のうち兵革災、『金光明経』十三難のうち他方怨賊難、『仁王経』七難のうち四方賊来難が、それぞれ未起の災難であることを指摘して、これら内憂外患二難の興起を懸念し、一刻も早い正法建立・邪法滅尽を求めるのである。
 結びの名句のうち、「実乗の一善に帰せよ」とは「立正」、「三界は皆仏国なり」「十方は悉く宝土なり」とは「安国(国の成仏)」、「身は是れ安全にして心は是れ禅定ならん」は「安心(個の成仏)」に相当し、かくして立正安国の理念が明示されるのである。
 なお、第九番問冒頭で、当時の日本国における「仏家の棟梁」(224頁10行目)を崇重すべき旨が示されるが、日蓮が何をもって「仏家の棟梁」と定めていたかについては具体的説明がない。文応元年本や法華経寺本を始めとする佐前期の『立正安国論』執筆当時の日蓮は、日蓮法華宗を確立しようとしていたのではなく、天台法華宗の復興をめざしていたのかもしれない。それは、日興写本から読み取れる文応元年本の『立正安国論』の撰号に「天台沙門 日蓮勘」と記されていた事実とも関連があると思われる。佐渡流罪以前の日蓮はあくまでも叡山の沙門として、『立正安国論』を執筆しているのである。
 周知の通り、奈良時代の南都仏教では、鑑真が伝えた小乗戒によって奈良東大寺・唐招提寺・下野薬師寺・筑紫観世音寺の戒壇院において僧尼を輩出していたが、平安時代以降は、天台宗の最澄の歿後、大乗菩薩戒が公認・勅許されてより、日本の出家者の多くが、比叡山での受戒によって僧尼となっていった。いわば、当時の比叡山は、日本仏教界の柱であり屋根であったわけで、これを日蓮は「仏家の棟梁」と呼んだものと思われる。この「仏家之棟梁」たる叡山が、謗法に染まり、法華の潮流を失っていることを危惧して、「仏家の棟梁を崇重せん」と発言したと推察される。
 ちなみに、日蓮は、佐後の『法華取要抄』『報恩抄』の頃になると、最澄の大乗戒壇は、所詮は「迹門円頓の戒壇」であって、日蓮はこれにたいして「本門の戒壇」(三大秘法)を開出する。その頃には、日蓮の自覚が「天台沙門」「根本大師門人」ではなく、「本朝沙門」「扶桑沙門」「釈子」「法華経の行者」へと推移していることも深い関係があると思われる。よって、佐後の『立正安国論』広本で示される「仏家の棟梁」の指し示すところは、本門教学に根ざした法華仏教であることは想像に難くない。
(10)第一〇番問
 謗法対治を領解し、国土の天下泰平により自他の現安後善を確立することを誓って結語とする。

『開目抄』

 「かいもくしょう」とよむ。
 2巻。系年は、文永9年(1272)2月。述作地は佐渡国塚原。題号は日蓮の自題(ただし写本の記録から書名は「開目」の二字であった可能性あり)であり、題意は、一切衆生の盲目を開く、という意味である。真蹟は、かつて65紙と表紙が身延山久遠寺に蔵されていたが、明治8年(1875)1月10日の大火で焼失した。弟子の手になる多くの写本が残されているが、身延日乾の対校本が写本としての信憑性が最も高いといわれている。
 述作の動機は、建長5年(1253)の立教開宗以来、自身と門弟(弟子・檀越)にふりかかった相継ぐ迫害によって、門弟の中に退転する者が続出し、このたびの竜口法難と佐渡流罪に際しては、「千が九百九十九人は堕ちて候」(『定遺』869頁)とあるように教団全体が存亡の危機に直面したことを受けて、門弟の疑難と不安を払拭するために、受難の宗教的意義と伝道教化の手法の時代的適正について省察することにあった。日蓮は、自から受難の人生を回顧し、法難を受ける理由を追求、法華経の行者に対して諸尊諸天の加護がないのは、自身が法華経の行者ではないためかと自問している。日蓮自身は、この自心の懐疑に解答を示していないが、逆説的にみれば、これは日蓮の法華行者意識の表明とみなすことができよう。また、つづいて執筆された『観心本尊抄』との関連からみれば、『観心本尊抄』において自らが抱懐している法華経本門の修行法を開示するにあたり、まず自身が末法の衆生にとっていかなる関係を有する人物であるかを明示しておかなければならず、換言すれば、『観心本尊抄』で末法相応の行法を明かすにあたり、末法の導師が日蓮であることを確認し開顕するために、『開目抄』は述作されたのである。
 本書の注目すべき宗義は多々あるが、その3点を略挙すれば、(1)三大誓願の表明、(2)本因本果法門の発表、(3)天台密教(台密)批判の萌芽、があげられる。
 古来より、本書は、『立正安国論』『観心本尊抄』とならぶ三大部のひとつとして並び称される。また、『観心本尊抄』が末法相応の観心の法門について論じた「法開顕の書」と呼ばれるのに対して、法華経の行者について追求した書であるところから、「人開顕の書」とも呼ばれる。このような相対・相関の性質から、『開目抄』と『観心本尊抄』とをあわせて「開本両抄」とも併称する。なお、日蓮自身は、『開目抄』を「かたみ(形見)」あるいは「一期の大事」(『定遺』561頁)、『観心本尊抄』を「当身の大事」(『定遺』721頁)と表現している。
 本抄には、全体の構成を示す章節などはない。瀑布のような文章であるため、一抄の構成を把握することは困難で、古来より先師が種々に科段分けを試みているが、ここでは従来説はあくまでも参考にとどめ、祖意を損ねない範囲内で新たな視座から本抄の構造を分類・整理してみる。
 本抄は、全体的に大別して二部構成になっている。それは『寺泊御書』(514頁)に示される門弟の疑念に対応するもので、すなわち『寺泊御書』の「唯(ただ)教門計(ばか)りなり」の難に対して前半の論(535〜556頁)が展開し、「機を知らずして麁(あらき)議を立て難に値ふ」「勧持品の如きは深位の菩薩の義なり、安楽行品に違す」の難に対して後半の論(556〜609頁)が展開しているのである。本抄の章立てを整理すると以下の通りとなる。
(1)儒外内三道論(535頁3行目〜539頁8行目)
(2)一念三千論・一念三千盗用論(539頁8行目〜542頁8行目)
(3)二乗作仏論(542頁8行目〜550頁3行目)
(4)久遠実成論・本因本果法門(550頁3行目〜556頁3行目)
(5)受難と色読(556頁3行目〜561頁2行目)
(6)諸天・二乗・諸菩薩不守護の疑問(561頁2行目〜567頁5行目)
(7)理の一念三千(567頁5行目〜571頁4行目)
(8)事の一念三千(571頁4行目〜571頁3行目)
(9)本尊論・仏種論(578頁3行目〜581頁4行目)
(10)五箇の鳳詔〜三箇の勅宣と二箇の諫暁〜(581頁4行目〜590頁7行目)
(11)未来記(590頁7行目〜592頁14行目)
(12)三類の強敵(592頁14行目〜600頁2行目)
(13)三大誓願(600頁2行目〜601頁13行目)
(14)滅罪の値難観(601頁13行目〜605頁4行目)
(15)摂折論(605頁4行目〜609頁4行目)
 はじめ、末法の正導師を開顕するに先立って、末法の衆生が信ずべき正法が示される。即ち五重相対によって教法の権実を批判して、「一念三千の法門は但法華経本門寿量品の文の底にしづめたり」(539頁)と、末法における真正の教法を定めている。日蓮は単に仏教のみでなく世間の学問である儒教・外道をも含めて検討し、この結論に達した。日蓮は、この法門は元来は天台宗のものであったが、真言宗・華厳宗等もこれを盗用して所有するに至り、天台宗は諸宗にも劣ることとなって、法華の正法は失せはて、守護の善神が日本を去ったので、日本国は今や滅亡の危機に瀕している、と主張するのである。
 続けて、迹門の二乗作仏と本門の久遠実成との二箇の大事をあげて、法華経が難信難解・随自意真実の教えであることを論じ、この二つの法門が衆生成仏の原理である一念三千の精華であることが説かれる。ここで本門の一念三千が本因本果の法門として解り易く説明される(552頁)。
 以上が、『寺泊御書』の「唯教門計りなり」の難に答えて、日蓮独自の観心論の一端を披瀝するものであり、この後に展開する「事の一念三千論」の布石にもなっている。
 次いで、『寺泊御書』の「機を知らずして麁議を立て難に値ふ」「勧持品の如きは深位の菩薩の義なり、安楽行品に違す」の難に答えるべく、まず末法に法華経を弘むべき使命を有する本化上行菩薩の再誕たる法華経の行者は誰かの疑問が解明される。日蓮は自らの立教開宗以来の発願・受難・弘経・懐疑を述べて、法華経の難信・難解・難持・難入が滅後末法のいま現実に起きていることを論じる。そして、二乗・諸天・菩薩・諸仏は法華経によって成仏得道したのであるから、法華経の行者を守護すべき責任があることを論証する。
 また、見宝塔品・勧持品の文によって事実と経証の一致を示し、三類の強敵と法華経の行者がそれぞれ誰に当るかを論じ、日蓮こそが法華経の行者であることを立証し、ここに「我れ日本の柱とならむ、我れ日本の眼目とならむ、我れ日本の大船とならむ」との三大誓願が発表されるのである。更に日蓮は法華経の行者の受難について、現在の受難は前世の謗法の招くところであり、法華経弘通によって大難に遭い、その功徳によって宿罪を速やかに消滅し成仏の期を早めるという、日蓮特有の罪意識と滅罪観が示される。
 結びに、摂受・折伏のいずれが末法相応であるかを論ずる。三つの問答からなり、無智悪人の国では安楽行品の如く摂受を行じ、邪智謗法の者多き国では折伏が現ざせられるべきであるとする。そして末法の日本国は謗法充満の国であるから、まさに折伏の時であると決する。
 なお、巻末が摂折論で結ばれることについて、この問題は、五大部すべてに透徹する日蓮の関心事であったようで、『観心本尊抄』(791頁)や『撰時抄』(1059頁)においても、抄末に法華経の行者のとるべき態度が摂受にあるか、折伏にあるかが論じられている。『立正安国論』では明白な持論は展開されないが、暗示的に『仁王般若波羅密多経』受持品、『大般涅槃経』寿命品・金剛身品等を引いて執持刀杖論(折伏論)が展開する点で、やはり共通性が見いだせる。また、『報恩抄』(一二四四頁)では、法華経・題目七字そのものに破権門理の力用が備わっているので、行者は折伏の力を持たずとも、題目そのものの力用によって諸経の理は破折されることが示される。すなわち、五大部の説示を会通すれば、折伏(破折調伏・降伏)とは、行者が行うものではなく、仏天等の加護のもと、梵帝・日月・四天・八部衆・鬼母・刹女はじめとする諸天善神、絶大なる威力(いりき)を保持する篤信の賢王らによってなされることが密示されていると読み取れる。
 また、『開目抄』では、三大秘法に関する理論的構築の萌芽が見え、前段の事の一念三千論で、依報の十界(九界即具仏界・仏界即具九界)の久遠(本因本果)と正報の国土(国土世間)の久遠(本国土)が明かされ、事の一念三千論が補完され、十界・十如(十如は十界・三世間の要素)・三世間(五蘊世間・衆生世間は九界の一側面)の永久不滅が実現した。次に、後半の本尊論において、「久遠」という本因本果(因行果徳)を備えた釈尊(久遠実成の釈尊)を本尊とする理念(本門教主釈尊本尊論。「本門の教主釈尊を本尊とすべし」『報恩抄』1248頁参照)が説かれる。また、本尊論と同時に、本因本果を包含する事の一念三千を成仏の種(一念三千の仏種)とする仏種論が示される。これが『観心本尊抄』で、妙法蓮華経の五字・南無妙法蓮華経の七字に久遠釈尊の因行果徳である事の一念三千を具足するという題目論に進展する。

『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』

 「にょらいめつごごごひゃくさいしかんじんほんぞんしょう」とよむ。
 国宝。1巻。真蹟17紙完存。1帖表裏記載。千葉県中山法華経寺蔵。系年は、文永10年(1273)4月25日。述作地は佐渡国一谷。
 『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』とは、如来の滅後2001年後の末法の世において、初(始)めて明かされる、法華経本門に立脚した末法相応の「観心と本尊の法門」を説いた書である。その構成を大別すると、第一に、観心する(方法である)ところの「能観」の題目段、第二に、観心(によって顕現)されるところの「所観」の本尊段、第三に、これら「本門の題目」と「本門の本尊」とが弘まるべき時と国およびこれらを弘める弘通の人師がいかなるものかを明かす弘通段(流通段)、の以上三段からなる。
(1)能観題目段
 法華経に基づいた観心法(止観・観念・観法・観門・三昧・禅定などともいう)を説くにあたって、天台大師智『摩訶止観』所説の一念三千法門を避けることはできない。しかし、この観心の法門は、「理の一念三千」ゆえに難信難解であり、末法の劣機鈍根の衆生にはそぐわない修行法である。そこで、本抄において日蓮は、末法相応の観心の法門を提唱するにあたり、一念三千を十界互具に、十界互具を釈尊の因行果徳の二法に、因果の二法を妙法五字に集約してゆくのである。ここに、受持譲与段(三十三字段)が説き明かされる。
 能観題目段の特徴は、一念三千論のうちの十界互具に着目した点である。すなわち、久遠の釈尊が成仏するために積んできた、無始以来の九界の因位の菩薩行(因行・本因妙)と、久遠実成の悟りを開かれた時の無始の仏界の果位の功徳(果徳・本果妙)、この因行果徳(本因本果)の二法は、すべて妙法五字に具足すると説くのである。
(2)所観本尊段
 能観題目段で「本門の題目」が明らかとなったのを受けて、次に「本門の本尊」が示される。
 所観本尊段の特徴は、一念三千論のうち三種世間に着目した点である。それは、妙楽大師湛然の「身土は一念三千なり」の文によっている。ここでいう「身」とは、衆生世間・五蘊世間の所謂「正報」をさし、「土」とは、草木国土世間の所謂「依報」をさしている。特に信仰の対象である本尊は、木絵の二像つまり草木国土を基本として構成されているから、この草木国土に成仏が認められない限り、すべての木絵二像の本尊等は有名無実であると説くのである。
 ここに、四十五字法体段が説き明かされる。久遠実成の時以来、この娑婆世界は、本因・本果・本国土の本門三妙(身土一念三千)の具足した、常住不滅の浄土である(依報成仏・国土成仏・立正安国)。その世界では、仏は非生非滅の永遠の仏であり、教化されるところの我々所化の衆生も、同体にして常住不滅である(正報成仏・衆生成仏)。この国土と衆生の依正不二の久遠にわたる成仏が「事の一念三千」であると説くのである。
(3)弘通段(流通段)
 弘通段(流通段)では、先の能観題目段で顕わされた「本門の題目」と、所観本尊段によって顕わされた「本門の本尊」とが、いつ、いかなる時代に、いかなる場所で、いかなる人物によって弘通されるべきかが示される。日蓮は、所謂「本尊抄の五義」について触れる部分で、時は末法の初、国は謗法の国、機は逆縁悪機、師は地涌千界、教は妙法五字と定めるが、特に如来寿量品の「良医治子の喩」に基づいて、「遣使還告」は地涌千界の本化菩薩、「是好良薬」は名体宗用教の五重玄具足の南無妙法蓮華経五字七字であることを再確認する。

『撰時抄』

 「せんじしょう」とよむ。
 重要文化財。5巻107紙(第1巻第3・4紙、第3巻第15紙欠)が玉沢妙法華寺に蔵される。他に京都立本寺、千葉妙善寺、山梨妙了寺、山形大宝寺等に断簡現存。
 系年に関して、真蹟には年次の記載なし。但し文中、三度の高名を述べる中の「第三去年四月八日平左衛門尉語云」(1053頁)の「第三去年」の右側に「文永十一年」とあり、本書は文永12年か建治元年(4月改元)の成立であることになるが、『和語式』によると本書古版本の奥書に「建治三年太歳丁丑六月十日」云云とあるというから、仮に6月とすれば建治元年(1275)に系けられるべきである。題号・撰号について、真蹟第1紙に「撰時抄 釈子日蓮述」とある。すなわち、本抄の題号は、日蓮の自題である。
 述作由来に関しては、6月の撰述とすれば、身延の沢の草庵に入居して満1年の作であり、文永の役で蒙古(元)軍が敗退して8ヵ月後に当る。恐らく元寇ののち間もなくの起稿であると推定される。「撰時」を人と法に約すれば、所弘の法華経は撰時の大法であり、能弘の上行菩薩は撰時の師である。本書はこの時に当って法華経の末法広宣流布の必然性を明かし、また上行菩薩の応化、末法の大導師としての日蓮の責任を明かした書である。
 本抄の構成については、これを8章に分段することができる。そのうち第1章は序分、次の6章は正宗分、後の1章は流通分である。序分では、仏法の弘通は時に依らねばならぬことを示す。本論にあたる正宗分(『定遺』1005頁9行目より)では本化菩薩の末法利益を明かす。流通分(『定遺』1059頁7行目より)では、不惜身命とは呵責謗法なり、仏天の加護なくば遂行できぬ事を明かす。

『報恩抄』

 「ほうおんしょう」または「ほうおんじょう」とよむ。
 4巻29紙表裏記載(身延山久遠寺21世寂照院日乾『身延山久遠寺御霊宝記録』による)。系年は、建治二(一二七六)年七月二一日(書末に「建治二年太歳丙子七月二十一日」とあり)。本抄の真蹟は、身延山久遠寺曽存(明治8年焼失)。ただし、山梨一瀬妙了寺、池上本門寺、高知要法寺、東京本通寺、京都本禅寺等に真蹟断簡現存。本抄には、「報恩抄」の題号(日蓮の自題)と「日蓮撰之」の撰号があったことが知られる。
 本抄の対告は、道善房、ならびに淨顕房・義城房。書末に「甲州波木井郷蓑歩の嶽より安房国東條郡清澄山淨顕房・義城房の本へ奉送す」とある。また、本抄の送状とされる『報恩抄送文』(真蹟なし)の宛名が、「清澄御房」とあり、これは清澄寺の住僧であった淨顕房と考えられている。つまり、本抄は、清澄時代の日蓮の法兄たる淨顕・義城の二人に宛てたものと推測できる。しかし、常の消息と違って「奉送」とあるから、二人に送り届けはしたが、捧げる相手は、建治二年三月または六月頃に示寂した師の道善房であった。故に『送文』に「又故道善御房の御はか(墓)にて一遍よませさせ給」とある。つまり、本抄は、故道善房に対する回向とするのが第一目的である。また「御まへ(前)と義城房と二人、此御房をよみてとして、嵩かもり(森)の頂にて二三遍」とあるから、法兄二人への法門垂示とするのが第二目的である。この御房とは誰か、遺文中どこにも明示はないが、古来一様に日向と称している。
 本抄の述作由来は、前述の通り、第一に、故道善房に対する報恩・回向、第二に淨顕房・義城房二人への法門垂示である。道善房の死亡年月に関しては、『報恩抄送文』(真蹟なし)に「道善御房の御死去之由、去る月粗承はり候」とあるのみで、実際のところは不明確である。伝承には、建治2年3月16日説(『本化別頭仏祖統紀』『別頭高祖伝』『高祖年譜』等)と同年6月14日説(『御書略註』等)とがあるが、『送文』に「去月」とあること、本抄に「彼人の御死去ときくには、火にも入り、水にも沈み、はしり(走)たちてもゆひて」(『定遺』1240頁)とある日蓮の心情から考えて、3月16日歿とすれば本抄の7月21日までは130日余もあって、余りにも時間的間隔がありすぎる。6月14日歿とすれば『送文』の7月26日まで42日、これに身延から清澄までの日程を加えても、充分に四十九日忌に間に合うことになるから、6月14日御死去とするのが妥当と考えられている。すると本抄は道善房死去の報に接して、僅か1ヶ月ほどで作成されたわけで、恐らく夜を日についで精進したに違いない。
 内容について、本抄を序正流通の三段に分配すれば、序分では報恩の重要性を述べ、正宗分(『定遺』1193頁8行目)では日蓮が実践した報恩の道を述べ、流通分(『定遺』1248頁8行目)では日蓮の広大なる慈悲と師道善房への回向が示される。本抄は、かつての恩師や法兄に宛てた書であり、一般の檀越に与えられた他の遺文とは一線を画すもので、自身の報恩と弘経の半生を回顧しつつ、日蓮の宗教の極みともいえる「三大秘法」が披瀝されるなど、その内容も意義深い。

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