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日蓮宗 法住山 要傳寺

要傳寺誌HISTORY

ここでは、要伝寺の由緒・歴史、伽藍・寺宝などを紹介します。
寺の古記録や写真、区の文化財指定を受けている祖師像、江戸時代の清正公信仰・浄行菩薩信仰、芝居や映画にもなった「おはつの物語」、池波正太郎の時代小説に登場する要伝寺ほか、多数情報発信。
詳細は下記のタブからアコーディオンを展開してください。

要傳寺の由緒 History

 当山は、山梨県身延山久遠寺(みのぶさんくおんじ)を総本山とする日蓮宗寺院です。その開闢(かいびゃく)は、江戸時代初期の元和元年(1615)、開山は本是院日厳(ほんぜいんにちごん)上人と伝えられます。
 慶長14年(1609)、下谷坂本(現、台東区根岸)界隈へ巡錫(じゅんしゃく)した本是院日厳上人は、当地の鎮守堂(ちんじゅどう)に参籠(さんろう)すること7ヶ月、元和元年(1615)3月28日に同地に一宇を建立いたしました。これをもって、当山の開創と定めております。
 天保12年(1841)、火災により焼失したため、当山の沿革・由緒はほとんど明らかではありません。安政2年(1855)には震災を、翌3年(1856)には暴風を被り、重ねて明治期の廃仏毀釈運動によって、殆ど廃寺に瀕する状態となりましたが、その後、明治15年(1882)に32世の俊中院日雅(しゅんちゅういんにちが)上人により当山は再興されます。
 大正12年(1923)の関東大震災および昭和20年(1945)の東京大空襲には大禍ありませんでしたが、隣接する言問通りの道路拡張工事にともなって、昭和46年(1971)に現在の堂宇に改築され、今日に至っております。

■要傳寺歴代譜■

Yodenji is a Buddhist temple of the Nichiren sect, belongs to the Grand Head Temple Minobu Kuonji in Yamanashi Prefecture.
This temple was founded by Rev.Nichigon in 1615 in the beginning of the Edo Period. The history of this temple is almost unclear because this temple was burned away by fire in 1841.
This temple was a ruin by anti-Buddhist movement at the beginning of the Meiji era. But Rev.Nichiga, who was chief priest in the 32nd generation, revived this temple in 1882.
There is no big damage by Great Kanto Earthquake in 1923 and the Great Tokyo Air Raid in 1945, and this temple comes today.
This temple is dedicated to Eternal Buddha Shakyamuni. And the portrait sculpture of Nichiren is designated as a cultural asset in Taito-ku. But, these images aren't being exhibited to the public.

Click Here For More Info. About Nichiren Buddhism.

「分間江戸大絵図」(部分)

安政6年(1859)刊、須原屋茂兵衛版の「分間江戸大絵図」です。中央下にみえるのが上野不忍池と天台宗東叡山寛永寺。そのやや北東に幕末の頃の要傳寺が確認できます。

銅板画「東京市下谷区上根岸町 日蓮宗法住山要伝寺之景」(要伝寺蔵)

明治37年(1904)5月、龍賀の画、如水の刀になる銅板画。審美館製版。明治15年(1882)に俊中院日雅によって再興された当時の要伝寺の伽藍を知ることができます。
これによれば、表道に面して表門(薬医門)、その左に門番所と休息所、門の正面に桁行5間・梁間4間の寄棟造り瓦葺きの本堂、その裏に祖師堂、本堂の右に書院、その両側から手前に廊下が伸び、そのうち左の廊下に玄関が続き、玄関と右の廊下を結んで清正堂(願満清正公堂)、清正堂の裏に庫裡が接し、門と本堂の間、左手には浄行堂・鎮守堂・宝篋印塔が並び、本堂の左手から奥が墓地となっていることがわかります。
そして、本堂は明治15年(1882)新築落成、表門は同28年(1895)8月改築、書院は同32年(1899)10月新築、浄行堂は同年11月改築、清正堂と庫裡は明治36年(1903)12月新築、また同37年(1904)2月には門番所・納屋が修繕、休息所が新築されたと記されています。なお、同板画には、当時、毎月18日と24日に縁日が営まれていたことがみえます。

旧山門

昭和の大改修以前の要傳寺の山門。後ろにみえるのは旧本堂の屋根。当山に所蔵する数少ない当時の写真のひとつです。「願満清正公/勝守(かちまもり)」の高札は、当山に加藤清正公が祀られていることを周知するためのもの。当時の要傳寺は、通称「坂本(さかもと)要傳寺」「清正公(せいしょこ)要傳寺」などと呼ばれていました。山門の前には、上根岸町会の防火水槽がみえます。

昭和38年(1963)の航空写真

昭和の東京オリンピック前年の航空写真です。言問通りの拡張工事にともなう、大改修以前の要傳寺の寺観を俯瞰できます。写真は、国土地理院ウェブサイトから転載したもので、戦後の昭和38年頃の航空写真になりますが、『下谷区火災保険地図』にみえるような建造物は、当該地に確認できません。因みに、写真右上に言問通り拡張工事数年前の要伝寺の寺観が看取できます。

本門本尊 釋迦牟尼佛世尊 Eternal Buddha Shakyamuni

 日蓮宗の本尊は、宗祖の日蓮聖人が、法華経に生きる者たちの信仰の対象とすべく定められた、「本門の本尊」と称される仏です。日蓮聖人は、その主著『報恩抄』の中で、「日本乃至一閻浮提、一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし」と明言されています。
 具には、法華経本門の教主たる久遠実成の釈迦牟尼仏世尊を言い、「本門の教主釈尊」「本師釈迦牟尼仏」「久遠実成の仏」「久遠本仏」などと様々に呼ばれます。
 この仏は、釈尊の一代の説法(仏教・一代聖教)の中でも、釈尊の最晩年に説かれた法華経(妙法蓮華経)の後半、すなわち「本門」と呼ばれる部分で初めて明らかにされました。
 法華経が説き示される前までの経典(爾前経)の所説では、釈尊はインドの伽耶の菩提樹下で初めて成道した仏(始成正覚の仏)であると説かれ、弟子たちもそのように思っていたのですが、法華経の如来寿量品に来って、釈尊自ら、それは方便の教えであったと打ち明けて、「我、実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり」と、本当は気の遠くなるような久遠の過去世に成仏し、それ以来常に裟婆世界にあって衆生を教え導いてきたと明かされるのです。
 釈尊の寿が久遠であるということは、釈尊の慈悲の心も、その救済も永遠であるということになります。自我偈の結文の「毎自作是念 以何令衆生 得入無上道 速成就仏身(毎に自らこの念をなす。何をもってか衆生をして仏道に入り、速やかに仏身を成就することを得せしめんと)」の四句は、まさに釈尊の大慈悲の発露たる大願の表明で、ここに久遠の釈尊による永遠の救済が約束されるのです。

本尊「釈迦如来坐像」

要傳寺本堂の須弥壇に奉安される本尊の釈迦如来坐像は、当山第38世要中院日妙上人(森聖一師)の発願で、インド人彫刻家のウペンドラ=マハラティ氏が原型を製作し、これをもとに彫刻家の阿部正基氏が塑像を謹製、鋳金家の菓子満氏・堀川次男氏の両氏のご協力により鋳造されたもので、昭和47年(1972)4月8日、新本堂落成にあわせて開眼供養されました(森聖一著『仏跡を巡りて』51頁参照、昭和53年刊)。

寺宝「木造日蓮聖人坐像」 Nichiren,the founder of a religious sect

 要傳寺本堂に安置されている木造日蓮聖人坐像は、本格的な中世以来の割矧造を用い、江戸時代初期の制作と推定されています。
 その姿は、僧綱襟の法服を着け、七條袈裟を左肩上に結び、左手に経巻を、右手に笏を持し、正面を見据えて結跏趺坐する形状で、玉眼嵌入された美しい瞳と慈顔温容の面立ちが特徴的な肖像彫刻です。
 平成7年(1995)、台東区有形文化財(彫刻)に指定されました。

台東区有形文化財(彫刻)「木造日蓮上人坐像」一躯

像高41.0cm、頭長14.4cm、面幅9.3cm、耳張11.8cm、面奥14.1cm、胸奥16.7cm、腹奥18.3cm、裳裾奥34.0cm、膝奥29.0cm、膝張38.4cm、袖裾張57.3cm、膝高左8.5cm、膝高右8.4cm。作者・伝来は未詳。彩色は、像表面全体に漆塗を施した、古色仕上げとなっております。
* 尚、本像の実物は、当山(要伝寺)の檀信徒および関係者のみに拝観を許可しております。当山関係者以外の拝観、ならびに学術調査等には原則として応じられませんので、御賢察ください。

山号額 Temple's Name Tablet Displayed On The Main Hall

 明治14年(1881)の祖滅600遠忌を記念して制作された扁額。当山檀越で彫刻家の岡村梅軒の作になり、現在、本堂正面に掲げられています。

The wooden tablet on the main hall simply reads "Hojuzan". The formal name of our temple is "Hojuzan Yodenji".
It is said that the characters on the tablet was written by Baiken Okamua, a parishioner of Yodenji.

岡村梅軒作「法住山 山号額」

法住山要傳寺は、古くは「令法久住山 法華要傳寺(りょうぼうくじゅうざん ほっけようでんじ)」と呼称されていました。具(つぶさ)には、「法住山」は、法華経見宝塔品の「令法久住(法をして久しく住せしむ)」の経文を語源にもつ山号で、正法(妙法蓮華経)を永遠にこの娑婆世界に存続せしめるという意味があります。また、「要傳寺」とは、末法の要法(かなめの教法)たる南無妙法蓮華経の五字七字を弘め伝える寺という意味です。即ち、「法住山要傳寺」とは、釈迦牟尼仏の遺した法華経と日蓮聖人やその弟子たちが死身弘法した南無妙法蓮華経の七字を、この娑婆世界に久遠に伝え、広宣流布する寺という意になります。

満願清正公堂旧蔵対聯 The Signboards of Seishoko Hall

 織豊時代から江戸時代初期に活躍した加藤清正(1562-1611)は日蓮宗に帰依した武将のひとりですが、日蓮宗ではのちに清正を異能・権化の人とする伝承が生まれ、清正公大神祇と奉称し信仰する清正公(せいしょうこう・せいしょこ)信仰が盛んとなりました。
 かつて要傳寺には、安政3年(1856)に肥後の児玉峻徳が熊本より将来したと伝えられる満願清正公を安置しておりましたが、昭和46年(1971)の改築工事に伴い、同尊像を熊本本妙寺に返還したため、現在、当山には、清正公堂は存在しません。
 現在は、かつての清正公堂に掲げられていた「七言妙題化被万国法旗風」「十字鉄槍威服百魔神将霊」の聯句一対が残され、往事を偲ぶことができます。

Kato Kiyomasa (1562-1611) was a Japanese daimyo of the Azuchi Momoyama and Edo periods. He had belief of Nichiren sect of Buddhism. After he died, he was apotheosized as a god of war.
The belief which praises Kiyomasa soon spread in Japan. He was praised by many people by a name of a god as "Seishoko".
There was a hall where Kato Kiyomasa's statue is enshrined in Yodenji formerly. Now we have a pair of signboard which were there before.

岡村梅軒作「旧清正公堂対聯」

対聯は、「七言妙題の化、万国を法旗の風に被(おお)い、十字鉄槍の威、百魔神将霊を服す」と読み下します。清正の軍旗に掲げられた七字題目「南無妙法蓮華経」の経力(「化」とは教化・化導の意)は、ありとあらゆる国を正法の旗風で覆い、清正の手にした十字槍の威力は、数多くの魔神・将霊を降伏させる、という意味です。当聯板は、明治期の作で、当山檀越で彫刻家の岡村梅軒の手になるもの。
寸法は、1基につき縦193.7cm、横14.7cm、厚1.6cm。

浄行菩薩 Jogyo Bodhisattva

 浄行菩薩(じょうぎょうぼさつ)は、『妙法蓮華経(法華経)』に登場する菩薩で、釈尊から末法(まっぽう)の時世に『法華経』を弘めることを付嘱(ふぞく)され命じられた「本化地涌(ほんげじゆ)の菩薩」と呼ばれる菩薩衆のひとり。
 その呼称から、日蓮宗では古くより、衆生の身心を浄らかにする徳を有した菩薩として信奉されております。人々は、浄行菩薩の身体を洗い浄めることで、自身の汚れた六根(ろっこん)を清浄(しょうじょう)にし、迷いの煩悩(ぼんのう)から解脱(げだつ)することを祈念しました。

In Chapter 15 of the Lotus Sutra, many superior Bodhisattvas appears from the space beneath this world "Saha" with a request of a Buddha. They are the original disciples of the Eternal Shakamuni Buddha, and are responsible for propagating the Lotus Sutra in the age of the end when the Dharma fell.
Pure Practice Bodhisattva "Jogyo" is one of them. The meaning of "jogyo" shows "virtue of clean water", so it's believed as "Buddhist statue of an amulet".
If you wash a body of this Bodhisattva, your sickness and the pain of your body would be taken.

石造浄行菩薩立像

要傳寺の石仏の中で古くから庶民に信仰された菩薩。銅板画「東京市下谷区上根岸町日蓮宗法住山要伝寺之景」(前掲)では、浄行堂に奉安されている様子が見て取れます。現在は、当山の境内地に奉安されています。像高91.0cm、総高112.0cm。

おはつ地蔵尊 Ohatsu Kshitigarbha

 大正11年(1922)7月2日、当山檀徒山本春吉の五女はつ(当時10歳)が、深川にあった養子先の松村関蔵宅にて養母の兼崎まきによって折檻を受け死亡した事件で、おはつの死を哀れんだ近所の者達が、供養のために「おはつ地蔵」と呼ぶ地蔵を造立し、蔵前の榧寺(かやでら)や坂本の要傳寺(当山)に納めたと伝えられます。
 この事件は、継子(ままこ)いじめの芝居に仕組まれ、映画にも作られて、当時の庶民大衆の涙をさそいました。終わりの場面には、おはつの幽霊が出て、鬼夫婦を苦しめるのがお決まりであったといいます。また、三味線漫談家・俗曲師として知られる玉川スミ師匠が、昭和2年(1927)に芸名を「地紙家澄子」と改名した頃に、「お初地蔵劇団」の座長を務め、「お初地蔵」を演じたこともありました。

【参考文献・資料】
『東京朝日新聞』大正11年7月6日号、同7月7日号、同7月9日号、同7月10日号、同9月28日号、11月21日号、12月14日号
「お初地蔵―大正の継子いじめ―」『東京事件史〈明治・大正編〉』(加太こうじ著、昭和55年9月、一声社刊)

石造おはつ地蔵立像

「妙生童女」供養のために造立された地蔵尊。現在は当山の墓域内に奉安されています。像高64.0cm/総高126.0cm。
本像は、厚生労働省主催の「子どもの虐待防止推進全国フォーラムinおおいた」(平成25年11月16日)において紹介されました。

鰐口 Waniguchi,the temple gong

 要傳寺に格護される鰐口は、その銘文から安政3年(1856)、西村和泉守(にしむらいずみのかみ)の制作になることが読み取れ、当山第25世日随上人(〜1856)の代に奉納されました(ただし当山の歴代譜では智祐院日随上人は第27世)。西村和泉守は江戸を代表する鋳物師で、本鰐口は第9代西村政時の作例と推定されます。
 法量は面径31.8cm・胴厚13.3cm、銅製鋳造で、中央の撞座(つきざ)には表裏ともに単弁十六葉蓮華文(たんべんじゅうろくようれんげもん)が、表面の銘帯(めいたい)は題目講中による奉納銘が陰刻されています。
 本鰐口は、近世後期の江戸を代表する鋳物師の活動や鋳造技術を知る上で重要な作品であること、また江戸時代の資料を失っている当山の実態や根岸の歴史を伝える貴重な資料であることなどが理由となり、令和3年度台東区区民文化財台帳に「台東区有形文化財(工芸品)」として登載されました。台東区教育委員会生涯学習課編『台東区の文化財』第18集(台東区教育委員会生涯学習課、2023,3)収載。

鰐口銘文

奉 納
安政三丙辰年六月大安日
 下谷坂本
  本願主 二葉氏
      大工勇吉
      太田幸太郎
      同 銀太郎
  世話人 百足屋源治郎
      仕立屋兼松
      小川屋重五郎
      舟藤嘉兵エ
      太田吉治郎
      同 兼助
      伊勢屋善六
      家主 弥七
 題目講中
法住山要傳寺廿五世日随代
      西村和泉守作

時代小説の中の要傳寺 Yodenji In The Historical Novels

 要傳寺は、『剣客商売』『鬼平犯科帳』『仇討ち』『江戸の暗黒街』など、池波正太郎の時代小説にもしばしば登場します。

Yodenji is often drawn by some historical novels of Shotaro Ikenami. Shotaro Ikenami (1923-1990) was a Japanese author.
He wrote many Japanese historical novels, including "Onihei Hankacho" that is set in downtown Edo.

■池波正太郎記念文庫 Ikenami Shotaro Memorial Museum■


「要伝寺とその界隈」『池波正太郎作品の舞台』高札

『剣客商売』「女武芸者」(新潮社、1973年)

 善性寺(ぜんしょうじ)門前をすぎた三冬は、肩で風を切るようにして坂本二丁目と三丁目の境の小道を、左へ切れこんだ。右手には和泉屋から借りた提灯を持ち、なんと左手は小生意気(こなまいき)なふところ手にし、要伝寺(ようでんじ)の塀に沿ってななめ右へ曲った。
 このあたりへ入ると、道も暗く、人の往来も絶えている。前面には木立と百姓地がひろがってい、景観は、まったく田園のものに変る。
 間もなく根岸の里になるわけだが、ものの本に、
 「呉竹(くれたけ)の根岸の里は上野の山陰(やまかげ)にして、幽婉(ゆうえん)なるところ。都下の遊人これを好む。この里に産する鶯(うぐいす)の声は世に賞愛せられたり」
 と、あるように、諸家の寮や風流人の隠宅がすくなくない。
 要伝寺の塀がつきて、寛永寺領地の鬱蒼(うっそう)とした木立が右手へあらわれた。
 三冬は立ちどまって、
 「雪か・・・」
 と、つぶやいた。

『剣客商売』辻斬り「三冬の乳房」(新潮社、1983年)

 夕餉(ゆうげ)を馳走(ちそう)になり、三冬が和泉屋を出たのは五ツ(午後八時)をまわっていたろう。
 女ながら井関一刀流の剣士で、颯爽(さっそう)たる男装の三冬だけに、夜歩きをしたところで案ずることもない。
 すらりとした体を黒の小袖と茶宇縞(ちゃうじま)の袴(はかま)につつみ、細身の大小を腰にした若衆髷(まげ)の佐々木三冬は、むらさき縮緬(ちりめん)の頭巾(ずきん)をかぶり、上野山下から車坂へ出て、坂本通りを北へすすみ、坂本二丁目と三丁目の境の小道を西へ切りこんで行く。
 (あ・・・そうじゃ。ちょうど、去年の今ごろであった・・・)
 三冬は、要伝寺(ようでんじ)の前へさしかかったとき、おもい出した。
 あの夜。この先の木立の道で、三冬は四人の曲者(くせもの)の奇襲をうけ、あやうく重傷を負うところを、秋山小兵衛に助けられた。
 (あのとき、小兵衛先生を、はじめて見たのだった・・・)
 三冬の、小兵衛老人へ対する思慕の念は、いまもって消えはせぬ。いや、いよいよ強い。
 だか、いかに小兵衛を慕(した)ったところで、どうにもなるものではない。そして、自分と同年のおはるを小兵衛が嫁にしていることなど、三冬は夢にも考えていなかった。
 小兵衛が三冬を見る眼(まな)ざしは、まるで、自分のむすめに対するようなものだし、三冬自身も、それは、さすがに感得できるのである。
 (いかに、わたしが秋山先生を、お慕いしたとて・・・どうにもならぬことじゃ)
 なればこそ、小兵衛に会うのが辛(つら)い。

『鬼平犯科帳』巻19「雪の果て」(文芸春秋、1990年)

 藤田彦七の浪宅を出た木村忠吾は、要伝寺(ようでんじ)の門前を左へ折れ、坂本の大通りへ出た。
 すると、その後ろから、いつの間にか小間物の女行商の姿をした密偵のおまさが近寄って来て、振り向いた忠吾へ★(めくば)せをし、先へ立って歩みはじめた。
 おまさが忠吾をみちびいたのは、車坂をのぼり切ったところの凌雲院の前を左へ行き、上野山内の木立の中へであった。
 どこかで、鶯(うぐいす)が鳴いている。
 木々の枝の芽がふくらみ、土の香りが濃かった。
「おまさ、どうした?」
「旦那。要伝寺が見張り所になりましてね」
「えっ、藤田彦七の浪宅の前の、あの寺か?」
「はい」
「ずいぶんと早いことだな」
 平蔵の指令で、今朝から、そうなったという。
 要伝寺には、同心・小柳安五郎(こやなぎやすごろう)が密偵二名と詰めているとのことだ。
 そして更に、先程、木村忠吾が出て来た細道を見わたせる坂本通りの畳屋の中二階へも見張り所を設け、ここには同心・沢田小平次が、おまさと彦十と共に入った。

 ★は、「目」扁に「旬」

『鬼平犯科帳』巻19「雪の果て」(文芸春秋、1990年)

 すでに長谷川平蔵は、細川同心を従えて、中ノ郷・横川町の怪しげな家を見に出かけているし、前後して、与力の金子勝四郎(かねこかつしろう)が同心と密偵の二名を連れて横川町へおもむき、どこかへ見張り所を設ける手筈になっていた。
(これは、いそがしくなるぞ)
      〜中略〜
「そうだ。お前は、一足先に出て、要伝寺の見張り所へ、このことを知らせてくれ」
「ようござんす」
 腰をあげたおまさが、何気なく、中二階の小窓の隙間から外へ目をやって、
「あ・・・」
「どうした?」
「出て来ましたよ」
「何、藤田か?」
「ええ・・・」
 忠吾も見た。
 筋向いの細道から、藤田彦七があらわれ、上野山下の方へ行くのが見えた。
 そのうしろから、要伝寺に詰めている密偵の為造(ためぞう)があらわれた。
(もしやすると、気ばらしに、湯島の治郎八へでも行くのだろうか・・・それならば都合がいい。酒を酌みかわしながら、うまく聞き出せる)
 と、忠吾は大刀をつかんで、
「おれが藤田を尾ける。後をたのんだぞ、おまさ」
「はい」
 畳屋の裏口から出た木村忠吾は、大通りへ出て行き、密偵の為蔵に追いついた。
「あ、旦那・・・」
「よし。藤田は、おれが引き受ける。要伝寺へ帰っていてくれ」
「手つだわなくてようござんすか?」
「何、藤田は一杯やりに行くのだろうよ」
「さようで。では一つ、お願い申します」

『仇討ち』「顔」(角川書店、1977年)

 「あばよ」
 外へ出ると、ちらちら降り出していた。
 紙の中には一分(いちぶ)銀が二つ入っていた。
 (ふん)
 鼻でせせら笑ったが、小金吾の顔は変に硬張(こわば)っていたようだ。
 (今夜は、どこをねぐらにするか・・・)
 道を右へ切れこむと、突き当たりが要伝寺という寺で、その向こうに田圃がひろがっている。
 (このまま、凍え死んでしまいてえなあ・・・)
 ふらふらと雪の中を歩いて行く小金吾のうしろから、
 「お待ち下さいまし」
 声が、かかった。
 「だれだね」
 「ふなやの女房でございますよ」
 「ほう・・・」
 要伝寺の門前であった。
 おしんは半蔵にもいわず、そっと裏口からぬけ出し、小金吾を追って来たものらしい。

『江戸の暗黒街』「だれも知らない」(角川書店、1979年)

 「人ひとり、斬っていただきたい」
 必死のおもいで半五郎はいったのだが、浪人は平気な顔で、
 「殺すのだね」
 念を押した。
 「い、いかにも・・・」
 「金をいくらくれるね?」
 「さ、三十両、では、いかがで?」
 「安いな」
 「それが精いっぱいのところで・・・」
 三十両といえば、現在の百二、三十万というところであろう。
 「殺しの事情(わけ)は?」
 「それは、その・・・」
 「いえぬのか。よし、きくまい。そのかわり五十両いただきたい。だめなら、ことわる」
 「いや、出します、出します。な、何とかこしらえます」
     〜中略〜
 「うむ・・・で、殺す相手は?」
 「下谷・坂本裏の要伝寺内に住む浪人で、名を井関十兵衛という。もしやすると変名をつかっているやも知れぬが・・・年は三十一歳。そうだ、この唇の右下からあごへかけて刀の傷痕(きずあと)が残っている筈(はず)でござる」
 「ふうむ・・・それだけきけば、じゅうぶんだな。おれの名は山口七郎。貴公は?」
 「夏目、半五郎と申す」

『江戸の暗黒街』「だれも知らない」(角川書店、1979年)

 (ああ、いやだ。父上はなぜ、十兵衛と喧嘩(けんか)なぞしたのだろう…)
 落ちついていられなくなると、半五郎は、近くの根津権現(ごんげん)・門前にある岡場所へ娼婦(しょうふ)を買いに出かけた。
 井関十兵衛を見たのも、こうした一日であって、昼あそびの女の白粉(おしろい)の香がべったりと残っている躰で、半五郎がふらふらと根津権現の境内へ歩み出したとき、右側の茶店の奥の腰かけで酒を飲んでいる十兵衛を偶然に発見したのである。
 「あっ…」
 おもわず声を発し、半五郎は横飛びに逃げ、道をへだてた木蔭(こかげ)から様子をうかがっていると、十兵衛は酒をのみ終え、やがて編笠をかぶって道へ出て来た。
 堂々たる体格で、悠然(ゆうぜん)と地をふみしめて行く十兵衛の後姿を見ると、
 (ああ…やはり、おれには斬れない)
 ためいきをついた半五郎だが、しかし、せっかく見つけた敵である。居所だけでもたしかめておこうという気もちがうごき、びくびくしながら後をつけ、十兵衛が坂本裏の要伝寺内へ入るのを見とどけた。
 そして、三日ほどかかり、十兵衛が要伝寺の庫裡(くり)の離れに住んでいることを確認したのである。
     〜中略〜
 夜ふけに忍びこんで、十兵衛がねむっているところを斬ろう、とも思い、一度、ふるえながら要伝寺内に忍びこんで見た。
 このときは、便所へでも起きたらしい寺僧が渡り廊下から、
 「そこにしゃがみこんでいなさるのは、だれじゃ?」
 大声でとがめられ、半五郎は冷汗びっしょりとなって狂人のように逃げ出したものである。
 こうしたときに…。
 夏目半五郎は、乞食(こじき)浪人の山口七郎を発見したわけであった。

『江戸の暗黒街』「だれも知らない」(角川書店、1979年)

 翌日から三日ほど、山口浪人は坂本の要伝寺へ、井関十兵衛の様子をさぐりに行った。
 山口七郎は捨蔵の着物を借り、髪も町人まげにゆい、刀も差さず、すっかりかたちを変えて出かけて行ったのだが…。
 三日目に帰って来て、
 「おい捨蔵。やめにしたよ」
 と、いう。
 「いけませんかえ?」
 「なかなか強そうだ、その井関十兵衛という男」
 「ふうん…」
 「だまし討ちにかかるような男ではない。おれと斬(き)り合って五分五分だよ。向こうも斬るかわり、おれも斬られる」
 「うしろからお殺(や)んなすったら、どんなもので?」
 「それがさ。めったに外へは出ぬし…そうだな、昨日な、浅草まで出かけたので後をつけて見たが…」
 「ふん、ふん」
 「後姿に毛ほどの隙(すき)もねえ」
 「へへえ…」
 「相当なものだ。やるとしたら、こっちも、いのちがけよ」
 「ふうん…」
 「つまらん。後金の二十五両はほしいが、むりをしてやることはねえわさ。おれは今夜から当分消える。あとはたのむぞ。なに、どこへ行ったか見当もつかぬ、と、そういっておけよ、あの夏目とかいう男にな」

『江戸の暗黒街』「だれも知らない」(角川書店、1979年)

 「おのれ。まんまと二十五両をだまし盗(と)られた…」
 ついにさとったらしい。
 「まったくねえ。あの山口七郎先生というのは、大した悪党でごぜえますからねえ。この私なぞも何度その、泣かされたか知れませんので、へい…」
 「そ、そうか。やはり、そんなやつだったのか」
 「へい、へい」
 「おのれ。出会ったら只(ただ)ではおかぬ」
 憤慨しつつ、半五郎は帰って行った。
 その足で半五郎は、坂本の要伝寺をさぐって見ると、どうも井関十兵衛は要伝寺から姿を消したらしい。
 「お寺の離れに住んでいた浪人さまは、四日ほど前に、旅姿で、朝早くどこかへ出て行きましたよ」
 と、寺の前の百姓家の女房が、半五郎の問いにこたえた。
 その通りである。
 井関十兵衛は、このごろ、どうも落ちつかなくなっていた。
 (だれかに、後をつけられている)
 という直感であった。
     〜中略〜
 その後も、要伝寺のまわりをだれかがさぐりまわっているらしい。
 寺の小坊主(こぼうず)が、
 「あやしい男が庭の茂みにしゃがみこんでおりました」
 といったが、それも十兵衛にとっては気味がわるい。
     〜中略〜
 つにい井関十兵衛は、要伝寺を引きはらって逃げたのであった。

『江戸の暗黒街』「だれも知らない」(角川書店、1979年)

 腰の大刀を抜きはらい、境の襖(ふすま)を開け、賊は突風のように寝所へ躍りこみ、
 「さわぐな」
 白刃(はくじん)を十兵衛の裸の背へ突きつけた。
     〜中略〜
 賊は、手向いをしなければ殺すつもりはなかったらしいのだが、十兵衛は町医者に似合わぬあざやかな体のさばきで脇差をつかんだものだから(もうこれまで)と思ったのであろう。
 「くそ!!」
 片ひざを立てて脇差を抜こうとした十兵衛へ刀を打ちこんだ。
 「うわ、わわ…」
 賊も只者(ただもの)ではない。間髪を入れぬ斬撃(ざんげき)であって、十兵衛もかわしきれなかった。
 血飛沫(ちしぶき)をあげ、十兵衛が倒れ伏した。
 「う、うう…」
 そのうめきが最後で、彼は、あっけなく即死したのである。
     〜中略〜
 死んだ井関十兵衛を見下し、
 「ばかな野郎だ、まったく…」
 舌うちを洩(も)らした。
 この賊…なんと、乞食(こじき)浪人の山口七郎なのである。
 三年前、夏目半五郎にたのまれ、坂本の要伝寺附近で、遠くから十兵衛の顔や姿を見かけもしたし、一度は、浅草まで後をつけたこともある山口浪人だったが、そのことはもう忘れてしまっている。
 いま、はね起きたときの十兵衛の顔を見るには見たが、口のまわりからあご、のどもとにかけて、見事に手入れをされた長いひげや、見ちがえるように肥(ふと)った十兵衛の顔貌(がんぼう)をちらりと見たところで、三年前のことを思い出すわけがなかった。

スライドショー「法住山要傳寺〜寺誌と霊宝」Presentation About Yodenji


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