五綱判(ごこうはん)とは、また五綱(五義)の教判とも呼ばれ、日蓮が弘長2年(1262)の『教機時国鈔』(『定遺』243頁)ならびに『顕謗法鈔』(『定遺』263頁)を初めとする一連の書において樹立した教・機・時・国・序(師)の五つの綱格を言う。日蓮自身は五義と言うが、今日ではこれを五綱と呼び習わしている。五綱判は、求道的・自行的側面から言えば諸経の中でも法華経→本門→妙法五字七字に帰入するための「教判の要綱」であり、また弘経的・化他行的見地から言えば行者が常に留意しておかなければならぬ「弘法の用心」として意義づけられる。
そもそも教判(教相判釈)とは、諸経の教理(教相)を一定の基準のもとに比較検討して浅深勝劣を判断(判釈)するための理論大系である。仏教が中国へ伝来した際、印度における経典の成立順序で伝播しなかったために、教判をもってこれを整理する必要が生じ、諸宗において様々な教判が確立された。例せば、天台宗の五時八教判、華厳宗の五教十宗判、真言宗の十住心顕密二教判および理同事勝判、法相宗の三時教判など、諸宗いずれも独自の教判を主張して自宗の依り所としたのである。
かくの如く、浅きを捨てて深きを取るための手段となるのが中国仏教における教判の意義だったのであるが、日本の鎌倉仏教に至ると、法然房源空が「理深解微」「捨閉閣抛」を提唱して、深きを去って浅きを取る機教相応の聖浄二門判を樹立し、他力易行の専修念仏を確立することとなる。この時機に適った仏法選択の方法は従来の諸宗における教判には見られない画期的なものであった。これに対して日蓮は、文永元年(1264)の『題目弥陀名号勝劣事』(『定遺』296頁)において、法然の見解は時についての識知はあるものの、種の良否、即ち教法浅深の判断を誤っていることを指摘している。この法然の機教相応判に対抗するを目的として生まれたのが日蓮の五綱判であったと推測することができる。
日蓮は、諸経・諸宗ごとに法華・真言・念仏三宗の勝劣を課題とした多年の研鑽の末、建長五年(1253)より法華題目の唱導を開始し、その結果数々の法難を被ることとなった。まず、日蓮は弘長元年(1261)の伊豆流罪を機に法華経の末法為正・末法流布の必然性を確信するに至り、前掲の『教機時国鈔』等において求道・弘教の指針として教(弘まるべき仏法の教え)・機(仏法を受けるべき衆生の機根)・時(仏法が弘まるべき時期)・国(仏法が弘まるべき国土)・序(教法流布の先後)の五綱の教判を発表した。更に、文永8年(1271)の佐渡流罪を経た後は、本化上行の末法応現という師自覚を披瀝して、文永12年(1275)の『曽谷入道殿許御書』(895頁)等において、五綱中の師綱が序綱に取って代わることとなったのである。
五綱の依文としては、古来より、『法華経』如来神力品の「於如来滅後(時)知仏所説経(教)因縁(機・国)及次第(序)随義如実説(師)」の偈文が当てられており、文永12年(1275)の『神国王御書』(886頁)には、これをほのめかす文面も見られる。また、このほかにも、『涅槃経』梵行品の七善法(知法・知義・知時・知足・知自・知衆・知尊卑)と五綱判との関連が想定されている。
次に、五綱の順序であるが、まず教が第一に置かれ、ついで機・時と次第するのは、法然の機教相応判に対する措置の意かと思われる。五綱の順序は身延期に入ると変化し、前掲の『曽谷入道殿許御書』では第五の序は師へと転換される。これは客観的な歴史考察としての一綱であった序綱(教法流布の先後)が、教法流布の前後を正しく導く師の主体的な自覚に置き換えられたことを意味するのである。
教・機・時・国・序(師)の五義の教判によって日蓮が達した結論は、まず「教」とは、本門の法華経である南無妙法蓮華経の五字七字であり、「機」とは、劣機鈍根の機類とされる我々末代の凡夫であり、「時」とは、仏滅後2001年に訪れる末法の今時であり、「国」とは、東方の辺境・辺土の日本国であり、「序」とは、爾前諸経や法華経迹門に基づいた仏法が流布した後であり、「師」とは、教・機・時・国の次第を知り、これを自覚し実践する本化上行菩薩の末法応現に相当する仏教者である、ということであった。
かくして日蓮の五綱判は、諸宗の教判が教法の浅深や時の機類による行法の取捨を判ずるだけのものであるのに対して、それらの教判のもつ精髄を包括して意義あらしめるとともに、理・教・行・証の四面を明らかにして、宗教活動における自覚と弘教の方軌を示すものとなっていったのである。
三大秘法(さんだいひほう)は、略して三秘(さんぴ)とも称す。法華経本門の教主である久遠の釈迦が久遠の弟子たる本化の菩薩に付嘱した南無妙法蓮華経の一大秘法に立脚して開出・展開された法門である。日蓮は、この一大秘法をもととして、「本門の本尊」「本門の題目」「本門の戒壇」を開示した。これを三大秘法と呼ぶ。
日蓮は、文永11(1274)年の『法華取要抄』において、初めて「本門の本尊と戒壇と題目」(『定遺』815頁)の語を用い、これを総称して「本門の三の法門」(『定遺』818頁)と呼んでいる。「三大秘法」の名目は、弘安4年(1281)年の執筆と伝えられる『三大秘法禀承事』(『定遺』1864・1865頁)のみに見えるところであるが、本書の真蹟は伝わらない。また、三大秘法の具体的内容については、建治2年(1276)撰述の『報恩抄』(『定遺』1248頁)の「一は日本乃至一閻浮提一同に本門の教主釈尊を本尊とすべし。所謂宝塔の内の釈迦多宝外の諸仏並に上行等の四菩薩脇士となるべし。二には本門の戒壇。三には日本乃至漢土月氏一閻浮提に人ことに有智無智をきらはず同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱べし。此事いまだひろまらず。一閻浮提の内に仏滅後二千二百二十五年が間一人も唱えず。日蓮一人南無妙法蓮華経南無妙法蓮華経等と声もをしまず唱るなり」との記述が参考となる。
第一の「本門の本尊」とは、『報恩抄』(『定遺』1248頁)の説示によれば、法華経如来寿量品で久遠実成を説いた釈迦、つまり久遠本仏の釈迦如来である。また、『如来滅後五五百歳始観心本尊抄』(『定遺』712〜713頁)、『報恩抄』(『定遺』1248頁)の説示を論拠として、両抄でいうところの「本尊」が、法華経の霊鷲山虚空会(見宝塔品〜嘱累品)の説会を再現・図顕した大曼荼羅の特色と相似しているところから、従来は大曼荼羅も本尊として位置づけられてきた。ただし、日蓮の真蹟遺文中には、三大秘法の第一を指し示す「本尊」の用語はあるが、「大曼荼羅」という表現は見えず、また真蹟遺文中に「大曼荼羅本尊」という造語も確認できない。すなわち、管見の限りでは、真蹟現存遺文中に「本尊=大曼荼羅」と規定する直接的表現はないのである。これらの事実から推察するに、日蓮の定めた本尊は、「仰ぐところは釈迦仏」の叙述からもわかるように、「久遠実成の釈迦牟尼仏」だけであり、大曼荼羅は、その久遠の釈尊によって実現する救済の世界、法華経の本門に至ってはじめて霊鷲山の虚空会(霊山会上)に現れた霊山浄土、娑婆世界に即して顕現される娑婆即寂光土を表現した、まさに究極の法華経本門の「曼荼羅(曼陀羅)」であったと会通することが可能である。なお、これに関連して、『是日尼御書』(『定遺』1494頁)に「御本尊一ふくかきてまいらせ候」との間接的表現がみえ、本書でいう「本尊」が紙本の本尊つまり「大曼荼羅」をさす可能性が指摘でき、一方、大曼荼羅そのものに着目すると、大曼荼羅の讃文・要文・授与書等の中に「本尊」の用語を用いた例として唯一、文永11年(1274)12月染筆の通称「万年救護本尊」(千葉保田妙本寺蔵)に「大覚世尊御入滅より二千二百二十余年を経歴す。爾りと雖とも月・漢・日三ヵ国の間に未だ此の大本尊有らず。(中略)後五百歳の時、上行菩薩世に出現して、始めて之を弘宣す(原漢文)」との記述も見られるが、これらの事例は、大曼荼羅に勧請された「釈迦牟尼仏」をさして敷衍して「本尊」と呼んだもので、「大曼荼羅」全体を「本尊」と規定したものであるとは断定できない。他に類例をみないことが、その証である。
日蓮は、武蔵国池上で臨終を迎えるとき、枕頭に大曼荼羅をかかげ、随身仏を安置したと伝えられる。恐らく、随身仏の前には法華経が据えられたことは想像に固くない。これらが揃えられた背景には、法華経は随身仏である立像釈迦如来像の金口から発せられた金言の意味で、随身仏は霊山虚空会を顕した大曼荼羅から現れた久遠の本尊として、それぞれ意義づけられていたものと思われる。つまり、大曼荼羅が「本尊」なのではなく、大曼荼羅の二仏並座の釈迦如来こそが「本尊」であって、大曼荼羅はその背景画的意味合いをもつものではなかったか。事実、後世の日蓮教団においてその価値を重んじられてきた大曼荼羅であるが、六老僧日興が著した日蓮聖人の葬送記録である『日蓮聖人御遷化記録(宗祖御遷化記録)』(弘安5年10月16日、西山本門寺本)には記録かみえず、その理由は解明されていない。御経(『注法華経』か)・文机(『立正安国論』広本か)・仏(随身仏か)は記録があるにもかかわらず、大曼荼羅(特に臨滅度時の大曼荼羅)は遺品として登場していないのである。あるいは、柩の遺骸に掛けられていたのか、形見分けされた弟子日朗が懐にしまっていたのか、いずれにせよ大曼荼羅に対する門弟の意識を知る手掛かりとなるものである。
なお、現在、日蓮真蹟と認められている大曼荼羅の目録については、別表を参照のこと。
第二の「本門の戒壇」については、日蓮は詳しく語らない。仏門に入る者がその第一歩として戒律を授受する場が戒壇であるが、日蓮は法華経見宝塔品の「是名持戒(是れを持戒と名づく)」の文によって、難信難解難持の法華経を受持すること自体が、持戒に相当するという、「受持即持戒」の義に立脚しているので、法華経を信じ持つ当処(受持する場所)がすなわち戒壇であるという解釈をとることができる。たとえ何処であっても、本門の本尊を奉安し、本門の題目を行ずるその場が、すなわち「即是道場(即ち是れ道場なり)」(法華経如来神力品)の戒壇であると見なすのである。しかし、『法華取要抄』の草案とされる『取要抄』56丁表(文永11年、身延山久遠寺真蹟曽存、『延山録外』所収)によれば、「然りと雖も伝教大師、天台所存所残の一事此を得るの上、天台未談の迹門円頓の戒壇、始めて日本に之を建立す。仏滅後一千八百余年、月支・漢土・日本に之なし。第一大事の秘事なり」とみえるので、最澄の大乗戒壇は所詮は迹門の戒壇であること、本門の戒壇とは末法の時代にどこかに建立されるべき事相の戒壇(事の戒壇・事壇)であると日蓮が認識していた可能性があることを窺い知ることができる。
第三の「本門の題目」とは、釈迦の悟りを内包している法華経本門の教えに帰依・帰命(南無)する旨を表明した「南無妙法蓮華経」の七字である。天台大師智は、釈迦の悟りの内容を一念三千をもって論じたので、法華経の題目(経題)である「妙法蓮華経」の五字の中には、釈迦の内証(さとり)である一念三千を具足していると解釈することができる。我々はこの「妙法蓮華経」(五字)に「南無」(五字+二字=七字)するだけで、仏と同じ悟りを得ることができるというのである。なお、「妙法蓮華経」の五字は、釈迦の教えの内容そのものをさすから「教法の題目」、「南無妙法蓮華経」の七字は、帰依・信受するという我々の主体的な修行の意を包含するから「行法の題目」と呼ばれている。