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ブルボン小劇場のヒュースケン10
 >誰がヒュースケンか
KhasyaReport 2024/10/12



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ヒュースケン/フランク・レスリー新聞
Frank Leslies Illustrated Newspaper 1861-6-01 に掲載のヒュースケン画像。フランク・レスリーに掲載されているイラストはポンチ絵のようでペンタッチが荒いのだが、この画像はこの号の他のイラストと違い細かな作風だ。ハイネにも同様の肖像画が残されているが、このイラストと同様の筆のタッチ。ヒュースケン暗殺は衝撃的な事件で、当時の新聞は競うように事件の背景を掻き立てた。ューヨークのフランクレスリー新聞はこのイラストの右にある短い記事で殺害されたことを簡単に並べるだけだった。
 【今回のお話に入る前に】
 Liberté自由、Égalité 平等、Fraternité 連帯。フランス革命に浮かび上がるスローガン。これら三語の前にUnité, indivisibilité de la République(皆まとまれ、共和国のために)があり、これら三語の後ろにou la mort(さもなくば死)があった。革命後、ou la mortはスローガンから外れる。1848年2月27日のことだった。

今回の登場人物
久助 物語を進行する中心人物。ハリスと出会い日本行きを誘われた。5か国語を使いこなす。別名ヒュースケンとも。

治平 浅草橋墨田川近くに店を持つ版元。店と言っても他の版元の店先をちょっと使わせていただいているだけ。治平は歌舞伎錦絵、草双紙、読切、何でもありの出版通。度々名を変えるが、それだけ危ない出版をしている、のか。

カン 若い漢文学者。佐倉藩士。佐倉藩柏倉陣屋の代官田内与七郎の行状を書いたところから文才を治平に見込まれ、幕末の時代に即した惣五郎事件の新たな書下ろしを依頼されている。惣五郎はマルチルドムだ、という見解を示した福沢諭吉の『学問のすすめ』に痛く共鳴している。縫殿重久、西村茂樹にも刺激され、漢文作家からの脱出を目指すが、はて。

ヌイ殿 佐倉藩城代。藩主文明公堀田正睦が老中外国掛としてハリス、ヒュースケンに振り回され多忙を極め、京のミカドへ条約批准の許しを願いに行ったまま勤王攘夷の長州藩士らに幽閉され、脱出できない。文明公を救いに行ったが、ヌイ殿自身が命を狙われる事態になり、泡食って西村と共に京を抜け出した。政治は文系がやらあなきゃだめだよと常々言っている。




 第2幕 誰がヒュースケンか

 夜半にモリエールの「女学者たち」を読んでいたヒュースケンは急な激しい地震に見舞われ 落ちてきた鴨居の槍にあたって気を失った。気づくとブルボン小劇場の舞台で一癖ありそうなジャポネたちとテーブルを囲んでアブサンを啜っている。テーブルには「ゑひすのうわさ」注1が。

 さて「ゑひすのうわさ」の話のとっかかりはペリー襲来の幕末。アメリカが四隻の軍艦で江戸湾墨田川の入り江にまで入り込んで将軍へのご挨拶だとばかりに礼砲を最大限の21発打ち鳴らした。鳴らすのは国際海洋法上の決まりだから、それが強面軍人ペリーのやらかす脅しだとしても仕方あるまいとして、そんな事情は鎖国で世間知らずの江戸っ子には訳知らず、だから、右往左往の大騒ぎが江戸に起こり、日本国の津々浦々に拡散する。ヒュースケンはその渦に飲み込まれ薩摩藩の刺客に襲われた。以下は彼の死後の話。パリの文化が大好きなヒュースケンは、もう消え去ったブルボン小劇場で何やらおかしな連中とアブサンをちびりながら話し込んでいる。

第1場 レスリーの新聞、仮名書の草双紙

久助ヒュースケン ニューヨークのフランク・レスリー絵入新聞に載った私の死亡記事が一番素晴らしい。私のイラストの出来がとってもいい。私にそっくりそのままの好男子に描かれている。
治平 そうかねえ、ううん。
カン 治平さん、何か不満、あるのかい?
治平 仮名垣魯文の草紙物「ゑひすのうわさ」にも久助君が描かれてるんだけど。
カン 久助さん、人気者だね。やっぱり赤羽橋の事件の後に刷られた草紙本かい。
治平 いや、安政の地震の後、すぐだ。久助さんもハリス公使も下田の玉泉寺仮公使館に居る時だ。街を歩く久助さんが方々で活写されている。ほら。(と言いながら草紙をテーブルに出して、治平がページを開く。ぐうっと身を乗り出して見つめたカンが…)
写真
左ヘンリー・ヒュースケン;右タウンゼント・ハリス
 『ゑひすのうわさ』五,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223268
カン 久助さん、こんなに髭伸ばしていたんだ。注2
久助 これ私じゃない。ハリス公使の肖像も、これはあんまりだ。(フフフと笑いながら)なんてひどい描き方だ。まるでバーバリアンだ。
カン 仮名書さんは「ゑひすのうわさ」に久助さんをどう記したかね。
治平 どれどれ、「身の丈常人より二三寸高く、色白く髭は眉、髪刻みたばこのごとく短く縮みたり」と言ってるね。そして「目の色は若竹色、瞳は青い」とね。まさしく久助さんだ。
カン ハリス公使には「小アメリカ国正使ノ像」と説明がある。この絵は岩佐郷蔵様のご子息が描いたものを借用したとあるね。ご子息は江戸城本丸大奥警備職(御広敷役)で神田小川町に住むと…

  治平 こう来るんだよね。仮名書は商売がうまいんだ、岩佐郷蔵と聞けば江戸っ子は大喜び、喝采する。「ここに元本郷丸山本妙寺門前に岩佐剛蔵とて小心ながら将軍家のお旗本」と始まる大岡政談の郷蔵さんだから。
M Harrisはロンシイル セ子ラル トウンゼント ハアリルレスと書かれている。Harrisなら名にし負う200年前の古代和蘭語を操る私たちオランダ通辞が読んでもハァレスぐらいだけど「リル」が入ってハアリルレスとなるとは仮名書さん、よっぽど耳が良い。
治平 名にし負う、か。ハリス公使はオランダ通辞をこき下ろしてるもんね。仮名書はノンフィクションライターで編集者おまけに出版者だから方々こだわるのさ。アメリカ公使ハリスをこんなイメージにしとけばえびすは野蛮で獰猛なけだものてなるな。間抜けた風貌にしとけば、物見高くて自尊心高い江戸っ子は仮名書の草紙を買い求めてしまう。
ヒュースケン肖像  前回のmini Bookでも出てたけど、1861年6月1日のフランク・レスリー・イラスト新聞だよ。ほら見てごらん。久助さんの肖像。ゑびす版久助とはまったくの別人だ。全然ごっつくない。

ヒュースケン肖像 M レスリー新聞は久助さんのイラストが売りで記事の方はありきたりの事件報告。ま、警護の連中は久助さんが襲われても黙って見ていた、なんてことを記事に書いている。当時の情勢に切り込んで、「ヒュースケンは自業自得で私恨を買って殺された(ハリスの言)」なんて書いたほかの新聞もあったね注3
カン 治平さん、エゲレス語が読めるんですか。
治平 いや、M殿に読んでもらったからその受け売りだ。レスリー新聞のヒュースケンと仮名書の草紙のヒュースケンは同一かね。仮名書のひげを剃ればレスリーのヒュースケンにつながるかね。
ヒュースケン肖像 久助 下田の公使館に仮名書というライターは訪ねてきてないよ。勝手に下田の町の「うわさ」だけで書いてないか。
治平 久助さん、「ゑびす」にはあなたを描いた絵がまだまだあるよ。こっちはレスリー新聞と同じで鼻髭スタイルだ。
久助 これも絶対私じゃない。こんなにごっつくない。ニューヨーク・レスリー版が正しい私の肖像であると決めましょう。

誰がヒュースケン(久助)か

久助 サンジャヤント号から下田に上陸したとき、遠巻きだけど見物人がたくさんいたね。日用品の買い物に街を歩いても人だかりだ。
ヌイ 奉行所の人払いはありませんでしたか。幕府は町の衆に寺に近づかぬようにときつくお触れを出しているんだが。
久助 町を行けば人は騒ぐし、犬は吠えるし。私にかまわないのは猫だけだった。そうそう「御用所」がアメリカ国の公人二人はどちらの位が高いのかと訊いてきた。ハリス公使は御用所に腹を立てていて、もう役人と会わないとご立腹だからベル船長と私が公使の代わりに役所の対応をした。
久助は日記にこう書いている。

---whether the Commandore will or will not accompany the Consul,
and which one of them has the highest rank.
-

で、ベル船長が御用所役人にこう答えた。

----They are told that the ranks of Consul General and Commodore are
completely different,that one is diplomatic representive of his garvament while the other
is the chief of the United States naval forces in the sea of China and Japan.
  August 22, l856

  カン Mさん、これ何と言ってる?
M 御用所が尋ねたのは、公司と司令官はどちらがえらいか。ベル船長が応えたのは、公使と司令官は全く違うのでどちらが偉いなんて言えない。公使はアメリカ政府の代表、司令官はアメリカ海軍のトップ。
カン ハリス公使が御用所に腹立てたって何があったんですか?
久助 サンジャヤントが入港したときから公使は奉行あてに接遇の照会書を渡していた。ところが下田奉行所の返答は遅いしズタズタだ。ペリー総督の下田条約を守らずにアメリカへ帰れと言わんばかり。ハリス公使は癇癪もちだからへそが湯を沸かした。
ヌイ 湯を沸かさないで、へそが曲がるというの。困るね、そういう上司。ハリス公使は我文明公には随分と丁寧な物腰だったのだけど。
治平 お二人が日本に上陸した最初から日米の折衝はごたついていたんだねえ。
久助 公司の胃が悪くなるはずなんです。つい、ペリーの下田条約を破棄するなら黒船の大砲で下田を焼け野原にするぞ、なんて啖呵を切りたくなるぐらいに。
治平 ぶっそうな。久助さん、そんなこと言ったの? 隅田川を上って江戸城天守閣に大砲の照準を合わすって脅したって、本当のこと?
治平 もしや早くも日米開戦!
ヌイ 勇ましい話になってきましたが、文明公はハリスとの会談で商業貿易の利を説かれてまして、文明公は大いに賛同しておりました。治平さん、日米開戦なんて草紙物のノリはやめてね。
カン そりゃ、この先何がどうなるかわかりはしないけど。アメリカよりアジアで暴れまくっている英吉利、仏蘭西が攻めてきそうで危なそうだけど。
ヌイ 清国をいたぶった英吉利、仏蘭西が日本に襲い掛かることがあればアメリカは日本を防衛するとハリス公使は約束して、これは幸いと文明公が納得してやっと通商条約は結ばれた。何かきな臭いね。外交ってのは、なんだね、胡散臭い。注4
治平 ほんとかい、久助殿。
久助 ヌイ殿はおしゃべりだ。外交の秘密はそうそう話せない。
  (ひとまず幕が下りる) 次回へ

【参考文献】

The London and China Telegraph /Japan Herald,and Journal of The Eastaern Archipelago. London Satueday,April 13, 1861 VolⅢ No.58

Frank Leslie's Illustrated Newspaper New York June 1,1861 No.289-Vol.XIL p38

Japanese Gimin : Peasant Martyrs in Popular Memory
/ Ann Wathall 1986 https://www.jstor.org/stable/1864377

『ゑひすのうわさ』五,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223270 (参照 2024-03-08) ※作者著作年等不明とされるが幕府からの追及を避けて匿名を選んだ仮名垣魯文の作か

『ヒュースケン日本日記に出会ってから、』西岡たかし ROOTS MUSIC叢書 2  2002/10/1

Complete Journal of TOWNSEND HARRIS BY MARIO EMILIO COSENZA, PH.D.
https://libsysdigi.library.illinois.edu/OCA/Books2012-12/completejournal0harr/completejournal0harr.pdf

Japan journal 1855-1861 Henry Heusken January 1, 1964 by Rutgers University Press

KhasyaBook mini アーカイブ/ヒュースケン
ブルボン小劇場のヒュースケン2

ブルボン小劇場のヒュースケン1

ヒュースケン、夜半に「女学者」を読む
 1858年1月2日、午前1時、ヒュースケンはモリエールの喜劇「女学者」Les Femmes Savantesをベッドで……
ヒュースケンの予見
 1856年1月28日、蒸気船聖ジャシント号は米国を出港……

 タウンゼント・ハリス、コロンボでハルワを食す
 ハリスの1856年1月1日1日の日誌にこうある……
 ヒュースケンが、ゴールで記したこと
 ヘンリー・ヒュースケンは日本へ向かう途中、セイロンのゴールで……

ゑひすのうわさ巻2 表紙

『ゑひすのうわさ』二,写. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223268

「ゑひすのうわさ」は維新史料編纂事務局の綱要巻2の安政4年10月14日のハリス記事に参考文献として書名が上がっている。と言うことは、まあ、信頼できそうなことも載っている仮名垣魯文作(たぶん!)の草紙本。「ゑびす」---1853嘉永6年,1854嘉永6年年に東インド艦隊を率いて江戸湾に入ったマシュー・ペリーのことだ---がやって来たという騒動をルポしたのだが、その翌年に江戸大地震(安政地震・1855年11月11日)が起こり、ゑびすのことはひとまず置いて江戸大地震の詳細な記録を残している。とくに江戸住民の経済的な助け合いで復興を目指す姿を丁寧に描いている。

注1
 『ブルボン小劇場のヒュースケン』は「ゑひすのうわさ」のヒュースケンを下敷きにしている。仮名垣魯文の作だろうと言われる「ゑひすのうわさ」は幕府に都合が悪い内容を含む。幕府に都合の悪いことを書く輩は消しにかかる。そうなんだ、仮名書はちょっと前に出た安政地震記に名を書かなかったので幕府の摘発を免れたけど、名を記した絵描きたちは政府にひどい目にあった。  ヒュースケン研究者、ファンからは相手にされないけど「ゑひすのうわさ」にヒュースケン関連の記事がある、幕末ジャーナリスト、無冠の魯文。彼の作品だ。魯文はヒュースケンをどう描いた?
 彼の記事は誤認があって好い加減ってな貶しがある。しかし、肝心なことなのでここはゴジックにするけど記事にうそつきの悪意や作為はない 。むしろ即興で仕上げたニュース原稿ってなほやほやの雰囲気があってその文と絵の息遣いに熱気がこぼれている。



注2

写真
"『ヒュースケン日本日記』に出会ってから"の表紙に掲げられた写真 /西岡たかし/そしえて/2002

ヒュースケンが髭を伸ばしていたのかどうか。「五つの赤い風船」の西岡たかしが下田のハリス記念館へ行って確かめた写真がある。この写真では確かに髭を伸ばしている。
 ヒュースケン・ファンの彼はハリスとヒュースケンの加わった日本人との集合写真のあることを知ってみずから実物を確かめに行った。そしてこの銀板写真(鶏卵紙)の撮られた状況を知った。 撮影場所は下田ではなく江戸善福寺であること、ハリスとヒュースケンの間にいる子供は二人の手伝いをしながら英語を学ぶ書生だということ。このアメリカ公使館で働く人々の記念写真は西岡たかしの"『ヒュースケン日本日記』に出会ってから"の表紙を飾ることになる。
 そして、西岡たかしに新しい歌「瞳の青年」が生まれる。
 ピアノの音がぽつりぽつりと響く歌を聴きながら、ヒュースケンのごつい顔がやわらかに蕩けてゆくのを見た。youtubeの「瞳の青年」sito644に流れる西岡たかしの声。はじめ途切れ途切れに、ピアノの間奏を置いて、だんだん霧の晴れるように、白くぼんやりとした風景の中にはっきりと聞こえるようになる。西岡たかしのヒュースケンを歌う声? いや、ヒュースケンの声。
 昔、50年前に聞いた声。情緒、余韻。甦り消えゆく。こんなふうにヒュースケンがやって来た幕末の時代を風のように感じとれるなんて。

注3
 london and chaina newspaper 1861年4月26日号はヒュースケン殺害の結果、英国、米国公使の行動に何が起こったかの詳細を第1面から2面に掛けて掲載している。


 ヒュースケンの暗殺が起こっても米国のタウンゼント・ハリスは動じず江戸の公使館に残ったこと。 英国のオールコック(とその他の国の公使)は身の危険を覚え横浜に非難したこと。
 その結果、深夜のヒュースケン殺害は「日本人」に利をもたらしたこと。
the obvious design of the Japanese is intimidation, and they have succeded.(日本人の明白な意図は脅迫であり、彼らは成功した)。

 ハリスの江戸残留という行動はほかの欧州諸国公使らの賛同を得られず、かれは孤立する。各国がアメリカにの通商条約締結に続いて同様の条約を結びながら、そののち薩英戦争、下関戦争へと友好の事態が悪化していったことをアメリカに戻ったハリスはどんな思いで眺めていただろうか。暗闇に落ち世界が終わる。イザヤ書が予言する終末をこの島国に招いたのはハリス自身が背負ったミッションの大成功が招いた(と彼は自覚していた)のだから。 -----------------------------------------
注4

 ハリスには行く先の情景が見えている節がうかがえる。これまで日本にやって来た「ゑびす」の人々と同じような嘆息をハリスが漏らしている。
ハリスは日記にこう記した。

Grim reflections —ominous of change —undoubted beginning of the end. Query, —if for the real good of Japan?
厳しい反省をしよう。不吉な変化。間違いなく終わりの始まりだ。 答えよ、これは日本の真の利益になるのか?

 日本はほかのアジア諸国と違って国土が美しく整然としている。人びとはやさしい.私たちがこの国に土足で踏み込んで引き起こすことは「不吉な変化」それは「終わりの始まり」。間違いなく「終わりの始まり」。
 インド圏の貿易商を経て自ら望んでアメリカ公使となったハリス。この先、日本政府との通商条約折衝の間に、その激務からハリスが胃をこじらせて死ぬ思いをした事情がここに見えてくる。

 答えてください、これは日本の真の利益になるのか? ハリスは神に答えよと迫った。キリスト教聖教会の信徒としてのコンフェスだろうか。
神は答えたか。ハリスはこう綴った。

The San Jacinto left at five o'clock
サンジャシント号は5時に出航した

【参考】
--Saturday, August 23, 1856.
Go on shore with Captain Bell and Mr. Heusken. Visit the Temple Rioshen. It is badly placed for hot weather, being at the foot of a steep hill that shuts out the S. W. wind entirely, and is surrounded by stagnant pools and other disagreeables. We afterwards visited six or seven other temple

 ハリスの日記にはハリス、ベル船長、ヒュースケンの三人が下田に上陸したアメリカ人として登場する。ベル船長には数多の水兵も従っている。アメリカ側の上陸者はアームストロング東アジア艦隊司令官が加わるはずだがここにはいない。体調がすぐれないということでフリゲート戦艦サンジャシントに残って出て来ない。