セイロンのゼロ戦

サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦





サンフランシスコ平和会議とセイロンのゼロ戦
日本帝国軍機、セイロンを爆撃す映画にならなかったセイロンの日本兵
日本兵、トリンコで救助される映画にならなかったセイロンの日本兵
映画にならなかったセイロンの日本兵映画にならなかったセイロンの日本兵
爆撃関係資料1
爆撃関係資料2
参考→サンフランシスコ平和会議のことを詳しく知りたいのですが




日本帝国海軍戦没者慰霊碑
コロンボ・カナッテ

 サンフランシスコ平和会議と
   セイロンのゼロ戦



 1951年9月4日から8日に亘って米国サンフランシスコで開かれた平和会議。連合国が日本の独立を承認し、日本の再独立がこの会議で果たされた。
 平和会議の議場となったオペラ・ホールでセイロン(現スリランカ)の全権大使JRジャヤワルデネが日本の独立擁護の演説をした。仏陀の言葉を引用した彼の演説が各国代表に感銘を与えたことはよく知られている。参考→サンフランシスコ平和会議のことを詳しく知りたいのですが ジャヤワルデネの演説
 よく知られていると言ったが、残念だが、それは日本での話ではない。スリランカではだれもが知っているという意味だ。
 日本では防衛庁(今、防衛省となった)の戦後資料の中に、ジャヤワルデネの演説後、会場からは拍手が鳴りやまなかった、と記録されている。だが、日本人の多くはサンフランシスコ平和会議を知らない。忘れ去ることに長けた民族はこの平和会議を覚えていないし、ジャヤワルデネを知る人はまずいない。彼の演説が連合国の代表を感動させ、日本の再独立に大きく貢献したことも知らない。

 昭和54年、コロンボの共同墓地カナッテに日本軍兵士の慰霊碑が建てられた。沖縄返還の際、佐藤栄作首相の下、陰ながら力を尽くした越智啓介という男がその功によってスリランカ大使に栄転した。越智はセイロンに散った日本の戦士を忘れていなかった。
 アメリカを相手に戦争を仕掛けた日本はハワイのパールハーバー空爆の次に、セイロンのコロンボとトリンコマリを爆撃した。インド洋海戦の一環だった。南雲部隊はここでも急降下爆撃でその脅威を見せつけたが英国軍の対空砲撃と空中戦とで帝国軍機が撃ち落とされた。落とされたのは何機かの空爆機と一機のゼロ戦だ。
 撃ち落され捕虜となっり、この南の島でなくなった日本海軍兵士たちの慰霊碑を越智啓介はカナッテ共同墓地に建てた。
 コロンボ市営のカナッテ共同墓地。ここには、今も日本軍の爆撃で犠牲となった英国軍兵士を弔う英国人が訪れる。入り口の管理事務所で墓地入園の手続きを取る彼らの姿をよく見かける。だが、ここには参拝に訪れる日本人の姿はない。
 共同墓地正門を入り、中央通りを奥にまっすぐ進み12街区を右に曲がる。右手に日本人墓地として囲われた一角が現れる。この鉄枠の中の片隅に日本帝国海軍戦没者の慰霊碑がひっそりと建っている。
 碑文全文は以下のとおり。

第二次大戦中大日本帝国海軍戦死者の遺体を丁重に埋葬供養されたスリランカ国民の「愛」を記念し戦死者の霊の平安を祈り之を建つ
      昭和五十四年十月十八日
          日本国特命全権大使  越智啓介


コロンボ・カナッテ正門

 このカナッテ(共同墓地)にはスリランカ初代首相ドン・ステファン・セナーナヤカの墓も、シンハラ・ジャーティヤ紙の卓越したジャーナリストだったピヤダーサ・シリセーナの墓もある。誰もが平等に、同じ地平を分かって眠っている。
 入口の管理事務所で見かけた墓参の英国人は正面入り口の左手に向かい英国海軍戦士を埋葬した一角に行く。日英の戦士がここに安らかに眠っている。


帝国海軍慰霊碑正面

 南雲部隊の戦士が国を守るために行った業績をたたえる文には「戦死者の霊の平安を祈り」とある。カギ括弧つきの「愛」という文字は捕虜となった日本兵の死を丁重に葬ってくれたスリランカの人々への限りない賛辞だ。

 神と賞賛された南雲部隊。その戦後は空虚に過ぎる。この日本はすでに戦争の神を失い戦争を批判する理性も失った。あてがいぶちの憲法を疎い、庁を省に昇格させて9条を壊し、さて、次は。
 再び他国から「愛」を恵みいただく軍人を生もうとしている。


カナッテの日本人墓地

 白い塀と鉄棒の門で囲まれた日本人墓地。ヒデキ・グループの故カルパゲさんがその奥に眠っている。写真右、鉄の囲いの外に白く見えるのが彼の墓だ。
 マザー・テレサの笑顔に見守られる彼の墓に向かって歩く。彼が眠る場所に佇んでやわらかな安らぎを覚える。墓の前に日本式の線香を灯す石台が置かれている。香の煙が漂い、一筋の紫が空へ昇って行った。


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