絵、なに?(60) モナリザのモデル  1/16/08
 ダ・ヴィンチファンにとっては見逃すことのできないニュースが流れました。ドイツの大学図書館で、ダ・ヴィンチがフィレンツェの商人ジョコンドの妻リザをモデルに肖像画を描いている、という手書きのメモが見つかり、モナリザのモデルである決定的な証拠と考えられるらしいのです。
 モデルについてはこれまでに、母親だとかレオナルド自身だとか諸説あり、ジョコンド夫人説はその中で最も有力なものでした。今回のメモの発見はそれを裏付けるわけだから、ビッグニュースといえるでしょう。昨日インターネットで見つけたとき、おお、すごいなあと思いましたよ。
 しかしこれは、ダ・ヴィンチやモナリザに関するこれまでの評価を大きく変えるものではなく、たとえて言えば、ジグソーパズルの失われていたピースが見つかって、それは予想していたものだった、という感じではないでしょうか。
 モナリザのモデルがいま特定されたとは言っても、いろんな本を読んでいると、結局のところ、このジョコンド夫人は単なるきっかけでしかなかったと言うことがわかります。この作品はレオナルドが晩年、死ぬまで手元に置いて描き続けた3枚のうちの一つと言われています。そこには通常の肖像画に見られる約束事が見出せないらしい。謎の微笑と言うことがよく言われますが、それだけにとどまらず、ここに描かれているものは人物も背景も、すべての点で単なる肖像画というレベルを超えてしまっているのです。
 最後まで手を入れ続けたこの絵は、もはやクライアントに渡すためのものではなくなってしまい、もう一つたとえで言うと、「2001年宇宙の旅」のディスカバリー号のように、木星の彼方、永遠の世界に飛んでいってしまったわけです。つまりレオナルドはこの画面に何を描いていたかというと、自画像とも言えるし、母親とも言える。女性、いや人間の理想でもあり、宇宙でもある。それくらいのものなのです。
  だからこれまで研究者たちが主張してきた説のうちの一つだけが正解として選ばれたのではなく、ダ・ヴィンチの世界の一部がほんの少しだけクリアになった、ということなのでしょう。
 でもこんな発見があるのなら、レオナルドの失われた手記がどこかでまた見つかるというのも夢ではないかも知れません。ぼくはひそかに、というよりおおっぴらに期待しているのです。

絵、なに?(59) 鳥獣戯画の天才的な線  11/22
 行って来ました、鳥獣戯画展へ。六本木サントリー美術館で12月16日まで開催中。
 春からずっと見たかった展覧会でした。実物の筆遣い、墨の濃淡や紙の質感をこの目で確かめたかったのです。今日改めて思ったことは、12世紀にこんな画家が日本に出現したというのはほとんど奇跡じゃないかと言うことです。同時代の世界を眺め回して、この人に匹敵する画家が果たしていたんだろうかと思うのです。その特徴は洗練されたデッサン力とユーモア、ということになるでしょうか。
デッサン力――線の幅と濃淡で、単なる輪郭だけでなく量感も表しています。強弱が的確。そして 動物の骨格を保ちながら人間の動きを表している。動物たちの躍動感が筆のタッチで見事に表現されているのです。人間と動物の両方を徹底的に観察しないとこんな絵は描けないでしょう。草木や水の表現も、見れば見るほどため息が出ます。
ユーモア――動物たちの仕草や表情のなんとユーモラスなことか。視点が常に大衆の側にありながら、でも大衆におもねってもいない。表現者が高い表現技術を身につけるうちに深刻になっていくのは比較的たやすいかも知れないけれど、その技術をもってユーモアを表現できる(厭世的にも下品にもならない)というのは並大抵の技ではないと思います。ちなみに、この時代にこういう作品が生まれたと言うことは、社会背景にユーモアを解する土壌があったと言うことでしょう。

 それは西洋の絵画とはまったく異なる性格のもので、ふとぼくは、ダ・ヴィンチがこの絵巻を見たらどんな感想を持ったろう、と思いました。聞いてみたい気がします。ぼくにとっては、どちらも感動を与える芸術です。
 鳥獣戯画は甲・乙・丙・丁の4巻から成っていますが、ぼくが興味を持っているのはほとんど甲巻だけです。誰もが思い浮かべる兎や蛙たちのあの絵柄です。今日の展覧会で、乙も悪くないなと評価し直しましたが、丙・丁に至っては、線も形も内容も、ぼく個人の見解では雲泥の差だと思っているのです(だからここでは一切コメントしません)。
 この絵巻が後世に与えた影響は大きかったようで、いろんな人が模写をしたり、似たような作品を作っています。江戸時代にあの狩野探幽も模写していたのだと、今日展示されているのを見て、初めて知りました。もちろん探幽も天才絵師ですが、しかし少なくとも鳥獣戯画について言えば、模写は模写。オリジナルを超えることはできないのだなあと、つくづく感じたのでした。
  それにしても、内容から言って入場料1300円はちょっと高いんじゃないかなと思いましたよ。最も不満に感じたのは、各巻がそれぞれ会期中前半と後半に分かれて、半分ずつしか展示されないこと。それだったら、1枚の入場券で後半も入場できるようにしてほしいですね。土地代が入場料に反映されているんじゃないか? 近くの国立新美術館でやっているフェルメールとオランダ風俗画展だって、展示作品中、フェルメールは1点しかないのに、入場料は1500円も取っています。今回こちらはパス。
 六本木ヒルズといい、ミッドタウンといい、六本木って場所は人を最初から選り分けている印象があります。生活している人間が感じられなくて、どうも好きになれないんだなあ、田舎者のぼくは。と、よけいなぼやきに脱線しておしまい。

絵、なに?(58) 漱石展  10/31 
 ここ数日続いていた仕事が小休止したので、江戸東京博物館へ漱石展を見に行って来ました。3時間たっぷりと見て回りました。
 漱石のどこがいいかというと、言っていることがちっとも古びていないところ。読んでいて、これは現代のことだ、これはぼくのことだと思えるのです。文豪と呼ばれる人たちの中で、今でも人気のある作家としては太宰や芥川も挙げられますが、ぼくは太宰は好きじゃない。これはまるっきり好みの問題なんですが、三島じゃないけど「ぼくはあなたの文学は嫌いです」と言いたくなる(例外は「御伽草子」と「走れメロス」)。特にこの年齢になると強く思います。漱石となら生涯つきあいたい。漱石の知性にぼくは遠く及びませんが、この人の話なら聞いていたいと思うわけです。
 その偉大なる知性をこの展覧会で改めて実感しました。ぼくが意識して漱石の作品を読むようになったのは5年ほど前からですが、ここまでに読んできた漱石の作品や漱石関連の本で得た知識に新たな光があてられて、より広がりと深まりを見せたように思います。
 展示されているのは、学生時代のノートや、所蔵していた本や、手紙、絵画、書、関連資料など。驚いたのが文字の細かさ。本にもノートにも、びっしりと文章が書き込まれています。英文学に関するノートも細かくて丁寧な英文で書かれています。これを見ると確かに神経質な人だったんだなというのがわかります。そしてもちろん、ものすごい勉強家。漱石の英語はネイティヴも高く評価するほどしっかりした英語だったと言うのをある本で読んだことがありますが、それに比べてこんなに英語教育を騒いでいるの日本で、どれだけの人が漱石に肩を並べるだけの英語力を身につけているのでしょうか。
 絵がまたすごい。若いころの本に書かれた落書きを見ると、鑑賞眼だけでなく、技量も備えていたことがわかります。「こころ」の装丁などはアートディレクションまでしているのです。晩年、体をこわしてから漱石は絵画をたくさん描くようになったそうですが、絵心のある素晴らしい出来です。まあ、作品によっては人体や遠近感のデッサンが崩れているところはありますが、それは全然絵の価値をおとしめていません。
 あれこれ話し始めたらキリがないので、この辺でやめておきましょう。展覧会は11月18日まで。興味のある人、ぜひ行ってみてください。
 今回の展覧会とは直接関係ありませんが、最近出た『直筆で読む「坊っちゃん」』(集英社新書)は面白いですよ。「坊っちゃん」の直筆原稿が最初から最後まで掲載されているのです。一見の価値あり。

絵、なに?(57) 浮世絵版画の難しさ  6/22 
 光が丘のNHK文化センターで4月から浮世絵版画制作教室に出席していました。アダチ版画研究所の職人に習いながら全6回で北斎の冨嶽三十六景を作る、というもので、22日が最終回でした。凱風快晴(通称赤富士)か神奈川沖浪裏のどちらかを選ぶのですが、ぼくは無謀にも波裏に挑戦。それがどれだけ大変か予測できずに……。
 刷り上がったときにはめちゃ落ち込みました。右の仕上がり作品を見ればどれくらいがっかりしたか、おわかりいただけるでしょう。おいおい、この汚れは何や、と情けなくなりました。目も当てられん。
 講師はその道数十年の職人ですから、第1回目から繰り返し繰り返し「こういうものを素人さんが6回くらいの講座で作ることは不可能です。だから、まずは楽しむことを目標にしましょう」とおっしゃっていました。
 何と言っても一番難しかったのは輪郭です。信じがたいほど細かい線。波や人の顔や船の藁。これを全部浮き上げるわけです。もう、波は吹っ飛ぶ、目は吹っ飛ぶ。5枚ある版木を彫るうち、3分の2の時間はこの1枚に費やされました。最後には仕事や何やらのスケジュールが混んできて、もしかすると未完のまま挫折するんじゃないかと心配しましたが、睡眠時間を削って仕上げました。まあ、その点は悔いを残さなくて良かった。
 しかし刷りだって易しくはない。惨憺たる結果になって、浮世絵から見事に突き放された感じです。十年早いよって。まあ考えてみれば、世界に誇る日本の伝統文化がそうたやすく習得できるわけはない。当たり前のことだ。
 結構きつい作業でしたが、こういうのを実際やってみると、浮世絵がどれほど高度な技術に支えられ作られてきたかを身をもって学ぶことができます。それと北斎の天才ぶりも改めて知ります。全体の構図や一つ一つの造形、すげえなあと感嘆するばかり。こんな人が日本にいたなんて、ほんとに誇りですよ。
 また、先生は日本美術と西洋美術の違いも話してくださり、興味深く聞くことができました。油絵と浮世絵版画は対極にある美術でしょうね、との言葉がとても印象的でした。つまり色を盛り上げる文化か染み込ませる文化かという違いなのだそうです。目からウロコ。

 ま、さんざんな結果になりましたが、版画の面白さを知ることができたのは大きな収穫です。この先、版画を作っていきたいという気持も湧いてきました。その貴重な経験の第一歩としてこの作品は記念にとっておきましょう。そう、これは失敗作じゃない。「神奈川沖大嵐」というオリジナル作品なのです。

絵、なに?(56) 美 Creative!  6/18
 芸術系学校のオープンキャンパスは楽しめます。文化祭みたいなものだから。
 土曜日(16日)に、娘のつきそいで武蔵野美術大学オープンキャンパスに行きました。
天気も良くて(それどころか、やたら暑くて)、駅から大学まで玉川上水の遊歩道を歩くのも気持ちよかったし、キラキラ輝くキャンパスの中で、面白い展示品をたくさん見ることができたのも、とても刺激的でした。
 3年前に娘の女子美付属高校に初めて行ったときも(30年以上前に兄の愛知県立芸術大学へ行ったときも)そうでしたが、美術系の学校へ行くと心が沸き立ちます。クリエイティヴであることっていいことだなあ、とつくづく思うのです。人生って、基本的にこうでありたいよなって思う。そして日ごろの自分を顧みて、おい、こんなんじゃだめじゃないかって思わされる。学生たちや卒業生たちの作品に見たり触れたりして、ついしぼみがちになる自分のクリエイティヴィティーが充電されました。娘にも大いに刺激になったみたい。茂木健一郎さん風に言えば、しっかり脳が活性化されて、快感物質のドーパミンが放出されるわけです。
 娘のリクエストにより、見て回ったのはおもに視覚デザイン科のコーナー。同じ美術でも、油絵や日本画とはかなり違った趣です。どう違うかを一口で説明することは不可能ですが、とにかく娘もぼくも、油絵や日本画のようなアカデミックな世界は肌に合わないと言うのが正直な感想。現実的な制約も受けつつ、同時に何でもあり、というのがデザインかな。何を言ってるか、わからない?ごめんなさい。
 学生の作品から受ける刺激は、一般の展覧会やビジネスとして成立している作品から受けるものとは少し異なっています。それは何かの可能性に開かれている、進行形のものであると言うことです。ある意味、未熟という言い方もできるのかも知れないけれど、それよりもむしろダイヤモンドの原石を発見する喜びのようなもので「ああ、こんな発想があるんだ、こんな表現があるんだ」という驚きです。キラッとした輝き、あるいはまばゆい輝き、あるいはささやかにしみじみと放たれるホタルの光のような輝き、それらが今の時代の息吹を伝えてくれたり、今のぼくに欠如しているものを指摘してくれたりします。なかなか得難い体験です。作品を見て、作者に感想を伝えたいと思うこともあります(そのためのノートを作品の横においている学生もいるけれど、伝えたい人に限ってそのノートを用意してくれていない)。名前を覚えておけばよかった、と今になって後悔。
 
可能性に開かれた活動――それがクリエイティヴィティーの一面なのでしょう。それをなくして閉じていくようになってしまったら、クリエイティヴィティーとは言えない。芸術、という言葉で一般の人たちが思い浮かべるある種のイメージを、たとえ小さな創作活動であっても、実は芸術に携わる人たち自身が破ろう破ろうとしているのだろうし、そう努力することがクリエイティヴであることなんだろうと、この日また、改めて確認したのでした。
 そうだ、ぼくはまだまだクリエイティヴじゃない。

絵、なに?(55) 福田平八郎のデザイン感覚  4/10
 福田平八郎という日本画家の名前をはっきりと覚えたのは、「美の巨人たち」で去年1月に紹介された時のことです(見たのはついこの間だと思っていたのに、もう1年以上も経っていました)。この画家のことはそれまでほとんど知りませんでしたが、「雨」という瓦屋根を描いた作品は昔、美術の教科書で見たことがあり、静かに深くぼくの記憶に残っていました。テレビで見て思いましたね、ああやっぱりぼくはこの画家の絵が好きなんだと。
 この画家が、先日「新日曜美術館」で再び取り上げられました。解説はあの『国家の品格』の藤原正彦さん。数学者という立場から見た平八郎の魅力を語ってくれました。その解説は、ぼくがなぜ福田平八郎の絵に惹かれるのか、その理由を解き明かしてくれました。藤原さんによれば、平八郎の絵は数学の定理のように、シンプルに表現された「
部分」で「全体」を感じさせる、というのです。なーるほど。
 ぼくが福田さんを好きな理由は、優れたデザイン感覚を備えた描写です。光琳、北斎などとも共通しており、その点では日本画の王道を歩んでいると言っていいでしょう。徹底した観察と写実を経て到達する抽象の世界です。藤原さんはそこに数学的な美を感じるようなのですね。また俳句との関連や自然との一体感を基本とする日本文化の良さについても語っていました。俳句は絵画であり、和歌は音楽であるという指摘はとても納得のいくもので、ぼくにとっては新鮮でした。ぼくも数年前からちょこっとずつ俳句を作っているんですけど、確かに俳句は映像です。
 実はその前日、ぼくは「美の巨人たち」でドラクロアを見たのですが、ここ数年心に抱いている思いがまたはっきり見えてきました。それはもう、まったくぼくの個人的な指向なのですが、ドラクロアは確かにすごいけれど、ぼくが心惹かれるアーティストではないと感じたのです。同じドラクロアが描いたものでも、油絵より水彩スケッチの方がはるかにいいと、ぼくは思いました。
 ぼくの感性はいつの間にか、どんどん日本的なものの方へ傾いてきているのだなあ。もちろんそれはむやみに日本文化を西洋文化の上位におくというのではなく、子どもの頃から大人になるまでかなり長い間、(自分の血の中にはありながら)とりたてて意識することのなかった日本の良さを、自覚的に再評価するようになったと言うことなのです。
 ところで、藤原さんは面白い人です。国家の品格を読んでいても感じましたけど、テレビだと実際の話しぶりがわかるから、よけい面白さが直接伝わります。ひょうひょうと話すんだけど、やたら笑える表現がそこらじゅうにちりばめられるんですよ。あのユーモアのセンスはなかなかのものですね。

絵、なに?(54) 宮崎駿の絵  3/30
 NHK「プロフェッショナル」の放映が火曜日になり、その第1弾が宮崎駿さんでした。興味深い事柄はたくさんあったけど、特に注目していたのはスケッチの描き方です。この人の水彩画はとても素晴らしいから、どんな風に描くんだろうと以前から思っていたのです。
 想像していたよりも、線をゆっくり描いているのが印象的でした。もっとサラサラと素早く描くのかと思っていたので、なぜか少しほっとしました。しかし、その線は的確なんですね。人体の骨格は言うまでもなく、自然の風景にしても乗り物にしても、形がしっかりしている。見ていて、美しいと心から思う絵です。プロフェッショナルですよ、ほんと。着彩も力まずにフワフワと筆を運んでいますが、やはり的確です。ああ、すごいなあと思いました。
 それは、今まで何千枚(おそらく何万枚)と 描いてきた人の線であり色なのでしょう。ぼくの目標の一つは、フリーハンドでメカや建築物がしっかり描けるようになることですが、宮崎さんを見習って、精進していきたいものです。

絵、なに?(52) 千住博展   2/21
 山種美術館へ千住博展を見てきました。ぼくはこの人のことは数年前、作品を見る前に本を読んで知っていたのですが、やっと実際に作品を見ることができました。
 この人は滝の絵で有名ですが、今回の展覧会もフィラデルフィア「松風荘」襖絵という滝の絵が中心です。場内には3つのスペースがあり、最初の2つには四方の壁に何枚もの大きな滝の絵が展示されていて、薄暗い照明の中に浮かび上がっていました。しばらく見ていて、これは鑑賞するというものではないような気になってきて、この感覚は何だろうと思い巡らしていたのですが、わかりました。オランジュリー美術館のモネの「睡蓮」のようなものなのです。
 どういうことかというと、絵に囲まれてよけいなことは考えず、あたかも自分が実際に滝のある風景の中にたたずんでいるようにしばらくのひとときを過ごせばいいのだということです。そういえば、見に来ていた人たちも、風光明媚なところへ観光に来ている人たちのような雰囲気でおしゃべりをしていましたね。
 若いときの作品もいくつか展示されていましたが、総じてぼく好みの絵柄です。高い技術は言うまでもありませんが、それとともに現代性と気高さを感じさせる構図・線・色使いですね。

絵、なに?(51) もっとダ・ヴィンチ  2/16/07 
 ダ・ヴィンチの面白さって何だろう。自分が特にここ数年ずっと惹きつけられている理由を一言では言い表せないのですが、知れば知るほど深みにはまっていくような(しかも心地よく)ところがあって、相変わらずダ・ヴィンチ関連の本を読んだり、展覧会を見たり、DVDを買って見たりしています。
 どんなことにも言えるのですが、突っ込んでいくうちに味わうことのできる面白さと言うものがあります。入り口付近だけではわからない。で、こういうことをテレビはなかなか取り上げてくれません。特に民放だと、ほんとうの「知」にはほとんど無関心です。
 年末に買ったDVDは「ダ・ヴィンチ―ミステリアスな生涯」という、20年以上も前にNHKで放映されていたドラマで(タイトルは違っている)、これは本当に面白く、強烈な印象が残っています。もしかしてぼくはこのあたりでダ・ヴィンチファンになったのかも知れません。それがDVDで発売されているのを知って、買ったのですが、今見てもそのすばらしさは色褪せていません。
 つい最近読んだ本が『レオナルド・ダ・ヴィンチ 伝説の虚実―創られた物語と西洋思想の系譜』(竹下節子、中央公論新社、2006)という、やたら長い名前の学術書(一応、一般向けとはなってるけど)。間違いだらけの『ダ・ヴィンチ・コード』がブームになってしまう現象とその要因を、カトリシズムや秘教主義の歴史を丁寧に追いながら説明しています。途中ちょっと疲れて飛ばし読みしたけど(あまりまじめじゃないな)、とても勉強になりました。
 こう言うのを読むと、生半可な知識は危ないな、と痛感するのです。歴史を正しく知ることは大切ですね。ぼくみたいな素人でも、ダ・ヴィンチ・コードをおととし読んだとき、突っ込みたくなる部分をたくさん見つけたのですが、竹下さんの本を読んだら、ぼくも気づかなかったことを知ることができました。ダ・ヴィンチ・コードってこんなにインチキだったのか。でも実は、日本人だけじゃなく、アメリカ人だって騙されていたんですね。その背景にヨーロッパとアメリカの文化の違いがあると言う、それはとっくにわかっていたはずなのに、微妙に見えながら決定的な違いとその大きな影響を改めて知らされて、目からウロコでした。
 もう1冊、"The Math and the Mona Lisa-The Art and Science of Leonardo da Vinci" (Bulent Atalay) という本も読んでいる最中です。ダ・ヴィンチの作品から読みとる、数学と芸術の関係がテーマです。
 前にもお話ししましたが、3月にはダ・ヴィンチの受胎告知がやってきます。世界的ブランド化のおかげで、複製だけがあまりにも有名になってしまって、誰もが見たような気になっている(でも誰も本当には見ていない)ダ・ヴィンチの作品。しかし、『伝説の虚実』の著者は、本物と接することでしかわかることのできないものがある、と言っています。そのことを頭に入れて、今度しっかり見てこようと思います。

絵、なに?A(1〜13) B(14〜25)  C(26〜30) D(31〜34) E(35〜40) F(41〜46)
G(47〜50)

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