絵、なに?(40) 描かずにはいられない  8/4
 ぼくは女子美中高の入江観校長先生のファンなのです。The Da Vinci Code を読んだのもこの方の推薦があったから。それは先月の7日に行われた講演の中で出てきた話題でした学生向けの講演でしたが、娘から知らせてもらい、保護者も参加していいということだったので、喜んで行きました。でも、保護者はぼく一人だったようですが。
 講演についてご報告しましょう。『人は「何故」絵を描くのか』という刺激的な題。さらに「あなたの描いているのはほんとうに絵ですか?」という副題がついています。それを言われるとぼくみたいな人間は返す言葉がありません。話の内容は、美術の歴史を振り返りながら、人間が絵を描く行為の原初を探ろうというものでした。
 現代は絵を描く仕組みが十分に備わっているが、そこには落とし穴があるかも知れない。できあがっている絵を目指していくことの怖さに、わたしたちは気づいていないかも知れない、と先生はおっしゃいます。一番最初に人類が描いた絵は何だったのだろう? 彼らには描かずにはいられないという、抑えがたい衝動があったのではないか。それこそがわたしたちに必要なものではないか、ということなのです。そのために、心を込めてものを見る。そこから始まる――それが、先生の結論でした。
 リルケの『若き詩人への手紙』を思い出しました。リルケは、詩を書こうとする若い詩人に、何よりも大切なのは「書かずにはいられない」という気持が自分の心の奥深くにあるかどうかだ、と助言します。創作活動は、絵も文学も音楽も同じなのですね。
 講演のあと先生との懇談会がありました。これは予想していませんでした。このチャンスを逃す手はない。言葉を交わすことができました。ぼくが「ピカソやシャガールについて先生がどのように考えているか、続編でお聞かせ下さい」と言ったら、「それならいつでも私の部屋においで下さい。そういう話ならいくらでも歓迎ですよ」とおっしゃっていました。若々しい意欲と感性を失わずにいる方だと推測しました。
 さて、ぼくは絵を描かずにはいられないのだろうか? もう一度それを自問しながら、日々を過ごしていきたいと思います。

絵、なに?(39) イラン新大統領の顔  7/1
 先月行われたイランの大統領選挙で新たに選ばれたのは、超保守強硬派のアフマディネジャド氏(うー、覚えにくい)。この人に関してアメリカで今、ちょっとした騒動が起きています。新大統領が、1979年に起こったアメリカ大使館占拠事件のテロリストのリーダーだった人物ではないかというのです。当時の映像が流れて、人質になったアメリカ人の横にいる人物の顔写真がクローズアップされ、新大統領に似ている、というのです。
 確かにやせていて、濃いあごひげを生やしていて、髪型もまあ、似ているかな。しかし、どう見ても眉と目の角度が違うでしょ。と、ぼくは思いました。中東の人はだいたいあごひげをはやしているし、眉は濃いし、奥目だし。その点だけ言ったら、みんな該当しちゃうのでは? あくまでも素人判断ですが、いくら年数がたっても、あそこまで目つきが変わることはあり得ないでしょう(ここで写真をお見せできないのが残念。申し訳ありませんが、ご自分で確かめてみて下さい)。もしかして整形? でも、そんなことをわざわざやる必要があるのだろうか?
 このニュースを見ていて、思ったんですよ。自分にとっての外国人の顔って、みんな同じように見えるものだという、よくある心理じゃないかと。彼らから見ると、中東の人たち、東アジア人はみんな同じに見える。たとえば、ぼくたちは日本人、韓国人、中国人の微妙な差をある程度見分けられますが、遠い国の人たちからはみな同じ東アジア人。逆にぼくたちだって、アフリカ人ならアフリカ人、欧米人なら欧米人と、十把一絡げにして記憶してしまうわけです。そうは言っても、このごろぼくは同じ日本人でありながら、モー娘や、ジャニーズ系タレントの顔なんか区別つきませんけどね。
 あ、こんな風に茶化すのはやめましょう。アメリカ人は真剣みたいです。それなりの理由があるに違いない。よもや、子どもっぽい勘違いで国を挙げて騒ぐなんて、ふつう考えられませんから。……それとも、何か裏があるのだろうか?

絵、なに?(38) 表現するパワー  5/14
 今日、光が丘図書館で田島征三さんの講演会「いろいろあっても歩き続ける」がありました。たいへん面白い講演でした。おおいに笑わされながら、いろんなことを考えさせられましたよ。そして一番の収穫は、表現者としてのあり方を教えられたこと。
 今、練馬区立美術館で、この人と谷川晃一さん、宮迫千鶴さんの三人展をやっています。ぼくは今月の4日に見に行きました。その時思ったのは、「芸術は描いた者やった者勝ち」だな、ということです。いい意味で、です。とにかくまず作ってしまうというパワー。表現しようと言う強烈な意志。創作に大切なものは、テクニックの前にそういう意欲なのだ、というメッセージ。それが田島さんの作品からビシビシ伝わってくるのです。
 そして今日のお話は、あの日ぼくが抱いた感想を裏付けるような内容でした。最も印象深かったのが、田島さんが自分の作品をすぐにわかってもらえたり、ほめてもらえたり、売れたりするようじゃダメだ、と本気で思っていることです。30年ほど前に出した絵本が発売したとたんにものすごく売れたそうですが、その時、売れたことに腹を立てて、絶版にしてしまったらしいのです。「ぼくの絵が、そんなに簡単に受け入れられるものなのか?」と。本が売れるなんて、ぼくから見ればうらやましい限りで、なんてもったいないことをやるんだ、と思ってしまうのですが、そこが凡人と天才の違いなのですね。あの松居直さんにさえ、わかられてたまるか、という矜持。この自信はどこから来るのだろう?
 田島さんは、読者が期待する美しさから意図的にはみ出した絵を描いているのだけれど、それはしたたかな計算の上でやっていることがわかります。ご自分でもおっしゃっていましたが、ベーシックの上に立って、壊していくのだと。そこがすごいのです。自分の原画を見せたとき、みんなが「きれい」とほめてくれたら、迷うことなくそれを捨て別のを描き直すそうです。「ベーシックなものをベーシックにやっているだけだったら、そんなのはただのまじめな絵本作家にすぎないでしょう」とおっしゃっていました。ぼくは、数年前から自分の絵に嫌気がさして、今、新しい線や色を模索中なのですが、今日の話を聞いて、まだまだ自分の絵がこじんまりと縮こまってしまう傾向があることを、いやと言うほど思い知らされました。2時間半の講演が終わって、かなり打ちのめされて家に帰りました。

 でもこの「打ちのめされた」は、気持が後ろ向きになるとか絶望するとか言うことではありません。むしろぼくは、この人のお話を聞いていて、心が自由になってきました。日頃いかに自分が枠に閉じこもっているか、つい常識の型にはまろうとしているか、に気づきました。そしてまた元気が出てきて、よし、またやろう、という気になれたのでした。

 
でもこれって、ほんと、難しいんです。きょう元気が出ても、しばらく経つと、ぼくの心はまたいろんな茨にがんじがらめにされてしまうのですから。だから、絶えずこのような刺激に出会える機会を自分でつくって行かなくてはいけませんね。そんなことを思った今日の講演会でした。

絵、なに?(37) 手書きバンザイ  3/11
 7日付の朝日新聞夕刊に「やっぱり手書き」の見出しで、手書き文字が見直されているという記事が出ていました。モスバーガーの店頭に置かれた黒板、書店に並べられた本の横に立てられたポップ。そう言ったものに手書きの文字が使われて、人気を集めているそうなのです。
 そうです、手書きなのです。ぼくもこのサイトで、昔から手書き(手描き)の面白さを
たびたび話してきました。最近は、文章を書くときも意識してワープロでなく紙に手で書くようにしているし、机にはいつも筆ペンをおいて時々使っています。書道を始めたいというのは数年来の願いです(まだ実現していないのですが)。絵でも文字でも、コンピュータ時代だからこそ、手描きの良さを再認識したいと思っています。
 新聞の記事には、ワープロから手書きに変えた作家、原田宗典さんの言葉が出ていました。「ワープロが防具をつけて竹刀で稽古している感じなのに対して手書きは真剣勝負。それにワープロでは日本語のリズムとずれるような気がする。」まさにそのとおりで、これは絵にもそのまま当てはまります。サインペンによるスケッチは一発勝負だから、毎回ドキドキしながら描いているのですが、その方がはるかにいい絵ができあがります。
 リズムの点でも同じ。コンピュータでの制作は何度でもやり直しがきくけれど、やり直しているうちに線にリズムがなくなってしまうことがあります。また、自分で考えることをせず機械的に設定した色だと、生きたリズムが感じられないこともある。もちろんコンピュータの良さはたくさんあるのだけれど、周りと見渡していると、その特徴を見極めることができずに、安易にコンピュータに依存してしまっている作品が結構多いような気がするのです。ぼく自身は、へたな手描きでも、自分の呼吸や心拍を少しでも見る人に伝えるほうがずっといいのではないかと思ってやってます。コンピュータを使うことは多いのだけれど、あくまでも補助という意識で用いています。コンピュータの陰に隠れることはしないで置こうと思っているのです。

絵、なに?(36) 長谷川燐二郎 3/6
 画家というのはやはり変わり者が多いのでしょう。でもぼくは、画一的で息が詰まりそうなこの時代に、むしろ画家たち
の驚くほど多様な生き方や、そこから生み出された作品に接する時、安らぎを与えられたり励まされたりするのです。
 テレビ東京で土曜日夜10時からやっている『美の巨人たち』は面白い番組です。以前にもちょくちょく見ていましたが、最近は意識してほとんど毎週見ています。新しく目にしたり耳にしたりすることばかり。その作品や生き方からは驚きとともに感銘を受け、芸術や人生について考えさせられます。

 先週(2/26)紹介されたのは、長谷川燐二郎(「りん」の字は本当はさんずいなのですが、コンピュータにはありません)という画家でした。1988年に84歳で亡くなっています。ぼくはこの画家をこの時、初めて知りました。
 「今日の一枚」(番組の中で特に焦点を当てる作品)として、猫の絵がとりあげられました。飼い猫の眠っている姿で、静かな静かな絵です。長谷川さんは、どんな絵もじっくりじっくり時間をかけて描きます。そのかけ方は尋常ではなく、この猫の絵も6年もかけているのです。自然のものは花でも土でも、季節によってどんどん移り変わるから、 この画家は同じものを描くために次の季節が巡ってくるまで制作を中断するということでした。猫も季節によってポーズや毛並みが微妙に違って来るというので、毎年同じ季節に同じポーズをとらせて描きました。写真を見て描くことはしなかったのでしょう。でも、完成する前にその猫は死んでしまい、長谷川さんはひげだけ想像で描き入れたそうです。しかも片方だけ。
 どの絵もそんな風に時間をかけて描いたそうです。器や貝殻のようなものでさえ。信じられないような制作方法です。画壇との交流も断ち、自分の世界をひたすら描き続けたと言うことですが、どうやって食っていたんだろう、と誰もが思ってしまいますね。経済的には奥さんが支えていたそうです。奥さんは91歳の今も健在で、番組の中で当時のことを語っていました。それを見ていたぼくの妻、「ああ、やっぱりなあ」……はい、はい(恐縮)。
 しかし長谷川さんの描く絵には、どれも暖かい静寂があります。フェルメールに通じる静謐。この方は静物画をたくさん描いてますが、決して冷たくない。風景も物も、そこには喧噪から解き放たれた安らぎがある。おそらくそれは色から来るのだと思います。リアルに描いていても、色が暖かい。ぜひ実物の絵を見たいものです。きっとそこには対話が生まれるだろうと思うのです。

絵、なに?(35) パスカルの言葉 1/26/05
 パスカルといえば「考える葦」。『パンセ』を読んだことがない人でも(ぼくも読んでいません)、この言葉だけは知っています。高校時代に一応この本を文庫で買うには買いました。大学に入ってからはこの人に関する授業をとったということもあって、原書も買いました。しかし、ひたすら怠慢なぼくは読みませんでした。キリスト教のことを延々と語っていて、とにかく長い(ルソーの『告白』もどうでもいい独り言をグダグダ言ってるだけじゃないかと思ったことがあります)。結局、本棚に置いたまま数十年が過ぎました。
 ほとんど読んでいないのですが、高校生の時に読んだ中で、ひとつ妙に心に引っかかっている言葉があります。久しぶりに本を開いて見つけだしました。次のような言葉です。
 「現物はだれも感心しないのに、絵になるとなかなか似ているといってみんなが感心する。絵というものは、なんと空しいものであろう。(断章134)偉大な数学者であり、宗教哲学者であるパスカルがこんなことを言っているのです。偉い人にこんなこと言われちゃうとなあ。
 でも、面白いですよね。人柄の一端を垣間見たようで。ひととおり本に目を通しても、絵に関してパスカルが言及したところは他に見つかりませんでした。ぼくの独断では、そもそもパスカルは絵画にはあまり関心も理解もなかったような気がします。ダ・ヴィンチの手記に触れる機会はなかったのだろうかと、ふと思いました。そうしたらどんなことを言うだろう、とか。
 でもこれは、単にパスカル自身の資質から来る発言というより、彼の時代(17世紀)の一般的な絵画観(つまり徹底してリアルに描くことが絵の最上の目的とされた価値観)を示したものと言えるでしょう。今はこんな風に考える人はいませんが、もしかすると当時の画家でもこの言葉を聞いたら、「空しい? だからどうだって言うんだ! あんたは何もわかってない」と一蹴して黙々と仕事を続けていたかも知れません。

絵、なに?A(1〜13) B(14〜25)  C(26〜30) D(31〜34)

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