絵、なに?(25) 舟越桂展 6/17
今日(17日)、東京都現代美術館へ舟越桂展を妻と一緒に見に行きました。最近この彫刻家、えらい人気ですよね。3年ほど前の『永遠の仔』(天童荒太/著)のカバーを覚えている方も多いでしょう。平日なのにものすごい人出で、しかも見たところ、8割以上は女性。やっぱりなあ。
本題にはいる前に、予想外のエピソードを。美術館に到着したときはもうとっくに開場時刻を過ぎていたのに、多くの人が待たされていました。どうしてかなあ、と思ってぼくたちも並んでいたのですが、しばらくして数人のグループが会場から出てきました。ぼくたちの横で、「美智子さまだ」という声が。え、と思って、身を乗り出したときにはずっと先を歩いていらっしゃいましたが、すがすがしい青の後ろ姿が見えました。その歩き方はかなり颯爽としていましたよ。ぼくは皇室にはほとんど愛着はありませんが、皇后さまだけは別です。この方はほんとうに尊敬しています。お顔を拝見したかったなあ。
さて、本題。舟越さんの彫刻には不思議なたたずまいがあります。空気が透明になるような感じなんですね。その秘密は、クスノキという素材、そして彫刻の顔立ちと目の作り方にあるようです。
作品はほとんどがトルソーで、頭部に重点が置かれています。先日テレビで制作の様子が紹介されていましたが、眼球には大理石を用いているのだそうです。頭の裏側から目の部分をくりぬいて、はめ込んでいるのです。面白いのは、どの顔も斜視になっていること。焦点が定まっていない。そのため、彫刻という実態がそこに存在しているのに、ぼくたちが目を見つめても、どこかはるか彼方にいるように思えてしまうのです。
いくつかの作品にはモデルがそれぞれいるようですが、どういうモデルを使っても、似たような顔立ちになっています。つまり、舟越さんの場合、モデルの本質を引き出すというより、モデルを媒介にして自分の世界を作りだしている、という感じですね(あまりにも同じような顔立ちなので、最後にはちょっと飽きちゃいましたが)。
会場には、制作のためのドローイング(デッサン)が数多く展示されていました。それがまた見ていて楽しい。それだけでも十分に見る価値があります。ほとんどが正面の姿ですが、製作過程の一端がうかがえます。
こういう彫刻はできれば、広々とした空間の中でひそやかに作品と対話をしながら見ていきたいところ。でもきっと最終日(22日)はごったがえして鑑賞どころではなくなるでしょうね。皆さん、お急ぎください。……なんて、混雑をかえって奨励しているみたいですが。
それにしても、展覧会に行くのは楽しい。このごろつくづくそう思います。ぼくたちの生活になくてはならないものの一つだと、ぼくは断言します。詩と同じくらい。

絵、なに?(24) ブラックジャックによろしく 5/5
『ブラックジャックによろしく』というコミックが評判らしい。TVドラマも最近始まりましたが、たまたま友達から本を借りる機会があったので、読んでみました。日本のアニメとコミックの水準の高さは特にここ十年ほど、世界的に知れ渡るようになりましたが、この作品も最近のコミックのレベルをよく表しています。
まず言えるのは、もうほとんどコミックの最低条件になってしまったような緻密な描写。ここまで描くか、というくらいよく描き込んでいます。少し変わった角度から評価すると、ぼくが医学関係の図版を描くときに、これは最適の参考資料になります。綿密な取材がなければここまでは描けませんね。このあたりは、『おたんこナース』『動物のお医者さん』などと共通しています。
ストーリーも徹底した取材に基づいていることが伺えます。ディテールを通して日本の医学界の実態が伝えられていて、こんなこと知らなかったなあと、驚きながら読めます。今のコミックは、扱う分野をものすごくよく研究調査していますよね。感心してしまう。妙に詳しいところについつい引き込まれて、ずっと読んでしまうのです。ただ、その実態というのが負の面を強調しているものだから、なんだか暗い気持ちになってしまうのですが。

そんな、リアルな絵と実態調査をもとにした話なのだけれど、それではこのストーリーがリアリティーを持っているかというと、答はNO。人物や状況の設定は現実離れしているし、ストーリー展開だって、あくまでエンタテインメント。いかにもいかにもという、コミックの読者が喜びそうなものになっています。モンスターのごとき現実に対して、フィクションがどこまで力を持ち得るかという問題提起には、初めから答えていません。もちろんコミックにはその必要もないでしょう。でも、だからといってこの作品の価値が下がっているかというと、そうではない。そこに、コミックでしか表現し得ない面白さがあるわけです。
TVドラマの初回を子どもが見ていたので、ぼくもいっしょに少し見たのですが、はっきり言ってあまり面白くなかった。原作を読んでみて、原因がわかりました。この作品はコミック的な表現の中でこそリアリティーとフィクションが微妙なバランスをもって面白さを醸し出しているのです。生身の人間が演じていたのでは、うそっぽい設定が浮き上がって、つまらないのですよ。マンガのTVドラマ化では『動物のお医者さん』が、なかなか成功していると思いますが、これを話し出すと脱線するのでやめます。
コミックあるいはマンガ独自の魅力は何だろう、と考えるとき、ぼくはタイトルのもとになった手塚先生のマンガ(つまり元祖『ブラックジャック』)をふと思います。二つの作品を見比べると、漫画家の描写力は今の人たちの方がはるかに上だけれど、ぼくには、手塚マンガの線が懐かしい。確かに今では古くさくて、新人がこれを描いていては売れないかも知れません。それが時代の要求なのでしょう。でも、マンガの持つ魅力は手塚マンガの線の中にあるような気がしています。

絵、なに?(23) 映画の戦闘シーン 4/3
『ロード・オブ・ザ・リング「二つの塔」』は見ごたえありますよ。先日、子供と一緒に見に行って、3時間、トールキン(原作)とピーター・ジャクソン(監督)の世界に完璧に引き込まれました。ストーリーも映像も子供だましでないのがうれしい。闇の世界の圧倒的な力や恐ろしさが、これでもかこれでもかと迫ってきます。その恐怖感は、視覚だけでなく、音楽、風の音、水の音、人の声など音響効果で増幅されるから、これは劇場で体験したほうがいい。
クライマックスの戦闘シーンは圧巻。ある程度はコンピュータの力によって実現したものだけれど、すさまじい迫力とリアリティーがあります。
戦闘を扱う映画はたくさんありますが、作品によって戦闘シーンの感触がかなり異なります。戦うことが、血を流し骨や肉を裂くものであることを教えてくれるのは、思いつくところでは『ブレイブ・ハート』(メル・ギブソン監督主演)と『プライベート・ライアン』(スピルバーグ監督、トム・ハンクス主演)です。どちらもほんとうに戦いのむごさ・痛さが伝わってくる。
一方、「二つの塔」から伝わってくるのは、個としての考えや感情をもたず、ただ敵を殲滅するためだけに動き戦う軍隊の怖さです。撲滅の高揚感に支配された闇の力が1万という数で迫ってくる様子は、見ていても震えが来ます。迎え撃つ主人公たちの側は、絶壁を背にした砦にたてこもり、逃げ場はありません。男は老人も子どももかり出されて、それでもわずかに300人。戦闘開始寸前に援軍が到着しますが、圧倒的な兵力の差は埋まらず、城壁は次々と崩され、追い込まれていく様には、胸がしめつけられます。
戦争に巻き込まれる市民(女性や子どもたち)の痛ましさ、ほとんど勝ち目のない状況でなお希望を失わず戦い続ける勇気が、よく描かれていました。
そしてそれはいやでも、今行われているアメリカとイラクの戦争を思い起こさせました。どっちがどっちという単純なアナロジーは不可能です。戦争とはこういうものだという皮膚感覚を、この映画はよく伝えているように思います。
指輪物語の機軸は確かに善と悪の戦いなのだけど、『インディー・ジョーンズ』に見られるような単純な勧善懲悪にはなっていません。また『スターウォーズ』のようなヴァーチャルゲーム感覚に終わっていないところも、質の高さを証明しています。
ところで、今回最も魅力的だったのはゴラムという醜い生き物。人から愛されるような外見の麗しさは全くなく、みっともなくて、いじけていて、気が弱くて、ずるくて、でも少しは優しくて。そんな惨めな彼の心の中では、人を信頼しようとする気持ちと疑う気持ちが絶えず葛藤を繰り返しています。こういうのって、どこにでもいそうじゃありませんか? 
ぼく自身の姿にも見え、妙に親近感をもっちゃうんですよねえ。

絵、なに?(22)  「模写をされているお客様……」 3/29
劇団四季の『ライオンキング』を見ました。不思議なものです。今から劇を見るぞ、と思うと自然にクリエイティヴィティーが刺激されて、あれこれスケッチをしたくなります。開場までの時間や休憩などを利用して、劇場の建物やおみやげ売場などの様子をスケッチしました。
またここ数年、アフリカや南米のプリミティヴ・アートに心惹かれていて、『ライオンキング』の舞台でも、そのあたりが注目点の一つでした。音楽はもちろん、衣装、舞台美術などあらゆる部分にアフリカ文化が息づいていました。それはそれは見事で、心に留めておきたかった。プログラムを買えばそれらはあとで見られるかも知れませんが、スケッチをして体で覚えることはとても大切です。緞帳の模様がまたすてきでした。一見落書きのようなシンプルな抽象形態と色彩。そこで、ぼくは開幕前と休憩時間にその模様をサインペンでずっとスケッチしました。ひとつひとつを実際に描くことで、形のリズムをつかむことができます。
ところが、のめり込んで描いていたら、ぼくの後ろから女性の声。「そこで幕の模様を模写されているお客様……」ぼくの席は1階席の一番後ろ。スケッチしている姿が、案内係の女性の目に入ったのでしょう。「これらの作品には著作権がありますので、模写はご遠慮いただきたいのですが。他にも何か描かれていますか?」と聞かれたので、ぼくは他の絵も見せました。するとその人は「あー」と、いかにも困ったという声を出して、別の係員を呼んできました。もう一人の人からは個人で楽しむのであればかまわないと言われましたが、動機がやましくないことは、スケッチブックのいろんな絵を見れば、わかってもらえること。納得してもらって、治まりました。ぼくの創作意欲の高まりから派生した、とんだハプニングでした。
観客の行動をよく見ているんだなあ。でも言われてみれば、劇場はすべてビジネスの世界ですからある部分当然のことでしょう。確かに観客の中には、他人のデザインを悪用する者がいるかも知れません。そんなことに気づかなかったぼくがアホだったとも言える。
ルール違反すれすれ。絵を描くという行為には、実はこんな危険性がいつも潜んでいるのです。例えば、見知らぬ人を描いても、肖像権の問題があるでしょう。写真よりはるかに長い時間、人を見つめるというのは罪悪感を伴うものです。もしかすると描かれている人が気づいて怒り出すかも知れない。殴られるかも知れない。
でも、そこでひるんではいけないのです。ひるんでいるようでは、絵がみみっちくなってしまう。規則に従順であったり、人に後ろ指をさされない「いい人」でいるのは、もしかすると、単に気弱さの裏返しなんじゃないか。へんな下心がないのであれば、どこかでだれかから多少の抵抗を受けても、誤解されても、やりたいことを自主規制なんかせずにやり通すことが必要なんだと、ここ数年で改めて確認しました。創作に限らず、生きることそのものに重要な姿勢ですね。
だからぼくはこれからも、だれかから文句を言われることがあっても
、自分がいいと思ったことは、やり続けていこうと思っています。

絵、なに?(21)  ハリーポッターの表紙絵 3/4
えっ、冗談でしょ、というニュースを先週、ラジオで聞きました。ハリーポッターのイギリス版で表紙絵を描いたイラストレーターの受け取ったギャラが、日本円にしてたったの6万円だった、というのです。印税方式ではなく出版社の買い取りだったために、本がどれだけ売れてもそれ以上は手に入らないのです。
著者のJ.K.ローリングが儲けた数百億円を考えると、6万円なんて……そりゃちょっとかわいそうすぎない? がっかりしたイラストレーター(トーマスさんという名前らしい)は、フランスに移住することにしたそうです。同業者として大いに同情します。ぼくがこの人の立場だったら、やりきれないだろうなあ。
仕事をする上でお金の問題は、とてもデリケートで重要な問題です。ぼくもこの辺の扱い方がまだまだへたで、苦労しています。一攫千金とか濡れ手で粟、など望んではいませんが、自分の力量を正しく評価して、正しく売り込むことは、プロとして身につけるべき技術ですね。これがなかなかむずかしいのですよ。卑屈になっても傲慢になってもいけない。一生懸命やってさえいればいいという時代ではなくなったし。日々精進しております。と、日ごろの悪戦苦闘ぶりをちょっと吐露したりして。
ギャラのことはおいといて、ハリポタの表紙についてぼく自身の感想を言うと、イギリス版のはあまり好きではありません。非常に古くさい感じがする。まあ、ぼくもいつも人から古くさい古くさい、と言われているから、偉そうなこと言える柄じゃないけど。でもそこがイギリスらしさなのかなあ。
ぼくが好きなのはアメリカ版の表紙絵です。この人は、本文の中でも各章の初めにモノクロのカットを入れていますが、すばらしい表現力です。ファンタジーの楽しさがあふれています。アメリカの割には、ヨーロッパ的伝統や深みも感じさせる手法です。
でも表紙は1巻から3巻までのがよかった。4巻になったらハリーの顔が急にリアルになっちゃって、楽しさ半減。テクニックがへんに上達したせいでしょうか? そういうのってありますよね。なまじ上手になったおかげで魅力を失うという。これもまた、むずかしいものです。5巻がまもなく出ますが、どうなるでしょうか。
ついでに言うと、日本語版のイラストはちっともいいと思いません。力強さがなくてちょっと病的な感じがある。画家としての力量はあるのでしょうが、内容にふさわしい、もう少し別の人選でもよかったのではないかな?

絵、なに?(20)  絵本の奥付 1/13/03
本の奥付のことをちょっと。欧米で発行されている本だと、これは扉の前にあります。英語ではImprint といいます。日本との表記内容の違いがいくつかありますが、その一つが、本で使われている文字の書体が表示されていること。
ぼくは以前ある本を読んでいて、本文のクラシックで上品な書体がとても気に入りました。そしたら、最後にわざわざ「書体について」というページが設けてあり、「Galliardで組まれていて、制作者は〜」とていねいに解説されていました。
この場合は奥付ではありませんでしたが、これはタイポグラファーにとってもうれしく、また重要なことではないでしょうか(ちなみにこれを見てから、ぼくは欧文で文字を組むとき、この書体を多用するようになりました)。和書でも書体表示はたまに見かけますが、欧米ほどではない。ぜひ普及させてもらいたいものです。
そしてさらに絵本の場合、画家がどんな画材でどんなふうに描いたかが表記されていることもあります。これはいいなあ。たとえば手元にあるのを見てみると、"The Gargoyle on the Roof" では書体が Della Robbia Bold。Peter Sisの絵は「ジェッソの下地に油絵具 とグァッシュで描かれています」と明記されている。"Weslandia"(邦題『ウェズレーの国』)だと、書体はTempus Sans ITC。Kevin Hawkes の絵はアクリル絵具で制作、となっています。これがなかなか参考になるんですよ。
書体について言うと、 絵本が翻訳される場合、書体が変わると、本全体の雰囲気ががらっと変わります。もちろんそれは仕方のないことですが。そこで、原書ではデザイナーがどんなふうに考えて何の書体を選んだのだろう、と関心を持って調べてみるとおもしろい。
また、絵については、印刷されると技法がよくわからなくなることがあります。絵本になった場合の印刷効果 を計算して制作する場合もありますが、普通に絵画として制作したとき、どんな画材を使ったか、というのはイラストレーターだけでなく一般 読者にも興味のあるところでは?
奥付には他にも内容の要約だの分類だのいろんな情報が入っていますから、読み方さえわかれば、3倍くらいは本を楽しめるかも知れません。

絵、なに?(19) エッフェル塔三十六景 11/21
埼玉県立近代美術館へ「モネからセザンヌへ―印象派とその時代」展を見に行きました。印象派の作品だけでなく、むしろ19世紀パリ展という内容でしたが、楽しめました。
印象派が浮世絵から大きな影響を受けていることは有名です。だから日本人は印象派に親しみを持つのでしょう。展示作品の中で興味深い版画を見つけました。アンリ・リヴィエール、Henri Riviereという画家が「富嶽三十六景」からインスピレーションを受けて作ったもので、富士山の代わりにエッフェル塔のさまざまな姿を、浮世絵のような構図やタッチで表現しているのです。パリの街が北斎の世界になったと思わせるほど、日本的な味わいが出ていました。
イニシャルでハンコまで作ってるんだから。それくらい傾倒していたのでしょう。
絵はがきがあれば買って帰りたいけど、ないだろうなあと予想していたら、予想どおり絵はがきもポスターもなくて、覚悟していてもやっぱりがっかり。みんな、良さがわかってない!と、ぼやくのでした。

絵、なに?(18) 子どもたちの展覧会 11/18
芸術の秋。娘の通う中学校で2日(土)、文化発表会が行われました。また16日(土)には息子の小学校で展覧会が行われました。こういうのを見ると元気になれます。
娘の中学校にはF組といって、軽度の障害児のための学年枠を取り払ったクラスがあります。その生徒たちの染め物や絵日記や工作などが展示されていて、何気なく見ていたのですが、版画のところで思わず足が止まり、しばらく鑑賞していました。モチーフは魚や昆虫などで、画面中央に大きく描かれています。それとパターンの組み合わせで、3つほどの版を重ねて刷られていました。生き生きとした力強い線とカラフルな色彩が、すてきなハーモニーを生み出していました。

息子の小学校は、児童数の減少と体育館の広さに負けず、一人4点を制作し、バラエティーに富んだ力作がいっぱい並べられていました。こちらにも、はっとするような形や色がたくさん見つかりました。透明のピラミッドの上に、自由にシルエットを切り抜いて貼る参加型の展示物もあり、やり始めたら、はまってしまいました。

絵、なに?(17) 10/3
手描きの緊張感

CGの便利さについては今さらコメントの必要はないでしょう。いろんな利点がありますが、その一つは修正がいくらでも利くこと。仕事では思いがけない訂正が入ることがしばしばあります。やり直しになったときの徒労感は結構大きなものです。でもコンピュータでの仕事は、そのストレスを軽減してくれました。ヴァーチャルな世界で痕跡を残さずに修正ができるからです。
いつでもやり直しがきく……それは便利である一方、緊張感を取り去る危険性ももっています。
何ヶ月か前に新聞で誰かが、デジタル映像は「決定的瞬間」を奪い去った、と言っていました。それは映像だけでなくデジタルワークすべてについて言えることだと思います。時間や作業の緊張感がほとんどなくなってしまったのです。
最初から最後まで手描きで作品をつくるときに、ぼくはこの緊張感を思い出し、恐くなります。

絵、なに?(16)7/25/02
コミックはTVドラマ、絵本は舞台演劇
(3)
演劇の舞台美術は、一つの世界観の表現であり、脚本や演出と並ぶ重要な要素です。演出の主張を持ちます(もちろんそこには、演出家に対する舞台美術家なりの主張もあるでしょうが)。人物に従属する存在ではありません。TVドラマが、セットであれロケであれ、できるだけ現実のように見せているのとは対照的です(厳密に言うと、そこにも実は解釈があるのだけど、それを論じ始めるとだんだんややこしくなる)。
同じように、絵本の風景は単なる背景ではなく、人物と一体になった作者の世界観なのです。絵本は、具象であれ抽象であれ、人物・もの・風景が統一感をもって語りかける表現形式ということでしょう。だから、人物の顔だけに必要以上の力点をおくことは、調和を崩してしまうことになるのだと思います。客席から見る舞台を想像してください。私たちの目は役者の顔をアップにしてとらえることはできません。記憶する映像も、舞台とともにあります。
(以下、8/1記→)……と、第3回目までやってみたら、この主題はちょっと一筋縄ではいきそうにないということがわかってきました。「論」にしようとしたのが失敗のもと。論理破綻になりそうなので、いったん休止します。ただ、この直感はそれほど的はずれではないような気がするので、また別 の機会に取り上げます。

絵、なに?(15)7/18/02
コミックはTVドラマ、絵本は舞台演劇
(2)
『1000の風、1000のチェロ』で少年と少女はほとんどが横顔か後ろ姿で描かれています。正面 でも目が描き込まれていません。チェロ教室の先生も阪神淡路大震災の話をしてくれたおじいさんもみんなそうです。だから読者はこの本を読んだあと、彼らの顔を思い出すことができません。
ここでぼくたちは、この絵本の登場人物が、コミックやイベントのキャラクターとは全く異なり、画面 に描かれている森や公園やコンサート会場と等質の役割を与えられている、物語の一部なのだということに気づくのです。もちろん話は少年と少女を中心に進んでいきますが、主人公と言うよりはむしろ狂言回しと言っていいでしょう。ほとんどの画面 で彼らの姿は風景の中にとけ込んでいます。美しい水彩で描かれた風景は、空も森も建物も、少年少女たちと同じくらい雄弁に読者に語りかけてきます。つまりそれは、演劇の舞台セットと同じような意味を持つものです。

絵、なに?(14)7/12/02
コミックはTVドラマ、絵本は舞台演劇
(1)
コミックと絵本の違いはいろいろありますが、上のような観点からちょっと考えてみたいと思います。もちろんどちらにも様々なバリエーションがありますし、相互にオーバーラップしている部分もあります。ここでは両方の間の明確な境界線を引くことが目的ではありません。コミックと比較しながら絵本の可能性を見ていくのは、ちょっとおもしろいのではないか、と思ったのです。何回かに分けてお話をしていきます。
この問題については以前から折に触れてあれこれ考えていたのですが、少し突っ込んでみたくなったのは、最近「ぼくの好きな絵本」で取り上げた『1000の風、1000のチェロ』を読んでいて改めて気づき、確認したことがあったからです。それは決して一般 論ではなく、ぼく自身が絵を描く上での切実な問題でもあります。
気づいたことは、この作品に出てくる二人の主人公がコミックにおけるような顔をもっていない、ということでした。

絵、なに?A(1〜13) C(26〜)

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