絵、なに?(38) 表現するパワー  5/14
 今日、光が丘図書館で田島征三さんの講演会「いろいろあっても歩き続ける」がありました。たいへん面白い講演でした。おおいに笑わされながら、いろんなことを考えさせられましたよ。そして一番の収穫は、表現者としてのあり方を教えられたこと。
 今、練馬区立美術館で、この人と谷川晃一さん、宮迫千鶴さんの三人展をやっています。ぼくは今月の4日に見に行きました。その時思ったのは、「芸術は描いた者やった者勝ち」だな、ということです。いい意味で、です。とにかくまず作ってしまうというパワー。表現しようと言う強烈な意志。創作に大切なものは、テクニックの前にそういう意欲なのだ、というメッセージ。それが田島さんの作品からビシビシ伝わってくるのです。
 そして今日のお話は、あの日ぼくが抱いた感想を裏付けるような内容でした。最も印象深かったのが、田島さんが自分の作品をすぐにわかってもらえたり、ほめてもらえたり、売れたりするようじゃダメだ、と本気で思っていることです。30年ほど前に出した絵本が発売したとたんにものすごく売れたそうですが、その時、売れたことに腹を立てて、絶版にしてしまったらしいのです。「ぼくの絵が、そんなに簡単に受け入れられるものなのか?」と。本が売れるなんて、ぼくから見ればうらやましい限りで、なんてもったいないことをやるんだ、と思ってしまうのですが、そこが凡人と天才の違いなのですね。あの松居直さんにさえ、わかられてたまるか、という矜持。この自信はどこから来るのだろう?
 田島さんは、読者が期待する美しさから意図的にはみ出した絵を描いているのだけれど、それはしたたかな計算の上でやっていることがわかります。ご自分でもおっしゃっていましたが、ベーシックの上に立って、壊していくのだと。そこがすごいのです。自分の原画を見せたとき、みんなが「きれい」とほめてくれたら、迷うことなくそれを捨て別のを描き直すそうです。「ベーシックなものをベーシックにやっているだけだったら、そんなのはただのまじめな絵本作家にすぎないでしょう」とおっしゃっていました。ぼくは、数年前から自分の絵に嫌気がさして、今、新しい線や色を模索中なのですが、今日の話を聞いて、まだまだ自分の絵がこじんまりと縮こまってしまう傾向があることを、いやと言うほど思い知らされました。2時間半の講演が終わって、かなり打ちのめされて家に帰りました。

 でもこの「打ちのめされた」は、ただがっかりする、絶望すると言うことではありません。むしろぼくは、この人のお話を聞いていて、心が自由になってきました。日頃いかに自分が枠に閉じこもっているか、つい常識の型にはまろうとしているか、に気づきました。そしてまた元気が出てきて、よし、またやろう、という気になれたのでした。

 
でもこれって、ほんと、難しいんです。きょう元気が出ても、しばらく経つと、ぼくの心はまたいろんな茨にがんじがらめにされてしまうのですから。だから、絶えずこのような刺激に出会える機会を自分でつくって行かなくてはいけませんね。そんなことを思った今日の講演会でした。

絵、なに?(37) 手書きバンザイ  3/11
 7日付の朝日新聞夕刊に「やっぱり手書き」の見出しで、手書き文字が見直されているという記事が出ていました。モスバーガーの店頭に置かれた黒板、書店に並べられた本の横に立てられたポップ。そう言ったものに手書きの文字が使われて、人気を集めているそうなのです。
 そうです、手書きなのです。ぼくもこのサイトで、昔から手書き(手描き)の面白さを
たびたび話してきました。最近は、文章を書くときも意識してワープロでなく紙に手で書くようにしているし、机にはいつも筆ペンをおいて時々使っています。書道を始めたいというのは数年来の願いです(まだ実現していないのですが)。絵でも文字でも、コンピュータ時代だからこそ、手描きの良さを再認識したいと思っています。
 新聞の記事には、ワープロから手書きに変えた作家、原田宗典さんの言葉が出ていました。「ワープロが防具をつけて竹刀で稽古している感じなのに対して手書きは真剣勝負。それにワープロでは日本語のリズムとずれるような気がする。」まさにそのとおりで、これは絵にもそのまま当てはまります。サインペンによるスケッチは一発勝負だから、毎回ドキドキしながら描いているのですが、その方がはるかにいい絵ができあがります。
 リズムの点でも同じ。コンピュータでの制作は何度でもやり直しがきくけれど、やり直しているうちに線にリズムがなくなってしまうことがあります。また、自分で考えることをせず機械的に設定した色だと、生きたリズムが感じられないこともある。もちろんコンピュータの良さはたくさんあるのだけれど、周りと見渡していると、その特徴を見極めることができずに、安易にコンピュータに依存してしまっている作品が結構多いような気がするのです。ぼく自身は、へたな手描きでも、自分の呼吸や心拍を少しでも見る人に伝えるほうがずっといいのではないかと思ってやってます。コンピュータを使うことは多いのだけれど、あくまでも補助という意識で用いています。コンピュータの陰に隠れることはしないで置こうと思っているのです。

絵、なに?(36) 長谷川燐二郎 3/6
 画家というのはやはり変わり者が多いのでしょう。でもぼくは、画一的で息が詰まりそうなこの時代に、むしろ画家たち
の驚くほど多様な生き方や、そこから生み出された作品に接する時、安らぎを与えられたり励まされたりするのです。
 テレビ東京で土曜日夜10時からやっている『美の巨人たち』は面白い番組です。以前にもちょくちょく見ていましたが、最近は意識してほとんど毎週見ています。新しく目にしたり耳にしたりすることばかり。その作品や生き方からは驚きとともに感銘を受け、芸術や人生について考えさせられます。

 先週(2/26)紹介されたのは、長谷川燐二郎(「りん」の字は本当はさんずいなのですが、コンピュータにはありません)という画家でした。1988年に84歳で亡くなっています。ぼくはこの画家をこの時、初めて知りました。
 「今日の一枚」(番組の中で特に焦点を当てる作品)として、猫の絵がとりあげられました。飼い猫の眠っている姿で、静かな静かな絵です。長谷川さんは、どんな絵もじっくりじっくり時間をかけて描きます。そのかけ方は尋常ではなく、この猫の絵も6年もかけているのです。自然のものは花でも土でも、季節によってどんどん移り変わるから、 この画家は同じものを描くために次の季節が巡ってくるまで制作を中断するということでした。猫も季節によってポーズや毛並みが微妙に違って来るというので、毎年同じ季節に同じポーズをとらせて描きました。写真を見て描くことはしなかったのでしょう。でも、完成する前にその猫は死んでしまい、長谷川さんはひげだけ想像で描き入れたそうです。しかも片方だけ。
 どの絵もそんな風に時間をかけて描いたそうです。器や貝殻のようなものでさえ。信じられないような制作方法です。画壇との交流も断ち、自分の世界をひたすら描き続けたと言うことですが、どうやって食っていたんだろう、と誰もが思ってしまいますね。経済的には奥さんが支えていたそうです。奥さんは91歳の今も健在で、番組の中で当時のことを語っていました。それを見ていたぼくの妻、「ああ、やっぱりなあ」……はい、はい(恐縮)。
 しかし長谷川さんの描く絵には、どれも暖かい静寂があります。フェルメールに通じる静謐。この方は静物画をたくさん描いてますが、決して冷たくない。風景も物も、そこには喧噪から解き放たれた安らぎがある。おそらくそれは色から来るのだと思います。リアルに描いていても、色が暖かい。ぜひ実物の絵を見たいものです。きっとそこには対話が生まれるだろうと思うのです。

絵、なに?(35) パスカルの言葉 1/26
 パスカルといえば「考える葦」。『パンセ』を読んだことがない人でも(ぼくも読んでいません)、この言葉だけは知っています。高校時代に一応この本を文庫で買うには買いました。大学に入ってからはこの人に関する授業をとったということもあって、原書も買いました。しかし、ひたすら怠慢なぼくは読みませんでした。キリスト教のことを延々と語っていて、とにかく長い(ルソーの『告白』もどうでもいい独り言をグダグダ言ってるだけじゃないかと思ったことがあります)。結局、本棚に置いたまま数十年が過ぎました。
 ほとんど読んでいないのですが、高校生の時に読んだ中で、ひとつ妙に心に引っかかっている言葉があります。久しぶりに本を開いて見つけだしました。次のような言葉です。
 「現物はだれも感心しないのに、絵になるとなかなか似ているといってみんなが感心する。絵というものは、なんと空しいものであろう。(断章134)偉大な数学者であり、宗教哲学者であるパスカルがこんなことを言っているのです。偉い人にこんなこと言われちゃうとなあ。
 でも、面白いですよね。人柄の一端を垣間見たようで。ひととおり本に目を通しても、絵に関してパスカルが言及したところは他に見つかりませんでした。ぼくの独断では、そもそもパスカルは絵画にはあまり関心も理解もなかったような気がします。ダ・ヴィンチの手記に触れる機会はなかったのだろうかと、ふと思いました。そうしたらどんなことを言うだろう、とか。
 でもこれは、単にパスカル自身の資質から来る発言というより、彼の時代(17世紀)の一般的な絵画観(つまり徹底してリアルに描くことが絵の最上の目的とされた価値観)を示したものと言えるでしょう。今はこんな風に考える人はいませんが、もしかすると当時の画家でもこの言葉を聞いたら、「空しい? だからどうだって言うんだ! あんたは何もわかってない」と一蹴して黙々と仕事を続けていたかも知れません。

絵、なに?(34) 王子江という水墨画家 1/10/05 
 数年前からぼくは頓に日本や東洋文化への傾斜を強めています。去年の春、丸山応挙展を見に行ったときも、自分の中に東洋の美へのあこがれと共感が予想以上に強く深く存在することを体験しました(下の3/7付文章参照)。ぼくはそれを現代との関わりの中でもう一度とらえ直したいと思うし、そのような姿勢を持つ作品や作家が好きです。グラフィックデザインで言えば田中一光さんの世界。また、美術だけでなく文学でも、夏目漱石や山本周五郎といった、日本の伝統に根ざしながら、同時に現代へ生きたメッセージを伝えているものに惹かれます。
 NHK教育ETV特集で8日夜、王子江(おう・すこう)という画家のドキュメンタリーを放映していました。これがいろんなことを考えさせ、心揺さぶる内容だったのです。
王さんは現在45歳。在日16年の中国人画家で、水墨画の大作を次々に制作しています。横幅100mの壁画を100日で描いてしまうという腕の速さにも驚きますが、そんなエピソードを聞かなくても、何より作品そのものに見る人を圧倒する迫力があります。テレビの画面でさえそれを感じるのだから、実際に見たら言葉を失うのじゃないかと思いました。
 そしてただパワーがあるだけでなく、モチーフやテーマは現代性をも兼ね備えていて、どの作品も切り口が新鮮なのです。日本の薬師寺に納められている大作も紹介されましたが、一般に想像するいわゆる仏教画とは全く異なる絵柄で、ぼくは目を見張りました。一度実物を見たいものです。
 この人のすごさの一つは、単に水墨画の技術が優れているだけでなく、古今東西のいろんな絵画から技術やものの見方を学び取っているところです。たとえば薬師寺の絵では、如来像の背景のパターンを描くとき、従来描かれたような後光を描くのではなく、日本のアニメからヒントを得て如来のパワーを表したと言っています。
 学生時代には北京の広場で人々をスケッチし続け、8年間で1万6千人描いて、一度見た人の顔を決して忘れない技術を身につけたと言っています。番組では壁画制作の様子が映し出されていましたが、下絵なしで画面に直接描いていました。筆の先から次々と生まれる人々の形は、1万6千人デッサンという驚異的な修練ゆえに可能になるものなのですね。
 番組の中で紹介される王さんの水墨画に、ぼくは驚きと同時に限りない親しみを覚え、ここでもまた東洋美術のすばらしさを確認できました。王さんは若いときアメリカに行って、東洋画への評価があまりにも低いことに失望して日本で活動をすることを決心したと言うことです。東洋美術への評価の低さは書家の石川九楊さんも指摘しています。わたしたち日本人ももっと東洋美術の良さを積極的に世界に広めるべきなのかも知れません。
 こんなふうに東洋や日本の伝統美の良さを再発見しているぼくですが、正確に言うと東洋に傾斜してきたと言うのではなく、さらに広がったと言うことなのです。東洋西洋の二者択一というのではない。だってぼくは例えばダ・ヴィンチもモネも好きだし、クレーなどの抽象絵画も好きですしね。むしろ今までが狭すぎた、小さすぎた、何も知らなさすぎたというべきなのでしょう。知識しかり、体験しかり。

絵、なに?(33) ダ・ヴィンチ探求は続く 3/22
土曜(20日)夜、日テレで『人類史上最高の天才レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密』という長いタイトルの番組がありました。もちろん見逃すはずがない。録画もしました。
内容の半分以上はすでに読んだり聞いたりしたものでしたが、モナリザの分析などに新発見もあったので、じゅうぶん楽しめました。
解説者として布施英利さん、片桐頼継さんが登場したのは時流に乗った人選ですね。番組の作り方にはお二人の意見がある程度反映されていたと思います。それぞれの方の著書自然の中の絵画教室』『レオナルド・ダ・ヴィンチという神話についてはぼくも「この本が面白い」で紹介していますので、ご覧ください。布施さんの著書を読んだときに、この人はダ・ヴィンチに劣らない変わり者だろうな(誉め言葉です)という印象を受けましたが、その風貌をテレビで見ていて、やっぱり間違いなく変人だと思いました。それから、片桐さんの著書が読売新聞の書評欄に最近ようやく掲載されたことを、ぼくは先日「ごあいさつごあいさつ」で指摘しましたが、もしかして、6日後に放映される番組とのタイミングを計ってやったことなのかな?これできっと売れ行きが伸びるでしょう。
番組の案内役にビートたけしや稲垣吾郎を配するのは、視聴率確保のためにやむを得ないことなのでしょうが、こういうのは素人受けだけのアプローチになってしまいがちです。たけしは茶化しているようでいて意外にまともなことを言っているのですが、この種の番組にこの人を登場させれば安心という制作側の安易さが感じられます。また稲垣吾郎に、天才でもやっぱり人間だったということを知って身近に感じた、なんていう紋切り型の感想を言わせるのも、芸がないような気がします。むしろ布施さんの「天才とは一般の人より何かが欠けている状態なのだ」という指摘の方がよほど真実です。
でもテレビのいいところはやはりヴィジュアル面(特にCG画像)ですね。知識として知っていたことも、あんなふうに映像で示すことで、より明快になり新鮮な刺激になります。ダ・ヴィンチの世界を追求する場合、この手法は効果的です。
あと、無い物ねだりで、一言。『最後の晩餐』や『モナリザ』は、それぞれがいくらでも探求できる題材ですが、テレビの中でちょっとだけ触れていた膨大な手稿についてもっと掘り下げてくれると、ダ・ヴィンチという宇宙にさらに肉薄できるのではないか、と思ったりもします。……と、まあどこまでもこの天才への興味は尽きませんね。

絵、なに?(32) 円山応挙展 3/7/04
時々心が疲れることがあります。そんなときぼくが一番欲するのは本か展覧会。円山応挙展が江戸東京博物館で開かれているので(3月21日まで)、ふと思い立って見に行くことにしました。
前知識など全くなし。子どものころ、ぼくは日本画にはほとんど関心がなかったのです。年寄り臭くて田舎じみてて。だってほら、田舎へ行くと、家庭の床の間にも水墨画の掛け軸があるじゃありませんか。あんなのどこがいいんだろうって思ってました。全体に日本画は子どもには取っつきにくいものです。ま、要するにぼくに日本画を鑑賞し理解する力がないというだけのことですけど。ただここ数年、葛飾北斎や尾形光琳などに興味を持つようになったこともあって、日本画に正面から向き合ってみたいと思ってはいました。
しかし、展示された作品を見ているうちに、一つ一つの絵に予想以上に惹かれていく自分を発見しました。
展覧会の副題は「〈写生画〉創造への挑戦」となっています。解説によれば、写生は中国画の伝統の中にはあったものの、日本における伝統的な作画方法では、形を研究する対象は師の画風であって、描く対象物そのものではなかったということです。それに対し、応挙が実践した写生は、「対象物そのものに視線を送り、描き写すという、当時としてはまさに画期的なことであった」のだそうです。
展示されている絵は、簡単なスケッチから襖絵のような大作に至るまで、どれもが見事なデッサン力を示しています。それは紛れもなく確かな写生でありながら、西洋画の写実とはまた異なるものです。ああ、こんなリアリズムもあるのだ、と思いました。そしてどちらかというとぼくは西洋画よりもこちらのリアリズムの方により強く惹かれることを、場内を歩いていて確認しました。よく西洋美術館で開かれる油絵の大作だと、ときどきぼくはめんどうになって、絵をろくろく見ずにすっ飛ばして歩いていることがあるのですが、応挙展では、作品の数は決して少なくないのに、なぜかどれ一つとして見逃すことができないように感じて、1点1点をじっくり鑑賞しました。
さらに不思議だったのは、空間を覆うような大作ですらぼくを疲れさせることがなく、むしろ心がどんどん癒されていったということです。どうしてだったのでしょう。ぼくの血の中に、日本人の美意識がしっかりと存在しているということなのでしょうか(子どものころ見ていた掛け軸のせいか?)。西洋のたとえばルネサンス時代などの大作の鑑賞は、時に作品に対峙するだけの強靱な精神力を要求するところがあり、「ああ、こんなのとても太刀打ちできない」と思ってしまうことがあります(描ける描けないのレベルでなく、鑑賞のレベルでも)。日本画の、余白を生かすような空間の処理や極彩色でない色使いが、ほっとさせるのかもしれません(ぼくも歳をとったということかな)。
でも日本的でありながら、応挙は西洋画からも多くの技術やものの見方を学び、画風に取り入れています。先ほど言ったようにそれまでの日本画にない写生という作画法もその一つ。ぼくは展示されている多くのデッサンを見ているうちに、ダ・ヴィンチの絵を見ているような錯覚に陥りました。動植物や人体の細部など、対象を徹底的に追求し写し取ろうという姿勢は、ダ・ヴィンチに共通するところがあるのです。うまい絵を描いてやろうというのではなく、ひたすら対象に没入し、結果として見事な絵ができあがっています。その点でもぼくは応挙への親近感をさらに強くしたのでした。
展覧会は21日まで。時間がありましたら、ぜひ足を運んでください。

絵、なに?(31) エリック・カール式は楽しい 12/19
先日、絵本ふうイラストを描くちょっとした仕事があり、どんなタッチにしようかと考えた末、エリック・カール式で作ってみることにしました。エリック・カールさんの最大の特徴は、鮮やかな色彩パターン。この作家の技法はコラージュと呼ばれるもので、最初にきれいなパターンをたくさん作り、それらを切り合わせて画面を構成していくのです。実演している様子をテレビで見たことがあるし、数年前に展覧会で作品や実際のパターン紙を見て感動し、自分でもやってみたいと以前から思っていました。
エリック・カールになった気分で、絵具やオイル・パステルをさまざまに塗り重ねたり、混ぜ合わせたりして作っていくのですが、やってみると、いやあもう、楽しい楽しい。とくにパターンを作っているときは、心が解放されます。完全に遊びの世界です。作る過程でこんなにワクワクするなんて、予想していませんでした。テレビでカールさんは、この方法を子どもたちにも教えていっしょに絵を描いていましたが、子どもも大人も楽しめます。まさにカール・マジックと言っていいでしょう。この絵本作家がなぜこんなに絶大な人気を誇るのか、その秘密の一端がわかったような気がしました。
今回、最終的なコラージュ作業はコンピュータ上で行いましたが、これも余裕があれば、ハサミやカッター・ナイフを用いた手作業でやっていくと、もっと楽しく面白いものになっただろうと思います。作品の方は、進行の都合上お見せできないのですが、そのうち掲載のチャンスがあるかもしれません。上に示したパターンは今回の絵には使用しなかったもののひとつ。こんなのがいーっぱいできたのです。
言うまでもなく、色使いも構成も、カールさんに比べれば伸びやかさや広がりがまだまだ足りません。でもこの絵の作り方で教えられたのは、「ほら、もっともっと自由に、楽しくやろうよ」という精神です。 みなさんも、一度やってみてはいかがですか?

絵、なに?A(1〜13) B(14〜25)  C(26〜30)

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