絵、なに?(30) オリジナルであること 11/28
今年は珍しく、例年より早めに年賀状のデザインを済ませました。
たかだか10cm×15cmのスペースなんだけど、年賀状のデザインはけっこう難しい。昨今は本屋に行けばCD-ROM付の年賀状制作本が何冊も並んでますから、一般の人たちはありとあらゆる絵柄や文字を手に入れることができます。ひと昔前と比べると、デザインの水準は格段にあがっています。また選択肢も驚くほど広がっているので、自分の好みに近いものを選び出すことができるでしょう。
年賀状だけではありません。今やコンピュータの普及のおかげで、著作権フリーの写真、イラスト、パターンなどを探し出して、ちょっとしたパンフレット、ハガキなら、いっぱしのデザインのものが作れてしまうのです。
こんなふうにコンピュータの普及は多くの場合、利便性をもたらしているのですが、新たな問題も浮き彫りにしています。プロとは何ぞや?という根本的なテーマです。これはグラフィック関係だけでなく、建築家、カメラマン、などにも当てはまります。コンピュータがかなりの程度までできてしまうのであれば、プロの必要性はどこにあるのか? プロとアマの境界線はどこにあるのか。
端的に言えば、仕事がなくなります。あったとしても、条件がかなり厳しくなる。コンピュータを使えば何でもあっという間にできてしまうのだから、時間は短くて済むはず、ギャラは安くていいはず、という誤解が一般に流布しています(口実にしているような気もしますが)。おかげでデザインやイラストの単価は下がるばかり。そんな状況で、ぼくはどうしたらいいのだろう? ぼくだけではありません。同じ問題に直面している人はたくさんいるでしょう。
結論を言うと、オリジナリティーで勝負するしかないな、ということです。ぼくは世の中の趨勢に逆行して、アプリケーションに頼らず自分の手で描く絵に、最近ますます執着するようになりました。3D
イラストが今は流行っていますが、アプリケーションに頼っているだけだと、いずれ飽きられるのは目に見えています。また一方では、子どもが描いたような稚拙を装った絵も流行ってます。美やおもしろさからかけ離れたものも多く、ぼくはそっちを追いかける気もありません。
個性と言ってしまっては手垢にまみれた表現になってしまいますが、とにかく自分の絵を描いていくしかないのです。世間でCGが流行っているからそれをやろうとか、今風な絵柄にしようとかしても、どこかに無理があれば長続きはしません。ぼくは自分の絵が下手なのはわかっていますから、それを認めた上で、結局は自分のものを出して行くしか、生き残る道はないのだなあと、このごろつくづく思っているのです。
と、なんだか自分の切実な話題になってしまいましたが、これって、意外にどの分野にも、誰の生き方にも共通して言えるのではないでしょうか。
さて、年賀状用の文字「あけましておめでとうございます」とサルの絵を、何枚も描きました。最終的に決定したものは、いかにもぼくらしいな、という形と色でした。
絵、なに?(29) これが絵本の絵だ――フィッシャー、ホフマン展 8/17
きのう(16日)、世田谷文学館へ『フィッシャー、ホフマン展』を見に行きました。
スイスを代表する世界的絵本作家。ずっと前から 念願だったフェリクス・ホフマンの原画を初めて目にすることができました。ハンス・フィッシャーもぼくのお気に入りの画家だから、今回の展覧会は一挙両得。スイスにはもうひとり、カリジェという巨匠がいるのですが、この人の原画もいつかぜひみたいと願っています。
展示されていた作品は、『ねむりひめ』『グリム童話』『こねこのピッチ』『ながぐつをはいたねこ』など、代表的なものばかり。半分近くがうちにある絵本だったので、見ていて懐かしさを感じました。原画を直接目にできるだけでも大きな感動だし、さらにぼくの場合、実際の制作においてたいへん勉強になります。
原画では、 どんな紙にどんな画材でどんなふうに描いているのかがよくわかります。こんなところでホワイトの修正を加えているとか、絵を切り張りしているとか。また、習作からは本番までの過程がわかり、とても面白い。作者の筆遣い、息づかいが感じられます。
ホフマンが子どもたちにつくってあげた手作りの絵本も展示されていて、後に出版社から発行された作品との違いなども興味深く見ることができました。
二人の作品は、絵本の絵とは、こういうものを指すのだよ、と語っているようでした。そしてまたしても、いつものセリフが口をついて出てきてしまう。「どうしてこんな絵が描けるんだろう?」それは結局の所、陳腐な言い方になりますが、技術と感性のバランスの問題なのです。よく、テクニックはすごいけれどちっとも美しくない、面白くない絵ってありますよね。逆に稚拙に見えながら優れた世界をつくりだしている絵もあります。よくないのは、どちらかによりかかって怠慢になってしまっている絵なのでしょう。フィッシャーとホフマンは、両方が最上のレベルでバランスを保っているわけです。だから古びない。いつの時代でも、見ていて、心が温かく、明るく、楽しくなってくる。そういう絵です。
フィッシャーの絵は、まさに線と色の魔術です。線が歌っている、踊っている。鮮やかな色がリズミカルな線と見事なハーモニーを奏でている。こんな線は誰にも描けないのだと、今さらながらに納得してしまったのでした。履歴を見ると、若き日にジュネーブの美術学校でパウル・クレーの教えを受けていたことがわかりました。あ、なるほど。
そしてホフマンの深い味わい。大胆でありながら同時に繊細な色使い。印刷では見出すことのできない色の調和を、今回原画を見ることで初めて味わうことができました。こんなふうに細かく細かく、色が塗り重ねられているんだなあ、と見入ってしまいました。力強さと、優しさと、ほどよい抑制。……絵の前でしばし沈黙し(いや、一人で見ていたから、ずーっと沈黙し)、さまざまな思いに浸るのでした。
展覧会は9月7日まで。これで300円は安い。ぜひご覧ください。
絵、なに?(28) 死骸と死 7/24
きのう、公園でハトの骨を見つけました。全体像がわかる形で残っていて、羽がまわりに散乱していました。写真を撮りましたが、サイトに掲示するのはやめた方が良さそうですね。ほとんど骨だから気持ち悪くはないけれど、薄気味悪いという人がいるでしょうから。
2年前の夏、練馬区立図書館主催の昆虫教室で、付近の公園を歩いていたときに参加者の一人がカラスの骨を見つけ、図書館のお姉さんがまったくためらわずにヒョイと拾い上げていたのを見て、びっくりした記憶があります。死骸に気楽にさわれるなんて、すごいと思いました。
車で通勤していたころ、路上でよくネコや犬の死骸に遭遇しました。ぼくも他の車もみんなよけて走ります。ああいった死骸は誰がどう始末するのだろう? 時には何日も何日も放置され、すっかり渇いた塊の表面から体毛が風に吹き飛んでいく様子も見られました。
「この本が面白い」でご紹介した『自然の中の絵画教室』で、死体解剖の話が出てきます。具体的な死を間近に観察し触れることで、生命や美をより深く理解するという内容で、普段あまり考えようとしない死(死体)についての考察や描写はなかなか迫力があります。こういうところに意識を向けることは大切なのじゃないかと、このごろ思うのです。
最近頻発している暴力事件(特に若い人たちの)をめぐって、「命の尊さ」ということをよく耳にしますが、それに対して、死も生も具体性・現実性がなくなってきているということも多くの人が指摘するところです。だから「命の尊さ」と言ったところで、空しく響くだけなのです。
たまに子供向けのアニメなどを見ると、その中で表現される死のイメージがあまりにも現実感を失っていると、つくづく感じます。もう何十年もそうなのだろうと思います。この手の作品はほとんど決闘だけでストーリーが構成されているのですが、相手が怪獣や宇宙人の場合、死ぬときには光がまばゆく輝いて、跡形もなく消散してしまいます。一方人間のほうはどんなに激しく攻撃されても、適当に血が流れているだけで、目がつぶれるとか、手がちぎれるなどの表現はありません(その点では、『もののけ姫』は若干毛色が違っています)。暴力表現はせん光や爆発を伴う激しいものなのに、生身の体が傷ついたり、痛みを感じさせる表現がまるでないのです。その落差に麻痺しているせいで、最近の人たちは(老いも若きも)現実生活でも攻撃性にブレーキをかけられずにいるような気がします。
でもだからといって、ドラマで内臓や血を表現すればいいかというと、それではただの悪趣味なホラーになるだけで、死や痛みを正常に伝えることはないでしょう。つまり映像はどこまで行っても、ヴァーチャルな世界でしかないわけです。
今ぼくは子どもたちといっしょに昆虫採集を通して、虫や動物の死骸に向き合い、多少なりとも死を学んでいます。人間よりはるかに小さな昆虫でさえ、実際の死の感触はヴァーチャルな映像よりもはるかに深く多くのことを、ぼくたちに教えてくれます。標本のために蝶を殺すときには、君たちの死は無駄にしないよ、という祈りを込めて、みんなで合掌。
絵、なに?(27) カタログと原画の色 6/25
ミレーはぼくの好きな画家の一人。日本人はミレーが好きなんだって、新聞の広告か何かに出ていました。のっけから余談:モネもこれまた日本人好みで、両方好きなぼくはまさに日本人なんだなあ。きっとワイエスも日本で人気が高いだろうと推測します。
先週の土曜日に見に行った『ミレー3大名画展』はほんとうにいい展覧会でした。予想どおり、めちゃ混みだったけど。「落ち穂拾い」「晩鐘」「羊飼いの少女」はどれも見ていて飽きません。特にぼくは「晩鐘」が好きで、20年以上前にルーブル美術館で見て以来の再会は感激的でした。こんな絵の前でずっとたたずんで、絵と対話をするのが好きなのです。
展覧会では、他にもミレーと同時代の、あるいは彼の影響を受けた画家たちの絵がたくさん展示されていて、どれも見応えがありました。今回この会場で改めて好きになった画家が、ピサロです。名前は知っていたし、図鑑などで作品は見たことがありますが、実物を3点見て、そのすてきな色使いが気に入りました。
いい映画や演劇や展覧会を見ると、おみやげコーナーで関連グッズをついあれこれ買ってしまいます。なるべくお金を使わないように努めているのですが、今回は我慢できず、図録を買いました。解説がとても勉強になるし。
でも、図録を買うことの危険性が一つあります。それは原画との色の違い。帰りの電車の中で見ていたら、あまりの違いに愕然としました。家族も同じ感想を口にしていました。それはまるで、実態のない幻のようなものです。
似たような記憶が他にもあります。ボッティチェルリの「春」という有名な絵がありますね。あれをぼくは、これもはるか昔ですが、フィレンツェのウフィッチ美術館で見たことがあります。その時、背景の森や草花が深い深い色で描かれていたのを発見しました。あの驚きは今でも忘れません。ところがあの絵も、美術図鑑などでは、浅く明るい色になってしまっています。
でもそれは印刷の限界ですから、仕方がないでしょう。日本の印刷技術はかなりのレベルなんだけど、原画の復元にはまだまだ遠いということです。
評論家の加藤周一氏は美術評論をするときに、実物を見てからでなければ絶対に評論しないとある本で書いていましたが、まあ、確かにそれは正しい態度ですね。ぼくたちはいろんなものを本やテレビで見て、何となく知った気でいるけれど、実はまったく別物なのです。初めから印刷を目的に作られたものなら話は別ですが、こういうものは複製ではほんとうに知っているとは言えないのです。
これから図録を繰り返し開いてみるようになると、やがてそちらの色の方が記憶に残ってしまうんだろうなあ。それが恐い。絵は見ないで、解説の文字だけ読むか。
絵、なに?(26) 百鬼丸のアナロジー 6/21
手塚治虫先生の怪奇マンガ『どろろ』、ご存じでしょうか。ぼくの好きな作品の一つです。1967年〜68年にかけて少年サンデーで連載され、未完のまま連載終了になったそうです(後に別の雑誌で一応の完結を見る)。
舞台は戦国時代の日本。ストーリーは、ある武将が権力を手に入れるために、生まれたばかりのわが子の体48箇所を、48匹の妖怪たちに渡してしまうところから始まります。ある日、川を流れてきた、まるでデクの坊のような赤ん坊を見つけた僧侶が、義足や義手や義眼をこしらえて育てます。それが百鬼丸です。青年になった百鬼丸は少年どろぼうのどろろと出会い、旅をしながら、父が自分の体を渡した妖怪たちと戦います。妖怪を倒すたびに、目や手など、奪われていたものが戻ってくるのです。
強烈な印象を残す設定でした。「手塚治虫ワールド」というサイトの解説によれば、これは貴種流離譚といって、「身分の高い主人公が幼くして故郷を離れ、数々の苦難をのりこえて英雄になるという、昔からある物語の一類型」なのだそうです。
物語全体としては母の愛もテーマの一つとして描かれていた(手塚先生は多くの作品で母性愛をよく扱っています)ようですが、ぼくは数年前にふと、人間が成長する、生きていくというのはこんなことじゃないかと、一つのアナロジーを発見しました(話がオヤジ臭いと言われそう)。
人間は決して完全な姿で生まれてくるわけではない。それぞれに異なった遺伝子や環境条件のもとに生まれる。それらのすべてがいいわけではなく、時には、百鬼丸のように、親のとんでもない私利私欲の犠牲になって生まれてくる場合もあるでしょう。とにかく欠けたところだらけ。そんな人間が、この世で妖怪と戦いながら、本来の自分を取り戻していく。目が見えるようになったり、歩けるようになったり。
敵は目の前にいる人間ではありません。妖怪・魔物。それらは時に自分の中に住んでいたりする、最も戦いにくい相手です。それらを倒さなければ、自分が本来持っていたはずの、聞く耳や、触れる手を取り戻すことができない。
今のマンガ・劇画に、あるいは数多く出ているファンタジーの中に、こういう大胆なイマジネーションによって生まれ、そこから多彩なアナロジーを引き出せるような作品は、どれくらいあるのでしょうか?最近第5巻が発売された『ハリー・ポッター』は、相変わらずの人気ですが、ぼくにはどう見てもエンタテインメント以上のものには思えません。ま、現代では多くの人が望んでいるのはそれなのかも知れませんが。
さて、ぼくは、自分の中に巣くっていたり、空中をさまよっている妖怪とチャンチャンバラバラをやって、とにもかくにも勝利したあとは「これで少しは、目が見えるようになったかな? 走れる足を身につけたかな?」と思ったりするのです。
「自分探し」という言葉はおそらく80年代に流行したもので、今ではこの概念も軟弱なものにゆがめられてしまった印象がありますが、その言葉が流行る10年以上も前に、手塚先生は『どろろ』の百鬼丸で、そのテーマを追求していたような気がします。
絵、なに?A(1〜13) B(14〜25)
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