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戦後補償講座 歴史編

日本軍の中国大陸侵略の歴史(第5回)

 日本軍がアメリカやイギリスにも宣戦布告をして戦場をアジア各地と太平洋の島々に広げていくと中国の戦場も膠着状態になりました。それだけ日本軍兵士の残虐性は広がったともいえます。

 日本の国内では次々に男性は兵士として戦場にかりだされ、国内の労働力が少なくなってきました。特に戦争に必要な物資の生産が充分にできなくなってきました。そこで当時植民地であった朝鮮から若者を「拉致」同様に連行し、日本国内の炭坑・港湾・建設現場で強制労働をさせました。それでも労働力不足は解消せず、1942年11月に「華人労働者移入の件」を閣議決定します。これによって、軍隊と企業(鹿島・三菱など建設会社など)が直接中国の農村にでむいて、銃で脅かしながら「拉致」し、日本へ連行し、各地の労働現場で強制的に働かせたのです。北海道の炭坑や、各地の港湾での荷役作業に従事させました。劣悪な現場で粗末な食事と厳しい労働の中で死亡する人が続出します。連行された総数は4万人近くになりますが、死者の数は6830人にのぼります。

 日本の敗戦によって、帰国した時も企業から一銭も賃金をうけとっていません。そればかりか、日本の加害企業は「損害を被った」として、戦後日本政府から補償金なるものをうけとっています。なかには、日本の敗戦直後に北海道の事業所から逃げ出した劉連仁さんは日本の敗戦を知らず、13年間北海道の山中をさまよい、救出されました。今日本の政府と企業はこの責任をとろうとしていません。

 1945年8月、日本の敗戦が濃厚になった時、ソ連が日本に宣戦布告をし、中国東北部(当時は「満州国」となっていました)に軍隊をすすめてきました。この土地にいた日本の関東軍は戦意を失い、逃げ出します。日本の政策で入植していた日本人たちも日本に引き揚げようとしますが、混乱の中、子どもを置き去りにしたり、家族が離ればなれになってしまうできごとがおきます。置き去りにされた子どもが中国の人に育てられ、これがのちに「残留孤児」の問題となっていきます。ソ連軍に捕虜となった人々はシベリアに連行された人たちもたくさんいます。

 そんな中、1945年8月15日、日本の天皇はラジオ放送で「日本が負けたこと」を国民に知らせます。中国はこの瞬間、日本の侵略から解放されました。日本の軍隊によって、中国で二千万人もの人たちの命を奪ったのです。1931年の「918事変」と年間の中国での日本軍の侵略は終わりました。15年間のできごとです。単純にいっても15年間で2千万人ですから、一年間で130万人、一月で10万人強、一日で4000人弱の命が奪われています。毎日毎日4000人の命が奪われたのです。連日の連続殺人です。 もう一回、戦争のあとしまつについてお話をします。次回完結です。

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