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戦後補償講座 歴史編

日本軍の中国大陸侵略の歴史(第2回)

 前回は1932年の平頂山事件まででした。その続きです。このころから日本は軍国主義のいきおいがつよくなってきます。五一五事件がおこるのもこの年です。陸軍の若い兵士が首相官邸を襲い、犬養毅首相を暗殺してしまうのです。軍隊が気に入らないと、首相でも殺されてしまようになりました。そして1936年には二二六事件がおこります。陸軍の兵士が戦車を動員し、首相官邸などを襲ったのです。もうこうなると一般の人が総理大臣になることはできません。軍隊に逆らうと殺されてしまうのです。軍人が政治の中心にすわるようになります。軍隊が国をのっとってしまうというわけです。だから「軍国主義」といいます。さいきん自衛隊が国民の動向を監視している、ということが発覚しましたが、1930年代の半ばに似てきてるような気がします。

 このあと首相になるのは軍人です。中国への戦争を正当化し、戦線を拡大しようとするのです。「満州」を占領した日本軍はさらに華北地方まで侵略しようと考えます。ペキンを中心に河北・山東・山西・チャハル・綏遠の五つの地方を中国から分離してしまえ、という華北五省分離独立論がでてきます。そして日本軍の傀儡政権の冀東防共自治政府をでっちあげます。「満州」だけではなく、どんどん侵略の地を広げていくのです。

 そして1937年7月7日、ペキン郊外の廬溝橋で日本軍と中国軍のささいな衝突を口実に全面戦争に突入していくのです。この「戦争」は宣戦布告がなかったので当時は日本では「日華事変」とよばれていました。戦争ではない、といいはっていたのです。ところが実際には完全な戦争でした。日本の軍隊が全面的に中国大陸で戦線を広げたのです。当時は中国は中華民国でした。首都は南京にありました。首都の南京を攻め落とせば、戦争を終わらせることができると考えて総力をあげて南京へ軍隊をさしむけました。8月に上海に上陸し、南京まで陸上を進軍していきました。空からも爆弾を落としました。大漁の軍隊が投入されましたが、食糧補給はせ ず「現地調達」ということになりました。そこで兵隊たちは自分たちの食糧を確保するために途中の農家で米や家畜を徴発しました。この過程で抵抗した農民が多く殺されています。中国軍も必死に抵抗したので、なかなか南京に進軍できません。3ケ月以上かかって南京近郊まですすみます。当時の中国の政権をとっていたのは国民党の蒋介石です。蒋介石は軍隊をつれて、首都を「移転」させるといって重慶に撤退していきます。南京に入城した日本軍は敵がいません。いきり立った兵士が略奪・虐殺・放火・強姦などの残虐行為を続けます。世に言う南京大虐殺です。1937年12月13日から2週間前後の間(その前も、その後も)に何があったのかを生き残った人たちがこれを伝えています。日本軍の兵士でこの時のことを語る人は多くありません。南京虐殺がなかったなどという人もいますが、十数万の人たちが命を奪われ、それ以上の人たちが家や財産を失ったのです。

 第二回目はここまでです。

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