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西野留美子さんの講演 (1999年12月10日)

 周喜香さんの証言集会で「山西省盂県で起きた中国人女性への性暴力―その背景と実態」をテーマに中国人「慰安婦」裁判を支援する会の共同代表の西野瑠美子さんが講演しました。以下はその主な内容です。(文責・編集部)

 

 五月に周さんのご自宅を伺った時を思いますと、昨日の法廷、そして今日の舞台の上で周さんがしっかりとはっきりと語られる姿を見てたいへん驚きました。周さんは昨日法廷でお話した後、話して良かった、日本に来て良かったと話していたそうです。先ほどビデオの中で、語ることそれ自体が癒しであるとありましたが、前回本人尋問で来日した第二次訴訟の原告・侯巧蓮さんもやはり同じように、日本に来て思い切り胸のうちを話してすっきりした、と語られていました。語る場ができた、語りを聞く人が広がってきたということが、周さんをはじめ被害を受けた女性たちの半世紀以上にわたる悶々とした思いのなかに、補償・賠償問題に行き着かなくとも、一つの光が差し込んだという思いをしていらっしゃるのではないかと、今日またあらためて強く思いました。

 山西省盂県の女性たちが受けた被害を皆様がお聞きになった時に、これがたとえば日本の植民地下の朝鮮あるいは台湾の女性たちが連行されて入れられた慰安所、つまり慰安所規約があり、料金制度があった軍隊慰安所という形と異なるという印象を持たれた方が多いと思います。この裁判は山西省の女性たちが受けた性暴力をなお日本軍の慰安婦制度のもとにおいてその責任を問うということが大きな特徴です。もちろん女性たちが受けた性暴力という原点は変わらないわけですけれども、しかし日本軍の慰安婦制度というのは大きく分けると三つの形態があったわけです。

 まず一つは日本軍が設営・管理をした慰安所です。ここには多くの朝鮮、台湾などの植民地の女性たちが連行されて行ったということが多いです。

 二つ目は、民間業者の行っていた慰安婦施設を軍が契約し委託するという形です。

 三つ目が中隊以下の小さな部隊が独自に地元の女性たちを拉致するケース。盂県の被害というのはまさにこの事例に当ります。そして特に周さんのように抗日ゲリラに対する壊滅作戦の中で女性が連行され拷問、監禁されたという、これはフィリピンでも多く見られるパターンです。つまり占領地あるいは侵略地、軍政下においてさまざまな特徴が日本軍が設置した軍隊慰安所というのはもっているということをまず押さえておきながら、山西省の状況を見てみたいと思います。

 山西省というのは抗日組織の拠点であり、日本軍はここをせん滅作戦の対象にしました。女性たちに対する暴行事件がたくさん多発しています。日本軍は地域を三つに分けて設定しました。一つは治安地区つまり占領したところです。二つめはまだ八路軍の抗日根拠地である解放区つまり敵性地区。三つめがその中間である抗日遊撃地区でもある準治安地区です。敵性地区においてはまさに三光作戦=「奪い尽くせ焼き尽くせ殺し尽くせ」そして「強姦し尽くせ」とこれは松井やよりさんが「四光作戦だ」とおっしゃいますけども、まさにそのような作戦が実施されていた場所なんです。

 日中戦争において日本軍は中国の人びとを一千万人以上殺害していると言われています。その中には中国人女性への性犯罪というのが非常に特徴的に多く、またその犠牲者数を特定するのは到底できないほど大変な数の被害を与えています。戦争であれば何をしてもいいかというとそうではなく、陸軍刑法には強姦は犯罪とあります。厳しく取り締る規律がありながらも、ではなぜこの規律を侵すような強姦が多発するという軍規違反が常態化していたのでしょうか。

 強姦しても強姦しっぱなしだと重営倉に入れられたり軍法会議にかけられたりします。つまり証拠を隠滅するということが大事なのです。その女性がたとえば八路軍であったとか抵抗したとかそういったことにおいて殺害すればそれはひとつの点数になります。出世のためにはそういうことも加算されてきます。つまり証拠を隠滅するために強姦の後殺すということ、それが非常に多かった。それからもう一つは山西省のケースのように日本軍の駐屯地、兵営、トーチカあるいは今回のヤオドンのようにそういうところに連行して強姦して自分達の部隊独自の慰安所をつくりました。とても慰安所とよべるようなものではないし、女性たちを 慰安婦と呼ぶのには大変な抵抗がありますけれども、そういうふうに女性たちを監禁しました。これが特徴になるわけです。

 戦後ずっとかかえた被害がいかに女性たちの人生に大きな影響を与えたか。それ自体がまた日本が問われる責任の一つだと思います。五月に侯巧蓮さんが亡く なったときにお子さんたちからいろいろお話を伺い、彼女の戦後が大変な状況だったとあらためて知りました。お母さんはよく突然に家を飛び出して叫んだり、 気分が悪くなると言葉がでなくなったり、突然歌を歌い出したり踊りだしたり、と。これは侯さんが日本軍の前で「踊れ、踊れ」と踊らされるという経験があるわけですが、それがとてもいやで、そのときの屈辱を彼女は戦後もかかえていたのです。子どもたちや周りの人が止めようとすると全く別人のように止めるのをいやがったそうです。子どもたちの目にその時のお母さんはまったく別人のように映ったと話されていました。自宅の外で人の声が聞こえたり足音がしたり、大勢の人が集まるような機会があると、布団の後に隠れてしまったそうです。人があまりに多いときはびっくりして大便や小便をもらしてしまうということもあったそうです。興奮したときに突然他の人の手にかみついたり自分の手首を傷つける自傷行為もあったそうです。日本軍に暴力をふるわれるとき女性たちは何の抵抗もできないわけです。かみつくということが唯一の抵抗だったかもしれない。やはりそういった行為も戦後の中に出てきています。

 周さんのお話に、たびたび当時の夢を見て思い出すとありました。黄色い服を着て革靴をはいた軍人に追いかけられ、一生懸命走っても逃げきれずにつかまって しまう、という夢を見てうなされるそうです。そしてもう一つ、真っ赤な夢を見ると言っていました。これは拷問のときに受けた、吹き出した鮮血ですね。これ も女性たちの受けた悪夢、ひとつのPTSDのなかから語られていることです。

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