池田小百合トップページに戻る

なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る

池田小百合 なっとく童謡・唱歌
明治の唱歌 (文部省唱歌など)
池の鯉     美しき天然    鎌倉      汽車     こうま   故郷を離るる歌  早春賦   
   ツキ    茶摘    二宮金次郎    ふじの山     冬の夜     星の界   
蟲のこゑ  村祭    我は海の子
中田章略歴  吉丸一昌略歴
童謡・唱歌 事典 (編集中)



美しき天然

詞  武島羽衣
作曲 田中穂積

池田小百合なっとく童謡・唱歌

(2008/10/24)


 【詩について】 日本の風景美を讃えた文語調の詩。

△ 堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)より

 モデルは特定されていません。愛する日本国がいかに美しいか淡々と語られています。 「天然」は、人の力をもってしては及ばない自然なさま。
 一番の「大波小波 鞺鞳(タウタフ)」は、 波や水の流れが勢い好く音をたてる様子を表現した言葉です。現在、全ての出版物が「鞺鞳」となっていますが、 最初の頃の出版物は平仮名で「どーどー」でした。※【楽譜について】を参照してください。
 ★「大波小波どーどーと」だったものが、いつから、なぜ「大波小波 鞺鞳(タウタフ)と」になったか。
  (註)以下の<掲載詩>と解説は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方(府中市のNさん)から教えていただきました(2017年4月5日)。

 <掲載詩>
 
 <掲載詩①の解説>
  明治34年、『新編國語讀本 高等小學校兒童用』に掲載。これは児童用であったので、難解な漢字は使用していない。しかし韻文にはふさわしくない「どーどーと」と長音を使用している点に違和感がある(「新編国語読本字引」では、長音はルビに使用している)。
  *「美しき天然」の原詩を武島が作った時期は不詳であるが、出版物としては、武島らが編纂した「新編国語読本 高等小学校児童用」が最初である。原詩は、子供向けのものではないが、「新編国語読本 高等小学校児童用」に掲載の際に、使用漢字の制約などから、原詩を一部改変したものであろう。本来の読みとは異なるうえ、「どーどーと」など韻文にふさわしくない表記は、武島の本意ではないと推測しうる。

 
  <掲載詩②の解説>
  明治35年、この韻文をもとに同じころ、永井が鳥取で、田中が佐世保で曲を付け、田中の曲が佐世保で唄われた。

 
  <掲載詩③の解説>
  明治38年、田中の曲が『音楽』8巻6号に掲載され、これが全国に広まった。歌詞は「どーどーと」、譜の歌詞付けは「ド-ド-ト-」である。

 
  <掲載詩④の解説>
  大正6年、武島は、詩集『続花紅葉』に「美しき天然」を掲載し、「鞺鞳と」と本来の漢字を使用した。すべてルビはなし。

 
  <掲載詩⑤の解説>
  昭和5年、新潮社刊『現代詩人全集』に「美しき天然」が掲載されたが、これには(だうたふ)とルビが付されている。
  *明治から昭和30年前後までの楽譜では、歌詞は「どうどうと」「だうだうと」などがあるが(「滔々と」の一例あり)、楽譜の歌詞付けでは、「ど-ど-と-」「だうだうと-」「どうどうと-」としている。戦前のレコードでも「どーどーと」と唄われている。
    昭和6年『世界音楽全集19巻(流行歌曲集)』 どうどうと
    昭和8年『世界音楽全集36巻』 詞 だうだうと、譜 どうどうと

 
  <掲載詩⑥の解説>
  昭和33年、岩波書店刊『日本唱歌集』に掲載された詞は、作詞者の希望により、旧かなの表記としている。「鞺鞳」には、(たうたふ)とルビが付されている。
  *これが手本となり、以後の歌集の歌詞は、「とうとうと」が多くなり、近年、野ばら社の『童謡と唱歌』『唱歌』なども漢字表記の「鞺鞳と」を用いている。これらにより、現代では「とーとーと」と唄われることが多いようである。

 【「神」についての考察】
 一番から四番まで、最後に「神」という言葉がありますが、武島羽衣の二男、武島達夫(大正三年十月二十四日生まれ)が重要な発言をしています。「非常に熱心なクリスチャンだった母(とな子)の影響ではないでしようか。父は全然お寺や教会に行かなかった人だが、この詞は、訴える口調のような内容ですから」(読売新聞文化部著『唱歌・童謡ものがたり』(岩波書店)平成十一年九月二十四日第四刷発行より抜粋)。しかし、結婚以前に出版された『美文韻文 花紅葉』(博文館)1896年(明治二十九年)十二月発行を見ると、「浪の雫」「詩神」など「神」を書いた作品が多数ある。「神」への気持が強くあったから、明治三十二年五月二十四日に熱心なクリスチャンであった(とな子)と結婚したのでしょう。自分にも信仰の心がなければ、時代的にクリスチャンとの結婚はありえない。いずれの作品にも、それが反映されている。

 大塚野百合著『賛美歌・唱歌ものがたり』(創元社)には次のように書いてあります。
 「武島羽衣が一八九九(明治三二)年に結婚したとな子は、新潟の廻船問屋の娘で、書や画に才能のある熱心なクリスチャンであり、彼に深い影響を与えたようで、一九五二(昭和二七)年に七四歳のとな子を亡くした羽衣の悲嘆は激しく、 『哀しみの歌百首』にその思いを注ぎ出しました。
 妻の死の一四年後に彼は世を去ったのですが、その葬儀は日本基督教団富士見町教会で行なわれました。どのような理由で、葬儀が行なわれたか知りたいものです」。

 【田中穂積の略歴と作曲の経緯
  ・安政二年十一月四日、岩国藩(現・山口県岩国市)の家老今田家の家臣(陪臣)、田中判右衛門の次男として誕生。幼い頃から西洋音楽に興味を持つ。(註・田中家は、吉川家の直接の家臣ではなく、家老今田家の家臣)
 ●インターネットでは誕生日が十四日になっているが、岩国市の刊行物や説明看板は四日になっている。 以上、田中穂積については、岩国市教育委員会文化財保護課 岩国微古館 岩国学校教育資料館による(2008年10月16日記)。
 ・ 1867年(慶応三年)、日新隊入隊、鼓手を務める。
 ・1873年(明治六年)、志願して海軍に入隊、軍楽隊に配属。五等鼓手を振り出しに終生軍楽隊に籍をおいてその発展に貢献した。
 ・1899年(明治三十二年)、累進して佐世保海兵団の第三代海軍軍楽長となる。
 ●多くの出版物に(『美しき天然』は明治三十三年に完成)とあるのは間違い。明治三十三年には、まだ佐世保女学校が創立されていない。
 ●上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)2005年9月7日初版発行も同じ間違い。事典なので、この記載を使って多くの出版物が出る可能性がある。文章もおかしい。「教材を探していて雑誌中に武島羽衣の詩「花」を発見、これに付曲して出来たのが歌曲「花」である」この記載は変です。「花」は間違いで、「美しき天然」が正しい記載です。(項目執筆者・上笙一郎)
  ・1902年(明治三十五年)、佐世保は明治十九年に海軍の鎮守府設置以来人口が膨らみ村から一挙に市に成った(佐世保市制施行・明治三十五年四月一日)。
 同三十五年、将校子女のための私立・佐世保女学校(後の市立成徳高等女学校、現・長崎県立佐世保北高等学校)が設立された。田中穂積は、創立したばかりの女学校で音楽教師として教壇にも立っています。この時同校の校長から依頼があり、教材用に作曲したのが武島羽衣の詩による『美しき天然』です。佐世保の高台から見下ろす海と多くの島々が織り成す美しい風景を見て、このメロディーを書いたといわれています。このほか、沢山の軍歌の作曲もしています。

  【楽譜の出版】 歌は佐世保女学校だけにとどまらず、次第に広く歌われ始 め、楽譜と歌詞が同時に雑誌≪音楽≫八巻六号、樂友社、明治三十八年(1905 年)十月十日発行に掲載されました。雑誌≪音楽≫は、国立音楽大学附属図書館 /国立国会図書館で マイクロフィッシュの形で所蔵しています(2008年10月23 日調査)。
 『原典による近代唱歌集成』原典印影Ⅲ(ビクターエンタテインメント)の解説 には≪音楽≫8巻6号(1905年)と書いてあります。

 ●『明治文学全集41』(筑摩書房、昭和四十六年三月初版第一刷発行)<昭和 五十九年二月第四刷発行>の年譜には、「明治三十八年(1905年)十月、『美 しき天然』(田中穂積作曲)を音樂社から刊行。全国の男女学生の愛唱歌となっ た」と書いてあります。
 なぜ、『明治文学全集41』の年譜には、「明治三十八年(1905年)十月、 『美しき天然』(田中穂積作曲)を音樂社から刊行」と書いてあるのでしょう。
 それは、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫、1958年(昭和三十三年)12月20日第一刷発行<1993年10月15日第五十刷発行>の参考文献・単行唱歌集276ページに「田中穂積(作曲)『唱歌美しき天然』(音楽社)明38・10」と書いてある ためです。
 ●堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)の解説には「楽譜が一枚譜で発売され」と記述してありますが、一枚譜(楽譜ピース)ではなく、雑誌≪音楽≫の六ページに掲載されています。

  ・・・そして、全国で歌われました。さらに、「サーカス」や「チンドン屋」の呼び込みの音楽として使われたり、街頭で「演歌師」がヴァイオリン片手に演奏 したりと、大衆の中に浸透して行きました。その発端については【大衆化した理由】を参照してください。

 ・田中穂積はこのことを知らないまま一九〇四年(明治三十七年)十二月三十一日に佐世保海軍病院にて他界しています。享年五十歳。
 (註・心臓の宿痾を冒し軍楽隊を率いて戦没者の葬儀に参列、これが為肺炎を併発し亡くなりました)。
 以上、略歴は吉香公園の「田中穂積先生略伝」より抜粋。

 【楽譜について】 楽譜をくわしく見ましょう。
 (1) 雑誌≪音楽≫掲載の楽譜について
  ・雑誌≪音楽≫八巻六号(樂友社)1905年(明治三十八年)十月発行に掲載された歌詞の冒頭には「美しき天然 故海軍々樂長 田中穂積 作曲」と書いてあります。
  ・一番の歌詞は、「大波小波どーどーと」となっています。楽譜の歌詞付けも「ドードートー」です。
 ●楽譜の冒頭に(ト調四分の三拍子)と書いてあるが間違い。(e mollホ短調四分の三拍子)が正しい。これは、だれが書いたのでしょう。今までの研究者はだれも指摘していません。
  ・単旋律で伴奏譜はついていない。
  (2) 堀内敬三の楽譜について
 ホ短調では、高すぎて歌いにくいので、昭和六年(1931年)、≪明治・大正・昭和流行歌曲集/世界音楽全集第十九巻≫に堀内敬三がピアノ伴奏を付けて発表したとき、今歌われている(c moll ハ短調)に書き直しました。

  <〔明治三十三年頃〕> これは何か?
utukusiki

 タイトル『美しき天然』の上に〔明治三十三年頃〕と書いてあるのは堀内敬三の覚え書きです。 堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』の『美しき天然』の解説には次のように書いてあります。
  「作曲者田中穂積は当時、佐世保海兵団海軍軍楽隊長。佐世保に女学校が新設された時(明治33年ごろ)校長の依頼で作曲した。歌詞は詩集から訪った由」。
 堀内敬三は、いずれも●〔明治三十三年頃〕●(明治三十三年ごろ)と言っているのだが、しだいに「明治三十三年」と決めつけられ、多くの出版物に使われ、「明治三十三年、佐世保に女学校が設置され、その校長の依頼によって作曲」と間違った記載になってしまいました。
  「佐世保に女学校が新設された時(明治35年)校長の依頼で作曲した」が正しい。

  <音階の説明> 左上に音階の説明が書いてあります。
  ・ヨナ抜き短音階(c moll ハ短調)で作曲されています。
  ・(属音調)と書いてあるのは、「ひびきたえせぬ」の部分の事です。ここは、ハ短調の近親調である属調(g moll)に移調しているので、さらに神秘的な響きです。曲の説明が楽譜に書いてあるのは異例のことです。説明があると作曲者の意図がわかりやすい。

  <楽譜の歌詞付け> 楽譜の歌詞付けは「おーなみこなみ どーどーとー」となっている。
  ▼「どーどーとー」と、「ひびきたえせぬ」の音の動きに注目
 

  <堀内敬三の作曲の実力> 楽譜の右上には、上から順に、武島羽衣作詞 田中穂積作曲 (ピアノ伴奏 堀内敬三作)と、三行書いてあります。 伴奏は、文部省唱歌にありがちな「ブン チャッ チャッ」の三拍子の伴奏ではありません。メロディーの美しさを損なわないように考慮して書かれています。楽譜を見れば、作曲の勉強をした人が書いた事が一目でわかる立派な作品です。バイエルやソナチネを練習したぐらいでは、とても弾けないので、すぐに簡易伴奏譜が出版されました。
 残念な事に、日本では昔も今も伴奏譜の著作権は重要視されていないので、名前が残る事はほとんどありません。
 例えば、ポプラ社の『少年少女歌唱曲全集 第3巻 日本唱歌集(3)』(昭和36年5月発行)の『美しき天然』の簡易伴奏譜には、作者名がありません。両手の和音が簡素化され、右手にはっきりメロディーが入り、歌いやすくしてあります。子供でも弾けるようになっています。

 【堀内敬三 略歴】
 「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の『家路』堀内敬三略歴を参照してください。なぜ堀内敬三は作曲できたのかがわかります。

 【詩の収録について】
 武島羽衣の詩集を調べてみました。
 (1)鹽井雨江(しおいうこう)、武島羽衣、大町桂月共著『美文韻文 花紅葉』(博文館) 一八九六年(明治二十九年)十二月発行には掲載されていません。
 (2)武島羽衣著『美文韻文 霓裳微吟』(博文館)一九〇三年(明治三十六年)七月発行にも掲載されていません。
 (3)鹽井雨江(しおいうこう)、武島羽衣、大町桂月共著『美文韻文 續花紅葉』(博文館) 一九一七年(大正六年)五月発行に『美しき天然』が掲載されています。東京大学総合図書館所蔵、閲覧可能(2008/10/23)。

 以上の調査により、●堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』の『美しき天然』の解説に「作曲者田中穂積は・・・校長の依頼で作曲した。歌詞は詩集から採った由」と書いてあるが、「歌詞は詩集から採った由」は間違いだということがわかります。
 1905年(明治三十八年)十月、『美しき天然』(田中穂積作曲)は、雑誌≪音楽≫八巻六号に掲載され、樂友社から出版されている。田中穂積は、『美文韻文 續花紅葉』(博文館) 一九一七年(大正六年)五月発行の詩集を見て作曲したのではない。この「歌詞は詩集から採った由」という堀内敬三の解説は、文献として多くの出版物で使われてしまっています。『美しき天然』の歌が全国で歌われたので、武島羽衣は、その著『美文韻文 續花紅葉』(博文館) 一九一七年(大正六年)五月発行に収録したのです。
 ●堀内敬三は、解説を書く際、詩が掲載されている『美文韻文 續花紅葉』と、先に出版されていて詩が掲載されていない『美文韻文 花紅葉』(博文館) 一八九六年(明治二十九年)十二月発行を間違えたのでしょう。

 【歌唱について】
 四連からなる詩は、それぞれ八行から成っています。このうち四行に相当する部分に一続きのメロディーがつけられ、一連を歌うのに二回同じ旋律を繰り返します。四連全てを歌うと八番まで歌ったような気分になります。
 「ひびきたえせぬ」の「び」「え」の音が、半音上がって変化しているので、音の高さに注意して歌います。

 【ジンタの響き】
 日本の古い音楽の多くは、二拍子か四拍子でした。この曲は、日本で最初に作られたワルツと言われています。このような三拍子の曲を俗に「ジンタ」と呼んでいます。三拍子のリズムが「ジン、タッ、タ」と聞こえるからです。「ジンタ」は、西洋音楽の美しい三拍子のリズムやハーモニーとはほど遠く、クラリネットやラッパが奏でるメロディーに合わせて、太鼓などの打楽器を鳴らす楽隊が演奏する「軍楽調ワルツ」。品が無かったので、逆に大衆からもてはやされました。その発端については※【大衆化した理由】を参照してください。
 ●上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)2005年9月7日初版発行には「その音律が<ジンタ ジンタ ジンタカタッタ>と聞こえるところから」と書いてあるが、『美しき天然』は、そのようには聞こえない。これは、ほかの曲の間違い。(項目執筆者・上笙一郎)

 【堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)検証 】
 この本の堀内敬三の解説には既に指摘したように、多くの間違いがありますが、文献として使われ、間違いの方が定着してしまっています。まとめておきましょう。
 ●歌詞と楽譜の発表(―『美しき天然』明38・10)は間違い。(―≪音楽≫8巻6号  明38・10)が正しい。
 ●「*作詞者の希望により、歌詞は旧カナづかいのままにした」と書いてあるが、一番の歌詞は「大波小波 鞺鞳(たうたふ)と」となっていて、雑誌≪音楽≫八巻六号(樂友社)明治三十八年十月発行に掲載の歌詞「大波小波どーどーと」と違います。
 ●掲載楽譜も田中穂積のものではなく、昭和六年、≪明治・大正・昭和流行歌曲集/世界音楽全集第十九巻≫に堀内敬三がピアノ伴奏を付けて発表した(ハ短調)に書き直した楽譜です。歌詞付けは「おおなみこなみ とうとうとー」となっているのは間違い。 【楽譜について】を参照してください。
 ●解説には「作曲者田中穂積(1855~1905)は当時、佐世保海兵団海軍軍楽隊長。佐世保に女学校が新設された時(明治33年ごろ)校長の依頼で作曲した。歌詞は詩集から採った由」と書いてあるが、●(~1905)は間違い。(~1904)が正しい。
 ●「明治33年ごろ」は間違い。正しくは【田中穂積の略歴と作曲の経緯】や【楽譜について】を参照してください。
 ●「歌詞は詩集から訪った由」も間違い。※【詩の収録について】を参照してください。
 ●解説には「海軍軍楽隊内で愛唱されて東京にも伝えられ、作曲者が死んでまも なく楽譜が一枚譜で発売されてから全国の女学校に普及し、一般男女学生の愛唱 歌となった」と書いてあるが、
 ●「楽譜が一枚譜で発売され」も間違い。楽譜ピースではなく、雑誌≪音楽≫八巻六号(樂友社)明治三十八年十月発行の六ページに掲載されている。
 ●参考文献・単行唱歌集のページにも、「田中穂積(作曲) 『唱歌美しき天然』(音楽社)明38・10」と書いてあります。これも、雑誌≪音楽 ≫八巻六号(樂友社)明治三十八年十月発行の間違いです。

 【大衆化した理由】堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』の解説には、重要な事が書いてあります。「明治39年、恋愛のために殺人を犯した野口男三郎の裁判があった時、その件を歌う演歌「ああ世は夢か幻か・・・」にこの曲が使われてから大いに流行した」。
 なぜ大衆にもてはやされるようになったか、その発端がわかります。

 【詩の出典】
 では、武島羽衣の詩は、いつどこで作られたのでしょう。どのようにして田中穂積は詩を入手したのでしょう。武島羽衣が、東京帝国大学国文学科出身の詩人・歌人である事は世に知られていた。当時、東京音楽学校教授で国文学・文学史・歌文などを教えていた武島羽衣に、田中穂積が詩を依頼したのでしょうか。肝心な所が不明です。〔調査中2008年10月24日〕

 2010年3月6日、意外なところから詩の出典が明らかになりました。
 鳥取県師範学校教諭だった菅沼松彦・永井幸次が著した『新編 國語讀本 歌曲並ニ遊戯法』(明治三十五年八月一日発行、田中活版印刷)です。この本は『新編 國語讀本』の詩に二人が曲と遊戯法を付けたものですが、そのなかに「美しき天然」が収録されているのです。共著ですが、菅沼は体操の教諭で、永井は音楽の教諭です。作曲は永井、遊戯法は菅沼の担当、永井は大阪音楽学校の創設者です。
 貴重な情報を教えて下さったのは神奈川県藤沢市在住のYさん。資料は国立国会図書館に保管されていました。この本の詳細は別ページにあります。
 「美しき天然」の出典は『新編 國語讀本 巻二、第二十二課』(普及舎出版)と明記されています。
 そして永井は「美しき天然」に自分で独自の作曲をしているのでした。


 【永井版「美しき天然」曲譜について】
 歌詞は、明治三十八年版「音楽」と比べると平仮名表記が多いものの、同じ歌詞です。曲は田中穂積のものとは異なっています。タイトルの下に、{ハ調 四拍子}と書いてあります。これは、ハ長調、四分の四拍子の事です。
 楽譜は数字譜です。音階を数字で表し、音符の長さを数字に付けた記号で表しています。通常の五線譜に書き直してみました。テンポの四分音符=96は私、池田小百合が設定したものです。(楽譜上の作曲「菅沼松彦」は削除)

 曲は8小節目のフェルマータを境いに前半部と後半部に分かれています。前半部は「タッカタッカ」のリズムが使われていて、これは日本人が好きなリズムです。後半部はのびやかに歌い上げる曲調になっています。
 本の緒言からは、作曲に当った教師の熱意がうかがえますし、曲はなかなかの力作ですが、音域が広いため、子どもが歌うには苦しかったのではないでしょうか。

 【『新編 國語讀本歌曲並ニ遊戯法』の閲覧】
 2010年3月11日に、国立国会図書館に行き、この本の調査をしました。実は3月7日にも行ったのですが、日曜日のため休館でした。
 本書は、マイクロフィルムで資料室に保存されていました。だれでも閲覧できますが、マイクロフィルムを手にするまでに時間がかかり、さらに閲覧室での機械操作も、なれないと難しいものです。こういった資料もゆくゆくはデジタル化されて、もっと便利に閲覧できるようになるでしょう。また、デジタル化すれば容量が小さくなりますから、地震や火災で貴重な資料が失われないように別の建物にも副本を保存しておいてほしいものです。あらためて資料は国の宝だと思いました。
 追記:その後、国会図書館近代デジタルライブラリーに収録され、インターネット公開されました(2010年12月裁定)。

 【普及舎版『新編 國語讀本』】
 普及舎版の『新編 國語讀本』は明治三十四年に発行されたようです。目下、古書店を調査中です(2010年3月11日記)。

 【普及舎版『新編 國語讀本』を入手】
 福岡市の古書店より以下の普及舎版『新編 國語讀本』四冊を入手しました(2010年3月17日)。いずれも糸で綴じてあり、表紙は破損し、カビが生えていました。普及舎版の『新編 國語讀本』で現在見ることのできる本はこれで全部のようです。

  《尋常小學校兒童用》
  ・武島又次郎 小山左文二 合著「新編 國語讀本 尋常小學校兒童用」巻三(普及舎)  (明治三十四年六月廿八日発行 明治三十四年八月八日訂正再版発行) 定価十銭


▲柴田勇は所有者の名前

  《高等小學校兒童用》
 ・武島又次郎 小山左文二 合著「新編 國語讀本 高等小學校兒童用」巻二(普及舎)  (明治三十四年六月廿八日発行 明治三十四年八月八日訂正再版発行) 定価二十銭
  ・武島又次郎 小山左文二 合著「新編 國語讀本 高等小學校兒童用」巻四(普及舎)  (明治三十四年六月廿八日発行 明治三十四年八月八日訂正再版発行) 定価廿一銭
  ・武島又次郎 小山左文二 合著「新編 國語讀本 高等小學校兒童用」巻五(普及舎)  (明治三十四年六月廿八日発行 明治三十四年八月八日訂正再版発行) 定価廿二銭


 【田中穂積が見た詩は、これだ】 
 武島又次郎 小山左文二 合著「新編 國語讀本 高等小學校兒童用」巻二(普及舎)、(明治三十四年六月廿八日発行 明治三十四年八月八日訂正再版発行) 
定価二十銭。

 武島又次郎は、武島羽衣の本名です。田中穂積は、明治三十五年、依頼に応じて『新編 國語讀本 高等小學校兒童用』巻二第二十二課に掲載されている詩「美しき天然」を見て作曲をしたのでしょう。この資料と事実については、今まで、だれも調査報告をしていませんでした。発見できて光栄です。(2010年3月17日記)。

 【これから調査する人へ】≪音楽≫8巻6号(1905)の≪音楽≫は、「音楽」(東京音楽学校学友会発行)一巻一号~九巻十二号(明治四十三年~大正十一年十二月)とは違います。また、一枚譜(楽譜ピース)は、「セノオ楽譜」ではありません。いずれも調査済み(2008年10月23日記)。

著者より引用及び著作権についてお願い】 

 (註)このページの記載は、他の出版物に無い現在一番新しい正確な情報です。これを利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記してください。それはルールです。
                    ≪著者・池田小百合≫

なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る




鎌 倉

作詞・作曲 不詳
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/02/07)


  戦後は音楽の教科書に掲載されませんでしたが、高齢者の圧倒的な支持を得て現在も広く愛唱されています。しかし、時代と共に歌詞が変更されたようです。また、歌いやすいように勝手に歌い方を変えて歌われているようなので、調べてみる事にしました。
  江戸時代は、江の島詣でをした人々が帰りに鎌倉に立ち寄ったそうです。七里ヶ浜から鎌倉の中心部、さらに北鎌倉へ抜ける道順に歴史と名所旧跡を歌い込んであるので、歌えば歴史の勉強になり、土地のガイドもしてくれます。
 若い人にも、ぜひ歌ってほしい一曲です。八番までの歌詞は長いようですが、歌えば歌うほど味のある歌です。

  【初出】
 詩は、明治四十三年(1910年)四月、当時の文部省の国語教科書『尋常小学読本』巻十二、第六課の韻文として発表されたものです。同じ年の七月、この詩に曲をつけて『尋常小学読本唱歌』(文部省・明治四十三年七月十四日発行)で発表された歌です。この教科書には作詞者・作曲者の氏名は記載されていません。

▲四番の三行目が欠落。四番の三行目は「問はばや遠き世々の跡。」です。
▲『尋常小学読本唱歌』明治43年発行 歌詞 楽譜
     
 <「初出」の歌詞について>
  ・三番は、「雪の下過行けば」となっています。
  ・五番は、『尋常小学読本』の韻文では「かへせし」、『尋常小学読本唱歌』では「かへしゝ」になっている。
 曲をつけるとき変更したのには理由があります。「かへせし」は、文法上の誤りだから正したのです。「かへす」は、サ行四段活用なので、「かへしゝ」が正しい。
 中村幸弘著『読んで楽しい日本の唱歌Ⅰ』(右文書院、2006年)には「かへせし」について、“江戸時代から、この明治のころには、このような言い方をしたのです。明治には、文法上、許容事項というものがあって、こういってもいい、というように認められてはいましたが、望ましい言い方ではなかったのです”と解説されています。
  ・七番は、「歴史は長き七百年」になっています。

 <『尋常小学読本』について>  
 文部省が編集した国定の教科書。各学年二冊、全十二巻。時代に合わせて改訂されていきました。
 第一期『尋常小学読本』(通称・イエスシ本) 明治三十七年より使用。
 第二期『尋常小学読本』(通称・ハタタコ本) 明治四十三年より使用。
  「鎌倉」は『尋常小学読本』巻十二、第六課に掲載。24・25ページの部分だけは、『原典による近代唱歌集成』(ビクターエンタテインメント)で見る事が出来ます。「雪の下村過行けば」「かへせし人をしのびつゝ」「歴史は長き七百年」と書いてあります。


  <『尋常小学読本唱歌』と『尋常小学唱歌』について>

  【大正三年版での扱い】
 『尋常小学唱歌』第六学年用(文部省)大正三年六月発行では、五番は「かへせし」になっています。なぜでしょうか。後は全て明治四十三年発行の『尋常小学読本唱歌』と同じです。
  「かへせし」に戻した理由を考えてみました。仮に、国定教科書編纂の公務についていた芳賀矢一が「鎌倉」の作詩者だったらどうでしょうか。 『尋常小学読本』で、「かへせし」として書いたものを、『尋常小学読本唱歌』では「かへしゝ」と変えられて作曲され、掲載されてしまったので、自分が書いた「かへせし」にもどしたのではないでしょうか。芳賀矢一が作詩者だったら、きっとそうしたでしょう。

  【昭和七年版での扱い】 『新訂 尋常小学唱歌』第六学年用(文部省)昭和七年十二月発行では歌詞が大きく改訂されました。
       ▼『新訂 尋常小学唱歌』昭和七年発行 歌詞

 <なぜ「村」を「道」に改訂したか>
 三番は、「雪の下村過行けば」が「雪の下道過行けば」と改訂されました。「村」から「道」に変わっています。なぜでしょう。
 まず、「雪の下」は地名で、現在(平成二十二年)も「鎌倉市雪ノ下」は残っています。郵便番号簿でも確認できます。

 ●『日本地名大百科』(小学館)には「雪ノ下」の情報はありません。
 私、池田小百合は、“「村」がなくなったので「道」にした”と聞いた事があります。雪ノ下村があったのは、いつまででしょうか。

 ○鎌倉市総務課市政情報担当 青木さんからの回答(2010年2月5日付)
  「雪ノ下村(表記は「雪の下」ではなく「雪ノ下」が正しいようです)は、明治22年4月1日の町村制施行時までありました。その際、他の数村と統合し東鎌倉村となった後、明治27年4月2日に西鎌倉村と統合し鎌倉町となりました。その後、昭和14年に鎌倉市となり現在に至っています。
 青木さんからの回答で、なぜ「村」を「道」に改訂したかが、わかりました。
 『鎌倉』の歌が発表された明治四十三年には、すでに「雪の下村」はなかったのです。そのことに、『新訂 尋常小学唱歌』の編集者は、気が付いたのでしょう。それで、「雪の下村」の歌詞を「雪の下道」に改訂したのです。「雪の下道」と歌っても、違和感はありません。

 <「かへしし」にもどす> 五番は、『尋常小学唱歌』で「かへせし」としたのを、『新訂 尋常小学唱歌』では、また『尋常小学読本唱歌』と同じ「かへしし」にもどしました。編集者が文法上の間違いに配慮したのでしょう。

  <「長き」を「長し」に改訂> 七番は、「歴史は長き七百年」の「長き」が「長し」に変わり、「歴史は長し七百年」と「ナガシ」「シチヒャクネン」と韻をふんだ美しい文になりました。 「長き」と「長し」では解釈が違ってきます。
  ・「長し」は終止形で、「歴史は長し」で切れ、「歴史は長い」と、歴史の長さが強調されています。つまり、歌詞の意味は、「鎌倉の歴史は長い」それは「七百年も過ぎた今では英雄の墓にこけが蒸すほどです」。
  ・「長き」は形容詞の連体形で、「七百年」に係っています。「鎌倉の歴史は長くて七百年もある」と誤解されます。それを避けるために「長し」にしたのでしょう。
 (註) かつての通説によると、鎌倉幕府は、建久三年(1192年)に源頼朝が征夷大将軍に任官して始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在では実質的な成立は1192年より前すなわち1180年から1192年の間にあるとする説も出てきている。また、日本で初の武家政権とされたこともあったが、今では平氏政権に次ぐ武家政権と位置づけられている。

  【『初等科音楽 四』での扱い】 
 『初等科音楽 四』国民学校初等科第六年用(文部省)昭和十七年十二月発行の「鎌倉」の歌詞は、『新訂 尋常小学唱歌』と同じです。編集者が『新訂 尋常小学唱歌』版の歌詞を支持したためです。 ※国民学校芸能科音楽参照。

  【戦後の教科書での扱い】 戦後の教科書には掲載されていません。

 【歌詞について】
 鎌倉の歴史をふりかえった内容です。

  (一番) 「七里ヶ浜」は稲村ヶ崎から腰越までの砂浜海岸です。「稲村ヶ崎」は鎌倉市の南西部に位置しています。名将・新田義貞が、元弘の乱(1331年~1333年 後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒そうとして起こした)で、剣を海に投げ入れて、海神に祈り、そのため、にわかに引き潮になり、ここを渡って鎌倉に攻め入る事ができました。現在も「七里ガ浜」「稲村ガ崎」という地名はあります。

  (二番) 北条重時が建立した真言律宗の寺が「極楽寺」です。新田義貞の鎌倉攻めの激戦地であった極楽寺坂(切通し)を越えれば、「長谷寺」の長谷観音の御堂(十一面観音像)があります。近くの浄土宗「高徳院」には屋根なし大仏(鎌倉大仏・阿弥陀如来坐像)があります。現在も「極楽寺」「長谷」という地名はあります。

  (三番)「由比の浜」は「由比ガ浜」のことです。「の」も「ガ」も同じ意味です。八幡宮への行き方について歌っています。「鶴岡八幡宮」は応神天皇が御祭神です。源頼義(よりよし)が石清水(いわしみず)八幡宮の分霊を各地に広めた、その一つです。現在も「由比ガ浜」「雪ノ下」の地名はあります。

  (四番) 八幡宮の石段わきの大銀杏の木の陰に隠れていた源実朝(さねとも)の甥の公暁(くぎょう)は、頼朝の二男の源実朝を暗殺しました。「きざはし」=階段のこと。

  (五番) 「若宮堂」で舞を舞ったのは源頼朝に捕らえられた静御前(しずかごぜん)でした。歌詞の「かへしし人」は静御前、それを「しのびつつ」舞っている「舞の袖」は、今の人です。
 静御前は京の白拍子といわれる遊女でした。源義経の妾(しょう・めかけ)となり、義経と吉野まで随行しました。しかし、義経と別れた後、捕えられて、鎌倉に送られます。文治二年四月八日、源頼朝と政子は鶴岡八幡宮に参拝しました。その時、静御前に白拍子の舞を命じました。水干をつけ白拍子姿で義経を今も慕っている、という歌を歌って舞を舞ったので、頼朝を立腹させてしまいます。そして、静御前は京に帰されました。

 鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』の「文治二年(1186)年四月八日」の項には次のように書いてあります。
 “靜、先ず歌を吟じ出して云はく「吉野山峯ノ白雪フミ分テ入ニシ人ノ跡ゾコヒシキ」次に別物の曲を歌ふの後、又和歌を吟じて云はく「シヅヤシヅシヅノヲダマキクリカヘシ昔ヲ今二ナスヨシモガナ」・・・”、そこに参列していた人たちは皆心を打たれた、と記されています。
 
  <現在>
  ・「若宮」(下宮げくう)は、当初は鶴岡八幡宮の中心だったが火災で焼失し、大石段上に本宮が造営されると、再建された若宮は(下宮)と呼ばれるようになった。
  ・「本宮」(上宮じょうぐう)は、文政十一年(1828年)に再建された重要文化財。
  ・「舞殿」(下拝殿しもはいでん)は、若宮回廊跡に立つ。

  (六番) 明治二年、明治天皇によって創建されたのが「鎌倉宮」です。本殿裏の土牢に幽閉されていたと伝えられている護良親王(大塔宮)は、中先代の乱(1335年)で、討幕運動を父の後醍醐天皇と共に進めた皇子です。足利直義の命で殺害されました。鎌倉宮にまつられています。「鎌倉宮」と「瑞泉寺」の中間に護良親王墓があります。

  (七番) 鎌倉幕府は約百五十年余で滅亡しますが、北條氏が滅びた後も、足利氏は、ここに鎌倉府を置いて関東を治めました。鎌倉の地には、源頼朝だけでなく北條政子の墓、その他の英雄の墓がたくさんあります。歴史の「興亡」=(興る事と亡びる事)は、夢のようです。鎌倉の歴史は長い。今日まで七百年が過ぎた。それは英雄の墓にこけが蒸すほどです。
 ●歌は、『原典による近代唱歌集成』(ビクターエンタテインメント)の解説執筆者・赤井励のように七番までで完結と思っている人があるようですが、八番もあります。

  (八番) 「建長寺」と「円覚寺」を歌っています。鎌倉五山の第一位が「建長寺」で、第二位が「円覚寺」です。京都五山に対して、鎌倉の五山として、足利義満が定めた物です。鎌倉時代は、常に権力の奪い合いの場でした。それは骨肉の争いで、朝廷を巻き込んでの悲惨な戦いでした。その場に立つと、昔の事が思われます。

 江ノ島電鉄は、江ノ島、鎌倉観光のための路線です。歌をガイドに旅をしては、いかがでしょうか。

  【曲の構成】 ホ短調の音階で、できている。四分の四拍子、三つのフレーズで作られている一部形式の曲です。宗教的で格調高い。これが、愛唱される最大の理由でしょう。

  【歌い方】 八番まであるので、テンポが遅いと、だれてしまいます。 歌詞の付け方が難しい部分がいくつもあります。
 二番の「露坐の」=(ターンタタンタン)のリズムに注意して歌いましょう。
 三番は「ユーヒノ」「ユーキノ」と延ばして歌いましょう。

 私、池田小百合が主宰している童謡の会では『新訂 尋常小学唱歌』の歌詞で歌っています。「童謡を歌う会真鶴」で、一番人気の曲です。理由があります。真鶴には源氏と縁のある場所が沢山あるからです。

 【『吾妻鏡』による<源頼朝伝説>】
 治承(じしょう)四年(1180年)八月二十三日、源氏再興のため立ち上がった源頼朝が率いる伊豆・相模の兵三百は、平家方の大庭景親(おおばかげちか)の兵三千と相模国の石橋山(現・小田原市)で戦うが、圧倒的多数の大庭軍に敗れ、総崩れとなった(石橋山の合戦)。

  <それぞれの一族の動向>
  ・伊藤祐親(いとうすけちか)は兵三百を率いて頼朝の背後に陣を取った。このとき、頼朝が待ちに待っていた三浦義明(みうらよしあき)一族勢が、酒匂川の東岸まで到着していたが、増水のため川を渡りあぐねていた。
  ・秦野には波多野一族がいた。「山の武士団」とも呼ばれる波多野義通(はたのよしみち)をはじめとする一族は保元の乱では源義朝(頼朝の父)に従って活躍したが、平治の乱で源氏が没落、平家全盛の時代が到来すると源氏色を払拭(ふっしょく)した。治承四年の頼朝の挙兵に際しても頼朝の陣営への参加を拒んだことで、挫折の運命をたどった。
  ・大庭景宗の大庭一族は、大庭御厨(現・藤沢市大庭から西俣野、茅ヶ崎一帯)に拠点を構えていたが、頼朝の挙兵に際しては、兄弟で平家方と源氏方に分かれた。源氏方についた兄の大庭景義は、頼朝の側近として活躍した。源平池の工事や、公文書などの建設に携わった。鎌倉幕府の「建設部長」と呼ばれた。弟の大庭景親と俣野景久は平家方についた。平家と源氏、どちらが勝っても一族を存続させたかった。

 二十四日、頼朝の兵は、暁を迎える頃には、湯河原の土肥(とひ)の椙山(すぎやま)山中に逃れた。自分の所領であり、山中を知り尽くしていた土肥次郎実平(どひのじろうさねひら)が、大勢の行動は目立って危険だとして兵を分散させた。
 頼朝と付き従う兵は同一行動を望んだが、「人数が多くては、敵に発見される恐れがあるので分かれよう。頼朝殿一人なら私はいつまでも隠せる。今の別離は後の大幸なり」と説得した。これに従って、一同は再起を誓い泣きながら分かれて行った。そのときの人数は不明。
 頼朝や実平らが身を潜めていると、景親は頼朝の後を追って峰や谷を探し求めた。梶原平三景時(かじわらへいぞうかげとき)は、この山に頼朝はいないと言って景親の手を引いて山中から下って行った。
 以上の挿話は、平成24年のNHKの大河ドラマ『平清盛』で放送され、話題になった。

          ⇒湯河原町鍛冶屋の山中にある「しとどの窟(いわや)」
        「土肥椙山岩窟伝説源頼朝隠潜地」として県史跡に指定されている。

  ▼「鵐窟・しとどのいわや」・・・八月二十八日、生き延びた源頼朝は、土肥次郎実平(どひのじろうさねひら)、実平の嫡男・土肥遠平(どひのとおひら)、実平の弟・土屋三郎宗遠(つちやのさぶろうむねとお)、岡崎四郎義実(おかざきしろうよしざね)、安達藤九郎盛長(あだちのとうくろうもりなが)、新開次郎忠氏(しんかいのじろうただうじ)に守られて、命からがら真鶴の「鵐窟」に身をひそめる。この折、窟屋の内から鵐(しとど)という鳥が舞い出たと伝えられる。かつては高さ二メートル、深さ十メートル以上の大きさがあり、波が打ち寄せる天然の岩窟でした。
 江戸幕府が編集した『新編相模国風土記稿』の真鶴の項で「鵐窟」を真鶴の「港内海涯にあり」と記されていて、また幕府が作らせた正保の国絵図にも「治承の昔、頼朝石橋山の合戦に敗走し、大庭景親がためにせまられ主徒七騎にて隠れしところなり」とされている。(『真鶴』中学校副読本(真鶴町教育委員会)平成19年改訂版・初版昭和54年による)
▲真鶴町の資料より

 <こぼれ話>
 2017年6月29日、NHK『日本人のおなまえ』で、真鶴には「青木」という姓が多い。それはなぜか?を放送した。「源頼朝からいただいた」とは知られているが、貴船神社の宮司によると、「頼朝を岩窟にかくまった時、近郊の人々が「アオキ」を取って来て入口が見えないように隠した。それで頼朝から「青木」姓をいただいたと伝えられている」との話でした。テレビ番組のリポーターが、「狭いですね。ここに隠れていたのですか?」と訊いた。私も、「目の前の真鶴港から船が出せるのに、なぜ岩海岸まで行ったのか」が、疑問です。湯河原にも同じ伝説がある。

  ▲「謡坂・うたいざか」・・・源頼朝ら七人は追手から逃れて真鶴の岩海岸から安房国(あわのくに)に船出したが、海岸に至る途中、「謡坂」で休息した。土肥実平は頼朝の再起を願い「謡坂」で「燒亡(じょうもう)の舞」を謡い踊ったと伝えられている。「謡坂之記」の碑がある。真鶴での「燒亡の舞」は『祝いの浜 頼朝まつり』で観る事ができます。

  ▲「源頼朝船出の浜」・・・頼朝一行は真鶴町岩の岩海岸「源頼朝船出の浜」から海路、安房(現・千葉県南部。別称は房州)に向けて治承四年(1180年)八月二十八日に船出した(『新編相模国風土記稿』による)。
 八月二十九日、頼朝は安房国平北郡猟嶋(あわのくにへいほくぐんりょうしま 現・千葉県鋸南町竜島 ちばけんきょなんちょうりょうしま)に着いた。頼朝は安房に渡った後、十二年後の建久三年(1192年)、志をとげ鎌倉幕府を創立する。

  <それぞれの一族その後>
  ・土肥実平(どいさねひら)は安房国(あわのくに・現在の千葉県)に源頼朝を脱出させた最大の功労者、頼朝の命の恩人。実平に対する頼朝の信頼は絶大で、実平は前線における指揮権を握っていた。平家は元暦二年(1185年)三月、壇ノ浦の合戦で滅亡するが、土肥実平や弟の土屋宗遠(むねとお)を中心とする(中村宗平の)中村一族は、常に平家追討の最前線で活躍した。
  ・(三浦義明の)三浦一族は中村一族と共に頼朝の最大の後ろ盾だった。三浦氏は三浦半島を中心に大きな勢力を誇っていた。一族は横須賀・衣笠に城を構えていたが、普段は矢部郷(現・横須賀市大矢部付近)が生活の拠点だった。畠山重忠、河越重頼らの平家方の軍勢は、石橋山の合戦の直後、治承四年八月二十六日の辰の刻(午前八時ごろ)、三浦一族の立てこもる衣笠城へ攻め寄せた。平家方は三千余騎、三浦勢は三百~四百数十騎と推定される。三浦義澄(よしずみ)らは防戦に努めたが多勢の前に劣勢は否めなかった。三浦義明の命令に従って、城を捨てて脱出した。一族は久里浜から安房国へ向かった。衣笠城に一人残った義明は、二十七日の辰の刻、河越重頼や江戸重長らに打ち取られた。八十九歳だった。
  ・石橋山の合戦に敗れて安房国に逃れた頼朝が一ヶ月後の治承四年(1180年)十月六日、東国の武士団を糾合して鎌倉に入ると、平家方の武士たちの運命は一変した。大庭景親は平家の陣に加わるために千騎を率いて京都へ出発しようとしたが、頼朝が二十万騎で足柄峠を越えたために先に進めなくなり、河村山(現・足柄上郡山北町付近)に逃亡した。
 富士川の合戦で平維盛(これもり・平清盛の孫)の平家軍を敗走させた頼朝は、治承四年十月二十三日に相模の国府に着くと勲功に対する恩賞を行った。この日、大庭景親、河村義秀らが頼朝のもとに出頭して来た。景親は二十六日、片瀬川のほとりで、さらし首にされた。景親は、石橋山の合戦で平家方の総大将だったため、極刑を逃れる事はできなかった。
  ・源頼朝は鎌倉に幕府の拠点を構えた直後の治承四年十月十七日、波多野義道の息子・波多野義常(はたのよしつね・義経)を討つために下河辺行平(しもこうべゆきひら)を送ったところ、義常は行平が到着する前に松田郷(現・足柄上郡松田町付近)で自殺した。頼朝は、挙兵直前の六月二十四日、平家追討への協力を要請するために安達盛長(あだちもりなが)を源氏累代の御家人の元へ送ったが、波多野義常と山内経俊は呼びかけに応じなかった。それが、義常に悲劇をもたらした。
  ・石橋山の合戦で平氏に付いた大庭景親方として出陣した河村秀高(波多野義通の弟)の子・河村義秀は治承四年十月二十三日、大庭景親らとともに源頼朝の陣営に出頭した。義秀は、その場で河村郷(現・足柄上郡山北町付近)を没収されたうえで、身柄を頼朝がたの大庭景義(大庭景親の兄)に預けられた。大庭景親は片瀬川のほとりで、さらし首にされた。景義は同日、頼朝から義秀の打ち首を命じられた。
 十年後、建久元年(1190年)八月十六日、鶴岡八幡宮で神事の流鏑馬(やぶさめ)が行われた。射手に欠員が生じた。大庭景義は河村義秀を代理として出場させることを申し出た。斬罪(ざんざい)を命じたにもかかわらず義秀が生きていた事に頼朝は驚いたが、神事を優先させた。義秀は命令通り見事に的を射た。頼朝は怒りを解いて、義秀に河村郷に戻って住むように命じた。山北町山北・岸両地区にまたがる城山は、河村城の旧跡とされる。山北町山北の宮地地区にある室生(むろう)神社に伝わる流鏑馬は、義秀が流鏑馬の妙技により罪を免ぜられ、旧領に復帰できたという故事により始まったとされる。
 波多野義常の嫡男(ちゃくなん)の有経(ありつね・有常)は母方の叔父・大庭景義の元にいたので難を逃れた。有経は景義に召し預けの身になったが、後に鶴岡八幡宮の流鏑馬で抜群の芸を発揮したことで、罪をゆるされた。「山の武士団」とも呼ばれる波多野一族は、弓の名手が多かった。大庭一族と関係が深かった。

  (註Ⅰ)土肥実平は、足下郡(現在の神奈川県足柄下郡湯河原町および真鶴町)土肥郷を本拠とした。当時の武士は、支配地の名を名字にするのが一般的で、土肥の地名を名字として名乗った最初の人物。したがって真鶴も土肥次郎実平の支配下に置かれていた。湯河原町のJR湯河原駅周辺は、かつて実平が屋敷を構えた地で、今でも「土肥」の地名が残されている。
 足下郡(あしのしもぐん)は、足柄下郡といったが、713年に「国・郡・郷名は漢字二文字を用いよ」と決められたため、「柄」を省いた。現在は足柄下郡が使われている。
  (註Ⅱ)源頼朝は、平治の乱(1159年)に源義朝(よしとも)の嫡男として十三歳で初陣した。囚われ死罪になる所を平清盛に助けられ、伊豆の蛭ケ小島に流され(蛭ケ小島は、現在は静岡県伊豆の国市の地名。歴史的には「伊豆国に配流」と記され、蛭ケ島は後世の記述。『吾妻鏡』には「蛭島」)、十四歳から三十四歳の二十年間流人生活を送った。
 (註Ⅲ) かつての通説によると、鎌倉幕府は、建久三年(1192年)に源頼朝が征夷大将軍に任官して始まったとされていたが、頼朝の権力・統治機構はそれ以前から存続しており、現在では実質的な成立は1192年より前すなわち1180年から1192年の間にあるとする説も出てきている。また、「日本で初の武家政権」とされたこともあったが、今では平氏政権に次ぐ武家政権と位置づけられている。

真鶴港 2010年12月 矢島笙子さんのスケッチ

▲神奈川新聞 2012年4月23日  祝いの浜  頼朝まつり

「土肥祭」=湯河原町では毎年四月、土肥会による「焼亡の舞」
が湯河原駅前や城願寺境内で披露される。
「焼亡の舞」は、歌詞などから当時、箱根権現や三島社で演じ
られた「延年の舞」と同様のものといわれる。
頼朝らは土肥の杉山を出て真鶴へ向かったが、途中で実平が
高い峰に上り自分の館(やかた)方面を見渡した所、
伊藤祐親(すけちか)の軍勢により一帯の家々は全て焼き払わ
れていた。それを見た実平は
「我家は何度も焼けば焼け」と歌いながら乱舞した。頼朝は
「只今(ただいま)は殊に目出たく面白し」
と感じ入った。
(『源平盛衰記』による「燒亡の舞」のシーン)。

  【「鎌倉」の作者は、だれか】 
 作詞者は、親族や知人などの証言により芳賀矢一といわれています。親族が持っているという原文を見たいものです。作曲者は、岡野貞一だろう、といわれていますが決定的な証拠がありません。

 <芳賀矢一>について調べてみました。
  ・慶応三年五月十四日(1867年6月12日)、旧福井藩士芳賀眞咲の子として越前国足羽郡福井佐佳枝上町(現・福井市栄町)の母方の実家で生まれました(越前国生まれ・一歳)。
  ・明治二十二年(1889年)七月十日、第一高等中学校卒業。七月十一日、帝国大学文科大学国文学科(のちの東京帝国大学文学部)入学。住居は東京・牛込区(現・新宿区)東五軒町三十五番地。
  ・明治二十五年(1892年)七月十日、卒業。七月十一日、同校大学院に入る。研究題目「日本文学史及文学攷究法」(文学博士・小中村清矩の指導を受ける)。
  ・明治三十一年(1898年)十二月十四日、第一高等学校教授と東京帝国大学文科大学助教授を兼任し、博言学講座分担となる。
  ・明治三十二年(1899年)一月二十八日、第一高等学校教授から高等師範学校教授に転じる。東京帝国大学文科大学助教授は兼任のまま。五月六日、東京帝国大学文科大学助教授本官に任ぜられ、国語学、国文学、国史第四講座担任となる。これより高等師範学校教授は兼任となる。
  ・明治三十三年(1900年)六月十二日、「文学史攷究法研究」のため満一ヵ年半のドイツ留学を命じられる。七月十一日、海外留学のため学士会文科委員を辞任。九月八日、東京帝国大学文科大学の国語学、国文学、国史第四講座担任を免じられる。横浜発ドイツへ向かう。藤代禎輔、夏目金之助ら一行五人。
  ・明治三十五年(1902年)九月十九日、東京帝国大学文科大学教授に任じられる。国語学、国文学第二講座担任となる。
  ・明治三十六年(1903年)二月十九日、文部省編纂教科書の校閲を嘱託される。四月二日、東京帝国大学総長の推薦により文学博士の学位を授与される。
  ・明治四十一年(1908年)九月二十八日、教科用図書調査第三部員、主査委員、起草担任となる。大正九年七月まで国定教科書編纂の公務につく。
  ・明治四十二年(1909年)十一月十八日、五女「国子」、四男「定(さだむ)」誕生。双子の男女。八番目と九番目の子に国定教科書の「国定」から「国子」と「定」と一字ずつ取り名付けた。
  ・大正五年(1916年)六月八日、欧米各国へ出張を命じられる。
  ・大正七年(1918年)四月、国定読本『尋常小学読本』(第三期)起草委員を命じられる。七月二十日、皇典講究所國學院大学拡張委員会委員を委託される。十二月二十二日、國學院大学初代学長に就任。亡くなるまで学長を務め、同大学の大学令による大学昇格や渋谷移転にも尽力した。
  ・大正十年(1921年)九月三十日、東宮職御用掛(国文の御進講)となる。
  ・大正十一年(1922年)七月二十七日、東京帝国大学名誉教授の名称を受ける。
  ・大正十二年(1923年)十月、久邇宮良子女王へ日本文学史を御進講。
  ・昭和元年(1926年)十二月二十五日、宮内省御用掛となる。
  ・昭和二年(1927年)一月二十二日、願いにより宮内省御用掛を免じられる。二月六日に逝去(六十一歳)。
  (註)参考「年譜」國學院大学 芳賀矢一選集 第七巻による。

  <作詞者・芳賀矢一説の検証>
 (1) 芳賀矢一は『尋常小学読本』の文部省の教科用図書調査委員会第三部主査委員(起草担当)であったので、自作の詩を掲載できた。
 (2) 『尋常小学読本唱歌』で「かへしゝ」と訂正されて掲載されたが、『尋常小学唱歌』では「かへせし」に再びもどされている。芳賀矢一は、自分の詩だから、こだわったのでしょう。
 (3) 芳賀矢一の親族は、“明治三十八年から四十年、鎌倉に借り別荘があったので、『鎌倉』を作詩したのは芳賀矢一”と主張しているが、「雪の下村」と書いているので、この時期に作詩したのではない。
 (4) 芳賀矢一が作者だという証言は、「1977年國學院大學芳賀先生50周年祭記念講演内容 藤井貞文名誉教授講演要旨」で見る事ができます。
 “明治十八年十二月、当時、東大の予備門の学生で十九歳であった。友人の耕月生と霊岸島から小汽舩に乗って横須賀に上陸し、金沢八景を通って鎌倉宮に詣で、八幡宮に参拝して神社前の旅館に一泊し、由比の浜辺から江の島、藤沢に出て東京に帰られたことがある。その紀行を「遊相記」といった。・・・(中略)・・・鎌倉宮の土窟は、いよいよ先生(芳賀矢一)の歴史観をゆさぶった。旅館で『鎌倉史』(明治十四年)を借りて読み、旅情に輪をかけた感情の昴ぶりを覚え、正義感を燃やした。・・・この旅の印象が二十余年を経て明治四十年前後に「我は海の子」と「鎌倉」の歌となった。・・・”

   芳賀矢一が「明治十八年」に鎌倉に行った事に注目してください。「鎌倉」の歌詞にある「雪の下村」は当時は、存在していました。「明治22年4月1日の町村制施行時までありました」。この当時の作詞であれば、雪の下「村」と、詩に読み込んでもおかしくはありません。
 彼が作詞者だったという説には状況証拠に説得力があります。
 それでは、なぜ芳賀矢一は感動した重要部分である「鎌倉宮に詣で」、「八幡宮の御社」を一番にしなかったのでしょう。・・・そして「由比の浜辺」の順に書くはずですが。
 今回、「鎌倉」の歌の順路検証のため『鎌倉旅ガイドブック』を購入しました。この本は、「鶴岡八幡宮」が最初です。続いて「円覚寺」「建長寺」「高徳院(鎌倉大仏)」「長谷寺(十一面長谷観音菩薩)」「極楽寺」「由比ヶ浜」「稲村ヶ崎」「七里ヶ浜」「江ノ島」の順に紹介してあります。『鎌倉』の歌とは逆回りです。
 長谷寺に勤務している人の説明によると、江戸時代は江の島詣でをした人々が帰りに鎌倉に立ち寄ったそうです。それをふまえて七里ヶ浜から鎌倉の中心部、さらに北鎌倉へ抜ける道順に歴史と名所旧跡が歌い込んである。

  (5) 松村勇氏(福井県敦賀市在住)の意見
 松村勇著『随想 明日に掛ける端くれ』(学校法人福井城之橋学園 園長 松村勇)には、次のような興味深い記述があります。地元の人だから書けることです。
  “城之橋幼稚園(福井県福井市日之出)の南に面している白山公園に、芳賀矢一(はがやいち)の石碑がある。” (註1)
  “芳賀矢一は、文部省唱歌『鎌倉』の作詞者です。一番の歌詞は、1300年代南北朝時代の武将として歴史に名を残した新田義貞が鎌倉を攻め落とした時の事を歌っています。この新田義貞は鎌倉攻めから、わずか五年後に、越前国藤島の燈明寺畷(なわて)、現在の福井市新田塚で最期を迎えました。” (註2)
 “福井生まれの芳賀さんが、新田義貞の話を歌詞の一番に添えたのは、福井人としての思いがあったのでしょうね。” (註3)

  (註1)「芳賀矢一」慶応三年(1867年)越前国足羽郡福井佐佳枝上町(現・福井市栄町)の母方の実家で生まれました。
  (註2)各地に「源頼朝伝説」があるように、「新田義貞伝説」も存在するようです。
  (註3) 初出歌詞の一番について調査してみました。「七里(しちり)が濱(はま)のいそ傳(づた)ひ 稻村(いなむら)が崎(さき)名將(めいしやう)の 劔投(つるぎとう)ぜし古戰場(こせんぢやう)。」『尋常小学読本唱歌』(1910年)

  <元弘の乱 北条一族の滅亡の概要>
  「元弘の乱」(げんこうのらん)は、1331年(元弘元年)に起きた後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動。1333年(元弘3年/正慶2年)に鎌倉幕府が滅亡に至るまでの一連の戦乱を含めることも多い。元弘の変(げんこうのへん)とも呼ばれる。
 北条貞時の子・14代執権北条高時は後醍醐天皇の挙兵計画である正中の変を未然に防ぐが、後醍醐が2度目の計画である元弘の乱に続いて1333年に再度挙兵すると、御家人筆頭の足利高氏(尊氏)がこれに呼応して京都の六波羅探題を滅ぼし、上野国(こうづけのくに。群馬県)の新田義貞も挙兵し、高氏の嫡子千寿王(足利義詮)が合流すると関東の御家人が雪崩を打って倒幕軍に寝返り、鎌倉を陥落させる。この結果、北条一族のほとんどが討死または自害し、東勝寺合戦において北条氏は滅亡する。

  <新田義貞の鎌倉攻め伝説>
 「鎌倉の戦い」は、鎌倉時代後期の元弘3年5月18日から5月22日(ユリウス暦1333年6月30日から7月4日)に、相模国鎌倉(現在の鎌倉市)において、北条高時率いる鎌倉幕府勢と新田義貞率いる反幕府勢(新田勢)との間で行われた合戦。
 鎌倉時代末期の元弘3年(1333年)5月8日に上野国新田荘を本拠とする新田義貞が挙兵した。新田軍は一族や周辺御家人を集めて兵を増やしつつ、利根川を越えて南進した。足利高氏の嫡子千寿王(後の足利義詮)らも合流し、新田軍は数万規模に膨れ上がったと言われる。小手指ヶ原の戦い(埼玉県所沢)、多摩川の分倍河原の戦いで北条氏の軍に勝利して鎌倉にせまった。
  5月18日、新田軍は極楽寺坂、巨福呂坂(こぶころざか)、そして義貞と弟・脇屋義助は化粧坂(けわいざか・仮粧坂と書くこともある)の三方から鎌倉を攻撃した。しかし天然の要塞となっていた鎌倉の切通しの守りは固く、極楽寺坂では新田方の大館宗氏も戦死した。戦いは、一旦は膠着したが、新田義貞は一計を案じ、幕府軍の裏をかいて稲村ヶ崎から鎌倉へ突入することにした。
  5月21日には義貞みずから稲村ヶ崎の海岸を渡ろうとしたが、当時の波打ち際は切り立った崖となっており、石が高く、道が狭小なため軍勢が稲村ヶ崎を越えられなかった。そこで、義貞が、潮が引くのを念じて剣を投じると、その後潮が引いて干潟(ひがた)となったので岬の南から鎌倉に攻め入ったという伝説が室町時代に成立した軍記物語『太平記』に記されている。ただし、近年において天文計算により、稲村ヶ崎の潮が引いたのは18日のことであったことが明らかになり、『太平記』の日付には誤りがあると考えられている。
  5月22日、北条高時ら北条一門は東勝寺に追い詰められ自害、鎌倉幕府は滅亡した(東勝寺合戦)。『太平記』によれば寺に籠った北条一族と家臣は、長崎高重、摂津道準から順にそれぞれ切腹、最後に北条高時(享年31、満30歳没)、舅の安達時顕と自害したという(他に第13代執権の普恩基時、内管領の長崎高資、第15代執権の金沢貞顕など)。『太平記』には、自害した人々は283人の北条一族と家臣の870人とあるが、文学的誇張もあると推察されている。

 <新田義貞戦没伝説>

  新田義貞戦没伝説地(福井市新田塚町) ⇒(右写真)

  燈明寺畷新田義貞戦没伝説地(とうみょうじなわて にったよしさだせんぼつでんせつち)は、福井県福井市新田塚町に位置する古戦場である。新田義貞の戦没地であるという伝承に基づき、大正十三年(1924年)に国の史跡に指定された。
 鎌倉幕府を倒す大功を立てた新田義貞は、後醍醐天皇に与し、湊川の戦いで京を追われた後北陸道方面に退いていたが、足利尊氏方の圧迫を受けていた。延元三年/建武五年(1338年)義貞は勢いを盛り返し、足利方が籠もる越前国藤島城を攻める味方を督戦するため、わずか50余騎の手勢を従えて藤島城へ向かうが、燈明寺畷(現福井県福井市新田塚町)で足利方と遭遇し、乱戦の中で戦死した(藤島の戦い)と伝えられている。

 【後記】
 「鎌倉」は、小学校六年生に暗誦の訓練をさせる目的で曲が付けられたと知り衝撃を受けました。
 これでは音楽が楽しいはずがありません。覚えられない子は、叱られたり、笑われたりしたことでしょう。
 しかし、大人になって鎌倉を理解した上で歌うと、なかなか興味深い曲です。この大作が消えてしまわないように、みんなで歌って行きましょう。
 繰り返し歌わなければ忘れられてしまいます。

  ▼2010年3月10日、八幡宮の大銀杏が倒壊した。翌11日の神奈川新聞の記事より。


≪著者・池田小百合≫
著者より引用及び著作権についてお願い】 


なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る





ツ キ

作詞・作曲 不詳
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/01/30)




 【尋常小学読本唱歌】 
 『尋常小学読本唱歌』の編纂委員は、上真行・小山作之助・島崎赤太郎・楠美恩三郎・岡野貞一・南能衛で、全て音楽関係の人なのは、歌詞は国語の読本に出ているものを用いたからです。作曲者の名前は明らかになっていませんが、「かぞえ歌」以外は、この編纂委員が分担して曲をつけました。外国の曲の利用はありません。

  『ツキ』は、明治四十三年(1910年)七月十四日発行の『尋常小学読本唱歌』で発表されました。文部省編集の『尋常小学読本』(巻二、第五課)にあった韻文教材をとり、これに作曲したものです。したがって、子供たちは「読本」と「唱歌」の二教科で『ツキ』を学びました。『尋常小学読本』の方は月が漢字なのに、『尋常小学読本唱歌』の方は、三番の二ヶ所の「月」が漢字以外は、タイトル他すべてカタカナで書かれています。
 文部省唱歌は、花鳥風月を美しく歌いあげたものが多いので、「月」は、唱歌にはなくてはならない題材です。

 ●上笙一郎篇『日本童謡事典』(東京堂出版)の「『尋常小学読本』(一九一〇<明治43>年二月)の巻二に国語教材として載せられ、翌年出た『尋常小学唱歌』の第一学年用で作曲をほどこされ、音楽教材となった」は、間違い。音楽教材になった最初は、明治四十三年(1910年)七月十四日発行の『尋常小学読本唱歌』です。

 【作曲者は島崎赤太郎か】 
 作詞者、作曲者はわかっていません。
島崎赤太郎
△島崎赤太郎

 赤井励『オルガンの文化史』(青弓社)には、"島崎赤太郎が文部省のためにどれくらい作曲したのか、今ではよくわからないが、『尋常小学読本唱歌』に収載された「月」のような、どちらかというと日本調の曲を書いている。『新尋常小学唱歌』のなかの「田舎の冬」は短調で書かれているが、島崎赤太郎作だと伝えられる。"とあり、「月」の作曲者を島崎赤太郎と断定しています。『小學唱歌教科書編纂日誌』(pdfファイル3MB)参照。 『尋常小學讀本唱歌』参照。

  【次々とタイトルを改訂】
 『ツキ』は、続く明治四十四年五月八日発行の『尋常小学唱歌』第一学年用(文部省)では、『』と漢字のタイトルになり、歌詞も漢字と平仮名書きになりました。
 さらに昭和七年三月三十日発行の『新訂 尋常小学唱歌』第一学年用(文部省)にも『月』というタイトルで掲載され、全国に広まりました。
 この歌のタイトルを、「お月さま」と言う人がありますが、それは記憶違いではありません。昭和十六年二月発行の『ウタノホン 上』(文部省)では『オ月サマ』です。「出」「月」が漢字以外は、タイトル他すべてカタカナで書かれています。 ※国民学校芸能科音楽参照。
 昭和二十二年発行の『一ねんせいのおんがく』(もんぶしょう)では『おつきさま』というタイトルで、すべて平仮名で掲載されています。

▼昭和十二年(1937年)講談社発行『童謡画集』の川上四郎の挿画


▼昭和十二年(1937年)講談社発行『童謡画集』の川上四郎の挿画には
もうひとつ別の月を描いた名作「オ月サマイクツ」があります。

  【「いない いない ばあ」の歌版】 
 歌は簡単で美しく歌いやすいので、時代を越えて今でも大人にも子供にも歌い親しまれています。
 まるい盆のような月が出た、墨のような雲に隠れた、また月が出たという変化の激しさが、強い印象を残します。伝統的な日本文学に出て来る月は、たいていもっと静かに空にかかっています。この歌には、中秋の名月にお供えをするような静観の姿勢はどこにもありません。
 光と闇が変転するあたりの情景は見事です。これは、「いない いない ばあ」の歌版と考える事ができます。昔からあるこの手遊び歌は、「いない いない」と言って手で顔を隠し、次に「ばあ」と隠した手の中から顔を出すと幼児が大喜びをするというものです。変化を好む小学一年生の教材としては、うってつけです。
 歌詞と曲のアクセントが合っているので、歌いやすいのも低学年唱歌としては適当です。

 【倒置法の表現】 
 「月が出た」という平凡な日本語の語順を変えた倒置法を使って、「出た月が」というように主語を後にしています。最後は、「盆のような月が」というように助詞の「が」で止めて余韻を残しています。
 「盆」は、料理を運んだりする丸い器としての「お盆」です。昔は、木製のお盆を使っていました。今では説明をしないとわからないほどです。
 話し言葉と一致させた言文一致でできているので、当時の文部省唱歌としては珍しい教材です。そう考えると簡単に見えていた歌詞は、一年生用としてはずいぶん高度な内容の教材です。

 【曲と歌唱について】 
 旋律は、ファとシを使わない日本独特の五音音階で作られています。十二小節の歌です。abcとリズムが各小節ごとに違う三部形式の曲です。
 一番の「でた でた つき が」は、「タンタン タンタン タンタン タンウン」のリズムで、目の前に大きな月がぐんぐん昇ってきて圧倒される感じがします。
 続く「まーるい まーるい まんまる い」は、タッカやタタのリズムを使った躍動感のある旋律になっていますから、胸の高鳴る気持ちで歌います。「まーるい」と「まんまる」は同じ旋律です。「まーるい」の方は、長音で延ばしているので音符をつなぎ、音節が切れている「まんまる」の方は、音符も独立しています。
 そして、最後は、「ぼーんの ような つき が」と全てをまとめて歌いおさめます。旋律のほうにも、歌詞を生かす細かい配慮がしてあります。これはそれまでの唱歌にはみられなかったことでした。

 二番は、月が雲のため暗くなります。「かくれた雲に」は、がっかりした気持ちで、少しゆっくり弱めに歌い、変化を付けるとおもしろくなります。余り暗くならないように歌ったほうがいいでしょう。黒々とわいてくる雲を強調すると、不気味になり過ぎてしまいますから。

 三番は再び明るくなり、「またでた」という喜びの気持ちで歌うとよいと思います。


 ★私は小学一年生の時、この歌を教材にしてカスタネットを使ってのリズム打ちを教わりました。「でた でた つき が」に合わせて「タンウン タンウン タンタンタン ウン」というリズムを教えられました。
 この歌を歌うたびにその時の教室の光景が思い出されます。先生のかけ声に合わせて、みんなで一生懸命練習をしました。そのリズム打ちが楽しくて、家に帰ってまでやったものです。
 しかし、今考えると、なぜ「タンウン タンウン」だったのか、「ウン」の部分が謎です。

 【現在の教科書には掲載されていない】 
 月を見ると口をついて出てくる歌なので、小さい頃覚えた歌は、いつまでも忘れないものだと思います。また、繰り返される歌詞の「でた でた」や「まあるい まあるい まんまるい」がおもしろいので、一節ごとにひっくり返した替歌、「たでたでがきつ いるあま いるあま いるまんま んーぼのなうや がきつ」というのがはやりました。子供は、元歌を無意味化してしまう言葉遊びも大好きです。これほどの名曲ですが、現在この歌は、音楽の教科書には掲載されていません。
 昭和四十三年まで小学校音楽共通教材でしたが、昭和五十二年からはずされました。ですから、大人が子どもに歌ってあげてほしいものです。一度歌えば、すぐ覚えて大きな声で歌うことができます。

 私たちは、月の中には兎がいて、躍ったり餅つきをしているという言い伝えを聞かされて育ちました。母や祖母に言われるままに眺めた大きな十五夜の月の中には、本当に兎がいるように見えたものです。他の国では「カニがいることになっているんだよ」と聞いたときには、にわかに信じられませんでしたから、小さいときに教わったこのような「見たて」は、子供の世界観に強烈な影響を残します。


著者より引用及び著作権についてお願い】  ≪著者・池田小百合≫


なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る





こうま

作詞・作曲 不詳
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2011/03/03)




 私が主宰している童謡の会で歌ったところ、全員が歌えました。しかも、音程やリズムが正確です。この曲の初出は明治四十三年、百年も前です。なぜ、全員が歌えたのでしょう。掲載された教科書を調べてみました。

 【初出 タイトルは「こうま」】
 『尋常小学読本唱歌』明治四十三年(1910年)七月十四日発行に掲載のタイトルは「こうま」。文部省編集の『尋常小学読本』巻三、第九課所載の韻文教材に曲をつけたものです。国語と音楽の両方から学習しました。 『小學唱歌教科書編纂日誌』(pdfファイル3MB)参照。 
 (註)石原和三郎は、明治四十一年に小学校読本用の韻文(新体詩)の懸賞募集に応募し、「コウマ(小馬)」「にんたい(忍耐)」「三才女」「足柄山」の四篇が入選した。「こうま」は、この入選の一篇。文部省発行の唱歌集には作詞者・作曲者名は付されていない。


 <歌詞について>
 「小馬」への愛情を歌ったものです。 普通、馬をいたわる言葉(掛け声)は「ドウ!」とか、「ダー!」と言いますが、この歌の「はいしい」は、馬が歩くようにうながす意味をあらわしたものです。
 一番は、小馬に乗った少年が、元気よく歩くようにうながしているようすを歌っています。
 二番は、同じ少年が「ぱかぱか」走るようにうながしているようすを歌っています。けれども、あまり急いで転ばないようにという、思いやりの気持ちも表現されています。
 一番の「あゆめ」と、二番の「走れ」が、みごとな構成です。
  (註) 多くの研究書に「子供が馬と伴走しているようにも読み取れる」と書いてあるが、明治三十三年発表の「キンタロー」には、「クマニマタガリ、オウマノケイコ、ハイ、シイ、ドードー、ハイ、ドードー」という歌詞がすでにある。

 <楽譜について>
  ・初出は、二長調 四分の二拍子。八小節ずつ二つの区切りからなる二部形式で作られています。
  ・三回出てくるメロディー「やまでも さかでも」「わたしも すすむ」「あゆめよ あゆめよ」が、この曲の中心になっています。音程が難しい所です。
  ・「はい しい」「パカ パカ」の完全五度の音程も正しく歌いましょう。特に二番の擬音語の「パカ パカ」は難しい。
  ・全て八分音符(八分休符を含む)のリズムで作られている曲です。小馬の歩みがえがかれています。どの音も短くなったり長くなったりしないように、平均して同じように(タタタタのリズム)、しかも、なだらかに歌うように気をつけましょう。

 【タイトルは「小馬」】
 『尋常小学唱歌』第二学年用(文部省)明治四十四年発行のタイトルは「小馬」。 歌詞の中に「小馬」とあるので、タイトルと歌詞を統一したのでしょう。
 『新訂 尋常小学唱歌』第二学年用(文部省)昭和七年発行のタイトルも「小馬」。


  ・歌詞は句読点が入っています。
  ・楽譜は「ズン ズン」の部分が四分音符二つ(タン タンのリズム)に変えてあります。初出は「ズ ン ズ ン」と八分音符四つ(タタタタのリズム)です。ここを四分音符二つにすると、一番はよいのですが、二番の「つま づく」が歌いにくい。初出のリズムで歌うと違和感がありません。音程や拍子は正しく、言葉をはっきり歌いましょう。
  ・「やうに」が「やぅーに」のように変わっています。

 【戦時中は歌われない】
  『うたのほん下』国民学校初等科二学年用(文部省)昭和十六年発行には掲載されていません。
 ここで、注目したいのは、『ウタノホン上』国民学校初等科第一学年用(文部省) 昭和十六年発行で「オウマ」林柳波作詞、松島つね作曲が発表されている事です。(「オウマ」参照)

 【タイトルは「小うま」】
 戦後、『二ねんせいのおんがく』(文部省)昭和二十二年発行に再び掲載されたタイトルは「小うま」になっています。
  ・ハ長調に移調して、教科書に伴奏譜が付いています。
  ・楽譜は「ズン ズン」の部分が四分音符二つになっている。
  ・『一ねんせいのおんがく』(文部省)昭和二十二年発行には「おうま」が掲載されています。
 
  手持ちの年代不詳(昭和二十年代に使用か?)の教師用指導書には、「小うま」のタイトルで掲載されています。


  ・「コロムビア KK-3028」というレコード情報が書かれています。
  ・階名唱・旋律奏・リズム打ちを指導するようになっています。
  ・「2」は四分の二拍子のことです(過去に国民学校初等科音楽では、このような楽譜を使っていたことがあった)。
  ・ハ長調の楽譜です。「ドレミで歌いましょう」と書いてあります。
  ・「ズン ズン」の部分が四分音符二つになっている。
  ・「歌によく合わせて、楽器絵譜のとおりにハーモニカ・オルガン・木琴・タンブリンで旋律奏とリズム打ちをする。」と書いてある。

 【タイトルは「こうま」】
 昭和三十三年十二月十五日発行『改訂版しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)には、初出と同じ「こうま」のタイトルで掲載してあります。


  ・ハ長調 四分の二拍子。
  ・昭和二十二年版より簡単な伴奏譜が付いている。だれでも伴奏を弾きながら楽しく歌うことができます。
  ・「ずんずん」は、初出のように八分音符(タタタタのリズム)に、もどされています。リズムは全て初出と同じ。
  ・注目したいのは、「はいしい はいしい の ところを もっきんで うちましょう。」「はいし はいし の ふしで つぎの ことばを うたってみましょう。」と書いてあることです。「はい しい」の完全五度の音程は、子供には難しいので、あらかじめ何度も練習をさせていたことがわかります。
  ・挿絵に注目してください。「こうま」に「少年」が乗っています。右側には田園風景が広がっています。
  (註)この教科書を使った世代は、現在六十歳ぐらいです。童謡の会員が全員難なく歌えたのは、学校で習ったからです。教科書に掲載してある曲は大切です。子供たちには楽しい心に響く曲を与えたいものです。

  【「小さな 子うま」は歌われたか?】
 『新編 新しい音楽2』昭和61年2月10日発行(東京書籍)には、左側に「小さな 子うま」まど・みちお作詞 湯山昭作曲。右側に「おうま」林柳波作詞 松島つね作曲が掲載されています。


  タイトルの「小さな 子うま」には〔2部合唱〕と書いてあります。しかし、楽譜は2部合唱ではありません。もっとよく読むと、「おうまの うたと いっしょに うたって、がっしょうしましょう。」と書いてあります。つまり、Aグループが「小さな 子うま」を歌い、Bグループが「おうま」を歌うようになっているのです。 (著作関係者 湯山昭・岩崎弘・中村光雄・村井芳雄・若松正司)
 (註) この教科書を使った世代は、現在三十歳代です。『「小さな 子うま」は、学校で習わなかった。「おうま」は知っている』と、みんなが答えました。

▲こうま/絵は守田滋。「童謡画集(3)」1958年3月25日刊,講談社より
▲かぱかぱこうま/絵は岩﨑良信。「童謡画集(5)」1958年6月30日刊,講談社より


 【現在は】
 平成二十一年発行の教科書には「おうま」も「こうま」も掲載されていません。
 「おうま」が全国で歌われ出すと、「こうま」は、しだいに歌われなくなりました。さらに、農業が機械化され、人と共同生活をしていた馬が生活から消えて行くと、「おうま」の方も歌われなくなりました。

著者より引用及び著作権についてお願い】  ≪著者・池田小百合≫


なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る





星の界

作詞 杉谷 代水 
作曲 コンヴァース

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/04/22)



池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【「星の界」の初出】 
 曲名は、「星の界」と書いて、「ほしのよ」と読みます。
 田村虎蔵編『教科統合中学唱歌』は、第一巻~第三巻まで発行(第一学年から第三学年用)。杉谷代水の日本語詞の「星の界」は、1910年(明治四十三年)四月二十五日発刊の田村虎蔵編『教科統合中学唱歌』第二巻(東京音楽書院・同文館)に発表されました。
 ここに掲載の歌詞と楽譜は大正二年二月十二日五版発行のものです(国立教育研究所教育図書館所蔵)。明治四十四年四月発行修正三版の歌詞と楽譜も同じです(国立国会図書館所蔵)。

 【歌詞について】 
 『教科統合中学唱歌』大正二年二月十二日五版掲載、明治四十四年四月修正三版掲載の「星の界」の一番の四行目の歌詞は「いざ其星の界」で、楽譜も「イザソノホシノヨ」となっています。
  杉谷恵美子編『杉谷代水選集』(冨山房)一九三五年(昭和十年)収録(国立国会図書館所蔵)も、一番の四行目の詩は「いざ其星の界」なっています。
 堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)の解説には、今歌われている一番の歌詞「いざ其の星影」の部分は、"初版では「いざ其星の界」となっている"と注記してあります。
星の界

 ●藍川由美著『これでいいのか、にっぽんのうた』(文春新書)25ページと、藍川由美のCD翻訳唱歌集『故郷を離るる歌』の中の『星の界』の解説で、藍川由美は、「初版の題は《いざ其星の界》のちに《星の界》と改題された」と書いています。これは間違いです。題名は、改題されたのではなく、最初から『星の界』でした。

 【謎の改作】
 ★堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)に見られるように、一番の四行目が「いざ其の星影、」の歌詞に変えられた理由については不明。変えると一番の歌詞の中に「そ(其)の星影」が二度用いられることになってしまいます。テーマである「星の界」の歌詞を削ってまで改作の必要があったのでしょうか。  
 昭和二十五年(1950年)五月発行の高等学校音楽用『音楽Ⅲ』(中教出版)掲載の「星の界」の楽譜を見ると
 「いざそのほしかげ きわめもゆかん」となっています(井上武士・下総皖一・名倉晰・勝承夫 共著)。 142ページに掲載されています。

  【歌詞の難解さ】 
 明治四十三年版の『星の界』は、きれいなメロディーにもかかわらず、「無窮の遠」「窮理の船」などの難解な語句があるため、だんだん歌われなくなっていきました。「無窮の遠」は、「遙かかなた果てしなく遠いところ」。「窮理の船」は、「胡瓜の舟」と誤解されます。「いざ棹させよや、窮理の船に。」は、「さあ 星の世界を探求する船を漕ぎ出そう」という意味です。 現在は歌詞を改訂し、少年少女向けにわかりやすい歌詞にした楽譜が多数出版されています。

 【曲調について】 
 旋律は、ヘ長調四分の四拍子で、A(aa')A'(ba')の二部形式です。したがって、第二段目と第四段目は、全く同じメロディーです。リズムは、どのフレーズも同じです。したがって、覚えやすく歌いやすい。長く愛唱されている理由の一つです。
 ちなみに、『冬の星座』と、ほとんど同じリズムです。

 【「仰ぎて」の歌い方】 
 歴史的かなづかいの「仰ぎて(アフギテ・アヲギテ)」は、「オーギテ」と発音することもありますが、現在では「あおぎて」と歌い継がれています。

 【作曲者について】 
 作曲者のチャールズ・コンヴァースは、1832年アメリカに生まれ、1918年に死亡しました。ドイツのライプツィヒ音楽院で作曲を学んだ、ペンシルヴァニア州エリー市の弁護士、法学博士です。作曲は趣味でしていたようです。
 ●堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)の解説には、コンヴァースは、(1789 - 1860)となっています。これは間違い。
 ●長田暁二編著『心にのこる日本のうたベスト400』(自由現代社)の解説のコンヴァース(1789~1860)も間違い。
 ●藍川由美のCD翻訳唱歌集『故郷を離るる歌』の「星の界」の解説もコンヴァース(1789 - 1860)となっています。これも間違い。
 これでは、讃美歌『What a Friend』を作曲したとされる1868年には、コンヴァースは、すでに死亡している事になってしまいます。正しい生存年は1832-1918年。これは日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌』(日本基督教団出版局)2000年12月発行461版発行の参考のページで、だれでも知る事ができます。
 鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)は、コンヴァース(一八三二~一九一八)となっていて正しい。

 【原曲は讃美歌】 
 原曲は、ジョゼフ・スクラィヴィンJoseph Scriven (1819-1886)が1855年に発表した詩、『What a Friend we have in Jesus』に、Charles Crozat Converse (1832-1918)が、『What a Friend』の曲名で1868年に作曲した讃美歌です。
 日本基督教団讃美歌委員会編『讃美歌』では、312番として掲載。歌詞は、「1 いつくしみ深き 友なるイエスは、罪とが憂いを とり去りたもう。~」3番まである。長い間歌い親しまれたため、『星の界』の原曲が讃美歌と知ってびっくりする人も多いようです。


  『Hymns for the Family of God』1976 Nashville, Tennessee, U.S.A.。 日本基督教団出版局発行の『讃美歌』 英語版。現在アメリカで出版されている。 讃美歌466として掲載。

 【讃美歌を読み解く】 
 鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』の「星の界」には、「コンヴァスのファースト・ネームがチャールズであること及び原題が"What a Friend We have in Jesus"ということを教えられたのは、竹内道夫氏の労作『伯耆の近代文学史』(今井書店刊)であった」と書いてあります。しかし、これは鮎川哲也が讃美歌を知らないからです。
 讃美歌312番の歌い出しは、「いつくしみ深き 友なるイエスは」という歌詞です。讃美歌312番を見ると、左上に詩の題名と作詩者の名前、作詩年又は発表年が記してあります。右上には、曲名と作曲者の名前、作曲年又は発表年が記してあり、だれでも簡単に知る事ができます。
 讃美歌312 一段目を掲載。
星の界

 【日本での曲の紹介は】 
 日本語讃美歌としての初出は明治十五年(1882年)『讃美歌並楽譜』の第82番でした。曲名と歌い出しは、「いかに尊さの ともなるイエスよ」の歌詞です。日本語詞の作者は不詳。これは、『原典による近代唱歌集成(1)』18ページで見る事ができます。解説には「同志社女学校の生徒が歌うのが大好きな讃美歌」と書いてあります。
 唱歌としての初出は、明治二十五年(1892年) 深沢登代吉編纂『歌曲集・初編』の第10番です。曲名は、「別れの歌」で、日本語詞は大和田建樹です。これは、『原典による近代唱歌集成(1)』44ページで見る事ができます。この歌詞は忘れられ今は歌われていません。

      別れの歌

   今日とり換(か)わす
   君が手も
   明日は千里(ちさと)の
   旅の空
   暮れてもよしや
   なお歌え
   形見(かたみ)とならん
   木(こ)のもとに

 ●大塚野百合著『賛美歌・唱歌ものがたり』(創元社)54ページで紹介してある歌詞「今日とり換(か)す」「形見にならん」は間違い。「今日とり換(か)わす」「形見とならん」が正しい歌詞です。
 杉谷代水の日本語詞の「星の界」は、明治四十三年(1910年)四月二十五日発刊の田村虎蔵編『教科統合中学唱歌(二)』(東京音楽書院・同文館)に発表され、日本の愛唱歌として定着しましたが、それ以前から、メロディーは知られていた事になります。

 【杉谷代水(すぎたに だいすい)の略歴】
  ・明治七年(1874年)八月二十一日、鳥取県会見郡境町(現・境港市栄町)生まれ。本名は虎蔵。鳥取市郊外に育ち、「代水」の号は、付近を流れていた「千代川」にもとづく。千代川の「代」と流れる「水」から「代水」とした。
  ・鳥取県尋常中学校(現・鳥取西高)卒業。鳥取高等小学校教師を経て、明治二十八年、東京専門学校(のちの早稲田大学)に入学したが中退。
  ・東京専門学校で坪内逍遥に認められたため、明治三十一年(1898年)、坪内逍遥の推薦で冨山房編集部に入社。坪内逍遥編の尋常小学校、高等小学校「国語読本」の編集に携わった。教材の選択、全巻への配合など優れた出来映えで画期的と言われ、のちの国定教科書に多大な影響を与えた。

  (註)校名変遷
    ・明治15年10月21日、東京専門学校
    ・明治35年9月2日、早稲田大学[大学部文学部]
    ・明治38年、早稲田大学[大学部文学科]
    ・大正9年3月31日、早稲田大学[文学部]
    ・昭和24年4月21日、早稲田大学[第一文学部]

  ・新体詩「海賊」「行雲歌」「夕しほ」などを発表。
  ・芳賀矢一との共著による『作文講話及文範』は多くの読者を得た。
  ・田村虎蔵に協力して小・中学生用の唱歌本を編集し、自らも「星の界」など六十余篇を作詩した。
  ・明治三十五年(1902年)、イタリア児童文学の名作『クオレ』の最初の訳本『学童日記』(春陽堂)を刊行するが、今もその題で訳される「母をたずねて三千里」は、このとき代水が用いた訳語である。他に『希臘(ギリシャ)神話』(1903年・冨山房)、『アラビヤンナイト』(1915年・冨山房)などを翻訳し、児童文学の先駆的存在となった。
  ・明治四十三年、田村虎蔵に協力して小・中学生用の唱歌本を編集し、自らも「星の界」など六十余篇を作詞した。編集者、詩人、翻訳家として活躍した。
 ・大正四年(1915年)四月二十一日に満四十歳の若さで逝去。

 【讃美歌「母の日」の歌】 
 「母ぎみに勝る ともや世にある」という歌詞でも歌われています。これは、旧讃美歌、昭和六年(1931年)発行に掲載された437番の歌詞です。『母の日』という章に入っています。この歌詞でも愛唱されています。

 【川路柳虹の「星の世界」】
 賛美歌312番「いくつしみ深き」の曲に誌をつけたのは杉谷代水だけでなく、川路柳虹(かわじ りゅうこう、明治二十一年~昭和三十四年)も「星の世界」という題名で発表している。
 『五年生の音楽』(教育芸術社)昭和三十年発行には「星の世界」のタイトルで掲載してあります。『小学生の音楽5』(教育芸術社)平成十三年発行では、三部合唱の学習として掲載してあります。若い世代には、この歌詞で歌われるようになっています。

      星の世界    作詞 川路柳虹

    かがやく夜空の 星の光よ  
    まばたく数多の 遠い世界よ      数多の=あまたの
    ふけゆく秋の夜 すみわたる空
    のぞめば不思議な 星の世界よ

     きらめく光は 玉か黄金か
     宇宙の広さを しみじみ思う
     やさしい光に まばたく星座
     のぞめば不思議な 星の世界よ

 【井上ひさしの「星の界」】 井上ひさしには『月なきみ空の天坊一座』という奇術師主人公の短篇連作小説があります(井上ひさし著『月なきみ空の天坊一座』新潮文庫)。 月なきみそらの天坊一座
 NHKでテレビドラマ化されました(月~金曜日21:40-22:00に銀河テレビ小説として放送。放送日は1986年6月2日~1986年6月20日まで全15回)。
 手品師の読心術の暗号に唱歌を使うという発想が検討され、五十音表の「つ」を表す唱歌に『星の界』が選ばれます。井上ひさしはこの小説で唱歌の歌いだしを五十音表にあてはめる凝りようでした。
  『国語元年』戯曲版では、井上ひさしはさらに凝って、主人公・南郷清之輔を明治七年の小学唱歌取調掛に設定し、彼が作詞したという幻の戯作唱歌をたくさん登場させました(原曲は「むすんでひらいて」「故郷の空」「線路はつづくよどこまでも」「星の界」「橋の上で」「キラキラ星」「同胞の歌」、聖歌など)。なかでも『星の界』にあてた讃美歌風歌詞『星あかり』(空の彼方より 燦めく光)は傑作でした。
  ・井上ひさし著『国語元年』(中公文庫、TVドラマ版)
  ・井上ひさし著『国語元年』(新潮オンデマンドブックス、戯曲版)


 私の童謡の会で楽しく歌いました。曲にびったり合う歌詞で、違和感なく歌う事ができました。気に入っています。みなさんも歌ってみてください。

≪著者・池田小百合≫ なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る


著者より引用及び著作権についてお願い】 

なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る





ふじの山

作詞 巌谷小波
作曲 不詳   
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/12/05)



 昔からのことわざに「一富士、二鷹、三茄子、四扇、五煙草」というのがあります。夢に見るものの中で、めでたい物の順番です。特に、正月の初夢でこれらを見ると大変縁起が良いとされています。
 足柄平野から見た富士山は箱根山の上にどっしりと大きくそびえています。箱根の乙女峠からは、雄大な稜線が見事です。見る時期、見る場所によって富士山の姿はさまざまに変化します。各地の「富士見町」、「富士見台」などからは、富士山を望むことができます。天気の良い日に小さく見えるだけであっても、富士山は日本一の山として親しまれてきました。

 私が利用している小田急線では、新松田駅から小田原駅に向かう車窓に富士山を見る事ができます。東京からの観光客が富士山を見つけると歓声をあげます。 2013年6月22日(ふじの日)に世界文化遺産として登録されることが決定。標高3776mの富士山は日本一高い山。

 【初出タイトル「ふじの山」】
 初め詩教材として国定教科書『尋常小学読本』(巻四、第五課)にあった。お伽話作家の巌谷小波が読本の編集委員を務めていた関係で執筆を担当しました。
 この詩に作曲をし、明治四十三年(1910年)七月十四日発行の『尋常小学読本唱歌』(文部省)に掲載されました。タイトルは「ふじの山」。 したがって、子供たちは「読本」と「唱歌」の二教科で「ふじの山」を学びました。
 文部省唱歌は、日本の美しい風景を歌いあげたものが多い。「ふじの山」は、日本の美しい風景を子供たちに教えるとともに、歌うたびに「日本一」という言葉を教育されました。【巌谷小波の略歴】参照

 <歌詞について>
  ・一番、二番とも歌詞は格調高い七・五調でできています。
▲忍野村(山中湖畔)から
見た富士山 2013年4月19日
松野和代さん撮影

  ・「あたまを雲の上に出し」と擬人化されています。
  ・朗読してから歌うと意味がよくわかります。一番は「かみなりさまを下に(きく)」、二番は「かすみのすそをとほく(ひく)」となっています。

 <楽譜について>
  ・ニ長調、四分の四拍子、速度記号は四分音符=96です。
  ・四小節ずつ二つのフレーズで、ふたつの部分からまとまった二部形式です。
  ・七音音階でできています。
  ・「ターンタタンタン」というリズムに特長があります。
  ・「ふじは」のところに、曲全体の盛り上がりがあります。
  ・明るく、おおらかに歌ってください。



  【『尋常小学読本唱歌』と『尋常小学唱歌』について】

  【タイトルが「富士山」に改訂】
  『尋常小学唱歌』第二学年用(文部省) 明治四十四年六月二十八日発行に掲載の時、タイトルが「富士山」と漢字になりました。

  『尋常小学唱歌』第二学年用掲載曲
  目次順20曲
  櫻、二宮金次郎、よく學びよく遊べ、雲雀、小馬、田植、雨、蝉、蛙と蜘蛛、浦島太郎、案山子、富士山、仁田四郎、紅葉、天皇陛下、時計の歌、雪、梅に鶯、母の心、那須與一。

  ▼『新訂 尋常小学唱歌』第二学年用(文部省)昭和七年四月六日発行。
 タイトルは「富士山」で、『尋常小学唱歌』と同じです。歌詞には句読点が付き、「霞」など難しい漢字が使われています。


 【昭和十六年版「富士の山」について】 
 昭和十六年三月三十一日(翻刻)発行『うたのほん 下』(文部省)国民学校第二学年用に掲載されている「富士の山」は歌詞も曲も違うものです。※国民学校芸能科音楽参照。
 ▼昭和十六年三月三十一日(翻刻)発行『うたのほん 下』(文部省)国民学校第二学年用の「富士の山」(歌詞・楽譜コピーは長野県伊那市の湯澤敏さん提供)


 <長野県伊那市の湯澤敏さんからの手紙> 
 “私の育った子供の頃は、戦争の時代で、ラジオが一般の家に入り始めた頃でした。ラジオから流れる音楽は軍歌調で、学校での唱歌の時間も軍歌調か、日本の歴史を歌った歌でした。・・・「富士の山」の歌ですが、私は昭和十七年に学校で歌った時は「大昔から 雲の 上、雪を いただく 富士の 山。いく千まんの 國みんの 心 きよめた 神の 山。~」と歌いました。「あたまを雲の上に出し~」は、あとで知ったと思います。したがって、「富士の山」「ふじの山」は二種類あると思います。参考になると思い、当時の本をさがしてコピーをしました。同封します。(湯澤敏さんから平成十九年四月二日)”。
 「当時の様子がよくわかりました。ありがとうございました(著者・池田小百合)」。

  明治43年発行の『尋常小学読本唱歌』の「ふじの山」では、日本の美しい風景を教え、「ふじは日本一の山。」と歌っているのに対し、昭和16年発行の『うた のほん 下』の「富士の山」では、二番になると、「~いくまん年の のちまで も、世界 だい一 神の 山。」と、歌っています。戦時中、国の教育方針にそった歌詞の「富士の山」は、子供たちの心の教育に大きな影響を与えました。 こうして、次第に強い国、日本の意識が作られて行きました。

 【他にも】 
 他にも、タイトルが似ているけれども違う曲をさがしてみました。いずれも、現在愛唱されているものと違います。
 国民学校芸能科音楽『ウタノホン 上』には、次のような曲が掲載されています。
  ・「ユフヤケ コヤケ」 カアカア カラス、オヤマヘ カヘル、(以下略)
  ・「オ正月」 早ク 來イ 來イ、オ正月、山ノ ウラジロ 持ツテ 來イ。(以下略)

 国民学校芸能科音楽『うたのほん 下』には、次のような曲が掲載されています。
  ・「雨ふり」 雨 雨、ふる ふる、田に、はたに。(以下略)

 【昭和初期の唱歌】 
 『太陽 日本童謡集うたのふるさと』1974年1月新年特別号には、重要なことがらが、よくわかるように書かれています。当時の編集者が書いた教科書写真の説明文より抜粋。

 “明治末年に成った「尋常小学唱歌」は、「赤い鳥」童謡の流行、様々の民間唱歌集の出版にも拘らず、殆ど全国の小学校で用いられて、事実上国定同様であった。しかし昭和に至るや、更に国家主義の意に沿うべく改訂が施され、遂に昭和十六年、完全に唯一絶対の国定教科書となった。
  ・昭和七年には『新訂尋常小学唱歌 第一学年用』(文部省)が発行された。続いて第六学年用まで発行された。
  ・昭和十六年には国民学校初等科第一学年用教科書『ウタノホン 上』(文部省)が発行された。時勢を反映して児童に軍国教育を徹底させるため、尊王とか国家礼讃とかの歌詞が重きをなす巧みな編集であった。
  ・昭和十六年には国民学校初等科第二学年用教科書『うたのほん 下』(文部省)が発行された。上巻同様、国威発揚、神国日本、美しい国土、床しき伝統といった内容で、勿論、国家統制の国定教科書でした。”
 『うたのほん 下』掲載の「富士の山」も、この国家の考えを託された歌でした。
 続いて国民学校初等科第六学年用教科書『初等科音楽 四』まで発行されました。

  【まだあった「富士の山」】 
 歌詞は加部厳夫で、原曲については、1882年7月1日の演奏会のプログラムにメーソンは<輝く我らの旗>と記している。

 ≪小学唱歌集/初編≫(1882年)に第27番として収録された。(『原典による近代唱歌集成』解説より)。
 ト長調、四分の四拍子、歌詞「ふもとに雲ぞ かかりける 高嶺にゆきぞ つもりたる (以下略)」。 初出タイトルは『富士山』だが、ルビは「ふじのやま」と書いてあるので、現代表記では『富士の山』のタイトルで扱われています。

                   ▼1882年『小学唱歌集/初編』

 『新編教育唱歌集』(教育音楽講習会編) 東京開成館 新版(全八集) 明治三十八年修正五版発行にも、さまざまな歌詞の「富士山」が収録されています。日本一高い富士山は、強い国日本の象徴でした。あこがれや信仰心もうかがえます。現在、これらの曲は歌われることはありません。
  ・第四集
  八「富士山」(音樂學校許可)掲載。「麓に雲ぞかゝりける。」
  九「四季の富士」掲載。「霞める空に消えのこる 富士の高嶺の春の雪。」ほか。

  ・第五集
  三「富士山」(國定讀本歌詞)掲載。「汽車の窓よりあふぎ見る」
  (註)≪国定高等小学読本唱歌/巻之一≫(1905年)収載。小山作之助の校閲による民間の教科書の一曲。この時のタイトルは「富士登山」作曲は小山作之助。
  ・第八集
  一「富士登山」掲載。「神代ながらの富士の高嶺、」

 【次々と作曲された】
 明治三十年代中期には、音楽取調掛編≪小学唱歌集≫に続いた伊澤修二編の唱歌教科書のほか、小学読本の韻文などを歌詞にして旋律を付けたものが出ていた。文部省唱歌編纂委員の南能衛助教授の報告によれば、実態では小学読本の同じ歌詞に多くの曲ができてしまった。はなはだしい場合には同じ学校で同じ詩に別の旋律が教えられたり、検定を通らない未熟な旋律も多数出回ってしまった。当然、教育現場に混乱が起きた。
 文部省としては、読本に対応する模範的な検定唱歌教科書を用意しておくほうが良いと判断した。しかし、歌詞が先に発表されていて、作曲にむかない韻文もあり、作曲者は苦労した。そこで、旋律のつけられたものだけを発表した。旋律は全て日本人による。合議制だったので作詞、作曲者は発表されず、著作権は文部省にあった。こうして≪尋常小学読本唱歌≫が誕生した。 『小學唱歌教科書編纂日誌』(pdfファイル3MB)参照。 『尋常小學讀本唱歌』参照。

 【昭和二十二年版での扱い】 
 戦後の新しい音楽教科書、昭和二十二年版の『二年生のおんがく』(文部省)には掲載されていません。楽しい音楽を目指した文部省の姿勢がうかがえます。

 【タイトルは「ふじ山」に改訂】 
 昭和二十三年九月十日発行(昭和二十三年九月十二日文部省検定済)の『しょうがくおんがく 二年生』(全音楽譜出版社)に掲載されています。
  ・作詞、作曲者名はなく、文部省教科書よりと書いてあります。
  ・四分音符=96 ニ長調 四分の四拍子は初出と同じです。
  ・タイトルは「ふじ山」になっています。これには理由があります。
 「富士山」の「富」の字は小学校五年生で、「士」は小学校四年生で新出漢字として習うからです。「山」は小学校一年生で習います。

 【その後の「ふじ山」の掲載】 
 三年生用になったり、再び二年生用になったりしています。

 <昭和二十七年>六月五日発行(昭和二十八年度用)の『三年生の音楽』(教育藝術社)に掲載されています。三年生の教材になっています。
  ・作詞、作曲者名はなく、文部省教科書よりと書いてあります。
  ・四分音符=92 ハ長調 四分の四拍子。ハ長調に移調したので、子供たちがハーモニカや木琴で演奏しやすくなりました。
  ・タイトルは「ふじ山」。

 <昭和三十年>六月五日発行(三十一年度用)の『三年生の音楽』(教育藝術社)も同じです。

 <昭和三十三年>十二月十五日発行『改訂版しょうがくせいのおんがく 2』(音楽之友社)に掲載されています。小学校2年音楽科用です。
  ・作詞、作曲者名はなく、文部省唱歌と書いてあるだけです。
  ・四分音符=96にもどされています。ハ長調 四分の四拍子。
  ・タイトルは「ふじ山」。

 <昭和三十五年>十二月二十五日発行『総合しょうがくせいのおんがく 2』(音楽之友社)には掲載されていません。

                   ▼昭和三十三年版の「ふじ山」の楽譜(小学校2年音楽科用)


  【小学校音楽共通教材】
  昭和五十二年から第三学年用共通教材に決められました。

  【平成二十一年版での扱い】
 ・教育出版の三年生用では、タイトルは「ふじ山」、文部省唱歌 巌谷小波作詞、速度記号は四分音符=96、ハ長調となっています。

  【巌谷小波(いわや・さざなみ)の略歴】
  「ふじの山」の作詞者とされる。
  ・明治三年六月六日、東京・麹町平河町生まれ。本名は巌谷季雄。児童文学者、童話作家、小説家、俳人。
  ・明治二十年、進学を放棄して硯友社に入る。
  ・明治二十年頃から文学の側から言文一致運動が起こり、それがしだいに唱歌にも影響をしてきて、普通の話し言葉に近い感じで歌詞を作った言文一致唱歌が作られるようになった。巌谷小波、石原和三郎、納所弁次郎、田村虎蔵は、この運動の中心人物。巌谷小波作詞の「一寸法師」は、その代表的な歌。
  ・明治二十四年、創作童話「こがね丸」で童話に新しい面を開いたといわれる。発表後、児童読物の執筆に専念。
  ・明治二十七年博文館に入社し、「幼年世界」「少女世界」「少年世界」の主筆となる。
  ・明治三十一年一月から「少年世界」に「新八犬伝」を連載して長編児童文学に新機軸をもたらした。
  ・「世界お伽噺」「日本昔噺」を編纂し、海外の童話を紹介したり、童話口演をするなど児童文学の普及に功績があった。
  ・明治三十九年(1906年)から数年間、小学校用の国定教科書の編纂にかかわり、「ふじの山」は、その仕事の一端として『尋常小学読本』巻四(第二学年)の教材として書いたものです。
  ・俳人としても一家をなし、句集「さゝら波」がある。父は巌谷一六(書家・貴族院議員)、長男は巌谷槇一(劇作家)、次男は巌谷栄二(児童文学研究家)、四男は巌谷大四(文芸評論家)です。
  ・昭和八年九月五日没。

 【北島治夫さんのレコード情報】 
 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんは6種類の「富士山」を所有。「タイトルは全て「富士山」です。いい曲は、いつ聴いても良いものですね」(北島)。
   ・ショーワ  942 宮下晴子
   ・リーガル  65939 平田みつ子
   ・コロムビア  25462 村山六四郎
   ・コロムビア CP105 岡田孝
▲「唱歌では珍しく振付が付いています。カードでは「富士山」というタイトルです
が、レコードのレーベルは「富士さん」という表記です。」(北島)
 
   ・ビクター J10001 文谷千代子
   ・キング  AB1008 小澤美枝子


 【まだあった「富士の山」】
 上記・北島治夫さんから楽譜コピーを送っていただきました。「この教科書は日本教育音楽協会(東京音楽学校内)編となっておりますが、5、6年用を見ても、すべて知らない曲ばかりです。この教科書だけに留まってしまって歌い継がれることもなく、埋もれてしまっております」(北島)。

       ▼日本教育音楽協会(東京音楽学校内)編『児童唱歌第五学年用』
       昭和十年十月十日発行に掲載の「富士の山」


2013年6月22日 世界文化遺産として登録されることが決定。22(ふじ)の日に。

▲静岡県富士市にて。新幹線のぞみ300系は平成24年3月廃止。(鈴木裕氏撮影)

▲丹沢 鍋割山より富士山を望む 平成27年1月13日  (関千洋撮影)

≪著者 池田小百合≫

著者より引用及び著作権についてお願い】 


なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る







作詞・作曲 不詳
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/14)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 鳩を見ると口をついて出るのは、この歌です。明治から昭和まで学校で教えたので、日本中の人が知っています。では、教科書を詳しく見ましょう。

 【初出】 
 タイトルは「鳩」です。
  ・『尋常小学唱歌』(文部省)第一学年用 明治四十四年発行では、一番の歌詞は「みんなで仲善(なかよ)く 食べに來い。」、二番の歌詞は「一度にそろつて 飛んで行け。」でした。
  ・旋律は、ヨナ抜き へ長調 四分の二拍子。四小節の節(ふし)が三つつながった一部形式とみることができます。
  ・旋律の山は、三段目の前半、「みんなで仲善く」の所にあります。

  【タイトルも歌詞も改訂】 タイトルは「ハト ポッポ」に改訂。


 『ウタノホン 上』(文部省)国民学校第一学年用 昭和十六年発行では、一番の歌詞の最後は「ミンナデ イッショニ タベニ 來イ。」、二番の最後は「ミンナデ ナカヨク アソバウヨ。」と改訂しました。しかし、定着しませんでした。

  【改訂の理由】 
 改訂の理由はわかっていません。
 この改訂は、とかく批判を受けました。改訂したことにより、タイトルは東くめ作詞・瀧廉太郎作曲の「鳩ぽっぽ」と同じになってしまったからです。
  「食べ終わったら飛んで帰れ」とは、愛想がないので、変えたかったのでしょうか。

  【戦後は】 
 タイトルは「はと ぽっぽ」です。
  『一ねんせいのおんがく』(文部省)昭和二十二年発行で、歌詞は、もとにもどされ、全部ひらがな(一だけ漢字)で掲載されました。

  【現在は】 
 初出の歌詞で歌い継がれています。
 愛唱されている理由は、メロディーが簡単で歌いやすいからです。

 【楽譜の出版】 二種類のタイトルで出版 「鳩」と「はと ぽっぽ」のタイトルの楽譜が出版されています。 いずれも歌詞は同じです。
  「ハト ポッポ」の歌詞の楽譜は出版されていません。歌う時、歌詞が違うと混乱するからです。


 【レコード情報】北海道のレコードコレクター北島治夫さん所有のレコード

 会社  番号  歌手 タイトル 特記事項
コロムビア 3315D 中島けい子 「鳩」
ニッポノホン 194D 納所文子 「鳩」 2番「豆が」
トンボ 15141 長妻規尹子 「鳩」
キリン K551 中野義夫 「鳩」 1番「飛んで来い」
2番「豆が」
「一度に仲善く」
コロムビア C69 岩田佐智子 「はとぽっぽ」
オリエント A1326 井上ます子 「鳩」
ニットー 3360 福田 栄 「鳩」
ニットー S1031 草野和歌子 「鳩」


≪著者・池田小百合≫

著者より引用及び著作権についてお願い】 


なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る





汽  車

作詞 不詳    
作曲 大和田愛羅
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/06/07)



池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【初出】
 明治四十五年(1912年)三月三十日発行の『尋常小学唱歌』第三学年用に掲載されました。これが正しい記載です。
 ●足羽章編『日本童謡唱歌全集』(ドレミ楽譜出版社)の解説"明治44年3月30日発行の「尋常小学唱歌(三)」に掲載されました。"これは間違い。他の多くの出版物も「明治44年3月」と間違っています。
 それは、●堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)が"『尋常小学唱歌(三)』明44・3"と間違っているのを、そのまま写しているからです。

 【歌詞について】 
 歌詞は七五調で作られています。汽車の走るリズムになっていて、読んでも歌っても爽快です。
 一番は、野山を走るようす。
 二番は、汽車の窓から見える景色。
 三番は、汽車の旅の面白さを歌っています。

 【曲について】
 曲は調子の良い四分の二拍子です。ドレミファソラシ(ド)七音音階で作られた二部形式の曲です。同音の繰り返しが多いのに七音全てがたくみに使われています。明治時代の唱歌とは思えない優れた曲です。歌うと汽車に乗っているような楽しい気分になります。替え歌ができるほど人気の曲で、特に男子生徒が好んで歌いました。

 【教科書の扱い】
 教科書の掲載を年代順に見ましょう。
  ・『尋常小学唱歌』第三学年用ではト長調です。「鉄橋」(ソソソレ)と「通って」(レレソソ)のメロディーが、言葉のアクセントに合っていないので歌いにくい。「思う」(タンタタ)のリズムが、今歌っているものと違っています。
明治45年 汽車楽譜



  ・昭和七年四月六日発行の『新訂 尋常小学唱歌』第三学年用から「鉄橋」(レーソー)と「通って」(ソソソレ)は、言葉のアクセントにそったものに改作され歌いやすくなりました。


▼昭和十二年(1937年)講談社発行『童謡画集』の川上四郎の挿画

  ・昭和十七年発行の『初等科音楽一』には掲載されませんでした。
  ・昭和二十二年発行の『三年生の音楽』で、ト長調からヘ長調に下げられ掲載されました。子供にわかりやすいように、二番の「飛んで行く」は表記のとおり「いく」と歌わせました。だれでも鍵盤楽器を弾いて楽しめるように伴奏譜が掲載されています。この伴奏は人気となりました。『汽車』が愛唱された理由の一つと言えます。作詞作曲者は不詳と書いてあります。
汽車 楽譜

  ・昭和三十四年十二月二十五日発行の『改訂版 小学生の音楽3』(音楽之友社)を見ると「思う」のリズムが「タッカタタ」になっています。リズムが統一されたので、わかりやすく歌いやすくなりました。はぎれよく、元気に歌う事ができます。作者名はなく、文部省唱歌と書いてあるだけです。簡易伴奏譜が掲載されています。子供にも簡単に弾くことができます。
汽車 楽譜

教科書
  【モデルになった場所】 
 歌のモデルとなった場所がどこなのかについては、諸説があります。

 <その1>羽越(うえつ)線とする説
 作曲者の大和田愛羅(あいら)が幼少期を過ごしたのが、羽越線が通る新潟県村上市だったためで、羽越線村上駅前に歌碑が建っています。
 大和田愛羅は、一八八六年(明治十九年)三月二十四日、東京府牛込(うしごめ)区牛込下宮比町(現・東京都新宿区下宮比町)に生まれました。五歳の時、陸軍軍医の父を失い、一家は祖父を頼って新潟へ移りました。祖父は、村上藩士でしたが、英国人宣教師の影響でクリスチャンになり、牧師となりました。
 大和田愛羅の母は、その教会でオルガンを弾いていました。少年時代は、讃美歌やオルガンを聞いて育ちました。貧しかったようです。
 明治三十八年三月、新潟県立新潟中学校(現・新潟高校)卒業。四月、東京音楽学校予科入学。明治三十九年四月、同本科声楽部進学。明治四十二年三月、同卒業。明治四十四年三月、声楽部研究科修了。
 卒業後は東京府女子師範学校(現・東京学芸大学)と東京府立第二高等女学校(現・都立竹早高等学校)教諭を務めた。
 昭和十八年、東京第一師範学校(現・東京学芸大学)教授となり、戦後は東京芸術大学音楽学部などで教鞭を取りました。その傍ら作曲も手がけました。

 明治四十五年、二十六歳の時に『汽車』を作曲したとされていますが、詳細は不詳。
 昭和三十七年(1962年)八月十一日に満七十六歳(1886.3.24-1962.8.11)で亡くなり、村上市の安泰寺に眠っています。
 (註)『小學唱歌教科書編纂日誌』(pdfファイル3MB)によると次のようです。
  明治42.8.15 歌題部会で三年一学期に配当
  明治42.8.17 部会で歌題配当案を議題、作歌の分担を定む
  明治42.12.28 歌詞並びに楽曲委員会で歌詞修正可決
  明治44.2.18 委員会で曲譜議題
  明治44.3.11 委員会で曲譜議題
  ★明治44.2には曲譜原案が出来ていたが、明治44.2.18と明治44.3.11の二回議題になった後、明治44.8までに決定の記載がないことから、明治44.3.11の委員会で決定したのかもしれません。大和田愛羅が研究科生徒時代に作曲か不詳。
  ※『小学唱歌教科書編纂日誌』の情報は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました(2014年12月06日)。

 歌碑は愛羅ゆかりの地ということで、1980年11月、東京在住の村上出身者の団体・村上郷友会が、結成百周年を記念して建立しました。一番の歌詞が刻まれた歌碑は切符の形で、切符のパンチも刻んであります。
 このようなことから羽越線説が唱えられましたが、残念ながら村上市の景色や羽越線がモデルではありません。羽越線が新発田(しばた)駅から村上駅間に敷かれたのは大正三年だからです。歌の方が先にできています。
 以上は、一般的な書物に書かれている事ですが、毎日新聞学芸部編『歌をたずねて』(音楽之友社)一九九〇年十二月第三刷発行には、大和田愛羅について全く違う記載があります。
 ★"大和田が、村上に住んでいたことがあったかどうかもはっきりしない。明治十九年三月生まれで、本籍地は村上市本町一六五七番地と記録はあるのだが、生まれた場所はわからない。旧制新潟中学から東京音楽学校に進んだが、村上で生活したことはなさそうだ。もっとも村上には親戚もおり、何度か訪れたことはあったろうが。 そういえば『汽車』の作詞者も不明だ。一説には大和田自身の歌詞ともいわれる。"と書いてあります。詳細は未確認。

 <その2>常磐線とする説
 作詞者は、わかっていません。
 研究者の中には『鉄道唱歌』「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり」の作詞者大和田建樹(たけき・愛媛県宇和島市出身)とする人もあります。それは『地理教育 鉄道唱歌』第三集「奥州(おうしゅう)・磐城(いわき)編」に次のような歌詞(四十七番に「広野」)があるからです。

 四七 浪江なみうつ稲の穂の
     長塚すぎて豊なる
     里の富岡 木戸 広野  
     広き海原(うなばら)みつつゆく  

 四八 しばしばくぐるトンネルを  
     出てはながむる浦の波  
     岩には休む かもめあり
     沖には渡る白帆あり     

 福島県双葉郡広野町の常磐線広野駅には『汽車』の歌碑が建っています。
 『汽車』の歌詞の一番に「廣野原」とあり、地元では、久之浜(ひさのはま)駅から広野駅間の景色と伝えられ、『汽車』の里として宣伝しています。
  しかし、作詞者と言われている大和田建樹は、明治三十一年一月に久之浜を訪れたが、すぐ引き返しています。当時、久之浜駅から広野駅間は未通だったからです。(常磐線全線開通は明治三十一年八月二十三日。広野駅も同時開業。久之浜駅は三十年八月開業)。その後、大和田建樹が広野駅まで行ったかどうかはわかっていません。
 さらに、大和田建樹は、『汽車』の発表(明治四十五年)より先の、明治四十三年十月一日に亡くなっています。亡くなる前に作詞していたとしてもよいのですが。
 ・・・作曲者の大和田愛羅と大和田建樹は、同姓ですが親戚関係などはありません。

 (註)2011年3月11日の東日本大震災にともない普通になっていたJR常磐線の久ノ浜駅(福島県いわき市久之浜町)―広野駅(福島県双葉郡広野町)8・4キロの復旧工事が終わり、2011年10月10日、運転が再開された。福島第一原発から30キロ圏内での鉄道の運行再開は初めて。しかし、広野駅から北側40キロ余りは福島第一原発の警戒区域で、復旧の見通しは立っていない。

▲2011年10月10日現在
JR常磐線の運行状況
▲2011年10月10日午前
運転が再開され、にぎわう広野駅

 <その3>御殿場線とする説  
 大和田建樹を作詞者と仮定して、御殿場線(当時の名称は東海道本線)が歌のモデルというのはどうでしょうか。
 明治二十二年二月一日、箱根山の北側の御殿場を回る線路、東京駅から沼津駅間の東海道本線が敷かれました。明治三十三年、大和田建樹作詞・多梅稚(おおのうめわか)作曲の『地理教育 鉄道唱歌』第一集「東海道編」が発表されました。その中に次のような歌詞、十三番に「山北 小山駅」があります。

 十三 いでてはくぐるトンネルの   
     前後は山北 小山(おやま)駅
     今も忘れぬ鉄橋の
     下ゆく水のおもしろさ

 『汽車』の歌詞の「浜」は国府津(こうづ)方面の湘南海岸、「鉄橋」と「トンネル」は谷峨(やが)付近、「廣野原」とは自衛隊基地のある富士高原を指す。地元では、これが通説になっています。
 “山北駅から御殿場駅間は1000分の25勾配(1000mの間に25m上がる)という驚異的な上り坂が出現した。さらに箱根外輪山と西丹沢山麓の間を、のたうつように流れる酒匂川を縫って上がるため、七つのトンネルを掘り、二十もの橋梁(きょうりょう)をかけなければならなかった”(『御殿場線物語 旧東海道本線各駅停車の旅』(文化堂)より抜粋)。

 <その4>全国にある風景
  『汽車』の歌に似た風景は、全国いたるところにあります。
 たとえば東海道本線の早川駅、根府川駅、真鶴駅付近は、どうでしょうか。昭和九年十二月一日、丹那トンネルの開通によって、東海道本線は、海側の熱海を回るルートになりました。
 歌が先にできているので早川駅、根府川駅、真鶴駅付近がモデル説は論外です。

 (東海道線を走る湘南電車113系の写真は大井町金子在住の鈴木裕さん撮影。このオレンジとグリーンの湘南電車の誕生は昭和25年。最初は80系、昭和37年の111系を経て昭和38年から113系が登場した。平成18年(2006年)3月のダイヤ改正で引退した。オレンジとグリーンはミカンをイメージしたものだという)

△早川~根府川間(石橋山から)

△根府川~早川間

△三島~函南間

 <その5>作詞者はだれか
 もう一人、作詞者と目される人物がいます。明治の末から三年間、小学唱歌教科書編纂委員を務めたことがある乙骨(おつこつ)三郎が、その人です。以前から研究者や遺族の間では彼こそが作詞者ではないかと言われていますが、どの出版物も作詞不詳のままの扱いです。具体的な舞台もわかっていません。
 作詞者不詳とあるのは、文部省著作ということで、当時は作詞・作曲者名を出さなかったためです。
 (註)作詞は明治四十二年十二月に決定しているので、大和田建樹(明治四十三年十月一日没)の可能性は残るが既に病気がちであったことや、明治四十二年八月十七日に湯原、富尾木、吉丸、島崎、乙骨、高野出席のもと分担を決めていたことから、乙骨が作詞した可能性の方が高いのではないかと思われます。Wikiで、“乙骨剛は「叔父の乙骨三郎が家族に自分が作詞したことを明かしていた」と証言している。『近代文学研究叢書37巻』(1973年)でも『汽車』は乙骨の作詞であると認めている”とある。
  ※「乙骨三郎作詞説」は、この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方から教えていただきました(2014年12月06日)。

 【『汽車』は今】 
 『汽車』は、文部省唱歌として学校で教えたので全国の子供に、そして大人にも愛唱されてきました。
 「今は夜中の三時ごろ~」の替え歌や、「せっせっせ」の手遊び歌としても使われました。
 楽譜をはなれ、多くの人に楽しく気持ち良く歌われたので、歌いやすいように勝手にリズムが変えられ(全てタッカタッカのリズムで歌うなど)、今ではみんなで楽譜どおりに歌うのは困難になってしまいました。
 小さかった頃、汽車に乗れば窓わくにつかまって外の景色を見ながら歌ったものですが、現在汽車は走らなくなり、自然環境の変化にともない森、林、田、畑も減ってきました。
 歌詞に登場する物がなくなると歌も歌われなくなりました。
 現在の教科書には掲載されていません。

 【汽車の最新情報】 
 (1) 2009年9月10日の読売新聞に「静岡県中部を走る大井川鉄道で9日、「999」のヘッドマークをつけたSL「銀河超特急999」号が、茶畑や鉄橋を走り抜けた。9が三つ並ぶ2009年9月9日にちなんで企画・・・」とある。この新聞写真は静岡県川根本町の大井川鉄道千頭駅で、読売新聞社の記者が撮影。SLのナンバーは「C11 190」です。
 大井川鐵道株式会社の車両紹介のページがあります。

 (2) 2009年9月23日の読売新聞に「SLの方向転換に使う「転車台」の体験会が22 日、静岡県川根本町の大井川鉄道千頭駅で行なわれた・・・・」とある。台に載 せられたのは、重さ約65トンの「C10 8」。この転車台は1897年に英国で製造さ れ、1980年に新潟県から千頭駅に移設。国の登録有形文化財に指定されている。

 【汽車も出征した】 
 東京都の金澤一郎さんから次のような情報をいただきました。
 "・・・兵隊さんを乗せた列車を牽引する蒸気機関車も出征したことを思い出しました。中国・タイ・ビルマなどへ私が知るだけでも300両以上が出征したのです。日本に帰る事ができたのは2両のみで、戦後30年以上もたってからでした。その1両は靖国神社で静態保存で、もう1両は大井川鉄道で走っているC56 44で、いずれもタイから帰還しました。C56 44は帰還して再び日本国内で走っている唯一の機関車です。現在は、タイ国鉄時代の塗装でナンバーもタイの735と書いてあります"。
 私、池田小百合は、大井川鉄道を走る汽車を見た事があります。しかし、このような事実があったとは知りませんでした。教えていただき、ありがとうございました(2009年8月10日)。
 

 ▲大井川鉄道を走る735(大井川鐵道株式会社・提供)  
 大井川鐵道株式会社からは、次のように教えていただきました。
  "当社のC56形44号機について。昭和11年製。
 最初は北海道に配置されたが、昭和16年、戦争のため供出され、タイやビルマ方面に送られた。
 終戦後はタイ国鉄の所有となり、同国で活躍していたが、タイ国鉄のディーゼル化により廃車、スクラップとなる運命にあった。
 この話を聞いた大井川鐵道は、まだ動態保存が可能である同機をこわしてしまうのはもったいないと、昭和54年6月に入線させ、昭和55年1月より営業運転を開始させた。しかし、蒸気機関車の心臓部であるボイラーの傷みが進み、平成15年12月より休車となった。
 ただ、ボイラーを修繕すれば、まだまだ走れるため修繕を施し、タイ国で走っていたので、タイ国鉄時のカラー(ボイラー部分は緑色、テンダー部分にタイ国鉄のペイントつき、タイ国鉄時の車両番号735も入れる)として平成19年10月7日に復活した。
 なぜ、タイ国鉄仕様にしたかといえば、先の戦争でタイ・ビルマ方面に送られ、戦後タイ国鉄で現地復興のために活躍。昭和54年に奇跡的に帰国し、現役復帰したという数奇な経歴を持つ歴史を多くの方々に知ってもらうとともに、平成19年が日タイ修好120年にあたることもあって、タイ国鉄で活躍していた当時のスタイルに復元した。"

 私、池田小百合は、C56形44号機の運命のドラマに驚くばかりです。写真や手紙をくださった大井川鐵道株式会社の管理部・山本豊福さんに感謝いたします(2009年9月26日)。

 みなさん、『汽車』を歌ってください。歌わなければ、忘れられてしまいます。『汽車』は元気をくれるすばらしい力を持っている歌です。

≪著者 池田小百合≫

著者より引用及び著作権についてお願い】 


なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る





冬の夜

作詞・作曲 不詳
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡唱歌
(2009/02/25)



 【尋常小学唱歌
  『冬の夜』は、明治四十五年(1912年)三月三十日発行の『尋常小学唱歌』(文部省)第三学年用に初めて掲載されました。一九三二年(昭和七年)四月六日発行の『新訂 尋常小学唱歌』(文部省)第三学年用にも掲載されています。
  (註)一九一二年は、明治四十五年七月三十日明治天皇が亡くなり明治が終わり、大正が始まった年です。
 ●構成・解説 秋山正美『別冊太陽 子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)の「『冬の夜』の初登場は、一九一一年」これは間違い。初登場は一九一二年が正しい。

 歌詞は、私たちが忘れかけている美しい日本語です。三年生の子供の歌として作られましたが、今では、中年層によく歌われています。愛唱歌なので、だれがこの歌詞を作り、だれが作曲したか、研究者の間で作者探しが盛んに行われ、話題になっています。歌詞の中に手がかりになるような言葉がなく、決め手がありませんでした。しかし、特定の場所や人物名がないからこそ、歌う人それぞれのイメージが広がって、昔あった日本の農村の情景とともに、幼い頃の思い出がなつかしく甦ってくるのでしょう。 数ある「冬」の歌の中でも、温か味のある歌詞と、のびやかなメロディーが人気で、冬になると必ずリクエストされる歌です。

 【歌詞に歌われた情景】 
 この歌は、電灯もラジオもテレビもない時代のことです。
 昔の多くの農家では、終日薪の火が燃える「囲炉裏」で暖を取り、煮炊きをしていました。歌詞の一番は母と母をとりまく子供が、二番は父と父をとりまく子供が歌われます。春を待つ家族の、一家団らんのささやかな幸せがほほえましく伝わってきます。このほのぼのとした温かさが愛唱され続ける理由の一つでしょう。
▲川上四郎絵。「僕等の軍歌唱歌集」『少年倶楽部』
昭和11年11月号付録


 一番で、ランプの光の下で母が縫っているのは正月用の着物でしょうか。それとも傷んだ着物にツギをあてているのでしょうか。
 「春の遊」は正月のいろいろな遊びだけではないでしょう。春の芽吹きのなかでフキノトウやツクシ摘み、山菜採りなど、遊びとも労働ともつかない作業の楽しさもきっと話しているのでしょう。
 「居並ぶ子ども」ですから、子供は複数でしょう。太平洋戦争以前は、どこの家でも子沢山で、子供は国の宝とされ、男の子の誕生には報奨金が出ました。現在は少子化で、子供は一人か二人です。「居並ぶ子ども」という表現は、過去のものになってしまいました。
 この歌では、父親より先に母親が登場します。明治時代の男性優位社会では、珍しいことですが、それはこの歌を作った文部省が、歌う女子を意識したからだと思われます。国の宝、男の子を産む母親に敬意を表わし、針仕事のうまい、やさしく語らう母親を、女子の目標とするためです。歌うたびに女の子たちは、こんな母親はいいなあ、こんな母親になりたいと思ったことでしょう。

 二番では、父は縄をなっています。雪の積もる地方では、冬は農作業ができないので、家の中で縄をなって草履を作ったり、竹で篭を編んだりの手間賃仕事をして、収入を得ていました。それは根気のいる仕事です。
 歌詞は、時代を反映していて、「過ぎしいくさの手柄を語る」と歌われている「いくさ」、つまり戦争は、日清、日露戦争の事でしょう。

 <日清戦争>
 朝鮮をめぐる日本と清との戦争。
 明治二十七年(1894年)六月、朝鮮政府は清国に出兵を依頼し、翌日日本政府も直ちに派兵を決め、日清両軍は京城・牙山の間で対立するにいたった。ロシア・イギリスなどの調停も成功せず、(七月)、豊島沖で清国軍艦を砲撃。(八月)、日本は清国に宣戦布告。(九月)、陸軍が平壌を占領。海軍も黄海海戦に勝ち、制海権を握った。(十一月)、陸軍は鴨緑江を渡って遼東半島を制圧。 一八九五年(明治二十八年)に入ると、山東半島の威海衛を攻撃、北洋艦隊を全滅させ、さらに(三月)台湾・澎湖島へも進攻を開始した。(四月)、下関で日清講和条約調印(下関条約)。

 <日露戦争>朝鮮・満州(中国東北部)の支配権獲得をめぐって日本とロシアとの間で戦われた戦争。明治三十七年(1904年)二月、日本はロシアに宣戦布告。
 1905年(一月)、旅順開城。日本軍は苦戦の末勝利を得ていた。乃木希典指揮の第三軍は惨澹たる戦闘の後、旅順占領に成功。(三月)、両軍とも三十万人前後の大軍を結集させた奉天会戦でロシア軍を退去させたが、日本軍は死傷者七万に及んだ。
 他方、太平洋艦隊の大半を喪失したロシアはバルチック艦隊を極東に回航、(五月)、対馬海域で日・露両艦隊が会戦、ロシア艦隊は壊滅した(日本海海戦)。奉天会戦と前後して、日・露両国とも軍事的、財政的に戦争遂行能力の限界に達した。(九月)、日露講和条約(ポーツマス条約)調印。 日本軍の戦勝によって日本の朝鮮支配が列国に承認され、南満州の独占的支配が進められるに連れてアメリカと対立し、またアジアの新興国日本の戦勝はアジア諸民族にも影響を与えた。『日本近現代史小辞典』(角川書店)より抜粋。

  父は、縄をないながら、戦場での様子を子供たちに話しています。それは、勝ち戦の自慢話だったので、子供たちは眠いのも忘れて拳を握りしめて、聞き入っています。この歌を歌った男の子たちは、大きくなったら僕たちも父親のようにりっぱな兵隊さんになって戦場で戦おうと夢をふくらませたことでしょう。文部省は、このように時代に合った歌を作り、子供たちに歌わせて教育の一環としました。

 【戦時下の教科書に掲載されなかった理由】
  戦意昂揚の意味を含んだ歌詞であるにもかかわらず、太平洋戦争勃発直後の昭和十七年発行の『初等科音楽一』(文部省)国民学校初等科第三学年用には掲載されませんでした。
  (註)『初等科音楽一』は、昭和十七年二月二十四日発行。昭和十七年三月三十一日翻刻発行。

 <太平洋戦争>
 一九四一年(昭和十六年)十二月八日~一九四五年(昭和二十年)九月二日。第二次大戦のうち、アジアでの日本と米・英・中など連合国との戦争をさす。日本政府は国民に大東亜戦争とよばせた。昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃。日本軍は開戦半年でフィリピン・マレー半島・インドネシアなどを占領。さらにニューギニア・ガダルカナルに進出してオーストラリアに迫った。これは緒戦の勝利に酔った日本軍首脳が当初の計画を超えて一挙に戦線を拡大した結果です。しかし、この頃からアメリカは反撃に転じた。
 ・・・日本海軍は一九四二年(昭和十七年)六月、ミッドウェイ海戦で航空母艦四隻を失う打撃を受け、日米両国の生産力の差も現れ始め、日本軍は制海・制空権のほとんどを失い、補給が困難となり、戦局の主導権はアメリカ軍の手に移った。
 ・・・一九四五年(昭和二十年)四月には沖縄に上陸、日本本土に激しい爆撃を加えた。軍部は本土決戦を唱えたが、八月六日広島、九日長崎に原子爆弾が投下された。八月十四日ポツダム宣言を受諾。十五日、天皇は終戦詔勅を放送。九月二日、降伏文書に調印し、戦闘行為は終結した。 この大戦は日本軍の占領地における物資・人員の略奪、蛮行、アメリカ軍による徹底的な対日破壊作戦が著しい特徴をなした。以後一九五二年(昭和二十七年)、サンフランシスコ講和条約発効まで、日本は占領軍の下に管理された。『日本近現代史小辞典』(角川書店)より抜粋。

 戦時下の音楽教科書に掲載されなかったのは、戦闘開始の時期に、「過ぎしいくさ」の歌詞では、混乱をまねくと判断されたのでしょう。
  ●上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)には、「おそらく、太平洋戦争の真っ最中の時期であり、「過ぎしいくさの手柄」くらいでは迫力を欠くと判断されたからだろう」と、外された一番の理由として「手柄」の方を重視して書いてありますが、戦闘開始の時期ですから「過ぎしいくさ」の方が重大でした。
 これほど早い時期に教科書から削除され、その後教科書に復活していないにもかかわらず、今も歌い継がれ、愛唱されているのはなぜでしょうか。

 【なめらかなメロディー】
  ト長調の穏やかな名曲です。「衣縫う母」や「縄なう父」が過去のものとなっても、人気の秘密はメロディーのすばらしさにあります。「とーもしび ちーかく きーぬぬう はーはは」というように、それぞれの言葉の歌い出しを延ばして歌うように作られています。これは、譜面がなくても覚えやすいリズムです。譜面がなくても、歌えるということは、人の口から口へ歌い継ぐ時の重要な条件です。そして、このリズムは、家庭ののんびりした雰囲気と同調し、歌った人に安らぎを与えます。
 最初の母の事を説明した二行のメロディーと、続く子供の事を説明した二行は同じです。簡単なメロディーとリズムで繰り返し歌うので、だれにでも覚えやすくなっています。そのメロディーは、言葉のアクセントに忠実に作ってあるため、なめらかに歌えて、繰り返し歌ってもあきることがありません。
 最後の連の「囲炉裏火はとろとろ」は、火がゆったりと燃えている感じになるように歌います。「とろとろ」は、この歌で一番印象に残る、なごやかな言葉です。囲炉裏火は、この家を、家族を温かくしているばかりでなく、歌う私たちの心をも温かくしてくれます。薪のはぜる音も聞こえてくるようです。
 作曲者はわかっていませんが、オルガンの伴奏で聞くと讃美歌のようです。後述するように、不明の作詞者が下村炗だとすると、下村炗が岡野貞一と共立女子職業学校校歌を一緒に作っている事実が重要に思えてきます。岡野貞一はキリスト教徒だったからです。

 【雪は白い悪魔】 
 外に目を向けると厳しい現実があります。雪国の人々にとって雪は基本的に《白い悪魔》です。積もった雪を放置しておくと家がつぶれるため、必ず"雪降ろし"をしなければなりません。不思議なことに屋根には雪が自然落下しないように"雪止め"がついています。軒先から落ちた雪で玄関や人が埋まってしまう危険を回避するための工夫です。
 屋根の上の雪降ろしは危険なため、子どもにはやらせてもらえませんでした。早起きをして玄関先から道路まで"雪かき"をするのが男の子の朝の仕事でした。大雪が降った翌朝は隣の人も雪かきをしています。
 東北地方では一挙に降る雪を"ドカ雪"と言っていました。気温の低い日に降る"粉雪"だって、やや温かいときに降る雪の粒の大きい"ぼたん雪"だって決して風流なものではありません。次の日には固まったり、凍ったりして事故の原因となります。油断すると耳の先が"しもやけ"や"あかぎれ"になります。雪をめでる余裕はなかなか持てないものです。
  「冬の夜」は外のきびしさに気がつくことで、なお一層家庭のぬくもりが感じられるようにできています。「外は」を強調して歌いおさめましょう。

   いくたびも雪の深さを尋ねけり      正岡子規
   しづけさは斯くのごときか冬の夜は われをめぐれる空気の音す    斎藤茂吉

 【戦後の扱いは】 
 歌詞の中に「過ぎしいくさの手柄を語る」と、「戦」という言葉が入っています。
 戦後は音楽の教科書には掲載されませんでしたが、学校では「過ぎし昔の思い出語る」に変えて歌わせました。変えてしまうと、なぜ、子供たちは話しを聞きながら「拳を握る」のかが意味不明となります。
 ソ連軍は日本の敗戦寸前に連合軍側から参戦しました。日本が降伏した相手の一員だったロシアに勝った時の自慢話をする『冬の夜』の歌詞は、敗戦後の占領下では具合が悪いので変えて歌ったのでしょう。一行だけ歌詞を変えるのは、「墨塗り教科書」と共通するものです。作者が明確なら改変に応じない事もあるでしょう。戦前の文部省は一貫して作者名を公表しませんでした。したがって現在も文部省唱歌は作者不詳のものが多数あります。作者名を伏せて国の方針に沿って自由に使えるようにしていたのです。
 『原典による近代唱歌集成』(ビクターエンタテインメント)の解説には次の“ ”のような重要な事が書いてあります。


 “『小学唱歌教科書編纂日誌』によれば、1910年(明治43年)4月16日に、歌詞を下村莢に依頼という記事が見える”。
 (註)「下村莢」の名前の漢字の読みについて、ビクターエンタテインメントに問い合わせをしたところ、「下村自身が作って使っていたのではないか。読み方は不明」とのことでした。

 下村莢の「莢」にはヒカルという読みかたがあります。16歳の相馬御風に国語を教えていて、短歌を指導したという記録があるほか、共立女子職業学校(現在の共立女子学園)の校歌の作詞をしている。この校歌の作曲者は岡野貞一。

 この検索サイト「池田小百合なっとく童謡・唱歌」の愛読者の方によると、次のようです(2014.11.12)。

  〔下村炗〕 炗は光の古字 当時の「東京帝国大学一覧」「東京音楽学校一覧」「職員録」いずれも炗。筆書の「任免裁可書」でも炗(ただし翻刻では光)。読みはひかる、あきら、ひろし などが想定しうるが、日本童謡事典では「ひかる」としている。

  『東京芸術大学百年史 東京音楽学校篇第二巻』音楽之友社2003.3 にはM43.4.16“下村莢ニ「冬の夜」ト題スル歌詞ノ製作ヲ依頼ス”とある。莢としているが炗の翻刻ミスと思われる。

 下村炗(しもむら ひかる) 別名 別名 千王伎、千別(ちわき)は、明治三年、佐賀県佐賀郡多布施村(現・佐賀市多布施)生まれ。本籍は北海道。
 明治二十六年七月、第五高等中学校本科一部(文科)(現・熊本大学)を卒業。
 明治二十九年七月、帝国大学文科大学国文学科卒(武島又次郎と同期)、第五高等学校嘱託員、新潟県中頚城尋常中学校教諭、山口高等学校教授、日本女子大学校教授、広島高等師範学校教授を歴任。
 大正十年八月十四日、逝去。尋常唱歌編纂に際して他にも作詞依頼を受けている。

 【レコード情報】
 北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんによると、“コ ロムビアGES-3133 歌手・中川順子は二番、原詩どおり「過ぎしいくさの手柄を 語る」で歌っています。昭和三十年代のSPレコード ビクターB459 東京少年合 唱隊の演奏は、直された「過ぎし昔の思い出語る」で歌っています。”

姉妹の章
夜のおはなし
 【語られる言葉の力】 
 歌い終わると、だれもが「いい歌ですねえ」と感動の声をあげます。歌の中には、今では郷愁となった「囲炉裏」があり、囲炉裏には火が燃え、それを囲んでの家族団らんがあります。 母や父の語らいを、子供たちは喜び、眠いのも忘れて耳を傾けて聞いています。それは、冬の夜長の唯一の楽しみでした。昔は、それに祖父母も加わり、昔話や民話が語られ、子供たちに伝えられていきました。
 耳から入る物語は子どもの言葉に対する感性をはぐくみ、想像力をきたえます。「語り」の訴える力はテレビをはるかに超えたものをひとに与えます。最近は「声を出して読む」ことの重要性が強調されています。
 私の子どもたちも毎晩夜のお話しが大好きで、待ち望んでいたことを思い出します。そのひとときが大切な「家族の時間」でした。

 個人で得られる情報が乏しかった時代、年上の者の経験談を聞くことが、人生の勉強になっていました。また、話す方もしっかりした知恵をさずけるつもりで話をしていました。それは、「知恵袋」とも呼ばれ、親や、高齢者が尊敬される最大の理由でした。
 そこには、温かい家庭の対話があり、年功序列で親や目上のものを敬う、家族の秩序がありました。さらに囲炉裏は、家族団らんの場であるばかりでなく、村の人たちの社交の場でもありました。薪の燃える炎に手をかざし、漬物や梅干をお茶請けとして、お茶を飲みながら村の噂話や、情報交換のおしゃべりをすることは、なによりの楽しみでした。

 このように、「囲炉裏」は日常生活の中心に位置した大切な場所でした。『冬の夜』が歌い継がれているのは、この歌を歌うと、自分が求めている家庭の安らぎを得られるからでしょう。また、「囲炉裏」の思い出が甦り、幼い頃の懐かしい家族や友だちを語りたくなる人もあることでしょう。

 【後記】
 「歌詞の中に<戦>という言葉が入っていても、現代人が歌うには<戦>は感じない歌」という童謡の指導者がいます。歌わせるときには説明が必要です。

  「現代は、倫理道徳観が低下し、個人主義が尊重され、教育現場や家庭において様々な問題を抱え、日本の美徳や美しい感性が低下したように思われる。唱歌「冬の夜」の歌詞は、戦前は当然の光景であったことが、現代では温かく感じると思う」という意見がある一方で、作家の村上春樹は「今の時代は好い、どの時代より好い」と言っている。私、著者・池田小百合もそう思っている。便利な時代を楽しもう。

著者より引用及び著作権についてお願い】  ≪著者・池田小百合≫


なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る





早春賦

作詞 吉丸一昌
作曲 中田 章

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009/01/25)

 【初出】
 大正二年(1913年)二月五日発行の吉丸一昌 作『新作唱歌』第三集(東京敬文館発行)に初出。

 【新作唱歌について
 第一集(明治四十五年七月発行)と第二集(大正元年十一月発行)は『幼年唱歌』の名前で刊行。続いて第三集(大正二年二月)から第十集(大正四年十月)までが『新作唱歌』の名前で刊行。全十集、七十五曲。『幼年唱歌』も、のち『新作唱歌』に改題。
▲「太陽 特集・日本唱歌集」(平凡社,No.182)
1978年6月号の22ページに『新作唱歌』
(大正二年)と紹介されている表紙.
所蔵図書館不明.初版の表紙か?

 作詞は、すべて東京音楽学校の国語教授で文部省唱歌の編纂委員でもあった吉丸一昌(1873-1916)。作曲は、第三集から後には外国人の曲もあるが、第一集、第二集はすべて日本人の曲で、梁田貞(やなだただし)や大和田愛羅、本居長世、弘田龍太郎、中田章、沢崎定之、船橋栄吉、松島つねなど、東京音楽学校出身または生徒である新進気鋭の作曲家が担当していました。(参考・金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔上〕〔中〕』(講談社))。

 <主な掲載曲と刊行年月日>
 第一集から第十集まで大阪府立中央図書館国際児童文学館所蔵。勉強の為なら複写可。
  ・「お玉じゃくし」梁田貞作曲『幼年唱歌』第一集(1912年7月30日初版刊行)掲載。
  ・「燕 つばめ」北村季晴作曲『幼年唱歌』第二集(1912年11月7日初版刊行)掲載。
  ・「兎の餅舂 うさぎのもちつき」与田甚二郎作曲『幼年唱歌』第二集掲載。
  ・「飛行機の夢」大和田愛羅作曲『幼年唱歌』第二集掲載。
  ・「木の葉」梁田貞作曲『幼年唱歌』第二集掲載。
  ・「なんだっけ!?」大槻貞一作曲『新作唱歌』第三集(1913年2月5日初版刊行)掲載。
  ・「早春賦」中田章作曲『新作唱歌』第三集掲載。
  ・「落椿」ウェーバー作曲『新作唱歌』第四集(1913年5月18日初版刊行)
  ・「故郷を離るゝ歌」ドイツ民謡『新作唱歌』第五集(1913年7月22日初版刊行)

  『新作唱歌』第六集 (1913年12月1日初版刊行)
  『新作唱歌』第七集 (1914年5月5日初版刊行)
  『新作唱歌』第八集 (1914年6月15日初版刊行)
  『新作唱歌』第九集 (1914年7月22日初版刊行)
  『新作唱歌』第十集 (1915年10月3日初版刊行)

 千葉優子『ドレミを選んだ日本人』(音楽之友社)p.119には、次のように書いてあります。“最初の二集はすべて日本人による新作であったが、第三集以降には西洋の民謡やシューベルト、シューマンなどの歌曲に訳詞または作詞したものも含まれる。全曲に伴奏がついており、子供らしい発想、親しみやすい口語体、ユーモラスな味、その新鮮な感覚による歌詞で、大正四年(1915年)十月発行の第十集まで次々と刊行され、毎年のように版を重ねるほど人気を博した。”
 (註)上記引用文は、小島美子著「童謡運動の歴史的意義」(一)『音楽教育研究』p.33によるもの。

 【改題をした理由の考察】
 まず、吉丸一昌は緒言で「『新作唱歌』は『幼年唱歌』の改題にて、この第三集以下は、『新作唱歌』の名の下に、幼稚園、尋常小学校、高等小学校、中学校、高等女学校程度の歌曲を網羅することとしたり」と言っている。
 金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌 〔中〕』(講談社文庫)には、次のように書いてあります。“思うに、吉丸は小学下級生用のものをはじめ作ろうとしたが、もっと上級のものの方が自分にも向いており、作曲者諸氏にも向いていることを悟り、第三集から標題を変えたものと思われる”
 吉丸一昌は、「もっと上級のもの」を考えて第三集から標題を変えた。それもあるが、改題をした理由は、もっと単純なことです。『幼年唱歌』という同じ名前の本がすでに出版されていたからです。それは、納所弁次郎・田村虎蔵(共編)『教科適用 幼年唱歌』(十字屋楽器店、明治33年6月~明治35年9月発行)です。

 【なぜ『新作唱歌』を発表したかの考察】
 『尋常小学読本唱歌』『尋常小学唱歌』と同時期に、『新作唱歌』を作ったのは、なぜでしょうか。
  明治四十一年(1908年)、東京音楽学校(現・東京芸術大学)の教授に招かれて生徒監に任命され、文部省よりは『尋常小学読本唱歌』と『尋常小学唱歌』の編纂委員で作詞の主任に任命された吉丸一昌でしたが、学習研究社の『私の心の歌 春 おぼろ月夜』(平成十六年刊)には次のように書かれています。

 “文部省が求めて来るあまりにも道徳的な方針に納得せず、常に批判的な態度を取り続けた。明治四十五年には自作の『幼年唱歌第一集』を発表。その後、『新作唱歌』と改題し、大正四年までに第十集、七十五曲を発表した。(中略)
  文部省主導型による唱歌政策に疑問を抱き、独自の世界を切り開いた吉丸の作詞に対する姿勢は、北原白秋、西條八十、野口雨情たちが推し進めた童謡運動に大きな影響を与えた。童謡運動に共感して参加した本居長世、弘田龍太郎、成田為三、山田耕筰といった錚々たる作曲家は彼の教え子たちだ。
  吉丸が文部省の方針に背いてまで「新作」にこだわり、本居や山田たちを育てることに心血を注いだ背景には、授業料の捻出のために、幼い弟たちを養子に出してまで学んだ吉丸の生い立ちがある。吉丸は帝大時代、『修養塾』という私塾を開校して、地方出身学生の衣食住や勉強、就職まで世話をした。府立三中の教諭時代には、私財を投げうって夜間学校を開設した。大正五年(『新作唱歌』十冊の刊行の翌年)、四十三歳の若さで急逝するが、亡くなるまで自宅も苦学生に開放して全面的に支援し、自らは極貧の生活に甘んじていたといいます。”

 この記述の出典は吉丸一昌再評価に努める小長久子大分大学教育学部教授の論文に依拠するものと推測されます。ほぼ同様のことが,「小長教授によると」との紹介文に続いて、毎日新聞学芸部の記者の手によっても、書かれているからです(毎日新聞学芸部『歌をたずねて』音楽之友社』昭和五十八年)。

  金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔上〕』(講談社)には、“『幼年唱歌』には、伴奏も載っており、純粋の器楽曲もまじっていて今までの唱歌集とは趣がちがう。納所弁次郎・田村虎蔵のものとちがい、と言って文部省の唱歌集ともちがい、新しい時代の息吹きを感じさせ、時に芸術的な香りの高いものもまじっている。吉丸自身さぞ嬉しかったろうと思う”と書いてあります。

 【吉丸一昌の略歴早春賦の館パンフレット
 ・明治六年(1873年)九月十五日、豊後国北海部郡海添村 (現・大分県臼杵市海添)に生まれました。
  (註)大分県士族 旧臼杵藩

 ・明治十二年、臼杵学校へ入学した一昌は向学心に燃え、優秀な成績で大分県よりたびたび表彰されている。
 ・臼杵学校卒業後、大分県尋常中学校(現・大分上野丘高校)、熊本の第五高等学校(現・熊本大学)で学びました。ここでの夏目漱石との出会いは、後の吉丸の進路を決定づけています。
 ・明治三十一年(1898年)、第五高等学校卒業後、東京帝国大学文科大学国文学科へ進みました。
  この頃より修養塾と称し、少年十名程と生活を共にして、勉学はもとより衣食住から就職に至るまで世話をしています。それに東京でデッチ奉公している田舎出の少年や中学へ行けない者の為に、下谷中等夜学校を開設しています。
  〔註〕本郷真砂町三二番地(本郷四-一二-一五)に「修養塾」を開く。

 ・明治三十四年(1901年)、七月十日、東京帝国大学文科大学国文科を卒業。

  <校名変遷>
   ・明治2年12月17日 大学南校
   ・明治7年  東京開成学校
   ・明治10年4月13日 東京大学文学部
   ・明治19年3月1日  帝国大学文科大学
   ・明治30年6月  東京帝国大学文科大学
   ・大正8年2月  東京帝国大学文学部
   ・昭和22年9月 東京大学文学部

 ・明治三十五年(1902年)四月十四日、東京府立第三中学校(現・両国高校)授業嘱託。五月十六日、東京府立第三中学校教諭に任ぜられる。ここでは芥川龍之介を教えています。
 ・明治四十一年(1908年)、四月二十一日、東京音楽学校教授。補東京音楽学校生徒監に任命されています。
 文部省からは『尋常小学読本唱歌』と『尋常小学唱歌』の編纂で作詞委員の主任に任命されています。
  〔註〕駒込動坂町三五七番地(千駄木五-四六辺)に居住。

 ・明治四十四年(1911年)六月二十二日、明治四十四年度第二回師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。
 ・明治四十五年(1912年)より、『新作唱歌』全十集を発表しました。
吉丸一昌『大町高校八十年史』での紹介

 ・二百とも三百とも言われる程の歌を作っています。また、若い人材をも育てています。中山晋平、大和田愛羅、本居長世、弘田龍太郎、船橋栄吉、山田耕筰などの人がいます。
 “「城ケ島の雨」の作曲者として著名な梁田貞は吉丸家の書生。大勢の書生を養い、家計はいつも火の車だった”(『大町高校八十年史』による)
 ・大正五年(1916年)三月、四十三歳の若さで他界しました。
  〔註〕龍光寺(りゅうこうじ 本駒込一丁目)に吉丸家墓所がある。この〔註〕は『文京ゆかりの作詞・作曲家』(文京区教育委員会)による。

 <吉丸一昌『大町高校八十年史』での紹介>
 ●“明治四十年四月恩師東京帝大教授文博芳賀矢一教授の推薦にて、東京音楽学校国文学教授兼生徒監となる”は間違い。
 正しくは、明治四十一年(1908年)、四月二十一日、東京音楽学校教授。補東京音楽学校生徒監に任命されています。

  <吉丸一昌と島崎赤太郎との関係>
 “吉丸の詞には、島崎赤太郎を中心に多くの著名な音楽家が曲を付けたが、『新作唱歌』を初めその交閲は同僚の島崎赤太郎が当たっていた。”
 “矢張り酒好きで、吉丸家をちょいちょい訪れて酒をくみ交わしていたのが、恰幅のいい島崎赤太郎だった。”(『大町高校八十年史』による)。

  <吉丸一昌の死因>
  “無類の酒好きで、毎日一升酒を飲むという噂さ、そこで身辺の人々は名前の一昌にひっかけ、「いっしょう(一升)」と呼んだ。”
 “大正天皇御大典奉祝歌を作詞し、そのお祝いに暫く止めていた酒を飲み、それが原因で心臓発作を誘発、東京音楽学校教授の現職のまま世を去った。” (『大町高校八十年史』による)。  

吉丸一昌 吉丸一昌記念館「早春賦の館」は生誕120年を記念して、ユキ夫人の実家(旧・ 板井家)に開館されたものです。館内には当時の楽譜・遺品など、ゆかりの品々が多数展示されています。

  【吉丸一昌の作詞】
 吉丸一昌は、二百とも三百とも言われる程の歌を作っています。 自らの作詞した歌詞を作曲のテキストとして音楽学校の生徒たちに与えていたといいます。ドイツ民謡の「故郷を離るゝ歌」やシューマン作曲の「楽しき農夫」 など外国の曲に歌詞を付けたものもあります。
  「早春賦」の詞の末には、(大正元、十一、二、作)と記されている
  作詩時期が大正元年十一月二日と銘記されていて、明治天皇が七月三十日に崩御、元号が大正に変わった後で、春への期待ではやる気持に、新しい時代への期待感が、感じられます。けれども、まだ きびしい冬が続いているという認識に、明治時代に文部省に批判的だった吉丸の、時代に対する批評意識がこめられた歌詞であって、単なる季節の自然描写の歌ではありません。

   ⇒ 『新作唱歌』第三集(東京敬文館発行)第三版 表紙 
      東京音樂學校教授  文學士 吉丸一昌 作

        ▼樂譜と歌詞:ヘ長調、八分の六拍子。最高音はFで一般の人が歌うには高い。
         樂譜では歌詞の最後の連が繰り返されている・詞の末尾に作詞日時が記されている。

   【「早春賦」の舞台は長野県大町地方説】
 歌碑研究家の赤澤寛(鹿島岳水)著『童謡・唱歌・叙情歌 名曲歌碑50選』(文芸社)によると次のようです。
  「早春賦」は、吉丸一昌(東京音楽学校教授)が大正元年(1912年)秋、弟子の当時、長野県立大町中学校音楽教師であった島田頴治郎(えいじろう)の語る、春遅き大町地方の情景を基に作詞したもので、歌詞にある「谷の鶯」は稲尾沢、「氷解け去り 葦は角ぐむ」は木崎湖と推定される。
 島田は、明治四十四年春から大町に住み、その年と翌年の二回、早春の時期を過ごし、「早春賦」そのものの体験をしている。
 一方、吉丸は九州に生まれ育ち、東京に暮らし、寒き地方に住んだ経験はない。早春の時期、歌詞にあるような地方に旅行した記録も見当たらない。したがって、吉丸の実体験からは「早春賦」の詩文は生まれない。作詞の背景に、島田の存在が見えてくる。
 島田は、明治四十四年(1911年)四月から六月にかけて大町中学校歌作成打ち合わせのため、東京の恩師を数回訪ねた。そのとき、作詞の背景として大町なる地域の気候・風土、中学の校風などを語り、その結果、吉丸一昌作詞、島崎赤太郎作曲による大町中学校校歌ができた(大町中学校校歌、明治四十四年制定)。吉丸はその一年半後に「早春賦」を作詞する。

 <大町中学校校歌の作曲者 島崎赤太郎>
  『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第二巻』(音楽之友社)の日本人教師1319ページには次のように書いてあります。
 島崎赤太郎(しまざき あかたろう) 東京府平民。
  ・明治七年(1874年)七月九日生。
  ・明治二十二年(1889年)九月十一日 東京音楽学校入学。
  ・明治二十六年(1893年)七月八日 東京音楽学校専修部卒業。八月三十一日 研究生を命ぜられる。授業補助を申し付けられる。九月十一日 高等師範学校附属音楽学校教務嘱託。
  ・明治三十一年(1898年)七月二十八日 師範学校尋常中学校教員講習会音楽科助手嘱託。十月十八日 師範学校尋常中学校教員講習会音楽科助手。
  ・明治三十三年(1900年)一月二十九日 楽器調律研究のため神奈川県下横浜市及静岡県下浜松町へ出張。
  ・明治三十四年(1901年)九月三十日 オルガンおよび作曲研究のため満三カ月間ドイツへ留学を命ぜられる。
  ・明治三十五年(1902年)六月二十一日 任東京音楽学校教授。

 (註Ⅰ)旧制大町中学校 校名変遷
  ・1901年 長野県立松本中学校大町分校として開校。
  ・1904年4月1日 長野県立大町中学校として独立。
  ・1920年4月1日 長野県令38号により、長野県大町中学校に改称。
  ・1948年4月1日 学制改革により、長野県大町南高等学校となる。
  ・1959年4月1日 長野県大町高等学校と改称。
  ・2016年 長野県大町北高等学校との統合により長野県大町岳陽高等学校開校。

  (註Ⅱ)開校十周年記念校歌
  校歌は、旧制中学校時代の明治四十四年(1911年)に、開校十周年を記念して、それまでなかった校歌の制定が行なわれることとなり、東京音楽学校教授吉丸一昌に作詞が依頼された。校歌には地名や固有名詞が出てこない。内容は、地域の自然と、そこで学ぶ生徒への奨励歌になっている

 <校歌の制定>
  大町高校記念誌委員会編集『大町高校八十年史』(長野県大町高等学校同窓会)昭和57年9月15日発行によると次のようです。
 “創立以来一〇年間というもの、大中には校歌がなかった。したがっていろいろな催しの際に格好がつかず、生徒たちはだれしもが校歌の制定を願っていた。”
 “明治四十四年、大中は、創立十周年記念式典が挙げられることになり、これを機会に念願の校歌が作られることになった。鈴木校長は、校歌制定の任を唱歌担当の島田頴治郎に命じた。島田頴治郎は、茨城県北相馬郡小絹村出身で、明治四十四年三月、東京音楽学校甲種師範科を卒業、同年四月、大中の唱歌教師として着任したものである。島田は、校長から校歌制作の依頼を受けると、直ちに母校東京音楽学校の恩師吉丸一昌・島崎赤太郎と連絡をとり、作詞作曲を願った。両者の承諾を得た島田はその後数回に渡り上京し、二人と綿密な打ち合わせを行い、いよいよ大中校歌が誕生することになった。”
 “我々は講堂で音楽の時間に指導を受け、歌詞の説明、合唱を習って、十周年の記念式典に間に合わせた。”
 “こうして、校歌は創立十周年記念式典に正式に披露された。 「国歌を以て開式、(中略)校歌を合奏して閉式す」”。
  (註)赤澤寛氏から平成28年10月8日、『大町高校八十年史』資料を送っていただきました。ありがとうございました。

  <島田頴治郎が語った「早春賦」>
 島田は、大正元年十一月、年度途中で大町中学を退任している。母校生徒監の吉丸一昌教授の斡旋で大町に赴任した関係から、事前に恩師の了解を得るための相談に訪れた。それが十月だった。
 (註)吉丸一昌は、明治四十一年(1908年)四月二十一日任東京音楽学校教授。補東京音楽学校生徒監。

  吉丸は、九月に『新作唱歌』第二集を作詞しているが、十月は作詞ゼロで、歌材を欲していた。丁度その時期に島田が訪れた。
  島田は、これから冬に向かう大町の厳しい寒さ、早春でも雪の日の続く僻地、春の遅い大町を嘆いた。この弟子の語る大町地方の情景に、季節に関係なく吉丸の詩想を駆り立てる瞬間があり、十一月二日に「早春賦」が完成した。「早春賦」は春を詠んだ歌なのに、なぜ作詞が秋十一月だったのか、その疑問を解くカギは島田の訪問にあった。

  <安曇野発祥説について>
  「早春賦」の舞台は安曇野・穂高との説がマスコミなどに書かれ通説となった。根拠は、吉丸一昌が大正初年の早春に、安曇野の水郷を訪れたとされる。
  しかし、講師として招かれたという信濃教育会の50年史(1935年、信濃教育会刊)には、吉丸の講習会講師の記述はない。校歌作成のために訪れたという大町中学開校以来の日誌、大町高校八十年史をひもといても、吉丸を大町に招いた記述はない。また、吉田稔著『吉丸一昌』によっても、吉丸が安曇野を訪れたという証拠は何一つなく、吉丸と安曇野とは、全く縁なきと断定される。
  ・安曇野市は、平成20年11月12日、赤澤寛の情報公開請求の中で、「早春賦が安曇野発祥である根拠」について、「証拠となる文書は存在しない」と回答した。
  ・安曇野市は、平成23年4月、長野県観光協会に対し「安曇野が早春賦発祥の地」「吉丸一昌氏が安曇野に訪れて作詞した」を証拠立てる資料が存在しないことが判明した、と回答した。
  (註)平成27年1月31日、赤澤寛(鹿島岳水):歌碑研究家から「唱歌『早春賦』:舞台は長野県大町地方」と「唱歌『早春賦』:安曇野発祥は虚構」という研究論文を送っていただきました。ありがとうございました。
 赤澤寛氏は、昭和三年生まれ、長野県大町市出身、神奈川県川崎市在住。十五年間、全国に点在する歌碑巡りを行う。

 


大町に
ある
歌碑

▲安曇野市の三基の歌碑
【「早春賦」作詞の考察】
 当時の吉丸一昌は、東京音楽学校教授となり、小学唱歌教科書編纂委員で歌詞の委員長に任命され、 『尋常小学唱歌』の編纂に携わっており、また『新作唱歌』の作成などで多忙でした。昔、大町に行くには、今のように簡単な小旅行という訳にはいきませんでした。お金と、何よりも時間がかかりました。大正五年三月、『新作唱歌』十冊の刊行後に、四十三歳で急逝しました。吉丸には大町に行く時間がなかった。
 島崎藤村が柳田國男から椰子の実が流れ着いた話を聞いて、「椰子の実」を作詩できたように、吉丸も島田頴治郎が語った“春遅い大町、四月でも雪の降る光景”をヒントに「早春賦」を作ったと思われます。
  (註) 横山太郎著『童謡のふるさとを訪ねて』(明治書院)、『名曲の舞台を訪ねて』(交通新聞社)には間違いが三点あります。(1)北村季晴(すえはる)ではなく島田頴治郎が正しい。北村は明治三十三年、長野県歌「信濃の国」作曲で有名。当時、長野県師範学校の教師でした。在任期間は一年程度。その後東京で作曲活動などし、吉丸一昌とは親友だった。(2)吉丸一昌は安曇野に行っていない。 (3)作曲当時、中田章は既に学生ではなく、補助教授だった。 。

  【歌碑】
  ・長野県大町市文化会館前庭。「早春賦発祥の地」の歌碑。平成十二年十一月建立。
  ・安曇野市の早春賦公園。穂高川の岸辺に三基の歌碑がある。それぞれ中央に詞、音譜、ゆかりの説明の銅版がはめ込まれている。詞碑と説明碑が昭和五十九年(1984年)にできた。九年後の平成五年(1993年)、吉丸一昌生誕百二十年記念に音譜碑が加わった。
  ・大分県臼杵市の州崎中央公民館。
  ・JR日豊本線臼杵駅ホーム。

 【中田章が作曲】
 大正元年十一月二日、東京音楽学校教授の吉丸一昌が学生の作曲用テキストとして書いた詞に、当時、東京音楽学校補助教授(大正元年十月から補助教授)だった中田章(1886-1931)が曲を付けたものです。大正二年(1913年)二月発行の吉丸一昌編『新作唱歌 三』(敬文館発行)に初出。
 詞は三連から成り、いずれの連も「七・七 七・七 七・五」という韻律(第一連のみ、「聲も立てず」が字余りで六音)。中田は、各節の三行目を繰り返し歌うように作曲しました。繰り返したたみかける事で、曲に広がりが生まれました。難しい言葉の意味を理解して歌いましょう。
  「賦」=詩。
  「春は名のみの」=春とは名ばかりの。
  「葦は角ぐむ」=植物の葦が、角のような芽を出す事。
  「あやにく」=あいにく。
  「知らでありしを」=知らないでいたものを。
 この歌を掲載した『新作唱歌』の緒言には、『尋常小学唱歌』作曲委員だった島崎赤太郎が曲譜を校閲したと書かれています。

 【中田章の略歴
 明治十九年八月七日、東京に出生。明治四十年、東京音楽学校甲種師範科卒業。同四十二年、研究科を卒業。その後、東京音楽学校の助教授を務めました。

 『東京藝術大学百年史 東京音楽学校篇 第二巻』(音楽之友社)の日本人教師1324ページには次のように書いてあります。

 中田章(なかた あきら)
  ・東京府士族
  ・明治十九年(1886年)八月七日 東京市四谷区大番町十番地生。
  ・明治三十三年(1900年)四月十日 早稲田中学校入学。
  ・明治三十六年(1903年)三月三十一日 同校卒業。
  ・明治三十七年(1904年)四月二十三日 東京音楽学校甲種師範科入学。
  ・明治四十年(1907年)三月二十三日 同校同科卒業。四月十日 私立高輪中学校唱歌授業嘱託。四月十一日 東京音楽学校研究科入学。七月六日 明治四十年開設の師範学校中学校高等女学校等夏期講習会講師補助を命ぜらる。
  ・明治四十二年(1909年)九月二十九日 東京音楽学校研究科卒業。十月一日 本校オルガン講師補助嘱託。
  ・大正元年(1912年)十月十六日 任東京音楽学校補助教授
  ・大正八年(1919年)七月四日 大正七年度師範学校中学校高等女学校教員等講習会講師嘱託。
  ・大正十二年(1923年)六月二十五日 兼任第四臨時教員養成所教授。
  ・昭和三年(1928年)十月三十一日 依願免本官。

 (註)東京在住のN氏からの情報。「東京藝術大学百年史」「東京音楽学校一覧」および国立公文書館蔵「任免裁可書」によると、
 “東京音楽学校で授業補助-講師補助-助教授と昇格し、オルガン、唱歌、和声論などを教え、大正十二年六月、東京音楽学校助教授 兼 第四臨時教員養成所教授(この養成所は大正十一年四月音楽学校内に設置された)となった。昭和三年十月病気のため退官を願い出たところ、多年勤続成績優秀と認められ、十月三十日東京音楽学校教授に昇任、翌日退官した。音楽学校では大正元年十月から助教授であり、教授職を務めていないが、最終経歴は音楽学校教授と称しうる。”

 日本のオルガン教育者・島崎赤太郎の後継者として期待され、パイプオルガン奏者としても著名になりましたが、昭和六年十一月二十七日、四十六歳で早逝します。作曲家・中田喜直の父親です。山形県の名門、県立山形中学校(現在の山形東高等学校)の校歌(羽前の三山、虚空を仰ぐ)は、土井晩翠作詞、中田章作曲の名歌です。

 <中田喜直作曲の春の歌>
 中田喜直も「もうすぐ春だ」「もんしろ蝶々のゆうびんやさん」(サトウハチロー作詞)、「は、は、春だよ」(与田凖一作詞)、「もう春だ」(夢虹二作詞)、「春のむすめ」(立原えりか作詞)、「春を歌おう」「はなのおくにのきしゃぽっぽ」「ひらひらちょうちょう」(小林純一作詞)、「ゆく春」(小野芳照作詞)、「さくら横ちょう」(加藤周一作詞)、「すばらしき自然とともに」(こわせ・たまみ作詞)、「ひなまつり」(宮沢章二作詞)、「ほしとたんぽぽ」(金子みすゞ作詞)、「はちみつみつみつ」(鶴岡千代子作詞)、「ようちえんにいくみち」(佐藤義美作詞)、「バスケットのビスケット」(まど・みちお作詞)など、春の歌を沢山作っています。

 【「六年生の音楽」での扱い】
 昭和二十二年発行の『六年生の音楽』(文部省)には、「早春の歌」のタイトルで掲載されました。へ長調から変ホ長調に下げら れ、三番が削除されました。子供たちにわかりやすく、歌いやすくという文部省 の配慮のようですが、この歌は三番がないと意味をなしません。現在は三番まで歌われています。
 

 

 【よく似たメロディー】

  「早春賦」のメロデイーはモーツァルトの「春へのあこがれ」とよく似ています。どちらも、もうすぐ来る春への期待を歌う歌詞ですし、拍子も8分の6拍子。基本的なリズムが似ているのと、形式とメロディーラインの上下の動きも似ています。例えば、「早春賦」の歌いだしは、「ソドーミソードドーラ、ラソーミファソミー」、「春へのあこがれ」は「ドドーミソーラソーミー、ドファーファ、ファファミー」。ややコード進行が異なります。

 「春へのあこがれ」は、モーツァルトが自分の子供のために作曲したといわれている歌曲のひとつです。ケッヘル番号は596で、他の二曲「春 Der Fruhling」が597、「子供の遊び Das Kinderspiel」が598です。彼の最期の年に作曲されました。

 「春へのあこがれ」は、唱歌としては、昭和二十二年に『六年生の音楽』(文部省)に「五月の歌」として掲載されました。
 作詞は、靑柳善吾で、ニ長調・二部合唱に編曲して、伴奏譜があります。「樂しや五月、草木はもえ、小川の岸にすみれにおう」という歌詞で、原曲は五月を待ち焦がれる歌だったのですが、唱歌の方は、みごとな五月の歌になってしまっています。




 【映画『ペコロスの母に会いに行く』の主題曲として使われて】
 2013年11月公開の映画『ペコロスの母に会いに行く』では、昭和十八年に長崎の女学生が「早春賦」を練習している風景が最初のほうに出てきます。実際のところは、活水女学院の女生徒たちが歌っています。指揮をし、合唱を指導している先生役は宇崎竜童です。この先生が歌い方の指導のときに、「時にあらずと声も立てず」という歌詞だが、小さな声で歌ってはいけない、春が来るという新たな希望の気持ちだから大きな声で歌うんだと言います。

 <先生の台詞>
 「まっとォ(もっと)、まっと大声で。声ば立てずじゃなか。ここは大声で歌うところぞ。よか日の到来ば、待ちに待っとっぞ。今日より、よか時代の到来ば。<時にあらず>からもう一度」

 この指導は歌のポイントをおさえた適切なものであると同時に、映画ではバロック音楽の通奏低音のように「早春賦」が歌われることによって、喚起される映画の主題と重なるものがあります。息子が介護する認知症の母みつえは、少女のころ、女学生が歌う「早春賦」を通して、貧しくて弟妹が多いため行けなかった女学校に憧れていました。同じ年齢の友人ちえこと一緒に窓の外から女学生の歌を聞くばかりだったのです。老いたみつえが認知症になったときにときどき思い出す歌は「早春賦」でした。

 岡野雄一の原作に「早春賦」は登場しないため、映画評論家(山根貞男)は、森崎東監督に「なぜ早春賦なのですか」と尋ねても、監督は自分にも分からないと答えるだろうと書いていました。
 しかし、「早春賦」という曲が明治が終って、大正元年に作られた新しい時代の息吹の歌であることを知っていれば、いや、たとえ知識がなくても、それを感じとっていれば、認知症を新たな誕生であり、再生のときとして捉えようとする映画『ペコロスの母に会いに行く』にとってふさわしい曲であることが理解されると思います。森崎監督は現場で宇崎竜童に「まっと大声で」の台詞の大切さを演技指導していました。監督には『早春賦』の意義がきちんと理解されていたと思います。

著者より引用及び著作権についてお願い】  《著者・池田小百合》

なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る




故郷を離るゝ歌

作詞 吉丸一昌
作曲 ドイツ民謡

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2016/04/16)


 【原曲】
 原題は「Der letzte Abend(最後の夕べ)」というドイツ民謡。ドイツでは、ほとんど歌われていないようです。
  “この曲は、ルートヴィヒ・エルク編の『ドイツの歌の宝』に収録。国立音楽大学附属図書館所蔵(1963年発行の復刻版)。
  初版は1856年刊行で、ダルムシュタートとハイデルベルクの中間に当るベルクシュトラーセの民謡と書いてある。ここは美しい風景と果物で知られた地方で、普通名詞としてのベルクシュトラーセは、山間道路のことだそうだから、あの唱歌のふるさとは山国ということになるのだろう”(鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)による)。

  【原詩の要約】
  ・『私の心の歌 春 おぼろ月夜』(学習研究社)によると次のようです。
  <最後の晩のことを考える 私が君に別れを告げたとき・・・さようなら さようなら さようなら>という歌詞で始まる恋人との別離を歌った歌。

  ・『日本のうた こころの歌』№31デアゴスティーニ・ジャパンによると次のようです。
  「月が明るく輝く夕べ、恋人と別れなければならなくなったのだけれど、それでも愛する人のそばにある」・・・「大金持ちになって恋人をそばにおいておくことができるならば、それはそれで幸せなことだけれど、経済的に貧乏であっても何も恥じらうことはない。金銭的に裕福でなくとも心が豊かに満たされ、そして永遠の命を与えられるならば、あなたは一生私の恋人であり続ける」。

  【吉丸一昌 作『新作唱歌』第五集に掲載】
 大正二年(1913年)七月二十二日発行の吉丸一昌 作『新作唱歌』第五集(敬文館発行)に掲載。
 詞の末に(大正二、六、十九、土曜演奏會の爲めに)と書いてある。
  (註)“学友会は、明治二十五年に生徒間の知徳を向上させ、相互の交流を深めるために組織された音楽団体。しばしば開かれる演奏会は、後に土曜コンサートとして多くの人々に親しまれたという。”(大分県先哲叢書『瀧廉太郎』安永武一郎監修 松本正著 大分県教育委員会発行より抜粋)。

 原詩と吉丸一昌の詩とでは内容が異なる。吉丸は恋人との別れではなく、故郷との別れの歌に変えた。

   ⇒  『新作唱歌』第五集(敬文館発行) 再版 表紙。
       東京音樂學校教授 文學士 吉丸一昌 作

    ▼楽譜  曲名は「故郷を離るゝ歌」、変ホ長調(Es Dur)、四分の四拍子、獨逸民曲
 楽譜には「おもえば涙、膝をひたす、さらば故郷。」と歌うように書いてある。最後は反復記号(楽曲の途中からもう一度演奏するしるし)があるので「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。」を二回繰り返して歌います。
 女声二部合唱用の曲です。歌ってみるとわかるように低音部が自然なメロディーで歌いやすい。人気の曲だった事が理解できます。私、池田小百合は「おもえば涙、膝をひたす、さらば故郷。」の「さらば故郷。」の低音部が気に入っています。すばらしい。
 最高音はF、七回Esの音が出て来る。一般の人が歌うには高い。


              ▼歌詞  題名「故郷を離るゝ歌」、一番から三番まである。各連は四行。
              各連とも三行目の後の「さらば故郷」が省略されている。
              実際の一番は「おもへば涙、膝をひたす、さらば故郷。」と歌います。
              そして「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。」を二回繰り返し歌います。
              二回目が省略されている。
              詞の末に(大正二、六、十九、土曜演奏會の爲めに)と書いてある。


  【タイトルと歌詞について】
 日本語のタイトルは、「故郷を離るゝ歌」。「故郷」は、「こきょう」と読みます。近年、「ふるさと」は「古里」と書く方が一般的になりました。しかし、この曲の場合、歌詞に出て来る「故郷」の方は「ふるさと」と読みます。

  【女学生の愛唱歌】
 メロディーの美しさが受けて、戦前の女学校で合唱用教材として愛唱された名曲です。今、童謡の会で歌うと、「久しぶり、懐かしいわ」と声があがります。強弱、だんだん強く、だんだん弱くなどに注意して歌うと効果的です。特に「さらば故郷、さらば故郷、故郷さらば。」の繰り返しの部分は、心を一つにして歌うとホールに響き渡り、こだまのようです。
 「私、池田小百合は、この歌が特に好きです。自分の名前が歌われるからです」と言うと、「アンコール!」の声がかかりました。みんなで歌い継いで行きましょう。
 私、池田小百合が主宰している童謡の会では、ハ長調(C Dur)に移調して歌っています。この場合最高音はDになります。

  【日本語がメロディーに合っていない】
 歌詞は美しいが、日本語がメロディーに合っていない。「園」「小百合」「撫子」の音の高低と旋律の高低が一致していない。メロディーの妙な所で言葉の区切りが来ていて、歌詞の内容がよくわからない。歌う時、どこで息継ぎをしていいのか戸惑う。それでも戦前戦後を通してよく歌われました。
  「♪そののーさーゆーうりなあでしこー」と歌っても日本人は平気です。古くから外国民謡や讃美歌に日本語を付けて歌ってきたためです。
  訳詞でなくても、今どきの流行歌には、メロディーの妙な所で言葉の区切りが来ていて、歌詞の内容がよくわからないものがあります。
  「♪そーのふねーをこいでゆけー おーまーえのてでこいでゆけー」。「おーまー」とは、「えのてで」とは一体何か?

        空船(そらふね)

     作詞・作曲 中島みゆき、歌・TOKIO
  
     その船を漕いでゆけ おまえの手で漕いでゆけ
     おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな・・・

  【吉丸一昌の略歴

著者より引用及び著作権についてお願い】  《著者・池田小百合》

なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る


 【著者より著作権についてのお願い】
 文章を使用する場合は、<ウェッブ『池田小百合なっとく童謡・唱歌』による>と書き添えてください。

 
メール アイコン
メール

(+を@に変えて)
トップ アイコン
トップ

なっとく童謡・唱歌メニューページに戻る