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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
ウタノホンの童謡
ウグヒス  うみ  オウマ   菊の花
  井上武士略歴  林柳波略歴  松島つね略歴
童謡・唱歌 事典 




う  み

作詞 林 柳波
作曲 井上武士
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/06)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 神奈川県の海
  (相模湾)
  真鶴町の沖合い
 
  (撮影:斉藤恵津子さん)

   2009年

  

真鶴町三ツ石の日の出(撮影:鈴木裕さん)平成27年12月20日


 【発表】
 『ウタノホン 上』(文部省)昭和十六(1941)年二月発行の国民学校初等科第一学年用に掲載されました。※国民学校芸能科音楽参照。
 曲名はカタカナで『ウミ』となっていて、歌詞はカタカナと簡単な漢字(「大」「日」だけが漢字)で書かれています。これは、一年生でカタカナを、二年生で平仮名を学習するという当時の教育課程によるものです。
 音楽教科書の表紙のタイトルも、第一学年用はカタカナで『ウタノホン 上』(モンブシャウ)となっていて、第二学年用は平仮名で『うたのほん 下』(もんぶしゃう)となっています。 現在は一年生で平仮名を、二年生でカタカナを学習するので、一年生の音楽の教科書に掲載されたこの歌は、『うみ』と平仮名で書かれています。

▲『ウタノホン 上』昭和十六年発行の国民学校初等科
第一学年用に掲載 。カラー印刷の教科書だった。
挿絵は大貫松三の作品

 【社会状況と教科書】
 昭和十六年(1941年)、太平洋戦争勃発。同年四月、尋常小学校は「国民学校令」によって国民学校と名称を変更しました。それまで児童、学童と呼ばれた子供たちは「少国民」となった。 教育課程も新しく制定され、それに伴い唱歌の教科書の内容も大きく変わりました。明治以来の「唱歌」という科目はなくなって、「芸能科音楽」となった。始めて「音楽」という言葉が使われることになった。『尋常小学唱歌』『新訂 尋常小学唱歌』は、『ウタノホン 上』一年生用、『うたのほん 下』二年生用、『初等科音楽 一』から『初等科音楽 四』は三年生用以上に分けられました。この時初めて色刷りの挿絵入り教科書になりました。『初等科音楽 三』五年生用と『初等科音楽 四』六年生用には挿絵はありません。
 すべての教科書は国定に統制され、それ以外のものは教科書として採用することが許されないことになりました。これは、軍国教育を徹底させる目的で、平和とか自然とかを歌う歌詞は失われ、尊王とか国家礼讃とかの歌詞が重きをなしている。指導を統一するための教師用書も作られました。
 収録曲の大部分は新作でした。国語の教科書が、それまでの内容とは一変して軍事色の濃い本になったのに比べ、唱歌の中には優しさ溢れる内容のものもあります。これは、国民学校芸能科音楽教科書編纂委員の考え方が反映されたものです。
 昭和十五年(1940年)五月、小松耕輔、松島つね、林柳波、井上武士、下総皖一、橋本国彦、小林愛雄といった当時の実力者たちが任命されました。 『ウタノホン 上』一年生用の掲載曲、「キミガヨ」を含めて「ガクカウ」「兵タイゴッコ」「ヒカウキ」「ウミ」「オウマ」「ウグヒス」など全二十一曲。後に井上武士は、昭和二十年『音楽知識』十一月号の中で、削除すべき唱歌教材として『ウタノホン 上』では「兵タイゴッコ」を、『うたのほん 下』では「軍かん」「おもちゃの戦車」「兵たいさん」「日本」をあげています(註・収録曲や教師用書については、堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)の解説で知る事ができます) 。

 【穏やかな海の歌】
 人は、海を見れば海の歌を、山に行けば山の歌を歌いたくなります。ぼんやりと、船の行く沖合いを眺めた事がありますか。白いカモメが飛ぶ青い海に触発されて、口ずさむのはこの文部省唱歌『うみ』です。だれの心にも豊かな夢を与えてくれます。
 この歌は、広く大きい海そのままを歌っています。海国日本の軍国教育を徹底させる教材として企画されましたが、できあがった歌は、国民学校一年生用の教材であったため、軍艦も水兵も登場しない穏やかな歌になりました。そのため、今でも教科書に掲載され、歌い継がれています。このような明るい歌が一年生の教材だからこそ許されたことを、心に留めておかなくてはなりません。

 【戦時下の歌】
 歌詞を詳しく見ましょう。
 一番は、海の大きさに打たれる気持ちを表わしています。
 戦時下の日本では、戦勝を願う昇る太陽(日の丸)は日本の象徴でした。「日ガ シズム。」の歌詞があるにもかかわらず軍指導部の検定を通っています。
 二番は、無限に続く青い波を描いています。
 三番は、海を越えてよその国へのあこがれを歌っています。統制が厳しい中で実にのびのびした海の歌です。
 作詞者の林柳波は苦心の末に、三番の歌詞に幼子の言葉「ウミニ オフネヲ ウカバシテ、」という優しい表現を入れました。これが、当時の検定を通る重要なポイントでした。林柳波の時代へのメッセージ、特別な言葉です。したがって、現代の人が「オフネヲ ウカバシテ」では笹舟のようで、「ウミニ」というのと結びつかず、この二行は変だと思われるのはもっともでしょう。

 【「ウカバシテ」から「うかばせて」に改訂】
  「ウカバシテ、」は、「うかばせて」が正しいのではないかとの意見があり、論議の末、一九八〇年(昭和五十五)新指導要領実施を機に、「うかばせて」に改められました。改訂した歌詞で歌い継がれています。
 検定教科書(東京書籍、教育出版、教育芸術社、音楽之友社)を見ると、昭和五十五年版より歌詞が、「うかばせて」に改訂されていました。その一つ前の昭和五十二年版は、各社とも「うかばして」になっていました。いずれもタイトルは平仮名で『うみ』です(註・これらの教科書は「教科書研究センター附属教科書図書館」所蔵。レファレンス、コピー可)。

昭和52年うみ楽譜
昭和52年楽譜「うかばして」である。作者名「林柳波 作詞 井上武士 作曲」と記す。
昭和55年うみ楽譜
昭和55年楽譜「うかばせて」になっている。作者名は記されていない。

 【ずっと改められなかった理由】
 文部省が、「ウカバシテ」を「うかばせて」に直して掲載したことにより、詩が持っていた力が失われて平凡なものになりました。【戦時下の歌】で書いたように、この『ウミ』を戦時下の検定を通すには、「ウミニ オフネヲ ウカバシテ、」は必要な言葉でした。改訂した昭和五十五年版の編集者たちは、それに気が付いていたでしょうか。 ずっと改められなかったのは、戦局が悪化し、とても教科書の改定までには手がまわらないうちに、うやむやになったわけではありません。作者の林柳波も井上武士も昭和四十九年に亡くなるまで現役で頑張っていたから直さなかったのです。
  ●『NHK日本のうた ふるさとのうた100曲』(講談社)の『ウミ』の、「昭和四十四年に「ウカバシテ」を「うかばせて」と改められた」は間違い。改められたのは「昭和五十五年」が正しい。
  ●長田暁二著『心にのこる日本の歌101選』(YAMAHA)も同じ間違い。

 【不思議な楽譜】
 楽譜を詳しく見ましょう。
 (1)ト長調の曲ですが、調子記号のシャープが省かれています。子供たちにわかりやすくとの考えから、低学年では固定ド唱法(調に関係なく何調でもハ長調読みにする)を指導していたためです。「ウミハ ヒロイナ、」は、「シーラーソー ミラソーミー」と歌わせていました。実際には、軍部から敵国語の「ドレミ」ではなく、日本独自の音名「イロハ音名唱法」を教えるように圧力がかかっていました。しかし、「イロハ音名唱法」は困難で、派生音が「嬰へ」や「変ロ」では歌えない。「イロハ音名唱法」採用については、最後まで小松耕輔、松島つね、井上武士が反対しました。そこで、理想的な音名を考案するため、「聴覚訓練準備調査会」が設置されました(註・これは、渡鏡子著『近代日本女性史 第5巻 音楽』(鹿島出版会)昭和四十六年発行/神奈川県立図書館・所蔵で知る事ができます)。
 (2)強弱弱の三拍子を学習するために作られました。カスタネットをたたきながら歌ったことを思い出す人もあることでしょう。楽譜は、拍子記号の分母の数字の4が省かれ、3だけが書かれています。文部省唱歌のほとんどが四分の二拍子、四分の四拍子でしたので、分母の4を省略していました。
 (3)一部形式の曲です。八小節の前半「ウミハ ヒロイナ、大キイナ、」と、後半「ツキガ ノボルシ、日ガ シズム。」は、同じリズムで作られています。詩に自然に溶け合ったメロディーで、海の雄大さが表現され、子供の夢を育む曲になっています。
 (4)ヨナ抜き五音音階(ソラ ドレミ)で作られています。楽譜の歌詞付けは全部カタカナです。

 【共通教材への提言】
 ところで、年配の方より「若い人と一緒に歌う歌がない」という言葉をよく耳にします。文部省はそれを受けて、いつの時代にも、どこの地域でも、だれとでも歌が歌えるようにするため、民間の教科書会社が音楽の教科書を作る際、必ず掲載しなければならない曲を定めました。それが共通教材です。
 『ウミ』は、昭和三十三年(1958年)に小学校音楽共通教材が開設された当初は選ばれていませんでしたが、昭和五十二年(1977年)改訂より『ひのまる』『ひらいたひらいた』、そして平成元年(1989年)改訂からの『かたつむり』と一緒に一年生の音楽教科書には必ず掲載する曲になりました。現在の曲名は、ひらがなで『うみ』となっています。一年生では、カタカナを学習しないため、歌詞も全て平仮名です。初出の歌詞にあった簡単な漢字(「大」「日」だけが漢字)も平仮名で書かれているので、現在の平仮名書きの方がレベルが低くなっている。
 共通教材の曲は、学校で教えられますから、子供が覚えた歌は家に帰って家族と歌う事ができ、大人になって、今度は自分の子供たちと歌う事ができます。「若い人と一緒に歌う歌がない」と嘆いている人は、共通教材の中の歌(この『うみ』や『ふるさと』『おぼろ月夜』など)を歌ってみてはいかがでしょうか。
 このように、共通教材の曲は長く全国で歌い継がれていくわけですから、文部科学省は、楽しい曲を選んでほしいものです。
 中学校音楽では、平成十年告示の学習指導要領より共通教材はいったん廃止されました。平成二十年に復活しました。

▲「童謡画集(5)」講談社ゴールド版/絵は武田将美。1961年7月1日刊


 【林柳波の略歴
 『ウミ』の作詞者の林柳波と、作曲者の井上武士は、海のない群馬県の生まれです。林は赤城山北麓の人で、井上は南麓の人です。海のない群馬県の二人から、唱歌『ウミ』が生まれました。二人は、昭和四十九年の同じ年に大きな業績を残して生涯を閉じました。

  ・明治二十五年(1892年)三月十八日、群馬県利根郡沼田町材木町(現・沼田市)で生まれました。本名は照壽といいます。
  ・明治四十三年(1910年)、明治薬学校(現・明治薬科大学)を卒業。十月、薬剤師国家試験合格。校長の薦めで母校講師となり、のちに図書館長(昭和二十五年就任)・教授として学校の運営に参画し、大きな業績を残している。有機化学や薬学についての専門書の著書もあります。
  ・小学校高等科在学中に俳句を学び、生涯句作は続けていた。明治三十八年頃より民謡・童謡の作詞に情熱を傾けていた。大正十二年頃、野口雨情との出会いがあった。
 柳波は人格者であり、博識であったため、多くの友人があったそうです。井上武士はもちろん、巌谷小波、野口雨情や中山晋平らとも生涯交友がありました。戦時中の昭和二十年、中山晋平の縁で長野県小布施村へ疎開している。戦後も留まり昭和二十四年五月まで小布施村初代公民館長兼、図書館長をした。
  ・大正八年、「大正の三大美人の一人」日向きむ子と再婚。きむ子は日舞に堪能で、野口雨情の曲に踊りの振り付けをしたりして、童謡の普及に貢献しました。

  <同人誌『シャボン玉』での活躍>
 『シャボン玉』は高田三九三(さくぞう)を中心に大正十三年(1924年)八月に創刊され、第二次世界大戦後は白眉社を発行所として刊行が続けられ、昭和二十四年(1949年)八月に終刊した。二十余年という長期間に計八十五冊が発行された。
  ・戦前の主な執筆者 高田三九三、林柳波、河野たつろ、薄井益太郎、日高紅椿、今井十九二、木村馬放などであった。
  ・戦後の主な執筆者 斎藤信夫、加藤省吾、山上武夫など「レコード童謡」系の詩人の作品がめだった。
 童謡を歌う事、踊る事によって、その普及を図ろうとするねらいを持ち、毎号曲譜の掲載に力を注ぎ、大部分が曲譜で占められているという号もあった。
 また、林柳波・きむ子夫妻の協力を得て童踊の振付を掲載したり、ハーモニカの演奏や人形劇に関する情報を載せるなど、童謡の社会的な広がりをめざしたさまざまな試みが行われた(畑中圭一著『日本の童謡』(平凡社)による)。

▲昭和5年10月、本居長世作曲 男声四部合唱 ダークダックスも歌った。

  ・昭和十五年(1940年)五月、国民学校芸能科音楽教科書編纂委員に任命されました。この時『ウミ』を作詞しました。編纂委員での仕事は、文語体を子供たちにわかりやすいように口語になおし、詩を改作する事が多かったようですが、本来改変には反対の立場にいて、あまり積極的にはなれなかったようです。『ウグヒス』『オウマ』『羽衣』『ひな祭』ほか、生涯で千余篇の詩を創作しました。また、軍歌『ああわが戦友』(細川潤一 作曲)の作詞者として有名です。
  ・周囲から常に団体などの役員に推され、国民学校芸能科音樂教科書編纂委員のほか、日本民謡協会理事、日本作歌者協会理事、日本詩人連盟相談役、日本音楽著作権協会理事などの要職を歴任している。
 ・昭和四十九年(1974年)三月二十七日、八十二歳で亡くなりました。
 (註)参考にした『児童文化人名事典』(日外アソシエーツ)には、“「うみ」「おうま」「うぐいす」などでよく知られている”と書いてあります。権藤花代の作詞だった「たなばたさま」についての記述はありません。

 <逗子の海のイメージか>
 “柳波は「ウミ」を書いた経緯を書き残しておら ず、どこの海をイメージしたかは不明だ。次女の小枝子さんによると、「子ども のころ、よく父親に逗子に連れて行ってもらった。あのあたりの海を思い浮かべ て作った気がします」”(2010年2月6日朝日新聞『うたの旅人』より抜粋)

 ●金田一春彦 安西愛子編『日本の唱歌〔中〕』(講談社文庫)の誕生年「一八九三年」は間違い。「一八九二年」が正しい。
 ●鮎川哲也著『唱歌のふるさと うみ』(音楽之友社)も同じ間違い。
 ●『私の心の歌 夏 夏の思い出』(学習研究社)の誕生年「明治二十六年」は間違い。「明治二十五年」が正しい。 (註)林柳波の誕生年の確認は、『児童文化人名事典』(日外アソシエーツ)の編集局に協力していただきました(2004/08/16)。
 ●上笙一郎編『日本童謡事典』(東京堂出版)では、死亡年が「一九四九<昭24>年」となっていて間違い。一九七四年(昭和四十九年)が正しい。
 ●文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)の死亡年も(昭和24)で間違い。

 【井上武士の略歴
  ・明治二十七年(1894年)八月六日、群馬県勢多郡芳賀村五代(現・前橋市五代町)で生まれました。芳賀小学校を卒業すると、群馬県師範学校に進んだ。ここで恩師から影響を受け音楽を学び、在学中に音楽学校を志したが、都合で上川渕小学校の訓導になった。その後、東京音楽学校甲種師範科(現・東京藝術大学音楽学部)へ入学。
 群馬県前橋市芳賀小学校校庭と前橋市・群馬大学教育学部校庭に「うみ」の曲碑があります。
  ・大正七年、東京音楽学校甲種師範科卒業。台湾総督府国語学校附属女学校に赴任した。一年半の後、長野県師範学校に転じ、約五年間、音楽教師として活動した。
  ・大正十三年(1924年)、横浜市小学校唱歌科指導員(実質的には横浜市視学)として、市内全般の唱歌科の指導に当たった。精力的に活動し、市内の全小学校にピアノを備えることに努力。当時としては、画期的なことでした。七年勤務の間、音楽愛好家を集めて「横浜弦楽合奏団」を作り自宅で練習、数々の著書や論文発表も行いました。
  ・昭和六年(1931年)九月、東京高等師範学校(東京教育大学、現・筑波大学)附属小・中学校訓導・教諭になり、退職するまで三十年間勤めました。この時代に、自ら音楽教育実践者として全力を尽くし、音楽教育界の最高の指導者として、大きな業績を残しました。多数のすぐれた著書を世に出すとともに、数々の論文・解説なども発表しました。
  ・昭和十五年(1940年)五月八日、国民学校芸能科音楽教科書編纂委員に任命された。現場の教師が、教育指針を作成するメンバーになったのは、日本の音楽教育史上、初めてのことでした。この時、『ウミ』を作曲しました。
  ・昭和三十六年(1961年)八月、東京教育大学附属中学校の教官を退職した。現職中の昭和二十八年(1953年)から、東京芸術大学講師(音楽学部)も兼任していました。退職後は、昭和三十七年(1962年)からは洗足学園音楽短期大学教授に、1963年から東洋音楽大学(現・東京音楽大学)講師となり、さらに教授、音楽学部長にもなった。昭和四十四年(1969年)には東京声専音楽学校専任講師・副校長にもなっている。 その他、文部省音楽教科書編纂委員、日本教育音楽協会名誉会長、全日本児童音楽家連盟会長、東京芸術大学音楽学部同声会長など多くの役職を持っていた。
  ・八十年の長い生涯を、日本の音楽教育の発展のために捧げ、何百とも知れない論文、研究、提案などを雑誌その他に発表した。童謡、唱歌『ウミ』『ウグヒス』『チューリップ』『菊の花』などの作曲をし、童謡・唱歌の研究の第一人者でした。歌曲、校歌などの貴重な作品も多数残している。
  ・昭和三十三年(1958年)、堀内敬三と一緒に『日本唱歌集』(岩波書店)を編纂しました。この本は、研究者から絶賛されロングベストセラーとなっています。
  ・戦後の音楽教育を推進する最も重要な役割を担い、見事にその力を発揮し、輝かしい成果を残しました。音楽教育と作曲の面で活躍し、昭和四十九年(1974年)十一月八日、横浜の長男の家で八十歳の生涯を閉じました。  
 以上は、群馬県教育文化事業団『ぐんまの童謡』(ぐんまの童謡編集委員会)平成四年発行より抜粋。

 
著者より引用及び著作権についてお願い≪著者・池田小百合≫
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オウマ

作詞 林 柳波
作曲 松島つね
文部省唱歌

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/01)



 【発表】
 『ウタノホン 上』(文部省)昭和十六年(1941年)二月発行の国民学校初等科第一学年用に掲載されました。※国民学校芸能科音楽参照。
 親子の馬を男女の子供が見ている挿絵が入っています。この時初めて色刷りの挿絵入り教科書になりました。
 曲名はカタカナで『オウマ』となっていて、歌詞はカタカナと簡単な漢字(「見」だけが漢字)で書かれています。これは、一年生でカタカナを、二年生で平仮名を学習するという当時の教育課程によるものです。※『うみ』を参照してください。

 【作られた目的】
 この仲むつまじい親子の馬の歌は、戦時下、軍部指導者が子供たちに軍馬を敬愛し、関心を持たせる事を目的に作るように命じてできた歌です。一年生用だったので、『ウミ』同様穏やかな曲になっています。  
 ここでも作詞者、林柳波の苦心の跡が見られます。「オウマノ オヤコ」は、母馬と子馬にし、「ナカヨシ コヨシ」という重みのある特別な言葉を使い、愛情深い生活を感じさせる曲に仕上げました。さらに「オウマノ カアサン」は「ヤサシイ」と、優しさを強調しています。馬の、のんびりした歩み「ポックリ ポックリ」の擬音語は、あどけなく可愛い表現です。これらが、当時の軍部の検定を通る重要なポイントでした。 「ナカヨシ コヨシ」の「コヨシ」は、「夕焼け小焼け」の「小焼け」同様、「ナカヨシ」を強調した語調を整えるための言葉です。

 【原型になった詩】
 林柳波の二女の小枝子は、千葉県成田市の三里塚御料牧場(宮内庁下総御料牧場・現成田国際空港)を訪れた後、間もなく書いた『お馬の親子』が原型ではないかと言います。昭和六年(1931年)、詩集『水瓶』に収録。詩には「三匹お馬は親子です。/牧場に棲んでる親子です。/いつでもならんで歩きます。」とあります。この情景は、『オウマ』の歌詞と一致します(読売新聞文化部『愛唱歌ものがたり』(岩波書店)より抜粋)。

 【リズムの学習】楽譜を詳しく見ましょう。
 (1)ハ長調なので、「ミソソソ ラソソソ」と階名唱(ドレミで歌う)をしたり、木琴やハーモニカ、鍵盤楽器の練習用にも最適です。子供をよく理解して作られた曲です。
 (2)拍子記号の分母の数字の4が省かれ、4だけが書かれています。文部省唱歌のほとんどが四分の二拍子、四分の四拍子でしたので、分母の4を省略していました。
 (3)四分音符を使った単純なリズム「タンタンタンタン・強 弱 中強 弱」の連続です。カスタネットや太鼓でリズムを打ちながら歌った経験がある方も多いと思います。シンプルなことは、愛唱され歌い継がれる条件の一つです。 七小節目の「ポックリ ポックリ」の部分は、一拍を半分に割る「タンタタ タンタタ」のリズムを学習するために作られました(註・これは、松島つねが木村信之のインタビューに答えた証言として木村信之編著『音楽教育の証言者たち 上 戦前編』(音楽之友社)昭和六十一年発行で知る事ができます)。
 (4)一部形式の曲です。八小節の初めは四小節が上昇線をたどり、終わりの四小節は下降線の旋律で、これに答えています。
 (5)ヨナ抜き五音音階(ドレミ ソラ)でできています。楽譜の歌詞付けは全部カタカナです。踊りの振り付けも考案されました。
オウマ 楽譜
『新訂 標準音楽 1』(教育出版、 昭和44年発行)より
オウマ 遊戯
『新訂 標準音楽 1』教師用指導書より

 【オウマの歌唱】童謡では「おうま」は「おんま」と歌うのが一般的ですが、昭和三十年代の小学校では、この文部省唱歌も「おんま」に近く、両くちびるをとじて鼻に響かせる発音で歌う指導をしていました。現在学校で歌う時は、「おうま」と歌います。

 【馬が身近にいなくなった】戦後もよく歌われました。昭和二十二年度版『一ねんせいのおんがく』(文部省)には、平仮名で『おうま』のタイトルで掲載されています。しかし、平成七年を最後に教科書から消えました。時代の流れと共に「馬」が身近にいなくなり、共感が得にくくなった事などが理由のようです。時代から取り残され、教科書に掲載されなくなると、しだいに歌われなくなってしまいました。

▲『改訂 あたらしいおんがく1』(東京書籍)昭和60年2月10日発行に掲載の「おうま」。
 挿絵に躍動感があります。 この教科書を使った人は、現在三十歳ぐらい。
「やさしい かあさん」になり、子供と一緒に歌っているでしょうか。

▲「童謡画集(5)」講談社ゴールド版/絵は武田将美。1961年7月1日刊

 【松島つね略歴
 名前は「彜」という漢字でしたが、現在は使われていません。
  ・明治二十三年(1890年)、二月十四日山形県生まれ。父は裁判官として各地を転々としたので、それにともない小学校は五回も変わりました。はじめは山形県師範学校附属小学校でした。父は、病弱だったつねを連れてよく馬で山の中に行きました。山奥で聞いた山寺の鐘の音が、つねの心に大きく影響を与えました。この不思議な音の世界を解明したいと思うようになって行きました。
 (註・山形県内には松島つねの歌碑はありません/山形市役所による)
 ・福島高等女学校では学科もよくできましたが、音楽の成績がきわだって良かったので、先生から音楽学校へ進むようにすすめられました。
  ・明治四十年(1907年)、東京音楽学校(現・東京藝術大学)に入学。
  ・明治四十四年(1911年)、三浦環、戸倉やま、ハイドリッヒ、ロイテルに師事し、東京音楽学校本科器楽部を卒業。
  ・大正二年(1913年)、 ピアノをショルツ、作曲をウエルクマイスターに学び、東京音楽学校研究科(ピアノ科)修了。ウエルクマイスターの門下生には、小松耕輔、梁田貞、中山晋平、弘田龍太郎、本居長世、山田耕筰、信時潔がいました。こうして日本最初の女性の作曲家になりました。成績優秀者だったのでイタリア留学を希望していましたが、学習院院長の乃木大将から指名され、女子学習院に奉職。以後、三十五年にわたり終戦の年まで勤務。
  ・昭和十五年(1940年)五月、小松耕輔、林柳波、井上武士、下総皖一、橋本国彦、小林愛雄らと共に女性初の国民学校芸能科音楽教科書編纂委員に任命されました。ここで『オウマ』を作曲しました。
  ・戦後は、仏教音楽の研究(日本全国の寺や神社を訪ね、古いお経や祝詞のリズムを楽譜にとった)や、古い和歌への作曲も手がけています。著書は『楽典からやさしい作曲まで』(音楽之友社)昭和三十一年出版など。交声曲「極楽荘厳」(薮田義雄・作詞)は、昭和三十三年、二期会が初演し、楽譜は仏教音楽協会から出ている。
  ・昭和三十九年(1964年)から鎌倉・円覚寺の一角に住む。自宅・鎌倉市山ノ内四二八番地。
  ・最後は、骨粗しょう症で寝たきりの生活になりましたが、病室で経に曲を付け続けました。それは昭和六十年(1985年)十月九日、 脳軟化症のため九十五歳で亡くなるまで続きました。
 作曲した作品は、幼稚園向きのもの百曲、小学校向きのもの百曲、独唱曲百曲、合唱曲、ピアノ曲など、全部合わせると約千曲にのぼるといわれています。その中には代々の天皇の歌に作曲したもの、漢詩に作曲したものもあります。これだけ曲を作ったにもかかわらず、発表の場が少なく、時代的に評価は大変低いものでした。勝気な性格も災いしてしまったようです。

 ★これらの楽譜は、今どこにあるのでしょうか。松島つねは、木村信之のインタビューに答えて、次のように言っています。
 「ドレミファソラシドとかラシドレミファソラの西洋調ばかりだと国籍不明型の曲ができてしまうので、自分が作る歌は、たいがい日本の調子、日本音階を土台にしている」(木村信之編著『音楽教育の証言者たち 上 戦前編』による)。

  以上は、木村信之編著『音楽教育の証言者たち 上 戦前編』(音楽之友社)昭和六十一年発行/神奈川県立図書館・所蔵から抜粋。松島つねを知る貴重な資料です。
 編著者の木村信之は、松島つねから国民学校の音楽が編纂された時のことを尋ねようとしていましたが、その大部分が山田耕筰批判(輸入楽譜を真似て作曲していた。など)になっています。木村信之は次のような質問をしたかったのです。
 (1)軍国主義と極端な国家主義に彩られた歌詞は、どのようにしてできたのか。
 (2)戦力教育の一環と考えられ、軍部が文部省に圧力をかけて入れさせた和音感教育は、どのような経緯をたどったのか。
 (3)「イロハ音名唱法」についてどのように論議されたか(註・松島つねは、「イロハ音名唱法」の採用については、小松耕輔、井上武士と共に最後まで反対の立場でした。
 ※『うみ』を参照してください)。 この「松島つね」の項目の最後に、国民学校教科書編纂について井上武士・下総皖一が書き残した事柄が簡単にまとめて掲載してあります。木村信之の労作です。唱歌の研究者は必見です。  

 このページの記載は、『ウミ』を研究してから到達した結論です。教科書には編集者の考えが反映され、国を動かす力があることがわかります。

著者より引用及び著作権についてお願い これを利用される場合は、「池田小百合なっとく童謡・唱歌」と出典を明記してください。それはルールです。

   ≪著者・池田小百合≫
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ウグヒス

作詞 林 柳波
作曲 井上武士

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2017/03/19)



 【初出】
 『ウタノホン 上』国民学校初等科第一学年用 昭和十六年発行に掲載されました。国民学校令が実施され、音楽は「国民学校芸能科音楽」という名前になった。
  原曲名は旧仮名で「ウグヒス」。当時は一年生でカタカナを学習し、二年生になって平仮名を学んだ。ヘ長調だが調名を示す記号(フラット)は書かれていない。『ウタノホン 上』『うたのほん 下』『初等科音楽 一』では、調子記号が省かれている。四分の二拍子を表す「2」だけが書かれている。梅にウグイスの挿絵はカラーで、日本的な季節感あふれた作品。
  今日、梅の小枝で春を告げているウグイスは、雪の山を昨日出発してこの里へ来た。それまでは、山にいたのです。そこから里へ下って来たと説明している。のどかな春を歌っている。
  ウグイスは、早春に鳴く事から「春告鳥(はるつげどり)」ともいわれる緑がかった褐色の鳥。四月には山に帰ります。
  四小節ずつ三つのフレーズでまとまった旋律です。初めの八小節は話しかけるように歌います。最後の四小節は「ホウ ホウ ホケキョ」と、だんだん強く、そして、まただんだん弱くなって歌い終わります。
 
 

                            ▲『ウタノホン 上』より「ウグヒス」

  【梅にウグイス】
 花や木は、唱歌のほとんどに歌われています。立春(二月四日ごろ)を過ぎると、梅の花が咲きます。今年(2017年)は、一月が暖かかったので、梅と河津桜が一緒に咲きました。
 梅の花は、一カ月近く咲き、ほのかに優しい香りがします。梅の木は奈良時代以前に中国から伝わって各地で栽培、植樹されました。当時の花の代名詞は、桜ではなく梅だったようです。『万葉集』の中で桜を歌った和歌は四十三首なのに、梅は百首もあるそうです。
  先日、夕方のNHKのテレビ放送で、水戸の偕楽園の「梅」にやって来た「ウグイス」が放送されました。ウグイスの鳴き声を聴くと、心が和み嬉しいことでした。

  【聞きなし】
  一番、二番の歌末は、擬声語「ホウ ホウ ホケキョ、ホウ ホケキョ」となっていて、『法華経』に聞きなした結果の鳴き声です。
 ホーホケキョと尾を揺るがして鳴き、ケキョケキョと続けて鳴く事を「鶯の谷渡り」といいます。

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   ≪著者・池田小百合≫
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菊の花

作詞 小林愛雄
作曲 井上武士

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2015/12/10)



 【初出】
  国民学校初等科第二学年用『うたのほん 下』昭和十六年(1941年)発行に掲載されました。
 日中戦争下のこの年の四月、小学校が国民学校と改称、戦時教育が強化され、教科書も全面改訂になった。昭和十五年五月、作詞の小林愛雄と作曲の井上武士は、国民学校芸能科音楽教科書編纂委員に任命されている。

  【歌詞について】
 一、二、三節の曲でした。第二節は次のような歌詞でした。

   けだかい 花よ、菊の 花、
    あふぐ ごもんの 菊の 花。

 第二節にあった歌詞は歌のテーマである皇室への崇敬の心を養う内容でした。「あふぐ ごもん」は皇室の紋章のこと。

  【曲について】
  ・四小節ずつの二つの節からできている一部形式の歌です。
  A(2小節、2小節、4小節) 通作形式
  ・ファを省いた六音音階でできています。ドレミ ソラシ(ド)
  ・日本の三拍子の唱歌に多いリズム(一拍目が二つに分かれる形 ♪♪♩♩ タタタンタン)ですが、五小節目だけ普通のリズム(♩♩♩ タンタンタン)になって、気分をかえています。
  ・「この曲は、はじめ四拍子で作られた。ところが編纂する際に「どうも四拍子の歌が続きすぎる。三拍子に直していただけませんか」といった注文がでて、現行のような曲ができたのだという」(井上武士の息子・井上公夫へのインタビューによる)鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社)。

  【歌い方について】
  ・高い音(C音)から歌い出します。「きれいな」は、澄んだ美しい発声で歌いましょう。
  ・やさしい声で、菊の花の美しさを感じるような気持ちで歌いましょう。二段目の初めから、だんだん感じを込めて最後の「きくのはな」のところを一番強く歌います。
  ・二分音符の音は、二拍の長さをよく延ばして歌いましょう。

  【教科書での扱い】
                      ▼ 『しょうがくせいのおんがく 2』(音楽之友社)より

 手持ちの『しょうがくせいのおんがく 2』(音楽之友社)昭和三十三年十二月十五日発行を見ると次のようです。

  ・曲名は「きくの花」。
  ・踊りの振付、簡易伴奏譜が付いている。
  ・リズムの稽古(♪=半打ちと教えていたようです)、「どどしら そらそ どれみどそ」と視唱するように楽譜の音符の中に書き込みがある。
  ・一番、二番の構成になっている。初出の二節(皇室への崇敬の心を養う内容)が省かれ、三節が二番になっている。

  初出の二節の部分は戦後の文部省の教育方針に従い、現在は歌われていません。テーマである第二節を省くと菊のようすを詠んだ単純な歌になりました。色どりの美しい菊の花と、香り高い菊の花を歌っています。

  〈文部省が指示した唱歌教材選択の一般方針 三項目〉
  (1)軍国主義的なもの。
  (2)超国家主義的なもの。
  (3)神道に関係のあるもの。
 以上三点を排除すること。


▲『しょうがくせいのおんがく2』
(音楽之友社、昭和五十年発行)

曲名は「きくの花」見開き
踊りの振付が付いている。


  【小林愛雄(あいゆう)の略歴】
  ・明治十四年(1881年)十二月一日、東京市本郷区湯島六丁目(現・文京区本郷三丁目)に生まれる。

  〈名前の読み方について〉
  “鮎川哲也「お名前はどうお読みするのですか」
  小林国雄(愛雄の長男であり末っ子)「あいゆうです。ローマ字のサインを彫ったゴム印がありましたが、イニシャルはA・Kとなっています。チカオは家庭内の愛称でして、祖母はチカさんチカさんと呼んでいたそうです。ヨシオという説は論外です」”鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社)による。
 〇堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)には、「小林愛雄 あいゆう」と仮名がふってある。
 ◯『文京ゆかりの作詞・作曲家』(文京区教育委員会)のタイトルには「小林愛雄 こばやし ちかお」と書いてある。
 ◯金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌[中]大正・昭和篇』(講談社)には、“本名は「チカオ」であるが、後には自分でも「アイユウ」と称していた”と書いてある。
 ●日本近代文学館・編『日本近代文学大事典』(講談社)には「小林愛雄 こばやしよしお」と書いてある。

  ・明治三十九年(1906年)、山田源一郎、小松耕輔とオペラ研究会「楽苑会」を組織し、特に言文一致体の翻訳歌詞によるオペラ上演に貢献した。「ファウスト」「天国と地獄」その他の歌詞の翻訳があり、浅草オペラのヒット曲の訳詞(歌劇「ボッカチオ」の中の『恋はやさし』「恋はやさし 野辺の花よ」)は知られる。本郷区向ヶ丘弥生町三番地はノ七号(現・文京区弥生二‐一六辺)に居住。
 ・明治四十年、東京帝国大学英文科卒業。夏目漱石や佐々木信綱に師事。代表作に詩集『管絃』(明治四十年四月発行 彩雲閣)がある。
 大学在学中に「音楽新報」の同人として詩歌、論文、随筆などを発表した。
  ・「朝日文芸欄」に反自然主義の論を書き、明治四十二年、文芸革新会に参加。上田敏、蒲原有明らの系列に属する象徴詩の詩作や、プラウニング、クリスティナ=ロセッティなどの英詩の翻訳を「帝国文学」「明星」などに載せた。
  ・作詞としては他に「神田祭」(弘田龍太郎作曲)、「帝都復興の歌」(小松耕輔作曲)などがある。作曲家の弘田龍太郎とは親交があり、コンビを組んだ作品も多い。

  〈弘田龍太郎との関係〉
  “小林国雄(愛雄の長男であり末っ子) 「父の詞にいちばん多く作曲して下ったのは、弘田龍太郎先生です。本郷時代はお隣りが弘田家でしたから。弘田夫人と私の母が年齢も接近していましたので、何かと気が合うのでしょうか、親しくして頂きました」
 歌詞ができると、それを封筒に入れて弘田家に届けるのが国雄氏の役目だった。やがて「曲がつきました」といって持って来られるのが弘田夫人かお嬢さんであったという”。鮎川哲也著『唱歌のふるさと 旅愁』(音楽之友社)による。

  ・大正五年、大田黒元雄らと最初の音楽評論雑誌「音楽と文学」を創刊。
  ・大正十年(1921年)、「日本音楽連盟」創立。
  ・大正十四年(1925年)、歌詞の著作権を確立しようと「日本作歌者協会」を創立。『歌劇の研究』刊行。
  『歌劇名曲集』『世界子守唄集』『世界童謡曲集』などの編著もある。
  ・私立京華中学校(現・文京区白山五丁目)に勤務。常磐松高等女学校校長。早稲田実業学校校長などを歴任。
 ・昭和二十年(1945年)十月一日、逝去。

 【井上武士(いのうえたけし)の略歴】  「ウミ」「チューリップ」参照。

  【もう一つの「菊の花」について】
  ・『尋常小学唱歌』第一学年用(明治四十四年五月発行)には「菊の花」作詞 青木存義が掲載されています。作曲者不詳。ト長調 四分の四拍子。一年生の教材としては難しい。小林愛雄作詞の「菊の花」とは違うものです。青木存義は、「團栗(どんぐり)ころころ」を作詞しています。
  ・『新訂 尋常小学唱歌』第一学年用(昭和七年三月三十日発行)にも「菊の花」作詞 青木存義が掲載されています。
  この歌は戦前のものなので歌詞の一番に「兵隊遊の勲章に。」があり、戦後は歌われません。

▲『新訂 尋常小学唱歌』第一学年用の「菊の花」 歌詞  楽譜

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