神 様 池田小百合
駅前の片すみ。木枯しの中で、忘れ去られたようなお地蔵さんがある。悠実と麿実は、通るたびに手を合わせる。
「おかあさん、五円貸してくれる? あとで返すから」
妹の麿実が私の手から五円を受け取る。
さっそく、さい銭箱に向かって放り投げ、小さな手を合わせ、頭を下げ何事か祈った。
姉の悠実は百円を入れた。
「悠実は、なぜ百円も入れたの?」
「だって、五円がなかったんだもの。
今度の時に、おさい銭をあげないで、お祈りすれば同じだよ」
「神様もお金が好きなのかなあ?
ボクたちがお金をやらないと、望みをかなえてくれないんだね」
「麿実は何を頼んだの?」
「走るのが早くなるようにサ。ボクはいつもビリだから」
「早くなるといいね。でも一番がいれば、だれかは必ずビリになるものでしょう。
いいじゃないの、ビリだって。悠実は何を頼んだのかな?」
「秘密だよ。百円もおさい銭あげたから、いくつも頼んだよ。
効き目がきっとすごいよ」
「神様ってサ、お金持ちかな?」
「百円ぐらいやらなければ、お金はたまらないよ。
でも、百円もやって、もったいなかったかな?」
「おかあさんは、なぜ神様、拝まないの?」
「神様を信じていないもの。神様が本当にいて助けてくれるなら、
最初の赤ちゃん、死んでいないでしょう?」
「五円じゃ、『命』とかの難しいのはダメなんじゃないの。
でも、簡単な『あした、晴れになるように』とかなら、かなえてくれる時もあるよ。
ボクは神様はいるって信じているよ」
「ボクもさ」
お地蔵さんの前を通るたびに、娘たちは手を合わせ、しきりにお願いする。
悠実はそのたびに繰り返し、
「前におさい銭を百円やったことがあったよね」と言うのである。
(1987年1月記)
料 理 /駅前食堂/街頭募金(略)
歯医者 池田小百合
「歯医者に行くから、お金と保険証を出してよ」と、悠実が言う。
時間があるので、私も一緒に行く事にした。
身仕度をする。毛糸の帽子をかぶり、メガネをかけ、マスクとえり巻きをして、ジャンパーを着る。セーターとズボンとブーツ。
「さあ、行きましょう」
「自分だけで行くよ」
「たまにだから付き合ってやるよ」
「おかあさんが、そのかっこうじゃ、いやだよ。自分で行って来るよ。
合い言葉は『車を見たら死ぬと思え』だろ。わかっているよ」
自転車をこいで行ったと思ったら、三十分もしないうちに帰って来た。
「先生が『アーンと口を開けて』と言ったから、口を開いた。
途端に、抜いて、薬をつけて、もう一瞬の内に終わっちゃったよ。すばやかった」
悠実はしきりに歯医者を誉めて、おおいに感心しきっている。もらって来た歯は勉強机に飾った。
「歯医者のコップはおもしろいよ。水がいっぱいになると自然にカタンと止まるの。
面白いから何回もやっちゃった」
痛い目に合いに行ったのに、ずいぶん余裕のあることだと思った。
麿実も一人で歯医者に行く。 ある日、治療費が二千八百六十円だったのに、お金が二千円しかない。さあ困った。
「まだ治療が終わっていないから『お金は来週来る時でいいですか』って言ったら、
『いいです』って言ってくれたよ。お母さん、ダメじゃないか。
今度から三千円ぐらい入れてね。ハジをかいたじゃないか」
「歯医者に一人で行くなんて、怖くないの?」
「ぜんぜん。痛くないし、へっちゃらだよ」
ふたりとも、歯医者は一人で行くものだと思い込んでいる。
私は小さい頃、駅前の歯医者に、母に連れられて行った。
「痛くするな!」と、泣きわめいた。
薬臭い診療室。石炭酸の臭い。白衣の先生や看護婦さん。ガーガーいう機械。どれも怖かった。いやだった。逃げだしたい。まだ何もされていないうちから、泣きわめき、全く治療をせずに帰って来た。
帰る道で、母に叱られて、ますます歯医者が嫌いになった。
中学の時、私は一番小さかった。ある日、一番背の高い子が、
「あなたは小さい時、歯が悪かったでしょ。歯が悪いとよくかめないから小さいんだ」
と言って、自分の歯を見せてくれた。白いきれいな歯が並んでいた。
悠実と麿実には食後に歯をみがかせている。小学校では、給食後に歯みがきの時間が設定されていない。
歯ブラシを持って行かせると、
「学校に、そんな物、持って来たらいけないんだよ」
とみんなが言って来るそうだ。
二十年後、悠実と、みんなの歯は、どうなっているだろうか。
(1987年2月記)
給 食 池田小百合
悠実が幼稚園の時、給食を全部食べると、『おたよりノート』の今日の日付に花マルがもらえる事になっていた。悠実は、いつも花マルで、帰宅すると、おばあちゃんに見せていた。
私の母、悠実にとってはおばあちゃんは、
「給食は、添加物の固まりだから、全部食べたらいけないよ。真っ赤なウインナーも、平気で食べさせる。親も先生も『消費者レポート』を読んで自然食品の勉強をしてもらいたい」
と言って顔をしかめた。
ところが、悠実は給食が大好きだった。幼稚園から帰ると、給食の話ばかりしていた。
麿実がそれを聞いて、 「ボクも、給食を食べてみたい」
と言うので、幼稚園に一年間だけ行かせた。
この一言がなければ、麿実は幼稚園に行かせないつもりでいた。保育園も幼稚園も、悠実の時で、こりごりだった。
麿実は、給食を食べに、幼稚園に行く事になった。
麿実も給食が大好きで、 「一番に食べ終えた」「おかわりをした」「同じのを作ってくれ」と、せがんだ。
私に、そんなすごい料理が、できるわけがなく困り果てた。
小学校から、給食についてのアンケートがきた。もちろん「とてもおいしい」とか、「喜んで食べる」とかにマル。最後に「給食費は、高いか」の所は、「安すぎる」と、書いた。
今、外食をすれば、四人で8千円ぐらいになる。なのに給食費は、一人一か月3600円だ。
娘たちが、のぞきこんで、変な顔をした。
給食費は、もっと高くして、良い品をメニューに入れてもらいたい。
悠実が保育園の時、五〜六人の子が、まだ食べ終えてなくて、ベランダで食べていた。大きな唐揚げが残っている子。ポテトサラダが残っている子。ミルクが残っている子。
悠実も年少児にまじって、残されていた。中耳炎の薬を飲んでいたころで、食欲が出ないのだ。
先生は、イスを上げて、その下を、ほうきでパッパッと履いていた。時々、「早く食べなさい」「よそ見をしないで食べなさい」「おしゃべりをしないで、どんどん食べなさい」と、声をかけていた。
保育園の若い先生は、食事の早い子の隣に、遅い子をすわらせ、いくつかのグループを作って競わせていた。それは、何の意味もなく、早い子が、遅い子をののしり、いじめる結果になった。そうなるであろう事は、初めからわかっていた事だろうに。子どもを保育するには、あまりにも若くて、経験不足だった。
悠実は、いつものろくて、やっと食べていた。
私は情けなかった。悠実を抱きしめて泣いた。保育園に入園させた事を、とても後悔した。
後日、悠実は小学校二年生の夏に中耳炎が完治した。何の事はない、しだいに食欲が出て、一番最初に食べ終え、おかわりをして、みんなや先生を驚かせた。
「給食がきらいで、登校拒否をおこした」という話を聞く。
給食がきらいな理由はいろいろである。
母親が、とても料理がうまくて、おいしい物を次々に作ることができたら、安い給食は、子どもにとって、たいへんまずい食事になる。
私のように、料理がまるでだめな場合は、給食は、めずらしくて、おいしい物ばかりで、毎日が『お楽しみ給食』になる。
母親の作る物よりまずい給食を、だれが食べるだろうか。全部食べろと言う方が、おかしい。
実は私は、小学校の六年間給食を全部食べた事がなかった。小さくて、食欲も細かったのだ。
コッペパンは、私には大きすぎて、半分食べるのがやっとだった。食べても食べても、まだまだ長かった。脱脂粉乳のミルクは、焦げ臭くて人間の飲み物とは思えなかった。
私のクラスにも、肉やトマトのきらいな子はいた。しかし、別に、どうと言う事もなく、遺された記憶もない。その時は、給食を食べないでも平気だったが、後日、一番小さくて、ひ弱で、がんばりがきかないことがわかった。給食は全部食べる方がよかったのだ。
現在の給食は、おいしい牛乳なのだそうだ。いつから、脱脂粉乳のミルクは、なくなったのだろう。鼻をつまんで飲んだその味を、今でも覚えている人は多いだろう。
あの頃は、貧しくて、ひどい給食だった。大変な時代だったのだ。
(1987年3月記)
通 院/立体映画/服を着せる/名前書き/夢/(略)
家族の食事 池田小百合
毎回、歌を二曲歌ってから、食事をする。
おかずのことや面白かった事などをワイワイ話しながら食べる。
「先生の好きな物は虫で、嫌いな物はオナラの匂いだって」と、麿実が言う。
「子ども会の廃品回収があった。またギックリ腰にならなくてよかった」と、私。
「クラスに肥満の子がいて、みんながデブ、バカと言う。ボクはそんなことは言わない。でも、デブと言っている子が、クラス委員に選ばれてしまった。ボクのクラスは、これでよいのだろうか?」と悠実が言う。
「高校の生徒が『奥さんは、美人か?可愛い人か?』と聞くから、『美人だと言われてみたいなあ。可愛い人だと言ってほしいなあ』と、いつも言っていると、答えておいたよ」と夫が言う。
「なぜ食事の前に歌うの?」と悠実が聞いた。
「お父さんがインドネシアに行った時、ジョクジャカルタの小学校の生徒がいくつかの遊び歌をやってくれてね。お返しに『むすんで ひらいて』をやって喜ばれたそうよ。その事をピアノ教室の生徒に話したら、『むすんで ひらいて』を知らない子がたくさんいるのね。テンポの速い現代曲もいいけれど、昔からある歌を、食事の前に、みんなで歌いたいと思うの」と説明した。
大井小学校が主催した、校医や栄養士を迎えての、昭和六十二年度第一回学校保健委員会報告書『子どもの健康生活を考える』の中に、「(給食について)給食時間が少ないので、残すという子が多いが、食べる時間は、28分ぐらいある。おしゃべりの多い子が残す傾向にある。学校でも、給食指導の時間を設けて指導しているのだが、家で食事をする回数の方が多いので、家では、おしゃべりをせずに、食べるように声かけをしてほしい」と、書いてある。
これは奇妙な指導ではないか。
家での食事はみんなが集まる時だ。気のおけない家族のお祭りである。おしゃべりをせず、もくもくと食べるように指導するのは、変ではないか。
ワイワイ、ガヤガヤ、楽しく食事をしよう。何も悪い事はない。学校の給食の時間も、学校生活の一日の中で一番のお祭りのはず。みんなで、楽しく、食べよう。
我が家の食事は、たいしたおかずもないのに、一時間も続く。楽しく、うれしい時間だ。
この時間を、私はいちばん大切に考えている。
(1987年5月記)
忘れ物/ボクってだれ?/算数/諭吉の家訓(略)
テレビを消す 池田小百合
「今日は水曜日だから、七時から『ドラゴンボール』があるわよ」
「アッ。そうだった。忘れてた」
「あと十分で始まるから、そっちをかたずけていらっしゃい」
「ハーイ。先につけて置いて」
しばらくして、 「なぜ、親が子どもにテレビを見ろなんて、言いに行かなければいけないんだ。ブツブツ」と、夫がしぶしぶ二人を呼びに行った。「先に見ててくれって。今日の題名も見ておいて教えてと言っていた」
「何をして遊んでいるの?」
二人は『かさこじぞう』ごっこをして遊んでいた。かさこじぞうになりきった悠実を、おじいさん役の麿実が、引っぱったり、おしたり。テレビより、きっとおもしろいのだろう。
今日の『ドラゴンボール』は、ついに、夫と私だけで見た。
悟空が、レッドリボン軍の大佐と戦う所で、目まぐるしく場面が変わった。そのスピードについて行けなくて、私は、すぐに頭が痛くなった。
子どもたちは、今は、テレビを一週間に二時間ぐらいしか見ない。それで学校に行っても、別に困らない。友だちと、テレビの話題が一緒に話せないと仲間外れになるだろうと、テレビを見せているのなら、やめた方がいい。テレビの話ができなくて、仲間に入れないような子がいるのなら、こちらから、その子とは、縁を切ればいい。
娘たちは、五歳ぐらいまでは、みっちりテレビを見た。
『ひらけポンキッキ』『マンガの国』『ピンポンパン』『おかあさんといっしょ』『できるかな』。午前中ほとんど全部と、午後四時ごろから寝るころまで。
夫が帰って来て、 「またテレビ見ているのか。何時間見せているんだ」と、嘆いた。
テレビは、目に悪い。疲れる。じっとしているので、食欲がわかない。いい事はなかった。
しばらくすると、子ども番組はほとんど、合体変身物となった。
『ゴーグル5』『ガンダム』『超新星フラッシュマン』『電撃戦隊チェンジマン』『超電子バイオマン』。
ところが、この変身物は、回を重ねるごとに、残酷になっていった。悪人をピストルで撃つと、首が落ちて中から機械の部品が飛び出したり、目を撃つと、電気の火花が飛び散り、すさまじい音と共に爆発をして消えたり、
美しい女の人が、本当は悪者で、剣で刺されたら、血だらけになり、白い煙と共に、ボツボツのたくさん付いた、恐ろしい怪獣に変身し、キエー、キエーと言いながら、襲いかかって来る。
悠実は、食い入るようにテレビを見て、身を硬くした。麿実は、私の背中につかまって、泣くようになった。
しだいに、このような番組をつけると、五分も正視していられなくなって、自分たちで、恐いからやめようと言って、消すようになった。
近所の奥さんに話すと「ウチは、平気で見てるわよ」と言った。平気で見ている子どもと、平気で見せている親がいる事が不思議だった。
テレビニュースも、子どもの自殺が相次いだ。葬式の場面や、泣き伏す遺族が、大きく画面に映った。
母親が子どもを殺したり、身元のわからない女の人が林の中で発見されたり、子どもが誘拐されて、殺されたり。ニュース番組も、だんだん見なくなった。
お笑い番組も幅を効かせるようになり、テレビのほとんどがお笑い番組になった。芸のないタレントがさわいでいるだけだ。
歌謡番組も、聞くにたえない歌手が出る。見ているほうが、ばかにされているようで、すぐに消した。
そして、ますますテレビを見なくなった。見なくても、何も日常生活には困らなかった。
娘たちが、今までで、一番熱心に見た番組は『Drスランプ』だった。
ロボットのアラレちゃんを見ていると、元気が出た。
最終回は、早めに夕食をすませ、椅子をテレビの前に並べて真剣に見た。アラレちゃんが「それではみなさん、バイチャー!」と言った。今までに出たキャラクターの顔が、ぎっしりと画面に出た瞬間、悠実と麿実の二人は、ぼろぼろ泣いて、手をふった。
アラレちゃんは、いい友だちだったのだなあと思った。
私の小学校の頃は、ちょうどテレビが一家に一台普及し始めた時だった。
相撲番組は、まだ明るい内から放送されていた。どこの家でも家族全員で、せんべいや、みかんを食べながら、こたつに入って、柏戸と大鵬を応援した。
橋幸夫は『いつでも夢を』を歌い、三田明は『美しい十代』を、舟木一夫は『高校三年生』を歌っていた。
『ポパイ』もよく覚えている。
オリーブが洗濯をしている。洗濯物が、揺れているのは、幸福の証しだ。そこに、悪漢ブルートが登場。オリーブに迫る。
「ポパイ助けて!、 助けて、ポパイ!」
ポパイは、ブルートと戦う。ボコボコ殴られる。ホウレンソウの缶詰を食べる。とたんに強くなって、ブルートをやっつける。
「ポパイ強いのね。大好きポパイ!」
オリーブが、ポパイに抱きついてキスする。毎回同じだったが、楽しく見た。
最初からホウレンソウの缶詰を食べておけば、殴られなくてすむのにと思った。
当時、テレビはめずらしく、大人も子どもも、熱心に見たものだ。大人は「テレビを消して勉強しろ」とか、「テレビばかり見ていて勉強をしない」などとは言わなかった。自分たちも、見たくてたまらなかったのだから。
他に娯楽がなかった。今とちがう所は、大人も、子どもも、同じ番組を、一緒に見ていたと言うところにある。
テレビを見なくなったその時間、悠実と麿実は、何をしているのだろう。悠実は、本を読んでいた。かこさとしの本が好きで、彼の本は、ほとんど読んだ。ファンレターも二度出して、返事をもらった。かこさとしを知らない子がいるのは、残念だ。悠実は、いろいろな種類の本を読んでいるので、物知りだ。
麿実は、絵を描いていた。読んだ本の中の気に入ったカットの写し絵もする。それを、ハサミで切って、紙人形(ペープサート)にする。その人形を使ってお話を作る。
一つの紙人形を麿実が持ち、一つは悠実が持つ。一つは私が持ち、即興でお話をする。
いろいろな物語の主人公の人形がまじっている。
『赤ずきんちゃん』『花さかじいさん』『一寸法師』『赤鬼』『ゲゲゲの鬼太郎』。
相手がどう話しかけて来るかを予想していないと、自分もことばが出ない。相手の話をよく聞いていないと遊べない。それを、悠実と麿実は、あきもせず繰り返しやっている。
ほるぷ出版社のセールスマンが来て、
「本が売れないし、ウチの子も、本を読まない。どうしたら良いのだろうか?」と、嘆いた。
「そんな事は、簡単です。テレビを消せばいいのです」と夫が教えた。
テレビを見ないと、話す時間がたっぷりあるのだ。
(1987年6月記)
夜のおはなし 池田小百合
夜、寝る前に、夫がお話をする。娘たちは布団の中で、じっとそれを聞く。
今はシートン動物記の『ギザ耳ぼうず』だ。
「お父さんのお話はね、絵を見ている訳じゃあないのに、ボクの頭の中に絵が出てくるよ。白い雪の山とか、オオカミに今にも食べられてしまいそうなウサギとか。大雨と、ものすごい風で、木がゴーゴー鳴っている所とか、寒い谷間とか。
絵を見ていないのに、頭の中に絵が出てくるなんて、不思議な事も、あるものだね」と麿実が言った。
娘たちは、お話を聞くのが大好き。
毎晩のお話は、小学校を卒業するまで続いた。
(1987年7月記)
先生がね/玉子焼き/読書/海水浴/ テスト/図工の楽しみ (略)
ごちそうさま 池田小百合
私は、結婚をするまで、ほとんど外食をしなかった。
夫と、外食をして、ある日、妙な事に気が付いた。毎回、食べ終わった後、夫はていねいに「ごちそうさまでした」と言っている。自分のお金で食べたのだし、店の人はそれが仕事なのにと、私には不思議だった。
ところが、しばらくすると、私も「ごちそうさま」と言って出るようになった。別に、夫が言えと言った訳ではないのに。店の人とも暖かくふれあえ、その事で、心までも楽しい気分で一杯になった。
娘が生まれた。外食をして、私たちは、やはり立つ時に「ごちそうさまでした」と言っていた。
今日気が付いたのだが、料理屋を出る時、悠実も麿実も、大声で、
「ごちそうさま。ああ、おいしかった」と言った。
それを聞いた店員さんが、
「ハイ! また来てね。おりこうさんね」と言って笑った。
『ごちそうさま』は、人に感謝をする言葉だ。その気持ちがあっても、表現しなければ、わかってもらえない。
親が、教えたわけではないのに、娘たちが自然に覚えた礼儀作法だ。
良い事は、真似てもらいたい。
感謝される事は、うれしいに決まっている。
(1987年9月記)
サーカス/講話/女子高生/サワー(略)
コンピューターゲーム 池田小百合
小学校三年生の悠実が、友だちの家から帰って来た。目がトロンとして、話しをしない。体からエネルギーが抜けてしまっているようだ。どうしたのだろう。
しばらくすると、回復し、いつものように元気に食事をした。
次の日、小学校一年生の麿実が、同じ友だちの家に遊びに行き、帰ってくると、同じように、元気を無くして、座り込んでいる。こちらは、重症で、「ご飯はいらない。すぐ寝る」と言って寝てしまった。
娘たちから遊びの様子を聞いた。コンピューターゲームをして遊んだのだ。
「どちらかが、死ぬまで戦うんだよ。だいたい私が負けるから、また、最初からやり直しで、相手を倒すまでずっとやるんだよ」
「知らない間に、画面の中に自分が入って殺し合っていたりするんだよ。すごいよ。機関銃や、爆発の音や、死んだ時の音が、頭に残っているよ。恐くって、すごいよ」
説明をしながら興奮している。
マーケットで、娘たちが遊びに行った友だちのお母さんに会った。
「いつも、二人が遊ばせていただき、ありがとうございます」
「ゲームは、とてもいいのよ。集中力が付くし、思考力や、瞬発力も身に付くから、ゲームソフトを沢山買い与えているのよ。家でやっているから、交通事故や、誘拐の心配も無いし、一石二鳥よ。よかったら、毎日でも来て遊んでね。ウチは、かまわないから」
その友だちが、私のピアノ教室にレッスンに来た。
姉が小学三年で、妹が小学一年だ。姉は小学三年生と思えない、甘えた話しかたの子だった。すぐにアクビをして、話を聞いていられない。椅子に座っているのがやっとなほど疲れていて、ピアノを弾く気力がまったく出ない。
「何かを考えようとしても、考えがまとまらない。勉強も、しようと思うけれど、やる気が出ない。家庭教師のお姉さんとも、ゲームで遊ぶんだよ」
その姉はピアノ教室をすぐにやめた。
次に、妹が来た。お母さんが、 「この子の方が、良いと思います」と、言われた。
妹も、疲れていた。 「目が痛い。頭が、ぼんやりする。夜、ずっとゲームをやっているから、寝ていない」と言い続けた。
「お母さんは、その事を知っているのかな?」
「知っているかどうかわからない。でも、言うと、叱られそう」
「・・・」 妹もピアノ教室をすぐやめた。
二人共、体は大きいが、話す態度や意見は、小学生とは思えないほど幼稚だった。
新学期が来て、クラスが変わると、娘たちは、その友だちの家に遊びに行かなくなった。
(1999年記)
仲良し 池田小百合
小学校の修学旅行は、日光だ。
悠実が修学旅行に出かけた翌朝、麿実が聞いた。
「ユミちゃんは?」 「日光に行ったよ」
「ああ、そうか」
二年後。 麿実が修学旅行に出かけた翌朝、悠実が聞いた。
「マミ君は?」 「日光に行ったよ」
「ああ、そうか」 予想通りだった。
姉妹は、互いに思いやり、心配していた。
私は、母として、それがとても嬉しかった。 (1999年記)
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