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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
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童謡・唱歌 事典 (編集中)





 たきび

作詞 巽 聖歌
作曲 渡辺 茂

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2010/09/01)


池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より


 白やピンク、紅などのサザンカの咲く頃が、たき火の季節です。たき火と言えば、焼き芋を連想する人が多いことでしょう。娯楽の無い時代には、たき火での語らいは楽しいひとときで、焼き芋はおいしいおやつでした。童謡「たきび」は、寒さのきびしい地方の歌と思っている人があるかも知れませんが、東京で生まれた歌です。

  【歌詞の誕生は散歩中】
 <「ケヤキ屋敷」はサザンカと茶の木の生け垣だった>
 東京都中野区上高田三丁目に鈴木宅があります。千五百坪という広大な敷地に、ケヤキやカシ、ムクなどの屋敷林があり、中でも樹齢三百年を超す六本の大ケヤキが目立つ。戦前からケヤキ屋敷と呼ばれた。
 たくさんの木々が落とす枯れ葉は、かつては畑の肥料として取り置き、一部は焚火にした。それを、聖歌が散歩の途中で見て「たきび」になった。昭和十六年(1941年)三十六歳の時の作品です。
 聖歌は昭和初期、鈴木宅から歩いて十分ほどの、現在の上高田四丁目に住み、この屋敷のわきの農道をよく散歩したそうです。
 鈴木新作さんが子供の頃を思い浮かべて描いた絵にあるもの。
 「落葉の季節の田舎の風景」
 「大きな木々の間にわら屋根の農家が三棟」
 「庭沿いにサザンカと茶の木の生け垣」
 現在、この「ケヤキ屋敷」は、生け垣に代わって、一辺の長さが百メートル余りもある竹を組んだ垣根に囲まれている(吉田悦男著『うたの里を行く』(舵社)を参考にしました)。

 <「たきび」のうた発祥の地を示す高札>
 昭和五十八年三月に上高田でただ一軒残った旧農家(鈴木宅)の長い垣根沿いに、「たきび」のうた発祥の地を示す高札が、中野区教育委員会により建てられました。次のように書いてあります。
 “聖歌は、この詩が作られた昭和五、六年頃から約十三年間、萬昌院のすぐ近く、現在の上高田四丁目に家を借りて住んでいました。朝な夕なにこのあたりを散策しながら「たきび」の詩情をわかせたといわれています。
 歳月が流れ、武蔵野の景観が次第に消えて行くなかで、けやきの大木がそびえ、垣根の続くこの一角は、今もほのかに当時の面影をしのぶことができる場所といえましょう。”

 <岩手の雑誌『北流』によると>
 “聖歌は、昭和七年(1932年)の春から、昭和十九年(1944年)に岩手県岩手町沼宮内に疎開するまで、約十二年間、中野の上高田に住んでいた。”
 ●中野区教育委員会の高札の“約十三年間”と食い違いがある。どちらかが違っている。

  <「東京のうた」によると>
 『朝日新聞』東京版 昭和43年(1968年)2月28日水曜日「東京のうた」には、次のように書いてあります。  “NHKから幼児の時間の「うたのおけいこ」用の新曲の作詞を頼まれたのが十六年九月。当時巽が借家住いしていた中野区上高田一帯はまだあちこちに空地が残り、郊外の面影があった。冬がくると、いけがきにはサザンカが咲き、向いの大工がカンナくずや落ち葉でよくたき火をした。見なれた平和な風景を詩にまとめた。長男が七つ、長女が生れて間もないころ。”

 【作曲の経緯】 昭和十六年(1941年)九月に、皇紀2600年を記念する歌の作曲コンクールで次点だった渡辺茂(二十九歳)にNHKから詩が渡され作曲が依頼されていました。
 (註)皇紀とは明治政府が定めた日本独自の紀元で、1872年(明治5年)に明治政府が神武天皇が即位した年を、記紀の記載から西暦紀元前660年と決め、その年を皇紀元年とした。それ以来、日本では西暦ではなく「皇紀」を使用したが、長引く侵略戦争による国民生活が悪化しはじめた1940(昭和15)年は数えて2600年となることから、「皇紀2600年」と称して国民的な祝いの行事が繰り広げられた。このとき作られたのが『紀元二千六百年』という歌。「奉祝国民歌」の作曲公募に、渡辺茂の応募した作品が二等に選ばれた。

 詩を見た時、茂は「ほのぼのとした暖かい気持ちになり、うた心、こども心を憎いまで捉えた作品。ずっと捜し求めていた詩はこれだ」と思ったそうです。特に「かきねの垣根の」や「たきびだ焚火だ」と繰り返される言葉が気に入りました。
  「かきねの垣根の・・・」と、口ずさんでいるうちに、「ソラソミ ソラソミ・・・」と、自然にまとまった旋律になりました。
  「たきびだ焚火だ」の繰り返す二度目は、感情の高まりから「ミソソソ ラドドド」と高くしました。
  「あたろうか あたろうよ」が、この詩の重要ポイント、起承転結の転に当たる部分だから、変化をもたらせるため、リズムも表情も意図的に変えてみました。
 そして最後に、ドドドラ ソソドドと力強く締めくくりました。特に意図したわけではないが、結果としてリズムの面で、完全にAABAという二部形式にまとまりました。
 全体を子供の声の音域を考えて歌いやすい高さにし、伴奏譜は一般的なものを使って親しみやすくしました。それから、フレーズとフレーズの間に入れる、装飾的な合の手の工夫もしました(「まがりかど」の後に聞こえる伴奏の音の事)。
 結びは「ミミレレド」で、だれにもわかりやすい終わり方です。
 (註)季刊『どうよう』第4号(チャイルド本社)の渡辺茂著"「たきび」よもやま話"より抜粋 。


 【北風「ぴいぷう」】
 一番の歌詞の最後には「北風ぴいぷう吹いている」とあります。この「ぴいぷう」は面白い表現で、印象に残ります。聖歌のふるさとが北国・岩手県であることから作られた言葉と受け取れます。他の詞には、ない言葉です。巽聖歌が、この言葉を書いた時、この歌は心に残る歌となりました。

  <「ぴいぷう」の作曲に工夫>
 ところが、作曲する時には、この「ぴいぷう」は、渡辺茂を悩ませたようです。
  “「ぴいぷう」のところはちょっと考えたんですよ。本来なら、「ぴいぷう」の場合、「いぷう」と最初にアクセントがつくんです。ところが、2番の歌詞は、「おててが」なんです。ですから、「ぴいぷう」にあわせてアクセントを最初につけると、「ててが」になってしまう。3番の歌詞は、「そうだんながら」になってしまう。それはいやだったんです。ですから、「ぴいう」と、後の方にアクセントを移動したんです。”
 本当は「いぷう」だが、2番、3番の歌詞を考えて、「ぴいう」にした。“それは作曲者の自由ですから”。(『親子で楽しむ童謡集』第1集(にっけん教育出版社)の座談会による)。

 “渡辺は当時、豊島区仰高北小(現清和小)で五年を受持っていた。戸塚の自宅で詩を読みかえすうち、自然とメロディーが浮んだ。それをそのまま五線紙へ。作曲の技法もきちんとかなっていた。その間わずか十分。豊島師範を卒業して教育の現場にはいってから十年目の作。「今後もこれ以上の作品はできないでしょう」と語る”(『朝日新聞』東京版 昭和43年(1968年)2月28日水曜日「東京のうた」より)。

 【「木枯し」気象庁による定義】
 日本の気象庁では十月半ばから十一月末にかけて西高東低の冬型の気圧配置になった時、北よりの風速八メートル以上の風が吹くとその風を「木枯らし」と認定する。そして毎秋最初の木枯らしを(木枯らし一号)として発表する。関東地方における1992年か ら2001年の十年間の平均では十一月七日頃である。「木枯らし二号」や「木枯らし三号」もあり得るが、発表は行われない。なお「木枯らし一号」は関東地方(東京)と近畿地方(大阪)でしか発表されない(2013年11月3日NHK七時のニュース天気予報・南気象予報士の話、ウィキペディアによる)。

 【発表について】
 “一九四一(昭和十六)年十二月号の「ラジオ少国民」という放送テキストに発表されたのが最初である。この雑誌は、ラジオの子供の時間の番組案内を内容とするもので、発行所は、日本放送出版協会であった”(『別冊太陽  子どもの昭和史 童謡・唱歌・童画100』(平凡社)による)。
 ●与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)には、―「NHK子供テキスト」昭和16・12 と書いてあります。

 【初めての放送について】 
 <「日本のうた ふるさとのうた」全国実行委員会/編『NHK日本のうた ふるさとのうた100曲』(講談社、1991年3月発行)によると>
 「昭和十六(1941)年の十二月八日未明、日本軍はハワイの真珠湾に奇襲を かけました。「たきび」は、 翌九日と十日、NHKラジオ「幼児の時間」で初めて放送されている。
 当初は三日間の放送予定でしたが、「落ち葉も貴重な資源、ふろぐらいはたける」「たき火は敵機の攻撃目標になる」という理由で軍当局からクレームがつき、放送三日目は戦時番組に切りかえられた」。
 この記載は研究者の絶対的な信頼を得て、文献として沢山の出版物で使われ定着しています。

 上記の文は、『朝日新聞』東京版 昭和43年(1968年)2月28日水曜日の「東京のうた」を書き直しただけです。「東京のうた」によると次のようです。
 “放送日については関係者の記憶にくい違いがあるが、NHKと朝日新聞に残る番組表では十二月九、十の両日。三日間放送の予定だったが、十一日は戦時番組に組みかえられた。軍からおしかりがきた。「落ち葉も貴重な資源、フロぐらいはたける。それにたき火は敵機の攻撃目標になる」―詩人はだまって、ひきさがるよりほかなかった。”
 この文章では、最初に、“放送日については関係者の記憶にくい違いがある”と書いてあります。
 ●しかし、『NHK日本のうた ふるさとのうた100曲』(講談社)では、この部分が省かれてしまっています。

 <季刊『どうよう』第4号(チャイルド本社)清水たみ子著『巽さんと「たきび」』によると>
 「一九四一年(昭和十六年)十二月、NHKラジオ幼児の時間の「うたのおけいこ」で放送されました。詩も曲も、歌いやすく、楽しい歌なので、すぐ子どもたちに覚えられ、広まりました。・・・昭和十六年十二月八日には太平洋戦争がはじまっています。物心両面からのしめつけは日ごとに厳しく、きゅうくつな生きにくい時代になってきていました。それが、童謡「たきび」にまで及ぼうとは、今なら想像もできないことです。
 「この非常時に、『たきび』とはなんだ。万一敵機襲来の時、火など燃しておれば、たちまち爆撃の目標になる! 少国民といえども大人と力を合わせて国を護らねばならぬ時だ。こんな歌をうたわせてはならぬ」ということで、放送を禁じられてしまいました。
 ペンネームの巽聖歌に対しては、「そんな国籍不明のような名前はやめて本名の野村七蔵にかえれ」と言われたそうです。
 終戦とともに復活し、「たきび」が再び愛唱されるようになりました。巽聖歌 といえば、まず「たきび」の歌を思うほど知られるようになり、だれかが、「いまや巽聖歌でなく、"たき火聖歌"だ」と、からかいました。そのうち自身でも、 たわむれに「たきび聖歌」と署名されたりしました」。

 <巽聖歌の娘の中川やよひさんは>
 俳誌「新樹」8月号2005年(平成17年)に次のように書いています。
 「昭和16年太平洋戦争開戦の翌日NHKラジオの幼児向け番組で放送されました」。

 <作曲の渡辺茂は>
 季刊『どうよう』第4号(チャイルド本社)の渡辺茂著"「たきび」よもやま話" によると、「昭和十六年十二月八日(真珠湾攻撃の日)と九日に「幼児の歌のおけい こ」で放送されただけで、おくら入り。」と書いてあります。

  <NHKハートプラザからの回答>
 NHK放送文化研究所メディア研究部メディア史(NHK年鑑、放送史)で調査していただきました。
  ・昭和16年12月8日は開戦の日です。
  ・番組編成表には、12月9日10時に「幼児の時間」と書いてあります。「タキ ビ」が放送されたかどうかは不明です。
  ・12月10日10時に「幼児の時間 ウタノオケイコ タキビ」と番組編成表に記録 されています。ただ、別の書物には10日の放送は中止されたと書いてあるそうですが、番組確定表には中止とは書かれていません。
  ・開戦の日12月8日の番組表は「日本放送史」(上)によると、10時5分に「音楽」 と書いてあるだけです。
 「幼児の時間」は、「ウタノオケイコ」だけでなく、いろいろなものが放送さ れています。
 
 ○朝日新聞復刻版で昭和16年12月8日から13日までのNHKラジオ番組表を調べてみました。
 



  昭和16年12月8日(月)
  9時45分~10時 音楽(レコード)
  10時~10時20分 幼時の時間劇
   「フユノオシタク」古新子供会  
  (●幼時は幼兒の間違いでしょう)。
 

  ▼昼と午後の番組 ラジオ  

▲昭和16年12月9日 (火)
   10時~10時30分 幼兒の時間

同日の同紙面に海鷲の撃破した敵艦の記事あり→


▲昭和16年12月10日(水)
 10時~10時30分 幼兒の時間
 ウタノオケイコ「タキビ」(二)  (指導)中村淑子

▲昭和16年12月11日(木)
 10時~10時30分 幼兒の時間 
 お話「ススメ軍艦旗」乾井市郎
12月12日(金)10時~10時30分
 幼兒の時間 お話と音楽「ナミヲコエテ」 北條静 
12月13日(土)10時~11時 
 幼兒の時間「イサマシイ音楽」東京放送管弦樂団

  <結果> 番組表からは9日に、幼兒の時間ウタノオケイコ「タキビ」(一)が放送 になったかどうか不明です。また、番組表に書いてあるものも、中止になったかどうかは、わかりません。

 【太平洋戦争】昭和十六年(1941年)十二月八日~昭和二十年(1945年)九月二日。第二次大戦のうち、アジアでの日本と米・英・中など連合国との戦争をさす。日本政府は国民に大東亜戦争とよばせた。
 昭和十六年十二月八日、真珠湾攻撃。日本軍は開戦半年でフィリピン・マレー半島・インドネシアなどを占領。さらにニューギニア・ガダルカナルに進出してオーストラリアに迫った。これは緒戦の勝利に酔った日本軍首脳が当初の計画を超えて一挙に戦線を拡大した結果です。
 しかし、この頃からアメリカは反撃に転じた。・・・日本海軍は昭和十七年(1942年)六月、ミッドウェイ海戦で航空母艦四隻を失う打撃を受け、日米両国の生産力の差も現れ始め、日本軍は制海・制空権のほとんどを失い、補給が困難となり、戦局の主導権はアメリカ軍の手に移った。・・・昭和二十年(1945年)四月には沖縄に上陸、日本本土に激しい爆撃を加えた。
 軍部は本土決戦を唱えたが、八月六日広島、九日長崎に原子爆弾が投下された。
 八月十四日ポツダム宣言を受諾。十五日、天皇は終戦詔勅を放送。九月二日、降伏文書に調印し、戦闘行為は終結した。
 この大戦は日本軍の占領地における物資・人員の略奪、蛮行、アメリカ軍による徹底的な対日破壊作戦が著しい特徴をなした。
 以後、昭和二十七年(1952年)、サンフランシスコ講和条約発効まで、日本は占領軍の下に管理された。
 (『日本近現代史小辞典』角川書店より抜粋)

 【戦後のラジオ放送】 戦後、昭和二十四年(1949年)、再びNHKラジオ「幼児の時間」の中で歌われ放送されると、全国の保育園、幼稚園、小学校でも歌われヒット曲になりました。
 朝日新聞復刻版に「たきび」の記事があります。NHKラジオ第一・10時~10時10分
   ・昭和24年12月14日(水) 話と歌「たきびの歌」
   ・昭和24年12月19日(月) 歌のけいこ「たき火」
   ・昭和24年12月26日(月) 歌のけいこ「たきび」
   ・昭和24年12月27日(火) 「たきび」若葉陽子他


 <NHKハートプラザ>によると、“「幼児の時間」には「うたのおけいこ」だけでなく、いろいろなものが放送されていました。”(2009年3月10日)
  NHKラジオ第一・10時~10時10分を調べてみました。(朝日新聞復刻版による)。
   ・昭和24年9月26日(月) 歌のけいこ
   ・昭和24年9月27日(火) 音あそび
   ・昭和24年9月28日(水) お話と歌「風さん」
   ・昭和24年9月29日(木) ラジオ絵本
   ・昭和24年9月30日(金) 話「象の坊や」 

 <NHK視聴者センター>によると、“番組のタイトルは本によって「歌のおけいこ」と表記されているものがありますが、小さい子供向けの番組だったので、ひらがなで「うたのおけいこ」と表記するのが正しい。戦時中は「ウタノオケイコ」とカタカナでした。”(1995年8月15日)

 【童謡「たきび」の特徴】 このように童謡「たきび」が、厳しい時代に思いがけない扱いを受けても、今日まで歌い続けられているのは、この歌の素朴さにあります。 「あーたろうか」の一箇所だけリズムが変化している部分を歌ってみると、歌の良さがわかります。
 「アー」と口が大きく開き、明るい声が出せます。すると、あたたかさが心にしみます。これが、みんなに感動を与えるのです。この意図的に変えたリズムが、「たきび」の最大の成功といえます。
 茂が最初に詩を見た当時は、戦時下で命令でいっせいに行動を起こすようにしむけられていたので、「あたろうか、ウン あたろう」と言って走って行く子供の姿が、とても美しい姿として脳裡をかすめたようです。その印象が素直に曲となって現れています。
 このように子供を意識して曲を作ることができたのは、茂が教職にあったためで、子供へのまなざしが温かく感じられます。

 ところで、「たきび」に詠まれている山茶花の生け垣は、全国で見られましたが、昭和の後半に流行したブロック塀により極端に少なくなりました。冬枯れの時期に咲く山茶花の花の垣根は、風流でいいものです。

 ●『日本の童謡名歌110曲集1』(全音)の、タイトルの「たき火」は間違い。正し くは「たきび」です。歌詞の三番の最後が「あるいてる」となっているのも間違い。「歩いてく」が正しい歌詞です。この間違いは他の出版物でも使われてし まっています。

 【小学校の教科書に掲載】 教科書の出版が自由になり、各社の小学校の音楽教科書の低学年用に挿絵入りで掲載されると、今度は、消防庁から「町かどのたき火は危険」とのクレームがつきました。そのため、しだいに「火消し用の水の入ったバケツが描かれ」、「たき火を監視する大人」も描かれるようになりました。

  “「ナンセンスだと抵抗したんですがね。そうしないと検定をパスしないという んで・・・」と渡辺。”(『朝日新聞』東京版 昭和43年(1968年)2月28日水曜日 「東京のうた」より)

 【小学校の教科書での扱い】 教科書の挿絵を調べてみました。


表紙表紙絵・久保雅男
教科書 昭和33年2年生 教科書 昭和33年2年生
△昭和三十三年発行『しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)は、三番までを掲載。女の子が一人で、たき火をしている挿絵です。バケツはなく、大人はいません。タイトルは「たき火」です。この挿絵を見ると、「たき火は危険」と言いたくなります。
・昭和三十五年発行『しょうがくせいのおんがく2』(音楽之友社)は、二番までを掲載。子供が五人、たき火にあたっている子が二人、犬と遊んでいる子が一人、落葉を集めている子が二人の挿絵。バケツはなく、大人はいません。
・昭和四十四年発行『おんがく1』(教育出版)は、二番までを掲載。子供が三人たき火にあたっています。走って来る子が一人の挿絵。バケツはなく、大人はいません。
△昭和六十二年発行『あたらしいおんがく1』(東京書籍)は、二番までを掲載。男女の子供がたき火にあたり、女の子は焼芋を持っています。男の子のそばには、バケツが描かれています。
△平成八年発行『小学生のおんがく1』(教育芸術社)は、二番までを掲載。子供が三人たき火にあたっています。犬と一緒に子供が三人走って来ます。落葉を集めるホウキを持った大人と、水の入ったバケツが描かれています。

●文化庁『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)の解説には、「いまは三番を歌わないことが多いようです」とありますが、今でも三番は歌われています。

 【たき火の禁止】 近年は、焼却ごみのダイオキシン問題もあり、たき火が問題視されるようになりました。平成13年(2001年)に廃棄物処理法が改正され、廃棄物の野外焼却、いわゆる「野焼き」が原則禁止になりました。それ以前も「ゴミの野焼き」は禁止されていましたが、この改正でより厳しく制限されることとなりました。
 「廃棄物の処理及び清掃に関する法律」第16条の2に「何人も、次に掲げる方法による場合を除き、廃棄物を焼却してはならない」と禁止しています。例外規定とは「 1.一般廃棄物処理基準、特別管理一般廃棄物処理基準、産業廃棄物処理基準又は特別管理産業廃棄物処理基準に従つて行う廃棄物の焼却、2.他の法令又はこれに基づく処分により行う廃棄物の焼却、3.公益上若しくは社会の慣習上やむを得ない廃棄物の焼却又は周辺地域の生活環境に与える影響が軽微である廃棄物の焼却として政令で定めるもの」です。個人レベルの焚き火は、例外規定の3の常識的な範囲ならば認められていますが、隣近所の苦情もあり、自己規制されているようです。
 ただ、ダイオキシンに関しては、当初騒がれたほどのリスクは非現実的だったようです。

 【コマーシャルソングには使わせません】 「霜やけおててがもうかゆい」の部分に注目した化粧品会社から、お子さまクリームの宣伝に「たきび」をコマーシャルソングとして使わせてほしいとの依頼がありました。聖歌は、きっぱりと次のように言ったそうです。
 「あれは、教科書にも載っている歌だから、コマーシャルなどに使ってもらっては困る」「コマーシャルに使わせれば、大変金にはなるでしょうがね、・・・断りました」。
 聖歌の、作品に寄せる厳しい姿勢がうかがえる言葉です。
 (註)参考文献 季刊『どうよう』第4号(チャイルド本社)清水たみ子著『巽さんと「たきび」』より一部抜粋

 【北原白秋に激賞された巽聖歌】
  ・明治三十八年(1905年)二月十二日、岩手県紫波郡日詰町(現・紫波町日詰/しわちょうひづめ)で生まれました。本名は野村七蔵といいます。
  ・大正六年(1917年)、日詰小学校を卒業。小学生の頃の聖歌は、「暗算坊」というあだ名がつけられるくらい計算が得意で、頭脳明晰でした。家業の鍛冶屋で働きながら文学を志し、大正十三年(1924年)から雑誌『赤い鳥』に童謡を発表する。
  ・十八歳で故郷を離れ、大正十三年(1924年)五月から時事新報社で雑誌『少年』、『少女』の編集記者として働きました。両誌に童謡を発表する一方で、『赤い鳥』にも投稿、しかし、時事新報社の経営者が変わった事から退社を決め、大正十四年(1925年)四月、失意のうちに故郷の日詰へ戻ります。
  ・大正十四年(1925年)、二十歳の時に日詰教会でキリスト教の洗礼を受けました。そしてペンネームを巽聖歌としました。
 雑誌「赤い鳥」(赤い鳥社)に詩「水口(みなくち)」を投稿、入選して北原白秋に「めづらしいほどいい」と激賞され、牧師志願を捨てて北原白秋に師事しました。

表紙絵 清水良雄

 「水口」は、大正十四年(1925年)、『赤い鳥』十月号に掲載。

 巽聖歌が作詞した讃美歌があります。318番 Seika,1927 5番まであります。
「1、主よ、主のみまえに ともにつどいて、ぬかずくわれらを かえりみたまえ」 讃美歌
名前

巽聖歌が作詞した賛美歌

「Seika,1927」とある

 【戦後の巽聖歌】
 その後の聖歌は、昭和四年(1929年)にアルスに入社。昭和五年(1930年)『乳樹(のち『チチノキ』)』を、昭和十五年(1940年)には『新児童文化』を創刊、童謡詩人として活躍する。
tatumi seika
  巽聖歌
 戦後、昭和二十三年(1948年)、疎開先の岩手県から東京都南多摩郡日野町東大助(現・日野市旭が丘)に移り住み、童謡や論文を次々発表、中央文壇で活躍しました。
 その一方で「ごんぎつね」「でんでんむしのかなしみ」で知られ、若くして世を去った童話作家の新美南吉を世に広く紹介した功績は大きい。新美南吉は、昭和十八年(1943年)三月二十二日、喉頭結核で二十九歳七ヶ月の生涯を閉じました。

 昭和四十六年(1971年)、赤い鳥文学賞選考委員、同四十七年、日本児童文学者協会名誉会員。全国各地の多数の校歌を作詩する。
 昭和四十八年(1973年)四月二十四日、日野市立病院で亡くなりました。六十八歳でした。その折、皇太子妃美智子様(現在・皇后陛下)より御歌を賜りました。
  「山茶花の咲ける小道の落葉焚き 童謡とせし人の今亡く」

 【歌碑の近くに山茶花】 亡くなるまで、千春夫人と住んでいた家の近く東京都日野市の旭が丘中央公園に「たきび」の一番が刻まれた歌碑が建てられています。
 夫人は長野県出身の洋画家、野村千春(中川一政に師事)。 また、故郷の岩手県紫波町総合運動公園、兵庫県明石市二見町東二見の二見公園内にも歌碑があります。いずれも歌碑の近くに山茶花が植えられています。山茶花が咲くたびに「たきび」を歌って欲しいという願いが込められています。


巽 聖歌 色紙
 色紙 巽聖歌自筆「たきび」=この色紙は、昭和四十年半ば、聖歌が亡くなる少し前に夫人で画家の野村千春が八王子大丸で個展をした際、会場に聖歌の色紙を飾ろうということで、デパートから頼まれて書いたものです。一番から三番まで全て書いたものは珍しい。同じものは、新美南吉記念館の「巽聖歌生誕100年記念特別展「たきび」の詩人巽聖歌と新美南吉 2005 7.16~9.4」展示案内のパンフレットで見る事ができます。
 歌碑は一番が紹介してあります。

 【渡辺茂の略歴
 作曲者の渡辺茂は、明治四十五年(1912年)二月一日生まれ。自身の「ふるさと」についての渡辺茂の言葉が残っています。
  「生後すぐ、10日だか2週間だかで東京に来たらしいので、東京生まれと言っているんですが、実際に生まれたのは栃木なんです。父親という人は、農家の生まれだったんですが、農業がいやで家を飛び出して、行商で方々歩いていたらしいんです。そして偶然足利に行った時に織物の知識をおぼえて、そこの織物屋の娘だった母とふたりで東京に出て、呉服屋を開いたんです。そんなわけで、「こういうふうな生まれで、こうでした」とはっきり言えないんですよ。戸籍ではいちおう栃木県の赤見村というのが、私の本当の生まれた所らしいんですが。生まれ故郷という意味での「ふるさと」というと、東京と栃木、どちらになるんでしょうかねえ。・・・(中略)・・・(子ども時代を過ごしたのは)文京区ですね。本郷、駒込の林町2番地です。・・・家の近くに団子坂があって、そこでずっと少年時代を過ごしました」。『親子で楽しむ童謡集 第1集』(にっけん教育出版社)座談会/童謡の心を語るより抜粋。
 ●以上の事は、家族や親戚も知らなかったそうで、長男の渡辺則道さんからは「千葉県長生郡東郷村新小轡(現・茂原市新小轡)で生まれました」と教えていただいていました。実際には「栃木県安蘇郡赤見村(現・佐野市赤見町)生まれ」が正しい。
 渡辺茂の甥の永田幸夫さんから連絡を受け、『親子で楽しむ童謡集 第1集』(にっけん教育出版社)を紹介していただき、正しい生誕地が判明しました(平成十六年十二月一日)。
 ●『NHK日本のうた ふるさとのうた100曲』(講談社)の「渡辺茂は千葉県生まれ」は間違い。

  ・大正十二年(1923年)本郷区駒本尋常小学校卒業、本郷中学校入学。
  ・昭和七年(1932年)東京府豊島師範学校(現・学芸大学)を卒業し、都内小学校教諭や校長、大学講師をしながら作曲をしました。校歌の作曲は多数あります。東京都音楽教育研究会会長。「ふしぎなポケット」(まど・みちお・作詞)「ポケットの中には ビスケットが一つ・・・」も、茂の作曲です。この歌は、保育現場で歓迎され大ヒットしました。
 結婚後、新宿区戸塚町に移り、平成十一年(1999年)に練馬区中村南三-六-八に転居しました。
 ・平成十四年(2002年)八月二日、急性肺炎を起こして享年九十歳で亡くなりました。葬儀では、ちょっと季節はずれの「たきび」を歌い、故人を偲びました。


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    ≪著者・池田小百合≫
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 めんこい仔馬

作詞:サトウハチロー
作曲:仁木他喜雄

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2015/11/19

 平成二十七年は、戦後七十年にあたり、戦争関連のテレビ・ラジオ番組で戦争を知る人々の証言が多数報道されました。
 馬も軍馬として戦場に連れて行かれました。重い荷物の運搬作業に使われ、最前線での戦いでも活躍し、ほとんどの馬は兵隊と運命を共にしました。
 タイトルが「めんこい子馬」「めんこい小馬」「めんこい仔馬」とあります。その経緯を調べてみる事にしました。

  【東宝映画『馬』の主題歌として作られた「めんこい子馬」】
 「めんこい子馬」は、昭和十六年三月十九日に封切られた東宝映画『馬』の主題歌として作られました。 作詞:サトウハチロー、作曲:仁木他喜雄、編曲:片山頴太郎。

  【サトウハチローが「めんこい子馬」を作詞】
  昭和十二年に日中戦争が始まりました。何十万頭もの馬が中国へ送られ戦場で命を落とす中、部隊長を乗せ勇敢に戦った軍馬「勝山号」が生還し話題になりました。そのニュースに感動したサトウハチローが「遠い戦地でお仲間が 手柄をたてた お話を」と「勝山号」のことを詩にし、コロムビアの専属作曲家になっていた仁木他喜雄に作曲を依頼しました。仁木は、常々「音楽には人を励ます力がある。自分の音楽で人々を勇気付けたい」と考えていました。同十五年暮れ、できた曲が「めんこい子馬」でした。

  【映画『馬』での扱い】
 昭和十六年度作品。脚本・監督:山本嘉次郎、製作主任:黒澤明。出演:高峰秀子 竹久千恵子 藤原鶏太 二葉かほる ほか.
 映画『馬』は、「心で感謝 身で援護」の字が大きく出た後、スタートします。軍馬についての東條陸軍大臣の言葉「飼養者の心からなる慈しみに依ってのみ優良馬-将来益々必要なる我が活兵器-が造られるのである」が書かれています。
 映画の内容は、岩手山麓の農村の小野田一家と飼い馬を描いた物語で、馬の出産の喜び、その馬の成長と美しい農村の四季。そして馬の競買。軍馬として高額の値段がつき、売られて行く別れのシーン。馬と生きる貧しい農民の生活が描かれています。軍馬と農耕馬との価格や、扱いの違いがはっきりわかります。娘役の高峰秀子も話題になりました。高峰の馬を呼ぶ明るい声が、印象に残ります。
 山本嘉次郎監督が、農民が愛情を込めて育てた馬を軍馬として徴用され、犠牲にしてもよいのだろうか、ということを訴えて制作された映画です。
 映画『馬』のタイトルには、主題歌コロムビアレコード「馬」「めんこい子馬」とあります。主題歌が二つ作られた事になります。
 主題歌「馬」は、映画のタイトルバックに流れます。明るい、素朴な子どもたちの歌声です。次のような歌詞です。

   主題歌「馬」   作詞:佐藤惣之助   作曲:古賀政男

   一、みちのくの 山の尾影に 春来たり
    こぶし咲くよに 生まれいず 吾が子馬

   二、風澄ぬ 山の麓に 秋来たり
    すすき咲く日に 売られ行く 吾が子馬

 映画『馬』のタイトルに書かれた、主題歌として作られたはずの「めんこい子馬」の方は、使われませんでした
 しかし、平野日出雄氏(静岡・自由な市民の教養大学代表理事)のように「小学生の時見た白黒映画『馬』の主題歌として画面に流れた」(平野日出雄著『なつかしい旅の歌』講座テキスト)と思い込んでいる人が多いようです。

  〈映画に「めんこい子馬」を使わなかった理由〉
  東北ロケの最中であった山本監督が、「めんこい子馬」が作られていることを知らなかったからと言われていますが、知らなかったとは思えません。なぜなら、独特の歯切れの良いこの歌と、素朴な農村の四季や生活を美しく画いたカメラワークとは、合わないからです。監督が映画の中に組み込まなかったのは当然でしょう。
 映画『馬』の中では、主題歌「馬」の他、三曲が歌われています。

  ・学校の工作のシーンでは、尋常小学唱歌の「取入れ」
  ・こま回しでは、「春が来た」
  ・紡績工場から出稼ぎの女工集団の帰郷では、「故郷」が歌われています。
  (註)映画『馬』(東宝)のビデオテープが発売されています。

  【レコードの発売「めんこい子馬」】
 映画の封切りに先立ち、昭和十五年十二月一日にコロムビアよりレコードが発売されました。
▲サトウ・ハチロー自筆の仔馬画
 A面は「馬」、作詞:佐藤惣之助、作曲:古賀政男、歌:伊藤久男、菊池章子。
 B面は「めんこい子馬」、流行歌手の二葉あき子と童謡歌手の高橋祐子、コロムビア児童合唱団が歌いました。

  一番は、「コウマ」「ゆこかよ」と歌った(二葉あき子)。
  二番は、コロムビア児童合唱団が歌った。
  三番は、「オウマ」と歌った(高橋祐子)。
  四番は、「コンマ」「かえろう」と歌った(二葉あき子)。
  五番は、コロムビア児童合唱団が歌った。
 掛け声「オーラ」「ハイド ハイドウ」は、コロムビア児童合唱団が歌った。

  〈「オーラ」について〉
  足羽章によると、「歌詞各節に出てくる「オーラ」の掛け声は、『作曲者、仁木さんの発案だった』とサトウハチローさんが話されたのを覚えている」(季刊『どうよう』19号・チャイルド本社)。
  「オーラ」の掛け声は、サトウハチローの原作にはなく、作曲者の仁木他喜雄が入れたことになります。
  (註)オリジナルレコード番号:100151B、録音:昭和十五年十月三十一日。このレコードは、CD『生誕90年、没後20年記念 サトウハチロー記念館』≪童謡・コロムビア編≫で聴くことができます。

 【『国民歌謡』として放送された「めんこい小馬」】


 昭和十六年(1941年)一月二十七日よりJOAK(現・NHK)の『国民歌謡』として全国放送されました。歌は松原操。「めんこい小馬」の曲名で、 同十六年『国民歌謡選集』第十三編に収録されています。映画が封切られる前から全国で愛唱されました。

 楽譜には、「陸軍情報部撰定」と書かれています。
 一番の楽譜は、「イコーカヨ」となっていますが、歌詞の方は、「行(ゆ)こかよ」と仮名がふってあります。
 四番は「小馬(こうま)かへろか おうちには」。
 (註)「めんこい小馬」の歌詞と楽譜は、『原典による近代唱歌集成 原典印影Ⅳ』(ビクターエンタテインメント)で見る事ができます。

 【戦後の改作「めんこい仔馬」】
 戦後、コロムビアのディレクター足羽章の提案を受け、再録音の際にサトウハチローが改作しました。もとの歌詞は、五番までありました。
 一番と二番は同じで、「戦地」の歌詞の入った三番と、「軍馬」の歌詞の入った五番を省き、四番を三番とし、新しい四番を書き加えた歌詞を作りました。曲名は、「めんこい仔馬」となっています。三番の歌詞は「仔馬かえろう」。現在販売されている新しい楽譜は、なめらかに歌えるようにリズムが変えてあります。
 昭和二十六年二月、伴久美子と杉の子子供会の歌でレコードが発売されました。かわいい馬の一日の歌になっています。

 【海沼實指導の「めんこい仔馬」の歌い方】
 編曲:海沼實 歌:久保木幸子 コロムビアゆりかご会
  「こんま」で統一している。「こーんま かえろう」
  一番は「かけー|てー|ーゆこー|かーーよ」
 二番は「げんー|きに|ーたーー|かーーく」
 三番は「うたっ|てー|ーやろー|かーーよ」
 四番は「あしー|たは|ーあさー|かーーら」
  三番は一番に合わせた歌い方。四番は二番に合わせた歌い方です。
  (註)久保木幸子の歌はCD『日本のうた こころの歌』№80で聴く事ができます。


 【映画『ちびまるこちゃん わたしの好きな歌』】
 平成四年、さくらももこ原作の映画『ちびまるこちゃん わたしの好きな歌』(アニメ会社・亜細亜堂制作)で、「めんこい仔馬」が取り上げられました。同時にマンガの本、続いてビデオも発売され、歌も再び脚光をあびました。
 「めんこい仔馬」について、さくらももこはその著『ちびまる子ちゃん わたしの好きな歌』(集英社)で、次のように書いています。
 「今回の映画の物語は、二年前に聴いた「めんこい仔馬」の歌が全ての始まりでした。「めんこい仔馬」の替え歌は、幼い頃から知っており、小学三年生の時に本当の歌の一番のみを学校で教えてもらったのです。そして、二年前、夫が何気なくかけたCDに、一番から五番までが入っており、一番しか知らなかったので激しい衝撃を受けました。“あんなに楽しそうに幸せそうに暮らしていたあの仔馬に、戦争へ行く未来が待っていたなんて・・・”仔馬をかわいがっていた子供は、涙をこらえて万歳するというのです。私はワンワン泣いてしまいました。(中略)大切な存在と永遠に別れる際(きわ)まで、泣かずに万歳する時代は悲しすぎます」
 ちびまるこちゃんは、「いやだよそんなの・・・大事にかわいがっていたのに・・・泣かずに万歳なんて・・・できないよ」と言って泣きます。さくらももこが聴いたCDは、原作詞「めんこい小馬」の方です

 この漫画では、父ヒロシが替え歌を歌う場面があります。替え歌は、次のようです。

  「やーまのおーくのクスリ屋さん
   ハクボク削って粉クスリ
   馬の小便水グスリ
   オーラ
   はなーくそ まるめて豆ジンタン
   それを買うのはアンポンタン」

  <おねえちゃん>   「最悪な歌だね」
  <ちびまる子ちゃん> 「名曲も一気にどーでもよくなるね・・・」
  <友蔵おじいちゃん> 「ヒロシ・・・今の歌が替え歌ってホントかい?今まで替え歌の方しか知らなかった・・・!!
    なんということじゃーっ。30年前、隣組の小坂さんが引っ越す時も、町内のお別れ会で大得意で歌ってしまった・・・!!」

 【改作した「めんこい仔馬」その後】
 山田清子著『唱歌145曲の散歩道』(朝日新聞社)には、「この歌を聞くとなぜか戦争中を思い出してしまいます。四番まである歌詞のどこにも軍馬など出て来ないのに、どうしてでしょうか。これを歌った当時の世相が、メロディーとともに頭のどこかによみがえってくるからなのでしょうか。最近は、全然歌われなくなりました。競馬ブームに乗って歌われてもよさそうなものなのに。」とあります。山田清子氏が聴いているのは、サトウハチローが戦後改作した歌詞の「めんこい仔馬」です。
 歌われなくなった理由の一つとして、馬が身近にいなくなったことがあげられます。それよりも、軍馬を育て送り出す戦時下の生活応援歌を改作することで、詩はその力を失い平凡な歌になりました。そして、時代と共に歌われなくなりました。

 【仁木他喜雄(にきたきお)の略歴】
 ・作曲者の仁木他喜雄は、明治三十四年(1901年)十一月十四日、北海道札幌郡篠路(しのろ)村(現・札幌市篠路町)で生まれました。翌年、東滝川に移り住みました。十五歳ごろまで在住。
 ・大正六年、十六歳の時、音楽家になるために上京。山田耕作に師事しました。
 ●「大正三年(1914年)音楽家を目指し滝川を離れる」という情報は間違い。
 ・横浜のバンド屋(鼓笛隊養成所の意味)「睦崎」に入門してドラムを学び、ハタノ・オーケストラ、日本交響楽協会を経て、大正十五年(1926年)の新交響楽団(現・NHK交響楽団)創設時にティンパニー奏者として参加。
 ・昭和十五年(1940年)以降は、コロムビア専属として、レコーディングにおける多数の編曲と作曲で知られる。
 ・昭和二十年(1945年)十月十一日に封切られた松竹映画『そよかぜ』の挿入歌「リンゴの唄」(作詞:サトウハチロー 作曲:万城目正)の編曲も手がけました。
 ・昭和三十三年(1958年)五月十三日、満五十六歳で亡くなるまでに百七十曲以上を作曲しました。葬儀の際には、二葉あき子が、ヒット曲「別れても」を嗚咽しながら歌い、その早すぎる死を悼んだ。

 【歌謡曲の代表作品】
 「めんこい仔馬」(歌:二葉あき子、高橋祐子)。「蘇州の夜」(李香蘭)。「高原の月」(霧島昇、二葉あき子)。「別れても」(二葉あき子)。「さよならルンバ」(二葉あき子)。「若者よ恋をしろ」(中島孝)。「手っ取り早い唄」(森繁久弥)。「銀座の雀」(森繁久弥)ほか。

 【映画音楽の代表作品】
 「純情二重奏」(1939年、佐々木康監督)。「そよかぜ」(1945年、佐々木康監督)。「満月城の歌合戦」(1946年、マキノ正博監督)。「自由学校」(1951年、大映版、吉村公三郎監督)。「結婚行進曲」(1951年、市川崑監督)ほか。

 【仁木他喜雄の碑】
 北海道根室本線東滝川駅前広場に、仁木他喜雄顕彰歌碑「めんこい仔馬」がある。平成二年九月五日建立。碑名は、俳優の森繁久弥が、歌詞を二葉あき子が書いた。歌詞は一番のみ、歌詞の下の楽譜は最初の四小節。ボタンを押すと「めんこい仔馬」のメロディーが流れる(平成十五年七月三日、北海道滝川市役所経済部観光振興室による)。


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    ≪著者・池田小百合≫
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 森の小人

作詞:山川 清
作曲:山本雅之

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2010年9月1日

▲長田暁二監修「甦る童謡歌手大全集」による

 この「森の小人」は、私・池田小百合が主宰している童謡の会で、二十年前には、沢山のリクエストがあった人気の曲でした。しかし、しだいにリクエストがなくなり、平成になると、誰もリクエストをしなくなりました。昭和の時代にあれほど歌われた曲が、消えて行きました。
 しかし、「歌いましょう」と声をかけると、その場にいる人全員が知っていて、今でも歌える歌です。
 では、なぜ歌われなくなったのか、ヒットまでの経過と、時代の流れをたどってみましょう。

 【「蟻の進軍」に曲をつける】
 昭和十四年(1939年)、もととなる「蟻の進軍」の詩に山本雅之が曲をつけました。
 ★「蟻の進軍」が、どのような詩だったのか、だれが作ったか情報がありません。調査中です。

 【「土人ノオ祭」に改作】  
 日中戦争(支那事変)で大陸では戦闘中、「蟻の進軍」ではいけないとのことで、キングレコードの童謡担当の柳井堯夫ディレクターが、玉木登美夫に依頼、「土人ノオ祭」に改作し、昭和十六年七月、秋田喜美子の歌でレコードが発売されました。玉木登美夫は作家金谷完治のペンネーム。

 ★「土人ノオ祭」は、パラオ島で楽しく踊っている祭りが歌われていました。

You Tube に
 玉木登美夫作詞、山本雅之作曲、秋田喜美子歌の
  「土人ノオ祭」
キングレコード童謡名作選2枚組51504がUPされています。
 (歌詞カード画像不鮮明、字は書き込み歌詞を歌声で修正)

 1 椰子の葉蔭で ドンジャラホイ
   シャンシャン手拍子 足拍子
   太鼓叩いて 笛吹いて
   今夜はお祭り パラオ島
   土人さんが揃って 賑やかに
   ホーイ ホーイ ドンジャラホイ

 2 槍を振り振り ドンジャラホイ
  大人も子供も 踊りだす
  裸に裸足の くろんぼさん
  潮風そよそよ パラオ島
  土人さんが揃って 面白く
   ホーイ ホーイ ドンジャラホイ
 
 3 みんな来い来い ドンジャラホイ
   陽気に踊れよ 御褒美に
   美味しいバナナを 分けてやろ
   お月さんにこにこ 見てござる
   櫓の周りを いつまでも
    ホーイ ホーイ ドンジャラホイ

 【金谷完治の略歴】
 自著および井伏鱒二著「金谷完治」などによると、 明治三十四年五月一日生まれ、十人兄妹の九番目。
 中学教師を目指して上京、昭和四年早稲田大学高等師範部国語漢文科卒。
 在学中文学方面へ進路変更。日本放送協会東京放送局勤務、「子供の時間」「幼児の時間」など担当。
 傍ら少年少女向け小説などを執筆。戦争末期、マレーのクアランプール放送局へ転勤。
 終戦後、シンガポール南方のレンバン島で昭和二十一年一月五日病没。息子もNHK勤務。
   
 玉木登美夫は「土人ノオ祭」のほか、「さうだ僕らも決戦だ」「興亜の夜明け」「国民学校行進曲」など戦時歌謡の作詞者です。
 ただし戦後の「野反小唄」昭和32.5、「猿ヶ京音頭」などの作詞者名でもある。金谷完治は昭和二十一年一月五日死去なので、少なくとも戦後の作詞者は同名の別人でしょうが、ペンネームを誰が踏襲したのかは不明。
 JASRACでは「森の小人」の作詞者として、玉木登美夫と山川清を登録している。
 山本雅之編「山本雅之傑作童謡集」(全音楽譜出版社S33)に柳井堯夫キングレコード常務取締役が「本書に寄せて」として「山本先生には、始めて誕生したこの良き作品集を、今は亡き河村光陽、武内俊子、金谷完治(元NHK)の霊前にお供えいただきたいと思う。」と記している。「本書」掲載の「森の小人」の作詞者は山川清。

 川崎洋著『心にしみる教科書の歌』(いそっぷ社)には、次のような詩が掲載されています。

     椰子の葉陰で ドンジャラホイ
     シャンシャン手拍子 足拍子   
     太鼓たたいて 笛吹いて
     今夜はお祭り パラオ島   
     土人さんが揃って にぎやかに

 川崎洋著『心にしみる教科書の歌』(いそっぷ社)を読んで行くと、「以上、長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)から抜粋させていただきました。」と書いてありました。「土人のお祭」の詩は、川崎洋が知っていたものではありませんでした。

  【「森の小人」に改作】
  戦後、「土人」は人種差別的で好ましくないと、音楽・放送・出版などを指導管理していた進駐軍GHQのCIE(民間情報教育局)から指摘され、柳井の後任の山田律雄ディレクターが山川清のペンネームで「森の小人」に改作しました。
 (註)『ぐんまの童謡』では「本名 山田律雄」だが、長田暁二氏の書物では、「山田律夫ディレクター」となっている。

  【「森の小人」大ヒット】
  昭和二十二年十二月、「岡晴夫歌謡ショー」の舞台(有楽町の日本劇場)で、キングレコード専属の童謡歌手・佐藤恵子が、初めて歌いました。佐藤恵子は伴奏楽団のマネージャーの娘。
 レコード初吹き込み歌手・佐藤恵子/キング児童合唱団(キング昭和二十二年)。季刊『どうよう』19号(チャイルド本社)レコード初吹き込みの曲目リスト・河村順子著による。
 佐藤恵子は四番を「チョンチョン お手々を打ち合って」と歌っています。これは、CD長田暁二・監修『甦える童謡歌手大全集』(コロムビアファミリークラブ、平成七年発行)で聴くことができます。付属の解説・歌詞集の四番も「チョンチョン お手々を打ち合って」と書いてあります。当時の楽譜も「チョンチョン」になっていますが、現在は「シャンシャン」としている楽譜が多い。
 童謡の会を主宰している私、池田小百合は直接、長田暁二さんに問い合わせました。1994年11月20日の消印で返信が来ました。
  ●「おたずねの件 シャンシャンが正しく、チョンチョンが間違いです。どうして間違ったかは知りません。私は作詞者とも極く親しかったのですし、レコーディングもディレクターとして吹き込みを担当しましたが、チョンチョンなんてあることも知りませんでした。用件のみ」  
 この返信は、一番の「シャンシャン手拍子 足拍子」と勘違いした可能性があります。

 「土人ノオ祭」から「森の小人」に改作したので、放送の許可が出て、ラジオ放送やレコード発売によって全国に広まりました。みんなが歌い大ヒットになりました。

  【「小人」は放送禁止用語】  現在では「小人」は放送禁止用語で、テレビやラジオで放送されなくなりました。そして、家庭や学校でも歌われなくなりました。

  【コンビの作品】  山川清と山本雅之のコンビで「月見草の花」も作っています。レコード初吹き込み歌手・中根庸子(キング昭和二十四年発売)。

 【山川清の情報】 群馬県教育文化事業団編集『ぐんまの童謡』には、次の ように紹介されています。
  ・筆名 山川清(一九一四年二月二十七日~一九六九年七月九日)。
  ・本名 山田律雄。群馬県多野郡鬼石町譲原八四八出身。
  ・昭和二年(一九二七年)講談社に入社。
  ・昭和二十年(一九四五年)キングレコードへ出向、童謡担当のディレクターとな る。この頃より山川清の筆名で、童謡作詞をするようになる。
  ・児童劇のシナリオも書く。月刊雑誌『キング』の編集、月刊雑誌『小説サロ ン』の編集長。
  ・代表作品に「森の小人」(山本雅之作曲・キングレコード)、「月見草の花」 (山本雅之作曲・キングレコード)、児童劇『不思議な「てふーきん」』(NHKラジ オ)などがある。
 (註)藤田圭雄・阪田寛夫・中田喜直・湯山昭監修『日本童謡唱歌大系』Ⅰ(東京書籍)と、真篠将・浜野政雄編 少年少女歌唱曲全集・5『日本童謡集』(ポプラ社)には、「作詞・山川清 作曲・山本雅之」、四番の歌詞は「チョンチョン」と書いてあります。

  【山本雅之の略歴
  ・明治四十二年、広島生まれ。本名は杉原雅之。
  ・昭和九年、武蔵野音楽学校卒業。長く小学校教員、全音およびキングレコードの専属作曲家、富士見芸術学園主宰。
  ・昭和三十三年、『山本雅之傑作童謡集』(全音楽譜出版)刊行。
  ・昭和三十七年七月、『擬人化童謡集』(市原三郎詩 山本雅之曲/花園詩人社)刊行。
 代表作品「森の小人」(昭和十六年)、「月見草の花」(昭和二十四年)、「希望の虹」(昭和二十五年)、「子供盆踊り唄」(昭和二十七年)、「海ほうずきの歌」(昭和三十年)、「母さんちどりがないてるね」(昭和四十五年)、「百人一首を歌う」(平成六年)など。
  阪田寛夫・湯山昭編『新現代こどものうた名曲全集一〇〇選』(音楽之友社)昭和四十八年二月発行には、「こりすのダンス」(夢虹二詩)が収録されている。

  【消えてしまう歌か】
  ・ロ短調で作られた旋律です。短調の歌ですが、軽妙にうたわせる歌です。
  ・はじめ四小節ずつのフレーズ三つで一つのまとまり。次は四小節と六小節のフレーズとで続きのまとまり、後は、付け加えられたフレーズです。
  ・おとぎ話にある森の小人たちの楽しいお祭りの歌です。歌い出しは、八分休符があるのでリズムに注意。「ア ホイホイヨ ドンジャラホイ」は、かけ声のように、のびのびとしたリズムで元気に歌います。
  ・二番の「お月さん」の部分が少し難しい所です。

 私、池田小百合は小さい頃から「森の小人」を口ずさんで来ました。好きな歌です。時代の流れの中で忘れられ、消えてしまう運命にあるとすれば、残念です。

丸岡嶺,1949,標準学校ダンス集(東京 中央音楽出版社発行)


▲講談社の絵本『童謡画集(2)』1960年より 矢車 涼画


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森の水車

作詞:清水みのる
作曲:米山正夫

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2011/04/25


 この曲は、『ラジオ歌謡』ですが、私の主宰する童謡の会では、リクエストに応えて歌っています。さわやかで素敵な曲です。
 楽譜集や歌詞集を見ると、「聞こえましょう」と「聞こえます」の両方の出版物があります。中高年の人たちが歌うのは「聞こえましょう」の方です。いったいどうなっているのでしょう。

 【初吹込みは高峰秀子】 「大東亜レコード P-5292」
 歌手は高峰秀子。昭和十七年四月十八日吹込み。昭和十七年九月発売。

▲伝説の高峰秀子盤「大東亜レコード P-5292」
インターネットのYou Tubeで聴くことができます。3分33秒

  <高峰秀子の歌った歌詞について>
 一番は「聞こえましょう」と歌う。
 二番は「愉快歌を つづけます」と歌う。
 一、二、三番は、「仕事励みなさい」と歌っている。戦時中だったので、勤労命令調に変えられたようです。

  <作曲者・米山正夫の思い出話Ⅰ>
 「レコーディングが終わって銀座で食事をした。外に出たら騒々しい。空襲だった。ドゥリトル機の東京初空襲の日だったんです。デコ(高峰秀子)が『コワいよ、コワいよ』といって、ぼくにすがりついた」。
 吹き込み日は昭和十七年四月十八日だったわけである。(毎日新聞学芸部『歌をたずねて』愛唱歌のふるさと(音楽之友社)抜粋)。これは、重要な証言です。

 <レコードは発売された>
 かわいい高峰秀子が歌って大ヒット間違いなしの予想だったが、発売後四日で内務省から発売禁止処分を受けた。・・・クレームが付いたが、レコードは発売された。
 ●解説書の中には、発売禁止になり、レコードが発売されなかったように書いてあるものがあるが、そのような事実はない。

  <作曲者・米山正夫の思い出話Ⅱ>
 「軍歌しか認められない時代で『森の水車』のメロディが米英調だという理由です。当時の作曲家たちはいろいろ隠れて工夫して、いわゆる『米英調』の歌を作っていたんです。この歌は実はドイツの作曲家アイレンベルクのメロディを拝借しているんです。内務省の最初の検閲では枢軸同盟を結んでいるドイツの曲ならよい、ということだったんですが―。
 すでに物資が不足して、レコードといってもボール紙のシンが入っている。千枚も売れなかったはずだけど、今でもこのレコードを持っている人がいるでしょうか」(毎日新聞学芸部『歌をたずねて』愛唱歌のふるさと(音楽之友社)抜粋)。

 この<作曲者・米山正夫の思い出話Ⅱ>は、面白おかしく書き直され、あらゆる出版物で紹介されています。出典を明らかにすることは、大切なことです。面白おかしく書き直してしまうと、正しい事実がわからなくなってしまいます。

 現存するレコードが少ないのは発売枚数が少なかった上に、当時の大東亜レコードが割れやすかったためのようです。北海道在住のレコードコレクター北島治夫さんの友人によれば、「大東亜レコードは、煎餅のように割れやすいものだった」とのことです。

 【荒井恵子がラジオで歌う】
 昭和二十四年四月放送開始された、NHKラジオ『陽気な喫茶店』のテーマ曲のようにして歌われた。歌った荒井恵子はNHK『のど自慢演芸会』の第二回全国コンクール(昭和二十四年三月)で「南の花嫁さん」を歌って優勝し、この番組のレギュラーになった。そして番組の中から聞こえて来る明るい歌声は「森の水車」が荒井恵子の持ち歌のような印象を世に与えることになった。

 第一回NHK『のど自慢全国コンクール優勝大会』(昭和二十三年三月二十一日)の歌謡曲の部の優勝者は羽鳥百合子(看護婦)、荒井恵子は歌曲の部、地区大会で敗退。
 荒井恵子(農林省食糧管理局)は第二回昭和二十四年三月二十日の歌謡曲の部の優勝者。昭和二十一年一月十九日スタートの『のど自慢素人音楽会』は、昭和二十二年七月『のど自慢素人演芸会』と改題。ただし全国大会は音楽のみなので『のど自慢全国コンクール優勝大会』の名称。当時の新聞にコンクールの結果発表記事が掲載されている。

 <荒井恵子について>
 昭和四年、東京生まれ。昭和二十一年、都立北野高等女学校卒、農林省食糧管理局電信室勤務、合唱部所属、西内静の個人レッスンを受ける。
 昭和二十二年度『のど自慢素人演芸会』では「四つ葉のクローバー」で鐘三つ、地区大会で敗退。
 昭和二十三年度は地区代表となり、昭和二十四年三月『のど自慢全国コンクール』優勝「南の花嫁さん」。
 昭和二十四年四月NHK専属となり、NHK「陽気な喫茶室」レギュラー出演しつつ、四家文子に声楽を学ぶ。「話の泉」「とんち教室」などNHKの他の番組にも出演。
 昭和三十五年結婚、第一線から引退。

  <「南の花嫁さん」について>
 三原純子は、コロムビアへ移籍して「南から南から」でヒットした。裏面には、「合歓木(ねむ)の並木を 仔馬の背(せな)に ゆらゆらゆらと・・・・・・」という楽しい曲で、高峰三枝子がのびのびと歌って好評だった「南の花嫁さん」(藤浦洸詞/古賀政男曲/高峰三枝子唄/コロムビア/一〇〇五九六/昭和十七年十二月発売)が組み合わされていた。
 この歌は、もともと中国の任光の作ったもので戦後歌詞の一部を改作して再吹込みし(コロムビア/A三三四/昭和二十三年三月発売)ヒットした。

 【『ラジオ歌謡』になる】
 昭和二十六年四月九日からNHK『ラジオ歌謡』として荒井恵子の歌で放送された。この時、「仕事に励みましょう」と初作通りにもどされました。

 【荒井恵子のレコードがない理由】
 『ラジオ歌謡』で人気になった「森の水車」ですが、レコード化しようとして困りました。荒井恵子はNHKと専属契約を結んでいました。民放のどこのレコード会社にも所属していなかったため、レコードが出せなかったのです。

 【並木路子が吹き込む】
 そこで、米山正夫が所属していたコロムビアでは、「リンゴの唄」で有名になった並木路子に吹き込ませました。
 (A1156a/ 昭和二十六年五月四日録音/昭和二十六年八月一日発売)
 上記データは『20世紀の軌跡 ラジオの時代4』解説・清水英雄による。

 <並木路子の歌った歌詞について>
 並木路子は「聞こえましょう」「仕事励みましょう」「愉快歌を つづけます」と歌いました。
 この歌詞で、みんなが覚えました。並木路子の歌もYou Tubeで聞くことができます。3分38秒。

  【清水みのる略歴】
 明治三十六年(1903年)九月十一日、静岡県浜名郡伊佐見村(現在・浜松市西区伊左地町)の医者の家に生まれた。現在、生家は存在しない。本名は實。県立浜松中学(現・浜松北高校)を経て立教大学英文科へ進み水泳部の主将として活躍した。 昭和四年卒業。
 ポリドールの発送部で七年間下積み生活の後、レコード会社を移籍しながら作詞活動を行う。
 田端義夫が歌った「かえり船」(倉若晴生・作曲)、菅原都々子が歌った「月がとっても青いから」(陸奥明・作曲)などの大ヒット曲の作詞を手がけ、日本歌謡史に名を残した。
 昭和五十四年十二月十日、逝去。

 【昭和五十三年の歌碑】
 清水みのる死去の前年、昭和五十三年九月十七日、詩碑建設委員会が浜松市西区伊左地町45番地の伊佐見公民館前に建立しました。歌碑には「聞こえます」と書いてあります。「すみお書」となっていて、清水の自筆ではありません。
▼伊佐見
公民館前
の歌碑
▼伊佐見
小学校の
歌碑
▼清水
みのる
自筆
の原稿

 【平成元年の歌碑】
 平成元年一月二十四日、清水みのるの母校、静岡県浜松市西区伊左地町5644番地・伊佐見小学校に建立されました。浜松市教育文化奨励賞受賞記念に伊佐見の子供を育てる会が寄贈したものです。歌碑と水車があります。この歌碑にも「聞こえます」と書いてありますが、これには理由があります。清水みのるの自筆歌詞に書き込みがあるのです。

 この地区は農村地帯だったので水車は珍しい物ではありませんでした。清水みのるも、水車はいつも見ていたのでしょう。

  【「聞こえます」「聞こえましょう」の考察】
 伊佐見小学校に保存されている自筆の歌碑原稿には「聞こえましょう」の「しょう」の右わきに「す」と書き加えてあります。
 原稿用紙の右隅には「歌詩正式なるもの。」と添え書きがあります。

 また「現在の当用漢字は使用しておりません。(昭和53年5月22日現在)」とも、書き加えてあります。

 ★清水みのるは「聞こえましょう」を、「聞こえます」に改め、これを正しい歌詞としたのでしょうか?
 ★それとも、「どちらで歌ってもいいですよ」と両方書いておいたのでしょうか?

  「歌詩正式なるもの。」の原稿用紙に、「これは間違いです」と、間違った歌詞を書くことはないでしょう。だとすると、清水みのるは、「どちらの歌詞で歌ってもいいですよ」と言いたかったのではないでしょうか。

 これと似たようなことを、私は思い起こします。
 「汽車ぽっぽ」の冨原薫は、昭和二十年の大晦日、NHKラジオ番組『紅白音楽試合』で川田正子が歌うために、戦争中の「兵隊さんの汽車」を戦後の「汽車ぽっぽ」に改作しました。その際、一番は「スピード スピード まどの外(早いな早いな)」と書き、二番は「ゆかいだ ゆかいだ いいながめ(景色)」と書きました。
 川田正子は進駐軍を考慮して、「スピード スピード まどの外」「ゆかいだ ゆかいだ いいながめ」と歌いましたが、『二ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和三十年発行では「早いな早いな まどの外」「ゆかいだ ゆかいだ いい景色」と掲載されています。この歌詞で歌った人も多い事でしょう。
 つまり冨原薫は「どちらの歌詞で歌ってもいいですよ」と書き残したのです。

 【現在は】
 「聞こえましょう」「聞こえます」の両方の楽譜集や歌詞集が出版され、歌われています。

  ・森昌子は「聞こえます」「仕事に励みましょう」「愉快な唄を」と歌っています。
 1983年のテレビ放送の東京放送児童合唱団との歌をYouTubeで聞くことができます。2分31秒。

  ・安田祥子 由紀さおり姉妹や、ボニージャックスは「聞こえましょう」「仕事に励みましょう」「愉快に唄を」と歌っています。これは、並木路子と同じです。

 【米山正夫の略歴】
 ・大正元年(1912年)十月三日、東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町大字隠田(おんでん)(現・渋谷区神宮前)生まれ。成蹊小、成蹊高等学校尋常科を経て同高等科中退。
 ・昭和九年、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)ピアノ科を卒業し、杉山長谷夫(「花嫁人形」「出船」「忘れな草」「苗や苗」「片しぶき」の作曲者)に師事しました。
 ・昭和十年にコロムビアから発売された「春の謳歌」(米山正夫詞・曲/江戸川蘭子唄/コロムビア/二八三二四/昭和十年五月発売)で歌謡曲界にデビューし、昭和十二年からポリドールの専属となったがヒットはなかった。
 ・昭和十九年、満洲電信電話株式会社奉天中央放送局の音楽担当となり、戦後シベリアから引き揚げて来て、旧作の曲に自ら歌詞をつけて発表したラジオ歌謡「山小舍の灯」でヒットを放ち、近江俊郎(おうみとしろう)の吹き込んだレコードが発売されて十万枚を売り尽くした(米山正夫詞・曲/近江俊郎唄/コロムビア/A三一六/昭和二十二年十一月発売)。主として歌謡曲の作曲を行いました。「リンゴ追分」(小沢不二夫・作詞)はもちろん、コロムビアの専属だった美空ひばりの多彩な歌をたくさん作詞作曲しています。
 教科書に載ったものでは、「山小舍の灯」(米山正夫作詞・作曲)などもあります。
  (註) 教科書ではタイトルが「山小屋の灯」「山小屋のともし火」「山小屋のともしび」となっています。
 ・昭和六十年(1985年)二月二十二日逝去。

 <作曲者・米山正夫の「水車」の思い出話Ⅲ>
 「私が生まれた原宿には穏田の水車といいまして、昭和になっても山手線の内側で最後まで残っていた水車がありました。竹下通りが明治通りにぶつかっている青山寄り。ここに坂があって、三輪車で遊んだものです。山手線はすでに走っていましたが、明治神宮からこのあたりまで杉木立がうっそうとしていて河原があり、水車が回っていたんです。そのあたりは水がよどんで、こわい感じだった。私が作詞・作曲した『山小屋の灯』を歌った近江俊郎がちょうど水車のあったあたりに現在住んでおり、訪れるたびに思い出します。すごくにぎやかになって若い女の子がゾロゾロ歩いていて面影はまったくなくなっているけど―」(毎日新聞学芸部『歌をたずねて』愛唱歌のふるさと(音楽之友社)抜粋)。
▼米山正夫の思い出話にある、
葛飾北斎の浮世絵に描かれた
「穏田の水車」



 【歌詞についての結論】
 「聞こえます」「聞こえましょう」
 どちらで歌っても間違いではありません。内容を考えると「聞こえます」でも違和感がありません。しかし、中高年の人は、昔聴き覚えた「聞こえましょう」と歌う人が圧倒的に多いようです。
 あなたは「聞こえましょう」と歌いますか?
 それとも、「聞こえます」と歌いますか?


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 ふたあつ

作詞:まど・みちお
作曲:山口保治

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2010年9月1日

 この歌のテーマは、「二つあるものは何だろう?」と考えさせるものです。目が二つ、手が二つは普通思い浮かびますが、おっぱいが二つは斬新なアイディアで、すばらしいと思います。曲も上品で、あたたかさがあふれています。
 昔、私が小さかった頃、「ふたあつ ふたあつ なんでしょかー」と歌っている高齢者がいました。「なんでしょかー」でも通用します。大勢の人が、そう歌っていたのには何か理由がありそうです。調べてみる事にしました。

 【初出】 昭和十一年(一九三六年)「まど、みちを」が、「二アツ」というタイトルで書いた詩が、群馬童謡詩人会の同人誌『桑の實』第二次第七号(群馬童謡詩人会)昭和十一年四月一日発行(最終号・廃刊)に掲載されたのが最初です。

 【『桑の実』について】
  ・発起人の靑柳花明(一八九三年十月十六日~一九六一年十二月十六日)は、僧侶であり童謡詩人だった。本名は興敬。昭和五年(一九三〇年)三月三十日、「群馬童謡詩人会」を創立し、昭和六年四月一日、機関誌『桑の實』を創刊した。編集は靑柳花明(編輯兼・発行者 靑柳興敬)が担当した。 『桑の實』の発行は次の四期に分けられる。

 第一期『桑の實』昭和六年(一九三一年)四月一日刊行
            昭和七年(一九三二年)三月十日第十二集
 第二期『とどめ』(『桑の實』改題)
            昭和七年(一九三二年)四月一日第一集
             昭和八年(一九三三年)三月一日第六集
 第三期『桑の葉』(『とどめ』改題)
            昭和八年(一九三三年)八月一日第一集
            昭和十年(一九三五年)八月一日第二十五集
 第四期『桑の實』(『桑の葉』改題)
            昭和十年(一九三五年)九月一日第一集
             昭和十一年(一九三六年)四月一日第七集

  ・昭和十一年(一九三六年)四月一日『桑の實』第七集を最終号として廃刊。
  ・昭和十一年(一九三六年)九月十五日刊、年刊童謡集 靑柳花明編『群像』(群馬童謡詩人会)昭和十一年版を発行して七年間の活動を停止、「群馬童謡詩人会」は解散した。
  (註)昭和十年(一九三五年)五月一日刊、年刊童謡集 靑柳花明編『群像』(群馬童謡詩人会)昭和十年版を発行の記録があります。

 【「白象社」について】
 「白象社」は、発行所、発賣所の名前です。本や同人誌のタイトルではありません。
  ・『桑の實』第七号 昭和十一年(一九三六年)四月一日發行の(一)ページに「群馬縣勢多郡粕川村大字月田一、一四三 發行所 白象社 振替東京一二四四六番」と書いてあるのが確認できます。このページには、靑柳花明の「終刊の言葉」が掲載されている(群馬県立図書館所蔵)。
  ・『桑の葉』昭和八年(一九三三年)八月一日発行の第一集には群童樂譜の広告が掲載されている。左端に「群馬縣勢多郡粕川村大字月田 發賣所 白象社 振替東京一二四四六番」と書いてあるのが、ぐんまの童謡編集委員会編『ぐんまの童謡』(群馬県教育文化事業団 平成四年発行)の89ページで確認できます。
 「發行所 白象社」「發賣所 白象社」として、同人誌や童謡曲譜の販売取り扱いをしていた
 ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には、“同人誌「白象」に載っていたこの詩が目にとまり”と書いてある。この記載の“同人誌「白象」”は間違いということになります。同人誌『桑の實』が正しい。間違った記載は、あらゆる出版物で使われてしまっています。
 (註)昭和二十四年(1949年)十一月、巽聖歌編集の季刊誌として『白象』(白象社)が創刊されたが第一冊で終わった。


                             ▲『桑の實』第七号 昭和十一年四月一日発行
                              編輯兼・發行者 靑柳興敬/編輯所 群馬童謠詩人會/發行所 白象社
                              (各住所同一) 群馬縣勢多郡粕川村大字月田一、一四三

 【詩について】
  『桑の實』第七号 昭和十一年(一九三六年)四月一日発行の(二)ページに掲載されている。
  ・原作は三節で、タイトルは「二アツ」です。
  ・一節と三節が「二アツ二アツ ナンデシヨカ」
  ・二節は「二アツ二アツ マダアツテ」
  ・三節は「オチヽヨ ホラネ」でした。
  ・一、二節は三行。
  ・三節は「二アツ二アツ ナンデシヨカ」があるので四行です。
▲『桑の實』第七号 昭和十一年(1936年)
四月一日発行掲載 「二アツ」まど、みちお

  【曲について】
 山口保治が作曲。
 ●長田暁二著『母と子のうた100選』(時事通信社)には、“同人誌に載っていたこの詩が目にとまり十一年三月に付曲”と書いてありますが、「二アツ」が掲載されたのは、群馬童謡詩人会の同人誌、『桑の實』第二次第七号(群馬童謡詩人会)昭和十一年四月一日発行。作曲は昭和十一年四月一日以降ではないだろうか?発行前に出来上がり、三月中に配布されていた可能性もあるが。「昭和十一年三月に付曲」は、正しいのだろうか?山口自身が作曲日を書き残しているのだろうか?日にちが無いのは不自然。

  【レコードについて】
  ・昭和十一年八月、キングから高橋旭子の歌でレコードに吹き込む際、山口が一番の「ナンデシヨカ」を「なんでしょね」に、三番の一行目にある「二アツ二アツ ナンデシヨカ」を削除し、「オチヽヨ」を「おっぱい」に改作しました(レコード番号11501。昭和11年9月20日発売 10月新譜)。
 この改作は、まど・みちおには、相談していなかった。改作詩は『日本童謡唱歌大系 Ⅰ』(東京書籍)で見る事ができます。
 キングレコード・高木淑子の歌は、長田暁二監修『甦える童謡歌手大全集』のCDで聴く事ができます。
  (註Ⅰ)●長田暁二著『童謡歌手からみた日本童謡史』(大月書店1994年11月発行)には、高橋旭子のルビは(あきこ)となっている。しかし、長田暁二監修『甦える童謡歌手大全集』では、(あさこ)となっている。あさこは誤植だろう。
 (註Ⅱ)このレコードについて長田暁二は次のように書いています。“(昭和)一一年に本格的スタートを切った講談社キングレコード部は、後発の不利を解消するため、当時の伏島周次郎文芸部長の発案になる子どもらしい小さい盤(八インチ=二〇センチ)二枚組(定価一円五〇銭)で対抗することになりました。黒崎義介ほか第一級の童画家による絵本式アルバムで、全曲踊りの振りがついていました。・・・九月二〇日、いよいよ第一回の新譜四曲が発売され、その中にあった「ふたぁつ」が断然好評で大ヒットになって注目されました”
 ●足羽章編『日本童謡・唱歌全集』(ドレミ楽譜出版) の解説“昭和11年3月、キングレコードから発売”は間違い。この間違った記載は、与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)の「―キングレコード 昭11・3」の解説を写したためです。(昭和11年9月20日発売 10月新譜)が正しい。

▲山口保治の改作詩 三番まで 『日本童謡唱歌大系 Ⅰ』(東京書籍)掲載

  ・次にコロムビアから松田京子が吹き込む時、山口が三番の「マダマダ イヽモノ ナンデシヨカ」を「まだまだいいもの なんでしょね」にし、山口が創作した四番を加えて現在歌われているようにしました。この改作も、まど・みちおには相談していなかった。このレコードにより広く知られるようになりました。改作詩は足羽章編『日本童謡・唱歌全集』(ドレミ楽譜出版)で見る事ができます。
 (註)松田京子は、作曲者の山口保治の主宰する児童合唱団“かなりや子供会”の一員。
 
▲山口保治の改作詩 四番まで 足羽章編『日本童謡・唱歌全集』(ドレミ楽譜出版)掲載


▲ふたあつ/絵は黒崎義介。「童謡画集(3)」1958年3月25日刊、講談社より



 【レコードは大ヒットしたが】  踊りの振り付けもついて、レコードは大ヒットしましたが、まど・みちお自身が推敲を重ねた『≪ぞうさん≫まど・みちお 子どもの歌102曲集』(フレーベル館)平成七年三月 改訂初版一刷発行には掲載されていません。
 自分が書いた「二アツ」と、まるで違う詩になってしまっているためでしょう。

  【踊りの振り付け】 『低学年用(幼稚園 小学一二年)№1学校ダンス集』丸岡嶺 振付(東京中央音楽出版社 昭和二十四年十一月五日発行)

  ●歌詞の三番は「まだ まだ いいもの 何でしよ ね」になっている。与田凖一編『日本童謡集』(岩波文庫)も、「まだ、まだ、いいもの、なんでしょ ね。」と書いてあり間違っている。「まだ まだい いいもの なんでしょ か」が正しい。
                             ▲丸岡嶺の振付

 〔後記〕
  ・ほのぼのとした曲です。子供と一緒に歌いたい、歌い継いで行きたい一曲です。文化庁編『親子で歌いつごう日本の歌百選』(東京書籍)には選ばれていません。
  ・年刊童謡集のタイトルが『群像』というのに感動しました。よいタイトルです。靑柳花明のセンスの良さが伝わって来ます。
  ・ぐんまの童謡編集委員会に「白象社」について問い合わせました。すると、財団法人・群馬県教育文化事業団より次のような返事をいただきました。
 「ぐんまの童謡編集委員会は、すでに解散しました。「二アツ」のコピーを送ります。コピー代はいりません。「白象社」という本は、群馬県教育文化事業団にも、県立図書館にもありませんでした。これくらいしかお答えできません」(2011年8月26日)。よく調べてみると、「白象社」は本や同人誌のタイトルではなかったのです。
  ・群馬県立図書館から「桑の實」7号一枚をコピーして送っていただきました。
 封筒には「心にググっと ぐんま」のキャッチコピーと、かわいい群馬のゆるキャラ「ぐんまくん」が描かれていました(2011年8月31日)。

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 若葉

作詞:松永みやお
作曲:平岡均之

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2012/09/1

  【初出】 さわやかな初夏の訪れを歌う『若葉』は、昭和十七年二月発行の『初等科音楽 二』(文部省)国民学校初等科第四学年用に掲載されました。戦時色がないので、戦後の検定教科書にも採用されました。 ※国民学校芸能科音楽参照。
 
                            ▼『初等科音楽 二』(文部省) 昭和十七年二月発行の『若葉』

 【曲名『若葉』について】
 初出の曲名は、漢字で『若葉』です。歌詞の中に「若葉」という言葉が出てきますが、曲名を『若葉』と覚えている人は少ないようです。ラジオのリクエストコーナーで探し歌として取り上げられたこともあったそうです。

  【「鳥居」「わら屋」について】
 「鳥居」や「わら屋」は、説明が困難になってきています。
 「鳥居」は、神社の入り口に建っている門です。「鳥居」について、作詞者の松永みやおの次女の松永恵美子さん(東京都町田市で第一富士幼稚園、第二富士幼稚園を経営)は、次のように語っています。 「文部省唱歌として教科書に載り、戦前までは全国の小学校で歌いました。歌詞の中の「鳥居」という言葉が神信仰につながる、という理由で占領軍のマッカーサー司令部命令でとりつぶしになったのです。その後、昭和二十六年九月八日、サンフランシスコ平和条約締結後、日本は再び独立国となり、自由をとりもどしてから『若葉』は小学校唱歌として再び歌われ始めた、という話を聞いております」(『若葉』作曲家平岡均之先生記念誌による)。
 しかし、実際には削除されていませんでした。唱歌教材選択の一般方針として、「軍国主義的なもの」「超国家主義的なもの」「神道に関係あるもの」を排除するように指示された文部省は、新主旨に基づく編集により昭和二十二年に音楽教科書を発行しました。『わか葉』は、この昭和二十二年五月発行の『四年生の音楽』(文部省)に掲載されています。「従来の文部省唱歌にあって歌詞、曲ともに優れたもの」ということで選曲されたと思われます。
 「わら屋」は、「わら屋根の家」の事ですが、今では少なくなりました。家畜飼料用のワラも、台湾からの輸入がほとんどになってしまいました。

  【作曲 秘話】
 作曲者の平岡均之の二女・石井道代さんによると、当初『若葉』の冒頭の詞は「あざやかな新緑よ」となっていて、このまま作曲するとメロディーが崩れてしまうと悩んだ平岡は、作詞者の松永みやおと相談し、「あざやかなみどりよ」として曲を完成させたそうです。

  【戦後の教科書にも掲載】
 昭和二十二年五月発行の『四年生の音楽』(文部省)に掲載されています。戦後の教科書には、『わか葉』の曲名で掲載してあります。「若」の漢字は六年生で学習し、「葉」の漢字は三年生で学習することが、文部省の学習指導要領で決められているためです。

  【戦後、歌詞の改訂があった】
 昭和二十二年五月発行の『四年生の音楽』(文部省)に掲載されている二番の歌詞は「田畑をうずめ、野山をよそい、」と改訂されています。楽譜を見ると、楽譜も「のやまをよそい」となっています。作詞 不明、作曲 平岡均之。となっている。 この「よそい」の改訂について、松永みやおの次女の松永恵美子さんに問い合わせましたが、「初めて知りました。そうなのですか」と言われました。この部分の改訂は、研究者や指導者でも知らない人が多い。
 現在、歌われているのは初出の「野山をおほひ、」の歌詞です。学校で「よそい」と教えても、定着しなかった例です。
  (註1) 昭和二十八年文部省検定教科書『二ねんせいのおんがく』(教育芸術社)昭和三十年発行を見ると、『ゆりかごのうた』では、「つき」が一つの音符にあてられていました。学校で教えても、この歌い方は不自然なので定着しませんでした。現在では初出の「つーきが」で歌い継がれています。
  (註2)昭和二十二年発行の『二ねんせいのおんがく』(文部省)に掲載した『くつがなる』では、原詩の「行(ゆ)けば」を「いけば」に、「可愛(かあー)い」を「かわいい(実際には「かー わあ いい」と歌う)」に、「み空」を「お空」に変えました。学校で教えても、この歌い方は不自然なので定着しませんでした。現在では初出の「行(ゆ)けば」「可愛い」「み空」で歌い継がれています。

  【なぜ、さわやかな歌なのか】
 ヘ長調。初出の楽譜に3と書いてあるのは、四分の三拍子の事です。「あざやかな」の歌い出しは、長六度の跳躍で始まります。初めの四小節ずつ三つのフレーズと、終わりの一つは、六小節にのばされたフレーズで作られています。 前半は、落ちついたリズムで、のびのびとダイミックな曲想です。後半は、活発な、いきいきとしたリズムで明るい旋律です。「かおる かおる」で曲の山になり、最後の「かおる」で、ゆったりと終止します 心をはずませ、さわやかに歌う事ができるのは、歌詞の中の母音にあります。 「あアざアやアかアなア」「わアかアばア」と、(ア)の母音が優勢なので口が大きく開き、明るい声がきれいに響きます。木々の緑の中で、子どもたちに歌って伝えたい一曲です。

  【松永みやお略歴】
  ・作詞者の松永みやおは、明治三十六年三月十六日、鹿児島県大島郡伊仙(いせん)村阿三(あさん)、現在の伊仙町阿三で生まれました。本名は宮生といいます。戦前から戦後しばらくの間は松永みやの名で作品を発表。
  ・伊仙小、志布志中学、東京府豊島師範学校(現・東京学芸大学)を経て、昭和十年、日本大学を卒業。豊島師範卒業後、教員となり、小・中・高校を歴任するかたわら詩作を始めました。
  ・昭和三年に詩誌『文鳥』、以後『詩の国』、『歌謡年鑑』(歌謡新聞社出版)、『国民詩人』等を編集しました。
  ・昭和十五年、皇紀二千六百年の奉祝詩天覧を蒙り、文部省の依頼で『若葉』と、昭和十六年三月発行の『うたのほん下』(文部省)国民学校初等科第二学年用に掲載の『雨ふり』「♪雨雨 降る降る 田に畑に、子供は せっせと 苗運び」(中山晋平・作曲)を作詞しました。
  (註1)童謡「たきび」は、皇紀二千六百年を記念する歌の作曲コンクールで次点だった渡辺茂にNHKから作曲が依頼されたものです。皇紀とは明治政府が定めた日本独自の紀元で、1872年(明治5年)に明治政府が神武天皇が即位した年を、記紀の記載から西暦紀元前660年と決め、その年を皇紀元年とした。それ以来、日本では西暦ではなく「皇紀」を使用したが、長引く侵略戦争による国民生活が悪化しはじめた1940(昭和15)年は数えて2600年となることから、「皇紀2600年」と称して国民的な祝いの行事が繰り広げられた。このとき作られたのが『紀元二千六百年』という歌。「奉祝国民歌」の作曲公募に、渡辺茂の応募した作品が二等に選ばれた。
  (註2)『雨ふり』は、神奈川県伊勢原大山の「大山阿夫利神社」の境内に一、二番が書かれた詩碑が建っている(昭和五十八年八月頃の建立)。詩が現代的に書き換えられている。

  ・新日本詩人協会理事、日本歌謡芸術協会常任理事、小学国語掛図、中等文法などの指導書編集、富士幼稚園園長、詩集や童謡などの著作が多数あります。
  ・東京都町田市鶴川4-22-1に住んでいましたが、秋田県田沢湖町の「作曲家平岡均之音楽碑」の建立を四ヵ月後にひかえた昭和六十三年五月八日、八十五歳で亡くなりました。 『若葉』の作曲者・平岡均之は、晩年、神奈川県座間市栗原に住んでいたので、作詞・作曲者は、すく近くに居住していたことになります。

 【松永みやお 亡くなった頃について】
 松永みやおの次女の松永恵美子さん(東京都町田市で第一富士幼稚園、第二富士幼稚園を経営)は、次のように語っています。
 「昨年の秋、記念誌に載せたいから「若葉」の作詞者として感想を書いていただきたい、との依頼がありました。それを受けた父は、とても老齢者とは思えぬほどの喜びようでありました。その勢いですぐ書いてくれればよかったのですが、年を越し、しばらく経ったある日階段を踏み外し、胸を強く打って入院、その後、老衰を伴い五月八日不帰の人となってしまいました。(八十五歳)」(作曲家平岡均之事業実行委員会編集『作曲家 平岡均之先生記念誌 若葉』昭和六十三年八月二十六日発行 より)

 【詩碑】
 松永みやおが住んでいた、東京都町田市の杉山神社境内と、同町田市飯守神社境内に『わかば』の一・二番が書かれた同じ「詩碑」があります(昭和五十七年八月建立)。
  また、『若葉』の詩碑は、松永みやおの故郷・鹿児島県伊仙町の「義名山(ぎなやま)神社」境内にも詩碑が建てられています(昭和五十七年頃の建立)。

  【平岡均之(ひらおかきんし)の略歴】
  ・明治三十四年十二月十三日、秋田県仙北郡神代(せんぼくぐんじんだい)村(現・仙北市田沢湖神代)で生まれました。本名は均(ひとし)といいます。
  ・五歳の頃、小学校教師であった父・平岡専太郎に連れられ神代村を出、明治四十年四月秋田市中通小学校に入学。父・専太郎は旧中学校教員(国・漢)の資格をとり八戸(はちのへ)中学に赴任。その後、青森、弘前(ひろさき)に転勤。
  ・明治四十四年四月、父・専太郎、埼玉県立熊谷(くまがや)中学に転任。均之も教員の父と共に埼玉県大里郡熊谷町(現・熊谷市)に移る。
  ・大正二年三月、熊谷町石原小学校卒業。
  ・大正二年四月、埼玉県立熊谷中学校に入学。
  ・大正七年六月六日、父親が突然病気で亡くなる。享年五十一歳。父死亡のため、ただちに中学校五年生(十七歳)で中退しましたが、四年卒業の資格を持つ。
  ・大正十年九月、群馬県新田郡強戸小学校代用教員になる。二十歳。
  ・大正十一年十二月、向学心に燃える均之は、独学で小学校専科正教員(音楽)の免許状を取得。二十一歳。
  ・大正十二年四月、栃木県足利市足利尋常小学東校訓導となる。二十二歳。
  ・大正十四年四月、足利尋常小学相生(あいおい)校訓導となる。二十四歳。
  ・昭和二年から宮原禎次(山田耕筰門下、大正十二年東京音楽学校卒)の作曲研究所へ通い研鑽を積む。
  ・昭和三年、宮原、中山晋平らとともに、日本民謡協会結成グループに加わり、新民謡運動をひろげる。
  ・昭和三年九月二十四日、文部省が作詞、作曲を全国に公募した、天皇即位「大礼奉祝唱歌」楽譜(作曲の部)一位入選につき賞金千円授与(昭和三年十一月十日式典)。当時、足利尋常小学相生(あいおい)校訓導勤務、均之の月給は五十円だった。
  ・昭和三年九月二十四日、「明治節唱歌」楽譜二位入選につき賞金弐百円授与。二十七歳。
  ・昭和五年、『平岡均之作曲集(新作童謡曲集第十篇)』(シンフォニー社)を出版。
  ・昭和六年六月、『平岡均之作曲集(一~三)』(京文社)を出版。
  ・野口雨情の「つくし」がレコード化され、ポリドール専属作曲家になった。東京に移住し、勤めも東京の小学校に代わった。
  ・昭和六年九月、東京市鶴巻尋常小学校訓導となる。三十歳。
  ・昭和十七年三月、「若葉」(松永みやお・作詞)が、『初等科音楽 二』(文部省)に掲載された。
  ・昭和二十一年三月、東京都牛込区早稲田国民学校訓導となる。
  (註)昭和二十二年より職名が教諭となる。
  ・戦後、教員のかたわら、文部省の依頼を受け教材などの調査委員、音楽指導要領や指導書などの編纂に携わり、退職まで長期にわたり続ける。
  ・昭和三十七年三月、早稲田小学校を六十歳で退職しました。退職後、東京書籍株式会社の顧問として教科書編纂の仕事に携わる。
  ・昭和五十一年三月三十日、心臓発作のため神奈川県座間市栗原三一七六の自宅で亡くなりました。享年七十四歳。
  ・生涯のほとんどを小学校の音楽教育に捧げた均之は、「私は小学校の音楽の教師で、幸せでした」と語っていたという。また、「音楽は心の糧」というのが均之の口癖だったそうです。
  ・現在、出典の判明できる曲は三百五十曲ほどで、他に校歌、園歌、社歌、公の歌など二百余りあります。
  ・平岡均之のほかに石巻良三、山脇三郎、加藤(東)久明、芳賀京介の筆名を使っていました。

 【歌碑】
 故郷の秋田県仙北市田沢湖神代に「作曲家 平岡均之 音楽碑」が建てられました(昭和六十三年八月二十六日建立)。『若葉』の一番の歌詞と楽譜が刻まれています。
  ▲秋田県仙北市田沢湖神代の「作曲家 平岡均之 音楽碑」    ▲記念誌 『作曲家 平岡均之先生記念誌 若葉』⇒


        らくだ                  
       都築益世(つづきますよ)  作詞
       平岡均之(ひらおかきんし) 作曲

   一、らくだは てっくりこ
      てっくり てっくり
      あるく
      こぶも背中で
      てっくり てっくり
      ゆれる

   二、らくだは てっくりこ
      てっくり てっくり
      止まる
      お口 もぐもぐ
      てっくり てっくり
      止まる

 ●国土社の詩の本1『赤ちゃんのお耳』(都築益世/詩 駒宮録郎/絵 国土社1975)の■初出発表誌・年月・作曲者一覧には“らくだ「NHKうたのおばさん」昭和24・5平岡均之曲”と書いてある。これは間違い。NHK「うたのおばさん」は昭和二十四年(1949年)八月一日開始。
 ●中田喜直編『新しく選んだ童謠曲集』(カワイ出版、昭和四十九年三月一日発行、昭和六十年七月一日発行七刷)の楽譜は、二番が「てっくりてっくり ゆれーる」で間違い。二番は「とまーる」が正しい。この楽譜集は、「めだかのがっこう」も三番が「みんなで そろって つーいつい」となっていて間違っている。三番は「みんなが」が正しい。
          ▼「らくだ」の正しい楽譜。藤田圭雄・中田喜直・阪田寛夫・湯山昭監修『日本童謡唱歌大系』第Ⅵ巻(東京書籍)1997年11月28日発行

 <「らくだ」掲載>
  ・『メロンとらくだ』ら・て・れ作品選集(国文社)昭和三十六年(1961年)八月刊行。
  ・中田喜直・小林純一編『現代こどもの歌名曲全集』(音楽之友社)昭和三十七年(1962年)三月刊行。「らくだ」都築益世・平岡均之など六十九曲。
  ・都築益世編『幼児のうた』(ら・て・れの会)昭和三十八年(1963年)九月刊行。
  ・サトウハチロー編『日本童謡集』(社会思想社)昭和四十三年(1968年)七月刊行。都築(あかちゃんのお耳、てんとうむし、ぶらんこ、らくだ)ほか。
  ・中田喜直・小林純一編『新訂 現代こどもの歌名曲全集』(音楽之友社)「らくだ」都築益世・平岡均之など百曲。昭和四十四年(1969年)二月刊行。
  ・都築益世童謡選集『てっくりてっくり・てっくりこ』(日本詩人連盟)昭和四十五年(1970年)十月刊行。
  ・『若葉』作曲家 平岡均之先生記念誌(昭和六十三年)には、童謡「らくだ」の情報はありません。

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    ≪著者・池田小百合≫
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 山のうた

作詞 久保田宵二
作曲 長谷川良夫

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2015/12/09)



  【初出】
  ・国民学校初等科第三学年用『初等科音楽 一』昭和十七年発行に掲載。
  ・曲名は「山の歌」で、歌詞には句読点がある。
 一番の四行目は「わらぢしめて、さ、のぼれ。」でした。子どもたちは、草鞋を履いていたことがわかります。時代の推移を感じます。
 (註)鼻緒だけの草履に比べ草鞋は足に密着するため、山歩きや長距離の歩行の際に非常に歩きやすく、昔は旅行や登山の必需品であった。普段は藁草履。


  ・楽譜の冒頭に「3」と書いてあるのは、四分の三拍子のことです。
  ・付点音符を使わず、四分の三拍子で、音階の音(七音)全て使用しているため、戦時中作られた曲にしては温雅な印象を残している。

  【曲名・歌詞の改訂】
 ・『三年生の音楽』昭和二十二年発行に掲載。
  ・曲名は「山のうた」で、一番の四行目は「みねをさして、さ、のぼれ。」に改訂。一、二番の三行目と四行目は歌詞を統一しました。「わらぢしめて」を「みねをさして」にしたので、今でも歌われています。

  【歌詞について】
  ・清々しい初夏の朝、山登りに向かう力のこもった気分を歌っています。
  ・詩のリズム(音数律)は、六・四調、四行で整っていて美しい。

  【曲について】
  ・ハ長調の視唱。四分の三拍子の指揮の学習のための曲。
  ・四小節ずつのフレーズ四つでまとまっています。二部形式A(aa´)A´(a´´a´´´)。 または通作形式(十六小節)とも考えられる。四つの小楽節、最後は十分終止(完全終止)で作られた自由な形式による曲。一般に通作形式といわれているが、歌曲の場合、言葉のアクセントを生かした、部分構成の規則にとらわれない形式のこと。どこにも模倣とか反復とかの技法は用いられていない。
  ・三拍子の基本的なリズム「タンタンタン|タンタンタン|タンタンタン|ターアーウン」で作られているので、覚えやすく歌いやすい。
  ・最後の二小節に「ターアータタ|ターアーウン(さのぼ|れ)」というリズムが使われ、曲全体をひきしめています。
  ・四番目のフレーズに一番強く盛り上がった感じがあります。
  ・四つのフレーズごとに、それぞれ高い山、低い山があり、最後に頂点が来ている。「山」を表現する事によって、音楽の「山」を具体的に表している。歌い継ぎたい名曲です。

  【歌い方について】
  ・明るく、力強く歌いましょう。 前半の八小節は、なめらかに歌います。後半は力のこもった「ドミソド」という旋律からはじまり、最後はリズムもしまって気持ちの盛り上がりを見せるところです。力強く歌いましょう。
  ・言葉をはっきり歌いましょう。
  ・フレーズの最後に来る二分音符の長さを十分のばして歌いましょう。
  ・「みねをさして」からは、フォルテで強い気持ちで歌います。「さ のぼれ」の「さ」には、特にアクセントを付けて歌います。
  ・速度は♩=132です。みんなそろって元気よく歩く、行進の時の速さです。テンポを正しく歌いましょう。

  【久保田宵二(くぼたしょうじ)の略歴】
  ・明治三十二年(1899年)六月二日、岡山県川上郡富家村(現・岡山県高梁市備中町)で寺の長男として生まれた。本名は久保田嘉雄。
  ・岡山県師範学校を卒業し、幾つかの教員養成課程で研鑽し、若くして主席訓導(教頭職相当)まで進んだ。小学校訓導をしながら詩や童謡を書き、地元の青年たちの詩作の指導をしていた。「岡山青年」の詩部門の選者を長く務めた。
  ・大正14年(1925年)、中央詩壇の野口雨情などの勧めもあり上京して日本大学で学びながら童謡を主として書き、歌謡曲の作詞もした。日本大学の国文科を卒業。
  ・昭和六年(1931年)コロムビアレコードに専属作詞者として入社。佐々木すぐるとコンビで「昭和の子供」「京人形」「角兵衛獅子」などを作った。
  ・昭和八年(1933年)、「ほんとにそうなら」(作曲:古賀政男、歌:赤坂小梅)がヒットして後半生は歌謡曲の作詞で活躍した。 一方で、作曲家に比べて低く置かれていた作詞家の地位向上に努め、大日本音楽著作権協会、日本音盤芸術協会の常務・常任理事を引き受け、著作権確立に生涯力を注いだ。
  ・昭和二十二年(1947年)十二月二十六日、群馬県で逝去。
  ・昭和六十二年五月四日、出身校でかつ訓導も務めた旧・備中町立布瀬小学校跡地に「久保田宵二童謡碑」が除幕された。『昭和の子供』の歌詞を刻んで、宵二のレリーフがはめ込まれている。
   〈主な著作〉
   『現代童謡論』(都村有為堂出版部 1924年)、『ねんねの小雀』(松陽堂 1925年)、『詩集 郷土』(青年社 1926年)、『宵二童謡集』(啓文社 1932年)、『國民詩々集・ニッポン』(新興音楽出版社 1941年)、『林檎籠』(新泉社 1946年)などがある。
   〈代表曲〉
   『富士山見たら』(昭和4年11月)[橋本国彦作曲、歌:四家文子]
   『ほんとにそうなら』(昭和8年5月)[古賀政男作曲、歌:赤坂小梅]
   『ひょうたんぽっくりこ』(昭和8年)[佐々木すぐる作曲]
   『赤城しぐれ』(昭和12年1月)[竹岡信幸作曲、歌:霧島昇]
   『山寺の和尚さん』(昭和12年5月)[服部良一作曲、歌:コロムビア・ナカノ・リズム・ボーイズ]
   『潮来月夜』(昭和12年7月)[竹岡信幸作曲、歌:音丸]などがある。

  【長谷川良夫(はせがわよしお)の略歴】
  ・明治四十年(1907年)十二月二十二日、東京生まれ。
  ・作曲を信時潔に師事。クラウス・プリングスハイムに師事。
  ・昭和六年(1931年)、東京音楽学校甲種師範科を卒業。
  ・昭和八年(1933年)、同研究科作曲聴講生修了。日本ビクターに所属。編曲や女声合唱団の指導をした。
  ・昭和十二年(1937年)、宝塚歌劇団作曲部に所属。
  ・昭和十三年(1938年)、ドイツに渡り、ベルリン国立歌劇場でオペラを研究。1940年帰国。
  ・昭和二十一年(1946年)、東京音楽学校(後、東京藝術大学音楽学部)作曲科教授に就任。1975年、同大学名誉教授となる。
  ・昭和五十六年(1981年)五月六日逝去。

  ・音楽教育に力を注ぎ、著書に『作曲法教程』『大和声学教程』『対位法』などがある。
  ・作品に、弦楽四重奏曲・組曲「三文版画」、器楽曲カンタータ「大いなる朝」、歌曲「万葉抄」「希望の歌」などがある。
  ・文部省の教科書に関係したのは信時潔に師事したことにある。
  「滝」・・・『新訂尋常小学唱歌(六)』昭和七年発行に掲載。 「月見草」・・・『新訂高等小学唱歌(二・女子用)』昭和十年発行に掲載。

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   加藤省吾編 童謡楽譜

 加藤省吾編『日本童謠唱歌百曲集』(新興楽譜出版社)

  <目次>
  1靑い目の人形 2めえめえ小山羊 3赤い靴 4十五夜お月さん 5七つの子・・・95スキー 96おうま 97うさぎ 98かぞえうた 99さくらさくら 100通りゃんせ 百曲掲載。

  <特記>
  1楽譜タイトル「靑い目の人形」歌詞タイトル「靑い眼の人形」
  5七つの子(かわいいななーつの)
  45みかんの花咲く丘(お船が遠く かすんでる  やさしい母さん 思はれる)
  55楽譜タイトル「烏の赤ちゃん」歌詞タイトル「からすの赤ちゃん
  60可愛いい魚屋さん(今日はお魚 いかゞでしよ お部屋ぢや 子供のお母さん きようはまだまだいりません)
  67森の小人(ちよんちよんお手々を 打ちあつて)

  加藤省吾編『日本童謠唱歌百曲集』改訂版(新興楽譜出版社) 昭和二十七年四月十日発行

▲表紙 ▲中表紙

  <目次>
  1靑い目の人形 2めえめえ小山羊 3赤い靴 4十五夜お月さん 5七つの子・・・95スキー 96おうま 97うさぎ 98かぞえうた 99はとぽつぽ 100通りゃんせ 百曲掲載。

  <特記>
  改訂版では表記を変更している。
  21雨 楽譜(べにおの かっこも)歌詞(べにおの おげたも)
  32どんぐりころころ 楽譜(どんぐりころころ どんぶりこ)歌詞(どんぐりころころ どんぐりこ)●(どんぐりこ)は間違い。ここから間違いが始まった。
  45みかんの花咲く丘(お船がとおく 霞んでる  やさしい母さん 思われる)
  50ちんから峠(春風そよ風 うれしいネ 小鳥もぴいちく 鳴いてます)
  60かわいい魚屋さん(今日はお魚 いかがでしよ お部屋ぢや 子供のお母さん 今日はまだまだ いりません)

  <改訂に就て>
 今度本書の姉妹篇として『日本名歌百曲集』を編纂発行することになりましたので曲の性質から濱千鳥、叱られて、濱邊の歌、花嫁人形、山茶花、クローバの花、鈴らんに寄せて、さくらさくら等十二曲の作品を『日本名歌百曲集』の方へ挿入し、これに變つて、當然本書に収録されるべき作品で、いたものの中から、春よ來い、雨、キューピーさん、おもちゃのマーチ、どんぐりころころ、うたい時計、くだもの屋のお店、お人形ちやんの病気、花つみ、さよならね、夢のおそり、はとぽっぽ、を新しく収録して、完璧を期することに致しました。編著者(加藤省吾)

   加藤省吾編『日本童謠百曲集(その一)』(新興楽譜出版社) 出版年は記載がない。

▲中表紙 『日本童謠唱歌百曲集』と同じ図柄

   加藤省吾編『日本童謠唱歌百曲集』(新興楽譜出版社)の改訂版。
   目次上のタイトルは『日本童謠唱歌百曲集』のままになっている。改訂版掲載の曲と(その一)掲載の曲は同一のもの。
   後に改訂版を(その一)とした。

   <目次>
  1靑い目の人形 2めえめえ小山羊 3赤い靴 4十五夜お月さん 5七つの子・・・95スキー 96おうま 97うさぎ 98かぞえうた 99はとぽつぽ 100通りゃんせ 百曲掲載。
  奥付には加藤省吾編『日本童謠百曲集(その二)』(新興楽譜出版社)、(その三)の宣伝(内容曲目)がある。

   加藤省吾編『日本名歌百曲集』(新興楽譜出版社)
   昭和二十六年六月二十日発行
   <序言>
   私はさきに・・・「日本童謠唱歌百曲集」を出版したが、これが意外な好評を博し、・・・そこで姉妹篇として、ここに中學校から高等學校並びに一般音樂愛好家を對照として本書を計画した次第である。・・・編著者(加藤省吾)

   加藤省吾編『日本童謠百曲集(その二)』(新興楽譜出版社) 昭和二十七年十月十五日発行 (その二)から(その五)までは出版年は同じ。 (その一)から(その五)までは兵庫県立大学姫路環境人間学術情報館などで所蔵。

   加藤省吾編『日本童謠百曲集(その三)』(新興楽譜出版社)

▲(その三)の表紙


▲掲載されている(その三)の内容曲目

▲童謡歌手の写真が掲載されている。
 小鳩くるみ、伴久美子など女の子は頭に大きなリボンを付けている。これが、みんなの憧れでした。
 北野修治 大貫房司 小牟禮利郎 土屋道典の写真があるのは珍しい。
  ※(その三)は、北海道在住の北島治夫さん所有、
  写真のコピーを送っていただきました。ありがとうございました(2015年2月26日)。
  




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