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池田小百合 なっとく童謡・唱歌
堀内敬三の唱歌   堀内敬三の略歴   藪田義雄の略歴
 家路  冬の星座
童謡・唱歌 事典 (編集中)


家 路

作詞・堀内敬三
作曲・ドボルザーク

池田小百合なっとく童謡・唱歌
2008/09/16

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

池田小百合『童謡を歌おう 神奈川の童謡33選』より
池田千洋 画

 【原曲】 ボヘミア(現・チェコ共和国)の作曲家アントニン・ドボルザーク(Antonín Dvořák 1841年~1904年)は、1892年、五十一歳の時、ニューヨーク国民音楽院の院長として招かれ、アメリカに四年間滞在した。その間に受けた強い印象をもとに、交響曲第9番ホ短調作品95「新世界より」を作曲(1893年)。「新世界」とは、アメリカ大陸のことです。
  ドボルザークは、チェコの民族色豊かな音楽を世界的なものにした人であり、この曲では、アメリカインディアンの民謡や、南部の黒人霊歌の旋律などを巧みに取り入れている。

  (註)高校音楽『改訂 音楽』(教育出版)昭和51年発行には、“チェコスロバキアの作曲家ドボルザークは、51才のとき”、そして「新世界から」と書いてある。

  <主題を見る>
 第二楽章の主要主題の表情記号は「Largo」。ラルゴは、幅広く、ゆるやかに。♩=40~60。イングリッシュホルンで、ゆったり演奏されるセンチメンタルな美しい主題。原曲は変ニ長調(Des Dur)。

 ドボルザークは、協奏曲(ピアノ・バイオリン各1曲、チェロ2曲)、交響曲(約9曲)、弦楽四重奏曲(約14曲)、ピアノ曲、歌曲 その他を作曲。
 弦楽四重奏曲ヘ長調作品96「アメリカ」は、1893年の夏、アイオワ州のボヘミア移民の村で、交響曲「新世界より」とともに作曲。曲の中には黒人の民謡なども取り入れられていて、メロディーやリズムが親しみやすく、人を引き付けるため、弦楽四重奏曲の中で最も有名になっている。

  【歌詞について】
 1922年、ウィリアム・フィッシャーが、第二楽章「Largo」の主旋律に「Going Home」という歌詞をつけて声楽曲にした。
 

     Going Home       作詞:W. A. Fisher

Going home, going home,
I am going home, Quiet like some still day,
I am going home.

It's not far, just close by,
Through an open door,
Work all done, care laid by,
Never fear no more.

Mother's there expecting me,
Father's waiting too,
Lots of faces gathered there,
All the friends I knew.

I am just going home

No more fear, no more pain
No more stumbling by the way,
No more longing for the day,
Going to run no more.

Morning star lights the way,
Restless dreams all gone
Shadows gone, break of day,
Real life has begun
There's no break, there's no end,
Just a living on, Wide awake with a smile,
Going on and on.

Going home, going home,
I am going home,
Shadows gone, break of day
Real life has begun

I am just going home.


 【堀内敬三の作詞の検証】
 堀内敬三の歌詞といわれるものにもいろいろあります。どれが正しいのでしょう。

  ・堀内敬三・井上武士編『日本唱歌集』(岩波文庫)には掲載されていません。

  ・金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔中〕大正・昭和篇』(講談社文庫)には、堀内敬三作詞の「家路」の初出は「―大正末ごろ」となっています。楽譜はハ長調(C Dur)、四分の四拍子。斉唱が掲載されている。14小節。「まどいせん」「夢を見ん」は各二回ずつ。二回目の「まどいせん」は、前の「まどいせん」の二倍の長さ。

  <解説を見る>
  “ドボルザーク作曲の交響曲「新世界より」の第二楽章の主題。東洋的な旋律―たとえば五音階に近い音組織、「ラ」で段落が終ったり、 「ラド」という形で終ったりする形態が日本人に親しみを感じさせ、魂をゆする。”と書いてある。
  “五音階に近い音組織”とは、四番目の「ファ」は使われていないが、七番目の「シ」は使われているので、通常の五音音階(ヨナ抜き長音階)ではない。したがって、このような表現にしてある。これは正しい。

  <ヨナ抜き音階について>
 明治時代に、ドレミの代わりにヒフミヨイムナとよんだことがあった。その四番目と七番目の音を抜くからヨナ抜き音階なのです。五音音階(ヨナ抜き長音階)という。短音階の形もある。
   (ヨナ抜き長音階)


  「家路」は、「きょうの わざを~やすらえば」まで、五小節から八小節までの四小節間に、それぞれ一小節に一回ずつ「シ」が四回使われている。(楽譜マル印参照)。
 ●『家路』は「4番目のファと7番目のシが抜けたヨナ抜き音階で書かれています」は間違いということになります。


  ●「かるく」は間違い。「かろく」が正しい。

  ・『改訂新版 中学生の音楽3』(音楽之友社)昭和50年発行には、堀内敬三作詞 の「家路」が掲載してある。金田一春彦 安西愛子編『日本の唱歌〔中〕大正・昭和篇』(講談社文庫)と同じ歌詞。
  “■混声四部合唱の響きの美しさを味わおう。”と書いてあり、混声四部合唱の楽譜が掲載されている。高度な編曲になっている。だれが編曲したのでしょう。

  ・『青年のうた』ポケット版(野ばら社)昭和50年5版発行には、「遠き山に日は落ちて Going Home(家路)」というタイトルで表記されています。堀内敬三作詞。楽譜はハ長調(C Dur)、四分の四拍子で二部合唱。12小節。「まどいせん」「夢を見ん」は、各一回だけ。
  ●「いざや楽しまどいせん」は、『青年のうた』ポケット版(野ばら社)昭和50年5版発行ほか多くの出版物が「楽しき」としています。二番の歌詞は「いざや楽し夢を見ん」なので、「楽しき」は間違い。「楽し」が正しい。
  ●「ほのお今は静まりぬ」は、多くの出版物が「静まりて」としています。一番の歌詞は「星は空をちりばめぬ」なので、「静まりぬ」が文語体で統一が取れます。
  ●「やすきみ手に守られて」は、『青年のうた』ポケット版(野ばら社)昭和50年5版発行では「深き森に 包まれて」としています。「やすきみ手に守られて」ではキリスト教色が強いため、キャンプファイヤーに合わせて変更したものでしょうが、歌詞を変えてしまうと、みんなで歌う時、困ります。

  ・米良美一編『日本のうた300、やすらぎの世界』(講談社文庫)には、堀内敬三作詞が「遠き山に日は落ちて」のタイトルで掲載してあります。 「団欒(まどい)せん」「夢を見ん」は、各三回ありますが、これはどのように歌うのでしょう。楽譜が掲載されていないのでわかりませんが、14小節以上ないと歌詞が入りません。

  (註)私、池田小百合の手持ちの音楽の教科書は、全て「家路」のタイトルです。「遠き山に日は落ちて」のタイトルで掲載されているものはありません。
 「一日(ひとひ)の終(おわ)り」は、「星かげさやかに」というタイトルでも親しまれています。六年生用の音楽教科書『音楽 6年』(音楽之友社)昭和四十年発行には、「一日の終り」のタイトルで掲載されています。ただ、「家路」も「一日の終り」も覚えにくいタイトルです。「遠き山に日は落ちて」や「星かげさやかに」の方が、ずっと覚えやすいでしょう。たとえば、磯部俶作曲の「おすもう」は、子どもたちに「おすもうくまちゃん」と言われ、タイトルを変更しました。「遠き山に日は落ちて」や「星かげさやかに」のタイトルで愛唱されているのが、理解できます。

  【JASRACの扱い】
  〔題名 家路、訳詞 堀内敬三、作詞 黒人霊歌、作曲 DVORAK ANTONIN〕となっている。
  (註1)音楽の教科書では、「作詞 堀内敬三」になっている。
  (註2)長田暁二著『世界の愛唱歌』(ヤマハミュージックメディア)によると“アメリカ黒人の民謡に心を打たれて、≪新世界より≫を書いたため「家路」の原曲は黒人霊歌だとしばしば言われ、今では黒人霊歌として歌われているのも事実である”とあります。

  【楽譜のラストについて】
 大きく分けて四種類のラストがある。どれを歌っても間違いではありません。日本では編曲者は、ほとんど注目されません。楽譜には編曲者名も書いてほしいものです。

  (1)「まどいせん」は、一回だけなので12小節。掲載スペースが小さい時に、この楽譜は便利。
  (2)「まどいせん」を、同じリズムで二回繰り返すので13小節になる。教科書に掲載する場合は一ページですむ。町のチャイムは時間制限があるので、13小節のものが使われている場合が多い。
  (3)「まどいせん」は二回。二回目の「まどいせん」は、前の「まどいせん」の二倍の長さで歌います。14小節になる。私、池田小百合が主宰している童謡の会では、この楽譜で歌っています。二回目の、のびやかな感じが気に入っています。
  (4)「まどいせん」は三回。一回目と二回目は同じリズムで、三回目は前の「まどいせん」の二倍の長さで歌います。最後は、さらに長く延ばす。16小節。この楽譜で歌えば、聴衆を魅了するステージになるでしょう。教科書に掲載すると二ページになってしまう。

  【堀内敬三の略歴


  【野上彰の作詞】
  ・『中学生の音楽3』(教育芸術社)昭和49年発行には、野上彰作詞の「家路」が掲載してあります。

                                       家路   野上彰

 変ロ長調(B Dur)、四分の四拍子、16小節。目次に(部 4)と書いてあるのは部分四部合唱のこと。解説には“※この曲は、交響曲「新世界から」の第2楽章に用いられている有名な旋律を、合唱曲にしたものである。”と書いてある。
 最初の四小節は斉唱、次の四小節は二部合唱、次の四小節は二部合唱から三部合唱になり、最後の四小節は三部合唱から混声四部合唱になる。華やかな編曲になっている。「過ぎし日よ」「母の家」は、各三回なので長い。教科書に掲載すると二ページになる。

  <半音あがる編曲>
  「ひとつ ひとつ おもいでのー」の「のー」で半音あがる編曲になっている。変化をつける事で、胸にぐっと迫るものがある。日本人はこのような旋律が大好き。
                   ▲丸で囲った部分が半音あがっている。「すぎしひよ」「ははのいえ」は三回。

  ・『中学生の音楽3』(教育芸術社)昭和39年発行にも、野上彰作詞の「家路」が掲載してある。
  変ロ長調(B Dur)、四分の四拍子、13小節。目次に(混 三)と書いてあるのは混声三部合唱のこと。最初の四小節は斉唱から二部合唱に、次の四小節は混声三部合唱に、最後の五小節は混声三部合唱から混声四部合唱に編曲してある。
 「すぎしひよ」「ははのいえ」は、各二回繰り返されている。一回目の「すぎしひよ」はフォルテでデクレシェンド。二回目の「すぎしひよ」はピアノでデクレシェンドをしながらrit.(だんだんおそく)。一回目も二回目もリズムは同じなので、13小節、一ページで終わっている。
  ●タイトルは、家路(交響曲第五番「新世界」から)と書いてある。第五番は間違い。交響曲第九番が正しい。
   監修者・下総皖一・城多又兵衛/編著者・市川都志春・石桁真礼生・畑中良輔

                ▲「すぎしひよ」「ははのいえ」は、二回。一回目も二回目もリズムは同じ。

  【藪田義雄の作詞】
  『楽しい中学生の音楽2』(音楽教育図書)昭和49年発行には、タイトル「家路」(交響曲第9番新世界より第2楽章から)〔混声3部合唱〕で、藪田義雄 作詞が掲載されている。合唱とオルガン・アコーディオンのアンサンブルに編曲してある。高度な編曲になっている。だれが編曲したのでしょう。

         家路   藪田義雄
  
    いえじさして いそぐとき、 かぜはさむく おちばとぶ。
    きみもぼくも おなじみち、 こころかよう よきともよ。
    まちのほかげ ゆらめきて、 きりにうかぶ なつかしさ。 たそがれは。
    はやすぎて、 ねぐらいそぐ からすのむれ、とおくきえて、ゆきぬ。

    いえじちかく つきがでて、 あしもかろき まがりかど。
    きみもぼくも あおぎみて、 こころかよう わがいえよ。
    どこのまども あかあかと、ひとをまねく うれしさよ。 うれしさよ。
    はやすぎて、 ねぐらいそぐ からすのむれ、とおくきえて、 ゆきぬ。

  <藪田義雄(やぶたよしお)の略歴>
  ・明治三十五年(1902年)四月十三日、神奈川県小田原町生まれ。
  ・大正七年(1918年)十月二十五日、小田原中学三年の時、国語教師で文芸部長であった小林好日(よしはる)先生に連れられて、他の生徒ら数人と一緒に、天神山の伝肇寺に仮寓した北原白秋を訪ねた。初めての出会いで、持参した歌を「君のはいいよ」と、ほめられ門人となる。「あの時のあの出会いが、私の運命を決定的なものにした。私にとっては、ほんとうに忘れがたい日になってしまった」。白秋より生涯多大な影響を受けた。
  ・大正九年(1920年)、小田原中学五年の春より同志とともに回覧雑誌『太陽の子』を創刊。県立小田原中学校卒業。
  ・大正十一年(1922年)、法政大学英文科に学ぶ。
  ・大正十二年(1923年)九月一日、関東大震災のため生家倒壊、東京遊学を延期。
  ・昭和五年(1930年)、白秋の秘書となる。昭和七年六月、白秋秘書を辞す。白秋・山田耕筰を顧問とする芸術歌曲の雑誌創刊計画に携わったが挫折、過労のため心身ともに病んで郷里小田原に帰る。昭和八年(1933年)十二月、再度上京。
  ・昭和十三年(1938年)七月、処女詩集『白沙の驛』刊行。
  ・昭和十四年(1939年)、再度白秋の秘書となり著作編纂にしたがう。四月、小池紗代と結婚。
  ・昭和十七年五月、白秋邸における勤めを辞す。九月、民謡集『夏鶯』刊行。十月、再び白秋邸に勤務、『日本伝承童謡集成』の編纂主任となる。十一月、北原白秋逝去。
  ・昭和二十一年(1946年)九月、詩集『岸花』刊行。
  ・昭和二十二年(1947年)七月から八月、小説『天國の門』・『黒子と足跡』刊行。『日本伝承童謡集成』第一巻「子守唄篇」刊行。
  ・昭和二十四年(1949年)五月、『日本伝承童謡集成』第二巻「天体気象・動植物唄篇」刊行。
  ・昭和二十五年(1950年)五月、『日本伝承童謡集成』第六巻「歳事唄・雑謡篇」刊行。
この頃より音楽教科書の作詩を依頼される事が多くなる
  ・昭和三十六年(1961年)七月、詩集『火の獨樂』・『わらべ唄考』(カワイ楽譜)刊行。
  ・昭和三十七年(1962年)一月、沙羅詩社を起し雑誌『沙羅』を創刊する。
  ・昭和四十二年(1967年)十一月、『わらべ唄風土記』刊行。
  ・昭和四十三年(1968年)三月、詩業五十年を祝う会開催。作品集『美しい時の流れに』刊行。
  ・昭和四十七年(1972年)十二月、詩集『水上を戀ふる歌』刊行。
  ・昭和四十八年(1973年)六月、白秋の初の本格的『評伝 北原白秋』(玉川大学出版部)を刊行。
  ・昭和四十九年(1974年)九月、三省堂から『日本伝承童謡集成』第一巻刊行、以降昭和五十一年までに全六巻を刊行。
  ・昭和五十一年(1976年)一月、沙羅詩社創立十五周年の会開催。二月、詩集『散華頌』刊行。六月、日本童謡協会主催日本童謡賞特別賞受賞。
  ・昭和五十三年(1978年)二月、『藪田義雄全詩集』刊行。文筆をもって終始勤めらしい勤めの経験なし。東京都世田谷区祖師谷に三十年あまり住み、二男一女を儲けたが、その後、妻と二人で町田市山崎団地に移り住み著述に専念した。
  ・昭和五十九年(1984年)二月十八日逝去。享年八十一歳。


  【久野静夫の訳詞】  
     家路   久野静夫

 CD『倍賞千恵子抒情歌全集』(キング)には久野静夫の訳詞がある。歌手・倍賞千恵子は、「なつかしや なつかしや」は二回共、同じリズムで歌っている。編曲は小川寛興。しばしば「賠償千恵子」と書いてある物を見かけるが、「賠償」は間違い。「倍賞千恵子」が正しい。
  一番の二行目の歌詞は、「ねぐらいそぐ 
鳥群れて」です。「鳥の声」や「鳥の群れ」は記憶違いです。
  一番の三行目の歌詞は、「
家(や)ごともるる ともしびの」です。「夜(よ)ごと」「夜毎(やごと)」は間違いです。「家(や)ごと」が正しい。ここは間違えると意味が違ってしまう。

  【後記】
 キャンプファイヤーのラストに歌われます。また、町の夕方の時を知らせる音楽としてもおなじみです。「家路」が使われていると、その町全体が上品な印象を受けます。私、池田小百合は、静岡県・大井川鉄道を見に行った時、夕焼けに染まるホテルの前で静かに流れる「家路」を聴いて感動した事があります。心が洗われるようでした。


















  ≪著者・池田小百合≫  



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冬の星座

文部省唱歌
作詞:堀内敬三
作曲:ヘイズ

池田小百合なっとく童謡・唱歌
(2009年2月23日)

池田小百合編著「読む、歌う 童謡・唱歌の歌詞」(夢工房)より

 【戦後の歌】
 冬の夜空の輝く星を歌ったこの愛唱歌は、昭和二十二年七月発行の『中等音楽 1』(文部省)に発表されました。中学校一年生用の教材です。
 アメリカの作曲家ヘイズが作詞・作曲した『Mollie Darling 愛しのモリー(1872年)』に、堀内敬三が作詞したものです。
 この歌が、日本で最初に歌われたのは、一九一一年(明治四十四年)、中村秋香作詞の「他郷の月」としてでした。「他郷の月」の歌詞は金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌(中)』(講談社、1979年)p.320で見ることができます。戦後、「冬の星座」が歌われ出すと、「他郷の月」は歌われなくなりました。

 【ヘイズの原曲】
 作曲者のウィリアム・シェイクスピア・ヘイズ William Shakespeare Hays (1837年7月19日~1907年7月23日)は、アメリカのケンタッキー州南部ルイヴィルの出身。一九世紀のアメリカではスティーヴン・フォスターに次ぐ有名な民謡作家でした。二十歳でケンタッキー州のジョージタウン・カレッジを卒業し、「ルイヴィル・デモクラット」という新聞のリポーターになり、余暇に曲を書いていたのですが、南北戦争(一八六一~六五)の時であったため、そのいくつかがあまりにも露骨に南軍を支持したという理由で、北軍の官憲に投獄されるという経験をしました。一八六八年に「ルイヴィル・クーリア・ジャーナル」という新聞社に勤め、三十年の間毎日健筆をふるいながら、作詞・作曲にも情熱を燃やしていました。生涯にポピュラー歌曲を約三百曲作りました。大部分の歌は作詞も手がけています。
 正確な発音はヘイズですが、日本ではヘイスで知られています。唱歌『故郷の廃家 My Dear Old Sunny Home』の作曲者としても有名です。近年、讃美歌512番「わがたましいの したいまつる」の作曲者であることも判明しました。
  (大塚野百合著『賛美歌・聖歌ものがたり』(創元社)より一部抜粋)。

 原詞は、三宅忠明氏の訳詞・解説によると、「約束してくれ、ぼく以外の者は愛さないと」と「いとしのモリー」によびかける単純な内容の恋歌で、『冬の星座』とも『他郷の月』のいずれとも関係ありません。
 曲調は同じようなリズムで、AA’BA’’の四つのフレーズから作られています。普通はA’の後で終った感じになりますが、ここではイ短調に少し変化し、次ぎのBに続きます。したがって歌の八小節の終わりごろから感じを強め、よく声をのばしてフェルマータとなります。この曲の山場です。rit.(リタルダンド)やフェルマータは、あまり激しくなくしましょう。Bの部分は少し急き込んだような気持ち、そして終わりの四小節では、落ち着きます。
 旋律のリズムはコンヴァースの『星の界』とほとんど同じです。コンヴァースの曲が歌詞の難解さゆえに教科書から消えていってしまうのを惜しんだ堀内敬三が、よく似たヘイズのこの曲を採用したのかもしれません。そう考えると、原詞と無関係な星座の歌詞をつけた理由も理解できます。それに、『星の界』と『冬の星座』の歌詞のもつ雰囲気はよく似ています。しかし、よく似ているからといって混同して歌われるということはありません。

 【その後の教科書の扱い】 昭和三十二年発行の『中学生の音楽1』(音楽之友社)の検証をしてみましょう。
 編集者は、堀内敬三(音楽評論家)、小出浩平、長谷川新一、今内繁生、越谷達之助ほか。編集参与は下総皖一、井上武士、城多又兵衛。『日本唱歌集』(岩波文庫)の井上武士とは、音楽教科書の編集の仕事も一緒にしています。
 タイトルは「冬の星座」。堀内敬三作詞、ヘイス作曲。発想標語および速度標語「しずかに 四分音符=88」。斉唱、ハ長調。簡易伴奏が付いています。日本のメロディーではないのに日本人の好きな「ヨナ抜き長音階」ドレミソラドの音で始まります。全体を通して「シ」は使われていますが、「ファ」は
ありません。六音音階で作られています。
 「くすしきひかりよ」の部分はメゾフォルテ、リタルダンド、デクレシェンドが付いています。「よ」にはフェルマータはありません。フェルマータがない方が歌いやすい。「rit.・・・a tempoの感じに気をつけましょう」と説明があります。
 ●「ヘイス(1873~1907)・・・アメリカの歌曲作曲家です」と書いてありますが、(1873年生まれ)は間違い。正しくは(1837年生まれ)です。教科書にも、このようなミスがあるものです。

 【歌詞について】格調高い文語体です。意味を理解して歌いましょう。
  「とだえて」ちょっとやんで
  「さゆる」すんで晴れわたる
  「降りしく」さかんに降りそそぐ
  「奇しき光よ」ふしぎな光よ
  「ものみな」すべてのもの
  「いこえる」やすむ
  「しじま」静かで物音のしないこと
  「きらめき揺れつつ」きらきらしながらゆれ動く
  「めぐる」まわる
  「ほのぼの」ほんのりと
  「明かりて」明るくなって
  「無窮」天地が広くてかぎりないこと
  「北斗の針」北斗七星のしめす方向

 【最後の国定教科書】
 『中等音楽(一)~(三)』(文部省)は昭和二十二年七月に発行されました。昭和二十二年四月から学制改革で六・三制となり、中学校は義務教育、男女とも三年制となりました。音楽の教科書も文部省の編集委員によって新しくなりました。編集委員は井上武士、下総皖一、城多又兵衛、小出浩平、名倉晰、岡本敏明、勝承夫。他に顧問として小松耕輔と堀内敬三が任命されました。それ以前の軍国主義教育の反省にのっとったすぐれた教科書でした。「楽しい音楽」を目指した編集委員の努力がうかがえます。
 ●金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔中〕』(講談社文庫)の「用いられたのは、二年間だけで」これは間違い。この間違った記載は、文献として多くの出版物で使われてしまいました。『中等音楽』は、実際には昭和二十九年まで使用されていました。文部省発行「教科書目録」で確認できます。
 昭和二十四年からは民間出版社刊行の検定教科書の中から各中学校でよいものを自由に選択することになりました。

 【堀内敬三の略歴】「「家路」も参照してください。
 ・明治三十年(1897年)十二月六日、東京市神田区鍛冶町七番地(現・東京都千代田区鍛冶町二丁目)で生まれました。実家は老舗の「浅田飴本舗」です。
  (註)金田一春彦・安西愛子編『日本の唱歌〔中〕大正・昭和篇』(講談社)の解説に「浅田飴の本舗のおぼっちゃんである。」と書いてあるが、資料集としてこの主観的表現は、いかがなものか。この本の解説には、時々「金田一春彦・安西愛子が書いた文章ではない」と思えるような表現があります。

 ・東京高等師範学校附属小・中学校(現・筑波大学附属小・中・高等学校)では、『キンタロー』『うらしまたろう』『青葉の笛』の作曲者、田村虎蔵から音楽の授業を受けました。
 ・大正元年(1912年)頃から親類の東京帝大生二見孝平の音楽的影響を受け、大沼哲(陸軍戸山学校軍楽隊の楽手)にピアノや和声学を学ぶ。
 ・大正四年(1917年)中学卒業、第二高等学校の受験に失敗(大正四年七月)。
 ・大正五年(1916年)、浪人生活を送っていた時、小林愛雄・大田黒元雄・野村光一・菅原明朗たちと共に岩波書店から日本最初の音楽批評誌『音楽と文学』を創刊(大正五年三月)。
 ・大正六年(1917年)二月渡米、アメリカのミシガン大学工学部で、自動車工学を学ぶほかに、同校音楽部専科で音楽理論や音楽史、楽器史も学びました。
 ・大正十年(1921年)、ミシガン大学卒業。マサチューセッツ工科大学大学院修士課程に入学し、応用力学を専攻。
 留学中は巡査の月給が七十ドルの時代に月額二百ドルの仕送りを受け、週末(月に三回程度)はボストン交響楽団の演奏会を楽しみ、それがない時はニューヨークに通った。
 ・大正十一年(1922年)には六月から九月にかけてヨーロッパを旅し、ロンドン、ベルリン、パリに滞在のほか、ベルギー、オランダ、ドイツ、イタリアを巡る。
 ・大正十二年(1923年)、マサチューセッツ工科大学修士課程を修了し、機械工学の修士号を取得し、神戸に帰港。
 留学から帰ってみると、関東大震災により横浜の倉庫が焼失、帰国前に送った実験データを全て失った。さらに神田の実家・浅田飴本舗も全焼していました。このため再渡米はかないませんでした。
 父親が合弁会社として設立した自動車修理工場の代表社員ともなったが、音楽に熱中し、翻訳、作曲、作詞、放送、音楽教育関係の仕事をおこなう。
 ・大正十四年(1925年)、東洋音楽学校(現・東京音楽大学)講師(昭和三年辞任)。東京放送局に伴奏者、洋楽解説者として出演。
 ・大正十五年(1926年)、日本放送協会嘱託・洋楽主任となる。洋楽の普及につとめ、放送音楽用語の制定や、原語名の読み方の統一その他の仕事をした。
 ・昭和二年(1927年)、野村光一の依頼で「若き血」を作詞作曲。このヒットにより音楽の道に進むことを父に許される。
 府中市のN氏のご教示によると『慶應義塾大学應援指導部75年通史』には、“予科会幹事らは新応援歌の制作を塾員の音楽評論家・野村光一に相談した。野村は発足したばかりのJOAK(東京放送局、現在のNHK)音楽部の嘱託だった堀内敬三を推薦し、予科会常任委員会の纐纈忠行、矢部勝昌、山田有三の三名を愛宕山のJOAKに連れていき堀内に引きあわせた。昭和二年(1927年)十月十八日のことである。・・・初のオリジナル曲作りに精魂こめた堀内は依頼からわずか四日後の二十二日に譜面を予科会幹事に渡した。”とある。

 ・昭和四年(1929年)日本大学講師(法文学部及び専門部の藝術学専攻)音楽概論などを教える。
 ・昭和十年(1935年)、松竹蒲田撮影所音楽部長。日本大学教授(音楽科主任)に昇任(翌年、映画科主任)。
 ・昭和十一年(1936年)、『月刊楽譜』の発行名義人となる。
 ・昭和十三年(1938年)二月、『音楽世界』主幹。同年九月二十八日、日大教授辞任。同年十月三十一日、松竹大船撮影所音楽部長辞任。
 ・昭和十六年(1941年)十一月、『月刊楽譜』『音楽世界』『音楽倶楽部』を合併して『音楽之友』を創刊、日本音楽雑誌株式会社(音楽之友社の前身)を設立、取締役社長に就任。
 戦争中は戦意昂揚の歌をたくさん作りました。空襲で焼失した浅田飴本舗(神田駅前)の敷地内にバラックを建て、音楽之友社を存続させます。ただし、戦後まもなく編集者としては引退し、一九四六年(昭和二十一年)には取締役社長も目黒三策に引き継ぎ、自らは会長職となりました。 NHKラジオの「音楽の泉」でも有名です。
 外国で入手した楽譜と語学力とを活かして優れた訳詞を行い、日本の翻訳歌曲を芸術の域に高めました。これらの訳詞は永井郁子の日本語による独唱会(初回は一九二五年十一月一日、帝国ホテル演芸場。同様の会が三年にわたって開かれた)向けに短期に集中して行われたと思われます。
 日本音楽著作権協会会長、音楽著作家組合委員長、全日本吹奏楽連盟理事長、NHK中央番組審議会委員長、音楽教育研究所理事長などを歴任。音楽界への貢献は大きい。また、数々の賞や勲章を受賞。
 「冬の星座」の他「家路」「スコットランドの釣鐘草」「モーツアルトの子守唄」「ブラームスの子守唄」などの文学的に優れた作詞や訳詞があります。
 著書に『日本流行歌』『音楽五十年史』『音楽の泉』、井上武士との共著『日本唱歌集』(岩波文庫)など多数ある。
  (註)井上武士・堀内敬三編の『日本唱歌集』(岩波文庫)には「冬の星座」は掲載されていません。

 ・昭和三十四年(1959年)、紫綬褒章受章。
 ・昭和五十八年(1983年)十月十二日、八十五歳で逝去。

  【「ラヂオ體操の歌」を作曲】
 「ラヂオ體操の歌」は、日本放送協会が詞を懸賞公募、昭和六年七月八日当選者(小川孝敏)及び歌詞を発表。歌詞は(一)「♪躍る旭日の光を浴びて~」
  昭和六年七月、堀内敬三が作曲。昭和六年七月十九日外山國彦の指導で歌発表された。昭和六年八月発売のビクターレコード(歌は内田栄一)がある。当時この歌は多くの歌手によって歌われた。毎朝JOAKよりラジオ放送の体操番組が始まる前に流れた。

  <大川澄子のレコード>
  昭和十年、大川澄子は「ラヂオ體操の歌」で全国的に知られるようになった。作曲家佐々木すぐるの門下生で、昭和七年青い鳥童謡学園に入りねコロムビアレコードとキングレコードで録音を始めた。昭和八年には、佐々木すぐるとともにコロムビアレコードの専属となり主として佐々木すぐる作曲の童謡を吹き込んだ。レコードのレーベルには次のように書いてあります。

   日本放送協會撰修
   ラヂオ体操の歌(其一)
   (日本放送協會撰歌・堀内敬三作曲・佐々木すぐる編曲)
   ラヂオ体操の歌(其二)
   (堀内敬三作歌並作曲・佐々木すぐる編曲)
   大川澄子 靑い鳥童謠音樂學校兒童 コロムビアオーケストラ伴奏
    レコード番号/Columbia 50001- B(55042)
   歌詞カードには、日本放送協會鑑修 ラヂオ體操の歌 と書いてある。

 現在歌われている「ラジオ体操の歌」は、藤原洸 作詞・藤山一郎 作曲。歌詞は(一)「♪新しい朝が来た 希望の朝だ~」。
 ●インターネット上で、堀内敬三を「ラジオ体操第一」「ラジオ体操第二」の作曲者と書いてあるのは間違い。現在流布している「ラジオ体操第一」の作曲者は服部正。「ラジオ体操第二」の作曲者は團伊玖磨です。

  ★「冬の星座」は、冬の夜空を見ながら、子どもたちに歌って伝えたい曲です。  

≪著者・池田小百合≫

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