
鳥海柵 とのみのさく
11世紀頃に安倍氏によって築かれた城柵で、安倍宗任の居城と伝わる。現在は水田と広場(公園?)、住宅地。安倍氏12柵の一つ。▼遺構や見所
■ 主郭跡 ■
段丘の端を空堀で切り離して主郭としており、今は大部分が水田で西側は東北自動車道が貫通している。目に見える形での遺構は前述の空堀以外に特に無い。
■ 空堀跡 ■
最も明確な遺構が空堀跡で、主郭と二の曲輪の間の空堀が今もハッキリ残っている。堀幅は場所によって違うものの10~20mほどあり、直線ではなく折れ曲がっていることと、小さな水路があることから、元は沢だった場所を大規模に掘ったものか。
■ 二の曲輪跡と三の曲輪跡 ■
二の曲輪・三の曲輪跡の中央が今は公園のような空き地になっている。なお、この空き地を挟んだ東西は住宅地や水田になっている。二の曲輪と三の曲輪の間にあった空堀は完全に埋められており、目に見える形での遺構は見当たらない。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 11世紀発掘調査により11世紀頃に築かれたものと推定されている。安倍氏
- 11世紀安倍頼時の三男の安倍宗任が城主となる。安倍宗任
- 1057年安倍頼時は反乱を起こした安倍富忠を説得に行くが流れ矢を受けて負傷し、鳥海柵へと運び込まれるがそのまま帰らぬ人となった。安倍宗任
- 1062年9月11日源義家と清原武則の連合軍が鳥海柵へと攻め寄せるが、安倍宗任は既に退去して無人だった。この時、城内の酒はそのまま置かれていたので義家は罠だと思ったが、雑兵たちが飲んでも何ともなかった。『陸奥話記』安倍宗任
- 1062年9月17日厨川柵で安倍氏は敗れて滅亡し、安倍宗任は投降して捕虜となって都へと送られた。-
- 12世紀発掘調査で12世紀頃まで利用された形跡が確認されており、藤原氏の時代も利用されて滅亡と共に廃城となったか。藤原氏?
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年7月13日 |
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別名 | 弥三郎館 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 11世紀頃 |
築城完了 | 11世紀頃 |
築城者 (設計者) | 安倍氏 |
分類 | 連郭式丘城(古代城柵) |
規模 | 東西300m×南北500m |
標高 | 標高:60m、比高:約10m |
文化財指定 | 国指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 曲輪跡、空堀 |
標柱・説明板 | 主郭跡と三の曲輪跡に城址碑及び説明板あり |
現状 | 水田、広場(公園?)、住宅地、東北自動車道 |
イベント | - |
注意事項 | 主郭跡へは高速道路のアンダーパス脇の狭い道から入る。二の曲輪跡からは空堀があって直接移動不可。 |
場所 | 岩手県胆沢郡金ケ崎町西根原添下 |