
胆沢城 いさわじょう
802年に征夷大将軍の坂上田村麻呂によって築かれた城柵で、後に多賀城から鎮守府が移されて陸奥国における律令政府の軍の本拠地となった。現在は史跡公園と田畑、住宅地。▼遺構や見所
■ 政庁跡 ■
胆沢城の中心よりやや南に一辺100mの正方形の内郭跡があり、かつては内郭の中に政庁があった。政庁は中央の正殿と左右の脇殿で構成されており、構造的にはスタンダードな城柵である。ただ、現状は正殿跡や門跡、築地塀跡の一部に土が盛られているだけで、整備はあまりされていない。内郭西側が民家の敷地になっているので、そういった問題もあるのかもしれない。
■ 外郭南門跡 ■
外郭は670m四方の正方形をしており、この南側にあった南門跡周辺が史跡公園として整備されている。埋蔵文化財センターから県道270号にぶつかるまでの区間の南大路は舗装され、南門跡は柱の根本のみ表示する方法で平面復元されていた。あと門脇の築地塀はコンクリートで外観復元されていた。
■ 外郭北西隅 ■
外郭は築地塀が年月を経て崩れた跡が道になっていること以外に痕跡を確認できないが、外郭の四隅に白い看板が立てられている。特に画像の北西隅のものは外側との高低差があって分かりやすくていい。
■ 鎮守府八幡宮 ■
外郭北の外側に隣接して鎮守府八幡宮があり、由緒によれば築城時に坂上田村麻呂が城の守護神として祀ったのが始まりだという。神社の境内は枯山水の庭のように整えられており、これがなかなか印象的だった。
■ 三代清水 ■
城外北西部の河岸段丘の段丘崖から湧いている清水で、坂上田村麻呂、源頼義、源義家の三代が飲用としたことからこの名が付いたという。昭和の頃までは実際に飲用水として使用していたようだが、現状は明らかに飲み水に見えない有様だった。
■ 埋蔵文化財センター ■
胆沢城を始めとした奥州市の歴史資料と埋蔵文化財を展示している。
開館:1月~12月
時間:9:00~16:00
休館日:火曜日、年末年始
入館料:200円、高校生以下無料
場所:岩手県奥州市水沢区佐倉河字九蔵田96-1
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 797年坂上田村麻呂が征夷大将軍に任命される。-
- 801年坂上田村麻呂が蝦夷(エミシ)との戦いで戦果を挙げる。-
- 802年坂上田村麻呂によって胆沢城の築城が開始される。律令政府
- 802年4月坂上田村麻呂が阿弖流為(アテルイ)などの胆沢の蝦夷を降伏させて捕らえる。律令政府
- 808年頃多賀城から鎮守府が胆沢城に移されて、律令政府の陸奥国の軍事を司る拠点となる。律令政府
- 815年城に兵士が700名常駐するようになる。律令政府
- 1053年源頼義は陸奥守との兼任で鎮守府将軍に任命され胆沢城へと赴いた。源頼義
- 1056年2月源頼義が胆沢城から多賀城に移動する途中に安倍貞任の襲撃の知らせを聞いて安倍氏との合戦が始まる。源頼義
- 1057年11月源頼義は「黄海の戦い」で安倍軍に大敗し、衣川のあたりまでが完全に安倍氏の勢力圏となった。安倍氏?
- 1062年7月源頼義は清原氏を味方に付けて安倍氏の討伐を再開し、9月には「厨川の戦い」に勝利して安倍氏を滅亡させた。?
- 11世紀「前九年の役」以降は城は荒廃し、実質城柵としての機能は失われたとされる。-
- 1922年
10月12日国指定史跡となる。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年7月13日 |
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別名 | - |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 802年 |
築城完了 | 808年頃? |
築城者 (設計者) | 坂上田村麻呂 |
分類 | 古代城柵(平城) |
規模 | 東西670m×南北670m |
標高 | 標高:49.7m、比高:- |
文化財指定 | 国指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | 外郭南門(平面復元)、築地塀(外観復元) |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 築地塀跡、大溝(堀) |
標柱・説明板 | 政庁前、及び外郭南門前に城址碑と説明板あり |
現状 | 史跡公園、田畑、民家 |
イベント | あやめ祭り(6月下旬) |
注意事項 | - |
場所 | 岩手県奥州市水沢区佐倉河 |