
牛越城 うしごえじょう
築城時期は定かでは無いが、相馬氏の家臣である牛越氏の居城と伝わる。一時、相馬氏の居城になったこともあった。現在は山林と水道施設。▼遺構や見所
■ 本丸跡 ■
画像は正確には本丸と二の丸の間の堀切の跡で、本丸跡は画像右奥になる。残念ながら今は水道施設の敷地になってフェンスが張られており、内部は確認できない。ただ、水道施設の建設で地形ごと破壊されているので、恐らく遺構は何もないと思われる。
■ 二の丸跡 ■
本丸から堀切を隔てて西側にあった曲輪で、辛うじて破壊は免れているが、内部は藪で何がどうなっているのか確認できなかった。
■ 帯郭の土塁 ■
本丸・二の丸よりも二段ほど低い位置に帯郭が設けられており、この帯郭跡には今も土塁が綺麗に残っていた。なお、帯郭の内部は雑木林になっている。
■ 千人沢の堀切 ■
牛越城は東西に長い丘陵の東端部にあるため、二の丸の西側に堀切を設けて大きく分断している。この見事な堀切は千人沢と呼ばれているが、由来まではよく判らない。
■ 妙見曲輪 ■
千人沢よりも西側の小さなピークにある曲輪だが、城からは切り離されている感じで、周囲の加工も甘いので、文字通り妙見様を祀る御堂か社があっただけの場所かもしれない。現状は竹藪化しかけている。
■ 屋敷跡? ■
城の南麓には不自然なくらい良く出来た谷戸状地形があり、丘の上がそれほど広くないことから、この辺りに屋敷があったと推測される。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1445年牛越定綱は相馬高胤に対して謀反を起こすが、文間胤久と青田清弘の策によって討ち取られた。牛越定綱
- 1573年頃相馬氏家臣の長野一路斎が城を預かり在番した。長野一路斎
- 1597年相馬義胤は築城中の村上城が出火で焼失したため、急遽牛越城を改修して居城を移した。相馬義胤
- 1597年牛越城築城の際の人夫奉行のトラブルが元で重臣の泉胤政が出奔する。相馬義胤
- 1602年5月相馬義胤が「野馬追」の打ち上げをしている最中に徳川家康より改易の通達が届く。「関ケ原の戦い」の際に石田三成に与したと判断されたのが原因だった。相馬義胤
- 1602年6月相馬義胤は三春の蒲生氏の元に身を寄せ、嫡子の相馬蜜胤が嘆願のために江戸に向かった。-
- 1602年10月相馬氏の嘆願が認められて元の所領に復帰する。相馬蜜胤
- 1602年10月牛越城は「凶瑞之城故」(改易された城であり不吉)として小高城に居城を戻し、城は廃城となった。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年3月24日 |
---|---|
別名 | - |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 不明 |
築城完了 | 不明 |
築城者 (設計者) | 牛越氏? |
分類 | 中世平山城 |
規模 | 東西400m×南北280m |
標高 | 標高:73m、比高:約35m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 郭跡、土塁、堀切、空堀 |
標柱・説明板 | 本丸跡の水道施設入口に説明板あり |
現状 | 雑木林、水道施設 |
イベント | - |
注意事項 | 本丸跡は立ち入り禁止 |
場所 | 福島県南相馬市原町区牛越字城下 |