
高田城 たかだじょう
築城については定かではないが、渋川氏の居城と伝わる。現在は商業施設と学校と畑。▼遺構や見所
■ 本丸土塁(雷神社) ■
本丸跡は開発で失われているが南東隅の土塁だけが現存しており、今は雷神社の境内となっている。この神社は恐らく渋川氏一族の小俣幸高の奥方が雷神社の大蛇だった昔話に関連するものと思われる。
■ 本丸南西隅 ■
本丸は南東隅以外の土塁は残っていないが、本丸の土塁跡と外側では今でもわずかに段差がある。画像は本丸南西隅跡で、車道の位置に本来は土塁があり、右の学校側に内堀があった。
■ 空堀跡 ■
本丸の内堀は南北と東側が開発で完全に埋められてしまっており、唯一西側だけがその痕跡を残している。ただ、内堀の西側だけは他の堀よりも幅が広く、元々あった地形を利用したと考えられている。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1453年蘆名盛詮の命で松本筑前と松本丹後は典厩の黒川の屋敷を攻撃し、典厩は敗れて高田の館へと逃れた。『塔寺八幡宮長帳』松本典厩?
- 中世渋川義清の居城と伝わる。『会津古塁記』『会津鑑』渋川義清
- 1479年渋川氏家臣の荒川数馬の手引きで蘆名盛高が渋川氏の所領へ攻め込み、渋川義基は宮川で討死し、高田城は落城した。『異本塔寺長帳』渋川義基
- 1479年?小松右京幸高の居城だったが、新鶴の横山左馬之助に攻められ、一度は大蛇の奥方の力で撃退するが、再度攻められて落城した。『会津みさとのむかしばなし』小松幸高
- 1479年?小俣宮内少輔の居城だったが、家臣が蘆名盛高に内通していたため川遊び中に城を落とされた。『大僧正天海』小俣宮内
- 1479年?蘆名盛高は舎弟の盛安に高田を与えた。『大僧正天海』蘆名盛安
- 1517年伊佐須美神社の文殊堂(※現在は護国山清龍寺文殊堂)に「平盛高、平盛安、源左衛門尉」の名義で鐘が奉納される。蘆名盛安
- 1526年蘆名盛安は子の盛常に家督を譲った。『大僧正天海』蘆名盛常
- 1536年蘆名盛常の末娘が舟木景光に嫁ぎ、子が生まれ。この子が後に仏門に入って天海を称する。『大僧正天海』蘆名盛常
- 1553年蘆名盛氏が高田村の渋川源左衛門に対して黒川城での勤務を免除している。渋川源左衛門?
- 1589年伊達政宗が「摺上原の戦い」で蘆名軍を破り、会津へと侵攻する。高田方面も制圧されており、城はこの前後に廃城となったか。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2019年4月21日 |
---|---|
別名 | 高田館 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 不明 |
築城完了 | 不明 |
築城者 (設計者) | 渋川氏? |
分類 | 中世平城 |
規模 | 東西160m×南北140m(主郭のみ) |
標高 | 標高:233m |
文化財指定 | - |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁、堀跡 |
標柱・説明板 | なし |
現状 | 商業施設、高田中学校、畑 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 福島県大沼郡会津美里町布才地 |