
三戸城 さんのへじょう
南部氏によって馬淵川と熊原川の合流地点の山の上に築かれた山城で、最初は留ヶ崎城と呼ばれていたが、南部晴政の頃にここへ居城を移してからは三戸城と呼ばれるようになった。以後は南部氏代々の居城となり、江戸時代になって盛岡城が完成すると形式上は廃城となったが城の一部は維持された。現在は県立城山公園となっている。▼遺構や見所
■ 本丸御殿跡 ■
かつて本丸御殿があった場所で、大御門から玄関までは白洲になっていたことが絵図に記載されている。また、かつては谷丸を見下ろす位置に三階櫓が建てられていた。現在は駐車場となっている。
■ 本丸諸役所地跡 ■
本丸の北東部にあった行政を司る施設で、絵図などを見る限りでは御殿跡と高さは同じくらいのはずだが、今は低くなってイベント広場になっているため、この辺りを削り取って余った土砂で谷丸側を埋めて広場にしたものと思われる。
■ 淡路丸跡 ■
本丸北東部の端にあった曲輪で、絵図では本丸より一段低く描かれている。このため比較的旧情を留めていると思われ、周囲には土塁が残っている。
■ 大御門跡 ■
本丸の表門であり、この城門が最終防衛線でもあるため櫓門の形式で塁壁に石垣も用いられるなど厳重に造られていた。現在は枡形の土塁と石垣の残骸が残るのみだが、発掘調査で門の礎石や側溝が見つかっている。画像は発掘調査前のもの。
■ 空堀跡 ■
本丸の大御門に繋がる土塁と石垣の外側には空堀が設けてあり、神社の本殿を建てる際に埋められてしまったが、北側に部分的に残っている。
■ 糠部神社 ■
本丸よりも西側にあった南部家一門の屋敷の曲輪跡に明治9年に勧請された神社で、南部家始祖の南部光行を祀っている。境内には樹齢800年の杉が鎮座している。
■ 欅御門跡 ■
南部家一門の屋敷の曲輪と重臣たちの曲輪の間にあった城門で、本来はここで道はコの字状に折り曲げられているはずだが、現状は内側の土塁が失われているようだ。
■ 鳩御門跡 ■
南部家重臣の屋敷がった曲輪と武者溜の間にあった城門で、道が折れ曲がり升形の跡が良く残されている。現在は舗装されているが、道の脇に門の礎石が転がっている。
■ 綱御門跡 ■
大手道を登ってきて山の上でまずはじめに通る城門のため厳重に造られており、門が外から見えない構造や武者溜から大手道を横や背後から攻撃できるなど技巧的に出来ている。現在は模擬城門が建てられているが、門が比較的良く出来ているものの、石垣がブロック塀なため違和感が半端ない。
■ 武者溜の現存石垣 ■
綱御門のある武者溜の曲輪はかつては全て石垣で構築されており、廃城時に破壊されて石は河川工事などに転用されてしまったが、それでも辛うじて石垣だと判る部分が残されている。画像は算木積みのためここが武者溜の石垣の隅だということが判る。
■ 門住稲荷神社と大手道 ■
城の大手道の守護として祀られていた稲荷神社で、当時とほぼ同じ場所に鎮座している。現在の車道は、この稲荷神社より上は当時の大手道と同じルートだが、麓側へ向かう大手道はこの稲荷神社の辺りで折れて麓へと延びていた。つまり福祉会館の駐車場あたり(三戸代官所跡)が本来の大手口である。
■ 鶴池・亀池 ■
本丸の搦手門から出た先にある池で、庭園のように見えるが貯水のための池である。水堀としても使っていた説があるが、流石に構造的に無理がある気がする。
■ 鍛冶御門跡 ■
三戸城の搦手口の最も外側にある城門で、石垣は一部崩れているがその形状をハッキリと留めている。なお、搦手道は門から狙い撃ちしやすい直線の堀底道になっており、この道も当時の造りをよく残している。
■ 三戸城表門 【移築】 ■
龍川寺の山門は南部氏が盛岡城に居城を移した時に三戸城の表門を払い下げて貰ったものだが、どこの門なのかは詳しく記録に残っていない。しかも、「門柱拝領」とあるため門の形も城にあった時と違う可能性もある。
■ 三戸城搦手門 【移築】 ■
法泉寺の山門は南部氏が盛岡城に居城を移した時に三戸城の搦手門を払い下げて貰ったものだが、本丸搦手門のことだろうか。法泉寺にはさらに城の御台所も移築されており、旧庫裏として使用していたという。
■ 三戸町立歴史民俗資料館(温故館) ■
三戸城関連資料や民俗資料を展示している。
開館:4月~11月
時間:9:00~16:00
休館日:月曜(月曜が祝日なら翌日)
入館料:210円、学生110円、小中学生60円
場所:青森県三戸郡三戸町梅内字城ノ下34-29
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 14~15世紀南部氏によって留ヶ崎の山に城が築かれ、留ヶ崎城又は三戸高城と呼ばれた。南部氏
- 1539年三戸城(聖寿寺館)が赤沼備中の放火によって焼失したため、南部晴政は留ヶ崎城などを仮の居城として使用した。南部晴政
- 1558年
~1570年南部晴政は留ヶ崎城を改築して新たな居城とし、以後はここが三戸城と呼ばれるようになった。南部晴政 - 1572年3月養子の田子信直と不和になっていた南部晴政は、信直が川守田の毘沙門堂を訪れた際に、自ら手勢を率いて城から出撃し信直を強襲した。晴政はこの時に信直に銃撃を受けて落馬し、信直は無事逃げ延びることが出来たという。南部晴政
- 1582年1月南部晴政が亡くなり、南部晴継が跡を継ぐが、晴政の葬儀から城に戻る途中で賊に襲われて討死してしまう。南部晴継
- 1582年1月南部晴継の後見人だった九戸実親は南部家の家督を巡って対立する田子信直を、晴継の葬儀の帰りに強襲するが、決着は付かずに逃げられている。九戸実親
- 1582年田子信直は北信愛や南長義などの南部家重臣の支持を得て、さらに八戸南部氏の後ろ盾も得たため、正式に南部家の家督を継承した。そして以後は南部信直を称した。南部信直
- 1590年4月八戸政栄に三戸城を預けて、自身は豊臣秀吉の要請に従い小田原へと参陣する。八戸政栄
- 1591年「九戸政実の乱」で南部家は2つの勢力に分かれて内戦状態となる。乱は総勢6万からなる豊臣軍が奥州へ派遣されることで鎮圧され、九戸政実の降伏をもって終息する。南部信直
- 1591年乱の舞台になった九戸城は蒲生氏郷によって改修されて南部信直に引き渡された。この時に信直は居城を九戸城に移し、名称も福岡城と改めた。南部信直
- 1591年九戸城が蒲生氏郷に改修された際に、三戸城も浅野長政によって改修されてこの時に石垣や天守閣が設けられたという。南部信直
- 1592年6月豊臣秀吉の命に従い南部氏の領内の諸城が破却され、重臣たちは三戸城内の屋敷へと移住させられた。南部信直
- 1633年盛岡城が完成したため以後は盛岡城が南部藩の藩庁となり、三戸城は「御古城」と称されるようになる。城は城代によって維持されたが、この時に城門などが払い下げられているため規模は縮小されたとみえる。南部氏家臣
- 1684年頃三戸城の城代が廃止され、以後は三戸代官所が麓に置かれて設備維持や掃除などを引き継いだ。三戸代官
- 1869年「戊辰戦争」で新政府軍に降伏した南部藩は領地を没収され、三戸郡は新政府軍に付いた弘前藩が接収した。しかし、住民の弘前藩への抵抗が強かった為、後に黒羽藩に引き渡された。黒羽藩
- 1870年黒羽藩から旧会津藩に三戸郡が引き渡され、斗南藩が新たに誕生する。この時の藩庁は三戸ではなく五戸代官所に置かれた。斗南藩
- 1871年廃藩置県により廃城となる。-
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年9月23日 |
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別名 | 糠部城、御古城 |
前身 | 留ヶ崎城、三戸高城 |
前身の築城年代 | 14~15世紀 |
築城・普請開始 | 1558~1570年頃 |
築城完了 | 1558~1570年頃 |
築城者 (設計者) | 南部晴政 |
分類 | 近世連郭式山城 |
規模 | 東西1km×南北300m、面積:1076ha(公園部分) |
標高 | 標高:130m、比高:約100m |
文化財指定 | 移築した城門2つは町指定文化財 |
現存建造物 | 移築城門、移築御台所 |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | 天守、城門 |
遺構 | 石垣、土塁、空堀、水の手、曲輪跡 |
標柱・説明板 | 大手の坂に城址碑あり。本丸と歴史民俗資料館前に説明板あり。 |
現状 | 県立城山公園(糠部神社、歴史民俗資料館) |
イベント | 4月後半(桜まつり) |
注意事項 | - |
場所 | 青森県三戸郡三戸町梅内 |