
平良ヶ崎城 へらがさきじょう
1192年に南部光行によって築かれたという伝説がある。南に舌状に伸びた丘陵の先に築かれた丘城で、南部氏の初期の居城だったが、三戸城(聖寿寺館)が築かれてからは政庁だけの機能となった。三戸五ケ城の一つ。現在は学校跡地と畑。▼遺構や見所
■ 南古館(南曲輪) ■
城の主郭とされているが、かつて学校が建っていたため正確な構造は定かではない。現在は荒れ地になっており、基本的に立ち入り禁止らしい。
■ 堀切跡 ■
この城跡で確認出来る唯一の明確な遺構だったが、車道整備でガッツリ削られてしまった。南曲輪は舌状台地をこの堀切で切り離して構築している。画像右が南曲輪で、左が北曲輪。
■ 堀切跡の旧情 ■
参考までに車道整備で削られる前(2007年)の堀切はこの通り。画像右が南曲輪で、左が北曲輪。
■ 北古館(北曲輪) ■
南曲輪と違って縄張りの北の境界があやふやだが、比較的広い平場を形成している。現在は畑になっており、南部町の資料だと東側に見える段差は腰郭跡らしい。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 1191年奥州に下向した南部光行は相内村の豪農の屋敷を仮の住まいとし、これに堀を設けて相内館と称した。南部光行
- 1192年春南部光行は雪解けを待って新たに平良ヶ崎に城を築いて居城としたという。南部光行
- 14世紀末南部信長が三戸城(聖寿寺館)を築いて居城を移すが、平良ヶ崎城には政庁の機能(内政を処理する役所)を残したという。南部信長
- 1539年
6月14日三戸城(聖寿寺館)が家臣の赤沼備中の放火によって焼失したため、一時的に平良ヶ崎城等に仮住まいしたという。南部晴政 - 1558年
~1570年留ヶ崎に新たに三戸城が築かれて屋敷も政庁もそちらに移された為、平良ヶ崎城は廃城になったとされる。南部晴政 - 1974年
7月22日町指定史跡となる。南部町
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年9月23日 |
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別名 | - |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 1192年 |
築城完了 | 1192年 |
築城者 (設計者) | 南部光行 |
分類 | 連郭式中世丘城 |
規模 | 東西160m×南北220m(南曲輪のみ) |
標高 | 標高:53m、比高:約20m |
文化財指定 | 町指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 堀切 |
標柱・説明板 | かつて学校跡地に説明板があった(※今もあるか不明) |
現状 | 学校跡地、畑 |
イベント | - |
注意事項 | 南曲輪の学校跡地は封鎖されている |
場所 | 青森県三戸郡南部町大字沖田面字南古館 |