馬場館 ばばだて
築城時期は定かではないが馬淵川左岸の段丘上に築かれた丘城で、南部氏がこの地を治めていた頃は家臣の馬場吉武の居館だった。三戸五ケ城の一つ。現在は果樹園と畑と住宅地。▼遺構や見所
■ 屋敷跡付近 ■
広義の馬場館跡は段丘上全体から本三戸八幡宮の辺りまで示しており、縄張りはあやふやである。標柱の立っているあたりが狭義の馬場館跡(屋敷跡)で、土塁らしきものも見受けられるが遺構かどうかは不明である。
■ 地獄沢土橋 ■
広義の馬場館跡の搦手口の外にある沢を渡る土橋の跡で、今は車道が通っているが下には沢の水が流れているのが音で判る。なお、地獄沢の名前は江戸時代に坂の下の河原に処刑場があったことに由来するという。
■ 稲荷神社 ■
広義の馬場館跡の搦手口の脇には稲荷神社が祀られており、馬場氏が祀ったものだと伝わる。現在は鳥居が朽ちて倒れる等荒れ果てている。
■ 本三戸八幡宮 ■
広義の馬場館跡の東端部に祀られた南部氏の氏神で、立地する場所は元々は山から東に延びる舌状台地だったが、土取りで削られて八幡宮付近が独立丘陵になってしまった。
■ 南部安信の墓 ■
本三戸八幡宮より少し低い位置に南部氏23代目当主の南部安信の墓がある。この付近は南部家当主の累代の墓所だったが、馬淵川の氾濫によって墓所が削り取られて安信の墓だけが残ったのだという。
▼歴史
- 年月日出来事城主・城代・持分・守備
- 鎌倉時代北条氏被官としてこの地を治めていた地頭代の横溝新五入道の居館と伝わる。横溝新五入道
- 鎌倉時代北条氏被官としてこの地を治めていた地頭代の会田四郎三郎の居館と伝わる。会田四郎三郎
- 1334年9月6日会田四郎三郎跡が工藤三郎景資に与えられた為、この手続きを南部師行が命じられている。工藤景資
- 15世紀頃南部家の御宝蔵奉行である馬場吉武の居館と伝わる。馬場吉武
- 1573年3月15日南部信直が馬場野の館で宴を楽しんでいた時、九戸実親の馬場野への襲撃計画を木村右馬之助から伝えられ、急いで三戸城へと戻った。そして三戸城下を通過する九戸勢に逆に手傷を負わせている。
『南部根元記』など南部氏? - 1974年7月22日町指定史跡となる。ほぼ私有地
▼詳細情報
最終訪城日 | 2018年9月23日 |
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別名 | 馬場野館 |
前身 | - |
前身の築城年代 | - |
築城・普請開始 | 鎌倉時代? |
築城完了 | 鎌倉時代? |
築城者 (設計者) | 横溝氏か? |
分類 | 中世丘城 |
規模 | 不明 (最大で東西1km×南北500m) |
標高 | 標高:64m、比高:約25m |
文化財指定 | 町指定史跡 |
現存建造物 | - |
復元建造物 | - |
模擬・復興建造物 | - |
遺構 | 土塁? |
標柱・説明板 | 段丘の中央付近の民家の脇に標柱あり |
現状 | 果樹園、畑、民家 |
イベント | - |
注意事項 | - |
場所 | 青森県三戸郡南部町小向字馬場 |