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 四章 近世の下関

1 毛利氏の支配
   毛利氏の制覇/秀吉の九州征伐/与次兵衛加瀬事件/
   毛利秀元と長府藩・清末藩

2 長府藩の施政
   入くむ三藩領/藩士の職制と家格/城ド町長府/
   村方の行政/きびしい生活統制/動揺する藩体制/

   特産物の育成
3 赤間関の発展
   商業都市への道/赤間から伊崎・竹崎へ/赤間関の町役人/
   全国的商品集散センターノ赤間関の問屋株/
   藩財政と赤間関の経済力/関門の渡しと街道

4 近世の文化と生活
   オランダ・カピタンの通行/日本人との交流/藩校と官学/
   寺子屋と民間の学問/社寺と祭り/遊郭町の盛衰

    1 毛利氏の支配 top

 毛利氏の制覇

 中世の後半期に、長く市域を支配してきた大内氏に代って、毛利元就(もとなり)が防長二か国を支配する戦国大名として台頭し、これ以後、江戸時代の終りまで、市域は毛利氏の領するところとなった。
 毛利氏は、源頼朝のブレーンだった大江広元の子孫で、相模の毛利庄(神奈川県愛甲郡)に住んで毛利姓を名のり、鎌倉の御家人となった。
 のち安芸の吉田庄(広島県高田郡)の地頭となって、以後、この地に住んだ。
 元就は、最初尼子(あまこ)氏に属していたが、一五二五(大永五)年頃から大内氏に従うようになって、大内氏支配下の有力武将に成長したのである。
 毛利氏は、前の章で述べたように、山陰の尼子氏、九州の大友氏とあい対立する勢いとなったので、関門の地は、この後もしばしば戦塵にまみれることとなり、赤間関沿岸は数百そうの兵船が集結して、対大友氏の最前線となった。
 そして一五六六(永禄九)年一一月、元就は尼子義久を降伏させ、ついには安芸・周防・長門・備中・備後・因幡・伯耆・出雲・隠岐・石見など中国筋一〇か国と、豊前・讃岐の一部を支配する、戦国群雄の一人となった。
 元就は一五七一(元亀二)年六月に病没したので、孫の輝元があとをつぎ、叔父の吉川(きっかわ)元春・小早川隆景が後見役となって、広大な領地をよく維持した。
 全国統一の途上にあった織田信長の侵攻をうけたが、その死をきっかけとして羽柴秀吉と和し、秀吉の天下統一後、豊臣政権下で一一二万石の大大名(だいだいみょう)となり、五大老の一人となって重きをなした。

 秀吉の九州征伐
 豊臣秀吉の政権のもとで九州征伐と朝鮮出兵という二つの大軍事的動員があったが、赤間関はその前線基地となった。
 九州では、薩摩の島津氏が強力となり、北進して九州全域を統一しようとしていた。
 このため豊後の大友氏ら北九州の諸大名は、秀吉に救援を求めた。
 そこで秀吉は、まず水軍力をもつ毛利氏に開戦の準備を命じた。
 一五八六(天正一四)年四月ごろから、秀吉は、赤間関に倉庫をつくること、関門の防備を増強することなどを指示し、吉川(きっかわ)元春か小早川隆景かに、早く関門の地に出陣するように命じたので、毛利輝元も九月には赤間関に着き、一〇月には小倉城を攻略した。その一方、秀吉は、兵力三〇万、馬二万頭分の兵粮(ひょうろう)・飼料の一年間分を用意させ、別に諸国の船を徴発して食糧一〇万石を赤間関に送らせ、侵攻の準備をととのえた。
  一五八七(天正一五)年三月一日、秀吉は大坂から出陣し、風景をめでながら二五日に赤間関に入り、輝元の構築した仮屋(かりや)に入った。
  これは阿弥陀寺か西南部(にしなべ)の佐甲(さこう)邸かといわれている。
 こうして、赤間関に軍事力が集中し強化されてくると、長府も含めて町全体に戦時気運がみなぎった。
 ことに天下の関白秀吉が来てからは、間諜の取締りや町内の警備・町への出入の監視・清掃・道路や橋梁の補修などが手落ちなく行なわれた。
 そのうえ、赤間関・壇之浦・関門海峡や対岸の門司・田之浦などの港には、秀吉はじめ動員された西国地方の大名の船がひしめいたのである。
 三月二六日、秀吉はこの周辺を巡見して警備の万全を命じ、のちに五奉行の一人となった増田長盛を赤間関の警固奉行に任命し、門司城の警固や渡船の取締りのための監船司(船奉行)などを設けた。
 二七日にはみずから町を巡遊し、阿弥陀寺で源平の昔をしのび、翌二八日、赤間関から小倉に向った。
 豊臣軍は九州各地で猛進撃を続け、五月八日には島津義久が降伏して戦争は終結した。
 秀吉は七月三日小倉城に着き、関門を渡り、毛利・吉川・小早川や大友宗麟(そうりん)父子共々赤間関に一泊した。
 この時秀吉は輝元に甲冑(かっちゅう)と名刀を与え、輝元もまた太刀を献上したという。
 秀吉は四日、赤間関をたち、海難を避けて、陸路山陽道を通り、一四日大坂に凱旋した。

 与次兵衛が瀬事件
 秀吉の行なった最後の軍事的大動員が、一五九二(文禄元)年と九七(慶長二)年の二度の朝鮮出兵である。
 この時も、人員や物資の輸送のため、関門の港が賑わったことはいうまでもないが、秀吉自身も、肥前名護屋(佐賀県東松浦郡鎮西町)の本営に向かう途中、長府で忌宮神社に参り、赤間関では西南部の佐甲邸を仮宿とし、亀山八幡宮・阿弥陀寺に参った。
 朝鮮出兵の経過については省略するが、第一回目の文禄の役の時、関門海峡で一つの事件が起った。
 それは、一五九二(文禄元)年七月、毛利輝元の養子となった秀元(長府初代藩主)が、秀吉の供をして小倉から海峡を渡る時に起った、「与次兵衛が瀬」の遭難事件である。

 関門海峡の西の口、彦島(もと引島)と大里(だいり、北九州市門司区)との間は大瀬戸といわれ、満潮時には隠れ、干潮時にはあらわれる暗礁があり、激潮が渦まく難所であった。 船頭の明石与次兵衛が、秀吉の乗る御座船をこの暗礁に乗りあげてしまい、大事となった。
 この時、秀元が部下を励まして救援し、秀吉を大里浜に上陸させてことなきを得たという。このことから、この瀬は与次兵衛(よじべえ)が瀬(せ)といわれ、いまでも海難事故を起こす難所となっている。
 この事件は、与次兵衛がわざと座礁させたものといわれた。
 すなわち、毛利琿元に反秀吉の逆心があって、秀吉を山陽に上陸させてはその命が危いからやったとか、彼は秀吉に滅ぼされた小田原北条氏の旧臣で復讐のためにやったとかの伝承がある。
 また、与次兵衛は責任を問われて殺されたともいう。
 赤間関の南部城に上陸した秀吉は、秀元の船に守られ大坂に帰った。
 この事件がきっかけとなって、秀元は秀吉から重要視されるようになり、以後、慶長の役のときも、輝元の代理として出陣し、活躍した。


毛利秀元の肖像
(長府博物館蔵)


串崎城跡の石垣

 毛利秀元と長府藩・清末藩
 長府藩の藩祖毛利秀元は、元就の四男元清の次男で、本藩(広島)の藩主輝元にとっていとこにあたる。
 与次兵衛が瀬事件で豊臣秀吉の信任を得たことは、先に述べた通りである。
 輝元に子がなかったため、一旦はその養嗣子(ようしし)となったが、輝元に実子秀就が生まれると、自ら後継者の位置をしりぞき、一五九九(慶長四)年六月、長門ほか一七万七八五六石を得て、山口に居城した。
 翌一六〇〇(慶長五)年、関が原の戦いで毛利家は西軍の総大将としてかっがれたため、その責任を問われ、徳川家康によって、中国筋八か国一一二石のうち防長二か国三七万石、約三分の一に領地を削減され、居城を広島から萩に移した。
 この時、秀元は三万六二〇〇石の支藩として山口を出て長府に入り、徳川幕府から準藩主の待遇をうけた。 藩領は豊東・豊西・豊田の三郡の豊浦郡全域で、家老の細川宮内に赤間関の豊前田・長崎村を与えた。
 秀元の居城については、清末の笠山、阿弥陀寺の紅石山、長府の串(櫛)崎などの候補地があったが、かっての厚東氏や大内氏の家臣内藤隆春らの居城であった串崎城を選び、再建し、いまの黒門町一帯を城内とした。


長府藩・清末藩系図 =は養子

 城下町は、城から北西にあたる忌宮神社周辺につくった。 武家町としての様子はいまも残っている。
 また、この城の景観については『豊府志略』は「東南は数十丈の崖が高くそそり立ち、曲がりくねった岩道が苔むしており、眼下の磯は白波が巻き、南は赤間津(赤間関)に連なって各国からの客船が昼夜となく次々と出入し、豊前・山陽の遠山の眺めは心をなぐさめる。
 西は陸地、北は海岸、満珠・干珠の二島の景色は神代の妙をあらわす」と述べている。
 この城は一六一五(慶長二〇=元和元)年閏六月の一国一城令により、山口高嶺城・岩国横山城と共に破却されたので、その跡地に居館を建てた。
 なお、一八六四(元治元)年二月、下関攘夷戦の激化により、藩庁は外国船の砲撃を避けて完工した勝山城(市内田倉)に移ったが、串崎の地は再び使われることなく、現在、県立豊浦高等学校用地となっている。
 秀元は、関が原戦の責任をとって隠居した輝元のあとをついだ秀就が幼少のため、一六○六(慶長一一)年から二五(寛永二)年までの一九年間、萩本藩の執政としてつとめ、五〇(慶安三)年閏一〇月、江戸で病没した。
 その後、三代藩主綱元の一六五三(承応二)年一〇月、秀元の遺志によって、叔父元知に、長府蕃領のうち竹崎浦・伊崎浦・清末村・小月村・阿内(おうち)村を分封(ぶんぼう)して、一万石清末(きよすえ)藩が成立した。
 長府藩は、五代藩主元矩(もとのり)の死後、子がなかったので一時断絶して萩本藩に領地を返還したが、二代清末藩主元平が継いで六代藩主匡広(まさひろ)となった。

市域の村々 〔長府藩領〕@勝谷村、A秋根村、B石原村、C有富村、
D延行村、E伊倉村、F稗田村、B熊野村、H幡生村、I椋野村、J
藤ヶ谷村、K高畑村、L後田村、M赤間関後地、N豊前田
〔清末藩領〕O竹崎浦、P伊崎浦。 〔吉田宰判支配地(萩本藩領)〕Q今浦。(平凡社『山口県の地名』により作図)

 匡広はのち九〇〇〇石余の加増をうけ、四万七〇〇〇石となり、一八六九(明治二)年に豊浦藩と改称した。
 一方、清末藩においても、元平が長府藩主となったため一時中絶したが、一七二九(享保一四)年に元平の次男政苗(まさなり)が一万石の分知を受けて藩を再興した。
 政直は奏者番・寺社奉行など幕府の要職をつとめたが、そのあと藩主には他家からの養子が続いたので、藩内に内紛が多かった。

  2 長府藩の施政 top

 入組む三藩領
 こうして市域には、長府藩領を中心として、萩(はぎ)本藩領・清水藩領の三藩領が入組むことになった。
 萩本藩は、藩領を宰判(さいはん)という行政区画に分けて統治していたが、市域の本藩領は吉田宰判の管轄下の吉田村・宇津井村・松屋村と今浦であった。
 三藩領の村々は右上の地図のようであるが、その様子をさらに具体的にみてみよう。
 まず、現在の下関市域になっている豊浦郡と厚狭郡とを、一六一○(慶長一五)年の検地帳でみてみると、市域の総石高二万九四七一石のうち、豊浦郡が二万四〇一二石・

四七か村、厚狭郡が五四五九石・四か村となり、市域のほとんどが豊浦郡に属していたことがわかる。
 このうち長府藩・清末藩・萩本藩を、一八四一(天保二一)年の『風土注進案』によって郡別でみると、左上表のように市域の総石高は六万二八六五石に増加しており、そのうち七〇・一パーセントが長府藩領、清末藩が赤間関の西端と本拠の清末村周辺で一三・九パーセント、萩本藩は赤間関のうちの今浦開作、それに市域東端の吉田地方で一六・〇パーセントの割合となっている。

 藩士の職制と家格
 以上のように、市域の大部分は長府藩領であるから、当然のことながら、市域の社会生活には長府藩政のありかたが大きく影響してくることとなる。
 そこで次に、藩制の構造をみてみよう。
 長府藩士は総数およそ二〇〇〇人余であったが、彼らは右表のように萩(はぎ)本藩に準じて格式づけられていた。
 清末藩の場合もほぼ同しで、家老は三家で二五○〜一五〇石、番頭・馬廻・中扈従(ちゅうこしょう)・手廻・坊主格・医者・茶道・膳夫・船頭・矢倉者・舸子(かこ)者・大工(足軽相当)・小細工人(中間相当)・足軽二組(弓組・鉄砲組)・中間六組(駕籠・長柄・小道具・厩・小人・煮方)となっていた。
 藩士の家柄の格づけである格式とは別に、実際に藩政を運営していく右表のような職制があった。
 藩政の最高責任者である当職が藩政全体を統制し、加判・評議役がこれを助ける。目付役は藩政の非違(ひい)を検察し訴訟・賞罰などを担当すると共に土木工事・検地などにあたる横目を統轄する。
 表用人(ようにん)は藩財政・貨幣・経理のことにあたり、検使・勘定役は租税や家臣の家禄のこと、郡代・寺社奉行・赤間関在番役は地方行政にあたった。以上の職にはすべて藩士が任命された。


長府城下町風景
いまも残る武家所敷の長屋門と土塀

 城下町長府
 藩領は町方と村方とに分かれていたが、長府藩の場合、町は長府と赤間関の二つしかなかった。
 赤間関については、あとで別に述べるとして、ここではまず長府藩の城下町である長府についてみてみよう。
 長府の町は、古代から国府の所在地であっただけに早くから町が形成されており、一五七四(天正二)年八月の「長門国一、二両社祭礼之事」(忌宮神社文書)には、北町・上居ノ内町・中ノ町・南ノ町・中浜町・惣社町・別所町・亀ノ甲町などの町名がある。
 また近世初期のものと思われる長府古図には、町の東南の櫛崎(くしざき)に毛利氏の居館があり、この北の壇具(だんぐ)川までの間に先御用所・御蔵屋敷よ豕臣の屋敷地と続いて、いまの侍町・侍町裏となっている。


串城崎と長府城下町 いまから約330年前の絵図の市街地部分。
(長府図書館蔵)

 壇具川の北から鞏昌(きょうしょう)川までの間の海岸線に並行して南北に走る山陽道沿いに、北から金屋町・中之町・土居之内町・中浜町・南之町と続き、「下ノ関道」に沿って惣社町がある。この町並みの西の台地に二ノ宮(忌宮)があり、さらに西の山地にかけて、北から国分寺・修禅寺・功山寺・笑山寺・日頼(にちらい)寺と続く。
 長府の町は一六一○(慶長一五年)の検地帳では「府中」とあり、町屋敷の数は五八八である。
 一六四四(正保元)年一二月の忌宮神社文書では、中世からの座(一種の同業者組合)があったことが知られる。金屋町・北町に金物座、南之町に染物・衣類の座、中浜町に呉服類の細物(ほそもの)座、上俗之内町・中之町の魚類の会物(あいもの)座、惣社町の苧(お)・筵(むしろ)類の荒物座などがみえる。
 一七八一(天明四)年の職種では右上表のようで、「府町」といわれた城下町の性格を示している。
 町の人口は一六九四(元禄七)年、町家だけで二〇六〇人、ことに男子(一一二四人)が多いことが目立つ。
 しかし一七八四(天明四)年の「豊浦藩村浦明細書」によると、人口は一四七九人と減少していて、藩勢が衰退したことを示しているようである。
 軒数は府町で三二一軒、外町としての印内(いんない)町で三九軒、なお町には町会所(まちかいしょ)・目代(もくだい)所・町客屋(本陣)・脇本陣・使者宿(五軒)・往来宿(五軒)などがあった。
 なお武士の人口は、藩の家臣団として士班・卒班合わせて約一一〇〇〇人、家族数を五〇〇〇〜六〇〇〇人とみると、城下町の総人口は七〇〇〇〜八〇〇〇人内外であったといえる。
 一八七一(明治四)年の「府町明細書」には、町家三五九軒とあり、天明期とくらべて停滞していたことがわかる。
 町政の最高責任者は町奉行で、町人の支配には有力町人の中から町役人を任命した。
 最上位に三〜五人からなる年寄役を置き、その下に町ごとに小年寄・町小頭・月行司・番屋、さらに人手を必要とする時に役夫を徴用した。
 町中の取締りについて、一六七〇(寛文一〇)年七月、寺社兼町奉行の出した「酊中御定法」によると、町中の防火、町への出入人の監視、当町町人の下関での規律、頭布の禁止、「下ノ関道」の橋の改修、清掃、棚借(借家・貸家)の申告、町家敷を町人・中間以外に売買することの禁止、などを定めている。
 町では、しばしば火災があった。一六六三(寛文三)年七月の三〇〇戸、九八(元禄一一)年一月の一五〇戸、一七三〇(享保一五)年六月の一〇〇戸などの大火があった。
 このため藩は近世初頭からたびたび防火の注意を強く申し渡しており、○六(宝永三)年三月防火の法を定め、三〇(享保一五)年八月には消防の担当区域を定めて、老臣の命を受けて消火活動するよう命している。

 村方の行政
 藩領の農村部は代官所の支配下に属し、村々が統轄されていた。
 代官所はまた勘場(かんば)ともいわれ、戸口調査・租税の徴集・諸工事の監督など、庶政一般にあたった。
 毎年三月には、各村の村役人である畔頭(くろがしら)から提出される名寄帳(耕作者別に記載した土地台帳)によって、前年からの耕作地の売買や譲渡の状態を調べて年貢を決定した(春定め)
 郡中制法を郡民に徹底させ、邪教の詮議(せんぎ)、治水・利水の普請検査、細民への飯米の貸与などを行なった(春御用)
 九月には、次年の春定め計画のため、各村の庄屋を召喚して払算用を命じ、御馳走米という正規の租税の付加税を一石につき三下五斗の割で賦課し、御普請前積りとして次年分を調べさせる。また大坂廻米・蔵米・地料・切手米などの払渡しを行なった(秋御用)
 このほかに、諸税の完納検分、修補米銀、貸付の調査、貧困者への救米などを行なった(暮御用)
また大庄屋などの村役人の任命、郡民への褒賞・処罰などを専決した。
 各村には庄屋(一人)のもとに畔頭・証人百姓があり、これを地下(じげ)三役といい、この下に五人組があった。庄屋は代官の指名で任命されたが、ほとんど特定の家の世襲であった。
 田畑三町歩(約一ヘクタール)以上を持っていること、門役銀を上納する本軒百姓であることなどがその資格であった。
 村民の戸口関係、年貢のほか、村費(村民から徴収した村の経費)にかかわる足役抨(たしやくならし、高一石につき銀二〜三匁と米一升ほど)の付加、そのほか村政一般、生産や土木関係の業務を行なった。
 その給米は、村高一〇〇石につき年三斗、足役飯米七〇日分(一日五合ずつ)、それに灯油代・筆墨代などがあり、近世末期になると苗字・帯刀を許されることもあった。
 畔頭は、庄屋が本軒百姓の中から選任した。証人百姓は、地下百姓ともいい、畔頭の下に一〜二人あって、庄屋業務の下請けの村政雑務にあたった。畔頭の下に下触(したぶれ)という伝令役があった。
 村民には本百姓(田畑・屋敷をもち、年貞・諸役を負担する。本軒・半軒・四半軒などと細分される)と門男(もうと)百姓(零細で身分の低い農民のこと)とに大別される二つの身分があった。
 経済の進展に伴い、本百姓・門男百姓の変化はあったが、その身分によって生活全般に種々の規制があった。
 なお、農工商身分の下に、長府藩・清末藩とも数はきわめて少なかったが、えた・非人などといわれた牋民があり、生活面において不当な圧迫をうけた。

 きびしい生活統制
 これまでみてきたような藩の諸制度のもとで、これ以後幕末にいたるまで、時勢の変化に応じて種々の政策が行なわれた。
 近世初期には、士農工商を基本とする身分秩序を徹底させるため、種々の法令が出され、社会生活の隅々までこまかく規制された。
 一六七〇(寛文一〇)年七月、防火消防組を制定して、賭博(とばく)、風儀、喧嘩、隣保(りんぽ)、使用人・町人の作法などの取締令を出しており、七六(延宝四)年八月には、土・農の衣服に絹を使用することを禁じ、八二(天和二)年には、毒薬・にせ金の禁止のほか、寛永の新鋳銭は小判一両が銭四貫文に相当するからこの割合を年貢納入のとき守ること、作者の不明な書画の売買、諸物の買いだめ、職人などの手間賃などについて取締る触を出した。
 また、同年七月には幕府が出した忠孝の奨励、衣服の節約、脅迫やすりの防止、盗賊・悪党の訴人(そにん)奨励、賭博や人身売買の禁止などの一〇か条を領内一八か所に掲示した。
 さらに二年後、いわゆる「天和御法度」を発令して、領内の士民・僧侶・社人に対し、衣食仕の生活全般にわたる規制を出し、倹約を命じた。
 このような法令の基本は、ほとんど幕府の方針にそったものであった。
 このような傾向は、経済情勢が悪化してくるにつれてきびしくなり、のち享保改革(一七一六〜四五年)の時には、領民に倹約を厳守することを命じ、藩士に対しても赤間関に遊興にいくことや華美な生活を禁止した。
 近世初期の安定した藩の経済状勢がしだいに悪化し、そのしわ寄せは過重な年貢となって農民の上にかかってきたのである。
 このようなおり、一七一〇(宝永七)年夏、いわゆる浮石(うきいし)農民騒動が勃発し、長府藩内の悪政が幕府の巡見使に直訴されるという大事件が起った。
 この二年前、長府藩領一帯では日照りによる損害がひどく、各村々から年貢を減らしてくれるようにとの嘆願が出ていたが、藩財政の窮乏のため、上席家老の椙杜(まきもり)元世はこれをすべて却下した。
 当時、藩の年貢率(免)は四二パーセントであったが、椙杜元世の知行地の内日(うつい)村の一部と浮石村(豊浦郡豊田町浮石)分三五四五石余に対しては四五パーセントの高率であった。
 この年は村役人らの代納と借入れによって切りぬけたが、この翌年は平年作であったのに免を二割増しとしたので、農民側は耐えられず、豊田郡代と椙杜氏に訴え、また藩家老桂縫殿(ぬい)へも越訴(おつそ)したが聞かれなかった。
 そこで村役人側は、内密に協議して、江戸表へ直訴することにした。
 ところが、たまたま藩主の代替りの巡見として、幕府の巡見使が、一七一〇(宝永七)年に長府に入ることになったので、この道中を利用して直訴することに変えた。
 しかし巡見使の日程がおくれたことと、手はずの者が炎暑と緊張によって倒れたため失敗したので、あらためて協議し、一日おくれて断行することにした。
 そして手はずどおり敢行し、訴状は巡見使の手にとどいた。
 藩はおおいに動揺したが、巡見使は農民側に同情的であった。訴人は現場で捕えられ、赤間関の御用所に留置されたあと、取調べもないまま長府の獄舎に送られた。
 ところが裁判の時、取調べ役人の間に紛争が起り、刃傷沙汰にまでなり、農民側に同情的で判決の引きのばしもあったが、一二月、裁断がくだった。
 直接関係した村役人四人は死罪、連累(れんるい)の二人は蓋井(ふたおい)島に流罪となって他はとがめがなかった。
 死罪の者は同月末、長府町内を引きまわしのうえ、松小田(まつおだ)の刑場で斬首された。
 しかし、貢租増徴のため村から出した借用証文は焼却され、前年の貢柤二割増し分もやめることになって、農民の要望はすべて貫徹された。
 斬られた首はその夜のうちにどこかに持ちさられ、一方、椙杜家はこの騒動の責任を問われて知行地の一部を取上げられたが、一七二四(享保九)年、長府を出奔(しゅっぽん)してしまった。

 動揺する藩体制
 一七四八(寛延元)年一二月、朝鮮通信使が来朝したときに、そのための経費が増大したとして、藩士に命じて歩上制(ぶあがりせい、御馳走米)として、家禄一一〇〇石以上は四歩(四パーセント)上り、一〇〇石以上は三歩上り、九〇石以下は二歩上りで領主に上納するという、暮府の上米(あげまい)制に似た新税を藩士に課した。
 江戸時代の中期には、飢饉が続発したため年貢にも限度があった。そこで再び藩士にしわよせがいくこととなり、一八一五(文化一二)一二月には、財政窮迫のため士卒の知行・禄米の半分を借りあげる半知馳走米制を実施したりした。
 こうした藩財政の窮状を打開するために、幕府の天保改革の時に、長府藩でも中士層出身の山本市郎兵衛が登用されて財政改革に着手した。
 士卒からの俸禄の借上げや、運上銀・付加税の増徴、質素倹約の励行などを断行しようとしたが、とくに藩士や赤間関商人の猛反撃をうけて失脚した。


長府藩の藩札

 さらに近世中期以降になると、藩札問題で藩財政がいっそう混乱してきた。
 近世では幕府が貨幣の鋳造権をにぎり、金座・銀座・銭座(ぜにざ)を設けて、金(大判・小判)・銀(丁銀・豆板銀)・銭(文銭)のいわゆる三貨を全国通用の貨幣とした。
 しかし近世中期以降になると、藩財政の窮乏を打開するため、藩が紙幣すなわち藩札を発行することが多くなった。
 幕府は藩札発行に一時制約を加えたが、一七三〇(享保一五)年にこれを撤回したので、財政窮乏に苦しんでいた各藩は争って藩札を発行した。
 萩(はぎ)本藩は一六七七(延宝五)年七月、はじめて藩札を、さらに一七五四(宝暦四)年には新札を発行していたので、これが長府藩・清末藩でも通用していた。
 これに対し、この頃両藩か発行した藩札は、その領内限りの通用であった。
 長府藩は、一八一三(文化一〇)年には他国札銀の領内での禁止を触れ、二五(文政八)年には萩藩札も早急に正銀に代えよと触れ、藩内で流通する藩札の整理をはかった。
 一八五五(安政二)年七月、長州藩は藩札として米に代えて銭札で通用する米券六種を発行し、海防対策のための臨時的な出費をまかなったが、これがその後再三発行されたので、札の価格はさがり、偽造する者も出た。
 こうしたことで米銭札は、幕末の藩内経済をますます混乱させたのである。
 長府藩は、こうした内政問題のみにとどまらず、外海に面しているので、外交問題も起った。
 一六五二(承応元)年七月、六連島沖に清国船が来航、七八(延宝六)年角(つの)島に南京(ナンキン)の商船の漂着があり、鎖国政策の下でいずれも長崎送りとした。
 しかし外国船との交渉が、このような偶発的な接触だけではなく、「抜荷(ぬけに)買い」と袮する密貿易として行なわれてくるようになると問題化した。
 一七一四(正徳四)年、長府藩は幕命により赤間関の王司鼻(おうじばな)に番所を設けて取締りを厳重にし、これに萩本藩も幕府も協力して監視することになった。
 一七一七(享保二)年五月、異国船が六連沖に来泊したので、長府・小倉・筑前の各藩がこれを追払っており、翌年には竹ノ子島や六連島に砲台を築いた。
 その後も、この周辺に異国船の出没があったので、幕府はこの地域の諸藩に厳重な警戒を命じ、二〇(享保五)年には再度にわたって異国船打払いを命令した。
 異国船出没問題は、寛政期(一七八九〜一八〇〇年)にも起った。
 一七九二(寛政四)年一一月から一二月にかけて、安岡・吉見・永田などの各浦の漁船が、一〇数そうから二〇余そうの異国船の漂流を発見しており、これに対して翌年六月、長府藩では異国船防備につき五〇〇人に近い藩士に動員をかけて撃退する態勢をとっている。
 このような異国船の来航に、市域住民がおおいに動揺したことはいうまでもない。
 長府藩は内政の財政窮乏に加えて、異国船厳戒のための出費が加わり、いよいよ政治的にも経済的にも困難の度を増していったのである。

 特産物の育成
 こうしたなかで注目される生産事業に、製糖業と製塩業があった。
 製糖業は、豊浦郡宇部村出身の永富(なごとみ)独嘯庵(どくしょうあん)の手によるものである。
 彼は長府の儒者小田享叔の兄で、上洛して医学にくわしい山脇東洋に入門した。
 たまたま長崎の人、長慶が精糖法を清国人から聞いたということを耳にしたので、次兄と共に長崎に行き、長慶からその製法を教わり、尾州藩の援助で試作に成功した。
 帰郷してさらに研究をすすめ、親や安岡村の大庄屋であった次兄の後援を得て綾羅木(あやらぎ)の海岸に甘蔗を植えた。
 この栽培はかなり評判がたったので、幕府と藩は秘作であったとしてきびしい詮議をした。
 これが事業化したことは、後日、幕府が役人を長府に派遣して精糖法を聞いていることから察せられるが、藩財政にどれだけ効果があったかはよくわかっていない。
 製塩業は、豊浦郡吉見村の永田塩田であった。
 一八一九(文政二)年一〇月、七町三反六歩の開作が終ったあと、永田郷の下田市之助・黒井の来見田源兵衛・川棚の藤井裕三の共同事業として始められ、三一(天保二)年四月、続いて永田浦に六町三反二畝一七歩の開作があったあと、塩田事業にかかった。
 前者を古浜といい三戸で、後者を新浜といい四戸で塩田を区画し、管理細則などをつくって製塩にかかった。
 しかし何分にも小規模で、瀬戸内塩田の比ではなく、これまた藩財政をどれほどうるおわせたか疑問である。

  3 赤間関の発展 top

 商業都市への道
 下関が、一般に「赤間関」といわれてきたことは、これまでみてきた通りである。
 そして、古代から中世末まで、常に、内外交通の要地であり、大陸・半島への玄関口であり、軍事基地であることも、ほとんど変らなかった。
 それが、時代の発展と共に、しだいに商品流通の要港としての性格が強くなってきたのである。
 すでに大内氏時代の一四九一(延徳二)年頃には、赤間関が町になっており、港町として網座を組織する特権的有力商人や渡し場を管理する有力町人が町を支配していたことが知られている。
 毛利氏はこの地を手にいれると赤間関奉行を設置した。一五九三(文禄二)年三月、朝鮮出兵の時、豊臣秀吉は茶壷を赤間関から埴生(はぶ)までの七里(約二八キロメートル)を陸送させているが、赤間関奉行に継人足一〇人、路銭一一八〇文を支払うよう命じている。

 大坂の陣後の、いわゆる元和優武の時代に入ると、町は交通の要衝であると共に漁業の中心地ともなってきた。
 一六七四(延宝二)年一月、漁民一二人から網座の亀屋次右衛門に出した網預りの証文によると、漁民一同が網座(網元)に運上銀(商工業者に課する一種の税金)を出し、必要な時にはいつでも御用船を出す、もし不始末があって網を取上げられても恨まない、この網座のことは先組からの伝来で今後も浦のあるかぎり中絶しない、といっている。
 この亀屋とは、西之端町に住む豪商で、「致新膏」(ちしんこう)で有名な薬問屋を兼業していた。
 同家は中世末には国衆(くにしゅう、土着の土豪)的な存在で、近世に入って在町の有力商人となったものであろう。
 その分家筋の伊藤家が、長府藩の赤間関町政にあたっていた関在番役(赤間関奉行)の下に属し、在番役を輔佐した三年寄の一人となったのである。
 ところて上近世の赤間関の戸数・人口をみると、上左の表のように、近世前半にはさしてその増減はないが、中期以降になって格段に増大していったことがわかる。
 また、長府藩から清末藩を分封した一六五三(承応二)年の豊浦郡古地図によって、赤間関とその周辺の村高をみると、右の表のようである。
 この表でみると、赤間関は高一六七八石余で、先の表からみて軒数は一〇〇〇軒を越ると推定されるから、町でありながら農家もかなりあったものと推察させる。
 赤間関が「西の浪華(なにわ)」とか「小浪華」とかいわれるように、大坂につぐ西日本の商品集散地となって登場してきたのは、西廻り航路の開通によってであった。
 これは日本海岸の奥羽筋から山陰にかけての商品を、いわゆる「北前船」によって赤間関を経て瀬戸内を航行し大坂に輸送する航路である。近世頭初の寛永年間(一六二四〜四四年)、河村瑞賢(ずいけん)の手によって開かれたものである。
 それまでは越前敦賀・若狭小浜から琵琶湖の北岸を経て湖上を渡り、近江坂本・大津などに運送された商品が、西廻り航路を利用するようになって、これらの港は局地的な交易市場となり、大打撃をうけた。その反面、赤間関は大きく発展をすることになったのである。

 赤間から伊崎・竹崎へ
 ところが、右上表のように、赤間関では元禄期から宝暦期にかけて、さして戸口が増加していない。
 それは新しい戸口が竹崎・伊崎方面に進出していったからではないかと思われる。
 前に述べたように一六五三(承応二)年、清末藩が長府藩から分封された時、港湾を含めた赤間関の地は長府藩領(西細江以東、「本関」)で、豊前田(ぶぜんだ)から西の竹崎浦・伊崎浦は清末藩領となった。
 一七一八(享保三)年に抜荷の異国船を打払う事件が起った時、萩本藩は長府藩の重臣細川氏から伊崎浦をゆずり受け、ついで三〇(享保一五)年、伊崎前面の海岸と、今浦から伊崎への入江を開いて町をつくり、伊崎・新地として支配することになった。


近世の赤間関付近 街道は海岸沿いに走っている


伊崎・竹崎付近

 近世中期・後期の竹崎浦・伊崎浦は、ともに西廻り海運によって、ことに竹崎浦の発展が著しかった。
 しかし、のちに述べるような赤間関の問屋株制(株仲間)の圧力をうけたため、ここでは間屋制は実施されなかった。
 人口は、一八三八(天保九)年、竹崎浦が八六六人、伊崎浦が九二五人であった。
 萩本藩領の伊崎・新地でも、一八四一(天保一二)年に人口は九七一人となっていた。
 そのほか、旅人として男五人・女一〇四人、茶屋・諸国廻船小宿六九軒、日用商い四〇軒というようなところに、明らかに西廻り海運が繁栄していることが知られる。
 長州藩の藩政改革者として有名な村田清風は、一八四〇(天保一一)年九月、天保改革の一環として、下関八幡方に越荷方を兼ねさせ、北前交易を利用して藩庫の充実をはかった。
 越荷方役所では、他国船が運んでくる商品(越荷)を抵当にして金融を営み、また依頼によって商品の保管をしたり、藩内の米などの産物を入札し、売却もするなど商社のような仕事もした。
 次に赤間関についてみよう。
 赤間関は右の地図のように、阿弥陀寺・外浜(とばま)・中之町・赤間・西之端・南部(なべ)・細江と連なり、背後に丘陵を背負った七か町の海岸沿いの細長い町で構成された。
 一七四二(寛保二)年頃には、すでに南部町が東・西に分かれ、また細江町も東・西に分かれて九か町となり、さらに稲荷・裏の二か町が加わった。
 長府藩は東南部町に御用所を置き、関在番役を出張させ、町方役人を監督し、町政ことに蔵米の払下げと運上銀の徴収にあたった。

 赤間関の町役人
 町方役人には大年寄・小年寄、場所により庄屋がいた。
 大年寄は一八〇一(享和元)年頃から伊藤・佐甲(さこう)・中野の三家で世襲され(一八二三年から中野家に代わった広石家、天保年間に藤田彦左衛門家になった)、月番制で関在番役の命令をうけ、西之端町にある目代所に出仕した。
 各町には小年寄一人(のち二人になった所がある)があり、交代制で必要によって目代所に出た。
 ただし小年寄のうち、阿弥陀寺町の者は特別職で、その下に庄屋を置き、町政のほかに長府藩領全般の浦々の事務をとった。
 このほか、大年寄格・小年寄格・御用達・勘定役・目代・町筆者・目明しなどがあった。
 大年寄格や小年寄格は大年寄・小年寄にさしつかえのある時に職務をとる者である。
 御用達は藩財政を援助する役目、勘定役は町会所の勘定、目代は目代所をあずかり、町筆者は町会所の書記役であった。
 目代所は刑事上の仕事も行ない、犯人の護送や駕籠のあずかりなどの仕事もあった。
 九州に最も近い外浜町堂崎(亀山八幡宮下)には船番所が置かれ、渡海の船客を監視した。
 大年寄や小年寄らの町方役人が、町の有力問屋の中から出ることは、いうまでもない。
 赤間関周辺の田中・奥小路・園田などは、長府にいる郡代が支配し、その土地の庄屋が年貢徴収や取締りにあたった。
 なお、清末藩も竹崎浦・伊崎浦に在番役を設け、各浦に大年寄・庄屋を置いて治めさせた。
 萩本藩は赤間関の発達につれ、一七五七(天暦七)年の調べでは、在番役二人・打方物頭在番二人・抜買改方二人・大筒方八人・在勤役六人・足軽七〇人を置き、六三(宝暦二一)年には新地開発を行ない、引島(彦島)・竹ノ子島・六連(むつれ)島などには遠見番所を設置し、六八(明和五)年には伊崎に宰判(さいばん)を設けた。
 幕府も、赤間関を経由する商品流通が全国経済に大きく影響することを重視して、西廻り海運を利用する幕府城米などの取締りの条令、たとえば難破船救援の制法をしばしば沿岸の各大名に流しており、長府藩も一六七五(延宝三)年二月、幕命によって赤間関に城米回送検査役を設けた。
 その時、長府藩に対して上申させた目付法規では、
 港に出た時、諸大名の場合は本陣からの人数などの証拠書をよくみること、
 家臣・寺社人・百姓・町人・その他の場合はその保証人の証拠判や日付などをよくみること、
 僧侶・旅人らの場合は往来手形をよく見届けることを厳命しており、海の関所のような役目をもっていたことがうかがえる。


赤間関の戸数・人口 1792(寛政4)年稲荷町の女数209のうち、遊女142、禿(かむろ)16、1838(天保9)年の総入口6,644人に、
清末領竹崎・伊崎1,791人と、萩本藩領今浦・新地570人とを合計すると、この港湾地区の総人口は9,005(推定9,825)人にのぽる。
なお表のうち( )内は推定、武士人口は除いた。(「毛利家乗」『天保9年赤間関人別帳』による

 次に各町の状況について、一七九二(寛政四)年の幕府の巡見使に提出した史料と、一八三八(天保九)年の『赤間関人別帳』から、その軒数・人口を表にしてみると、上表のようになる。
 この表でみると、この約五〇年間に、西之端町・西南部町を除いて、他の町々が一〜二割余の戸口の減少がみられる。
 中之町は赤間関の中央に位置したことから命名されたというが、その戸口は二割方の激減である。西之端は旧家や豪商が多かった所である。
 西南部町は西之端をうわまわる大問屋の並んだ町で、この非常な人口増は北前(きたまえ)交易の盛大になってきた反映であろう。
 東南部町から西方の町々が減少したのは、大問屋との競争に敗れた小問屋の没落、また仲仕層らが天保の飢饉のあおりで町から離れていったことや、唐戸(からと)の田中川口に年々上砂が堆積して、諸国廻船の船着きがむずかしくなってきたこともあろう。
 しかしそれだけで赤間関が衰退したとは思われない。それは先に述べたように、周辺の伊崎浦・竹崎浦の方に人口が流れていったように考えられるからである。
 稻荷町には遊郭があった。天保年間の稲荷町軒数九軒のうち四軒がそれで、女郎五六人・禿(かむろ)二九人・三味線師匠一五人、一軒で五七人を最大にして遊郭関係の総人数が一七七人に達している。
 最後に引島についてみよう。古く『日本書紀』に「穴門の引島」とみえるが、一八六三(文久三)年に彦島と改名した。
 長府藩領で、引島をいれて周辺に「七島・七浦・七崎」といわれた。
 一六一 ○(慶長一五)年の検地帳では、引島の村高三二一石余、百姓屋敷二九となっているが、一八四一(天保一二)年の史料によると人口も増加している。
 船大工・船たて場・諸船つな打ちなど船舶関係の職種のほか、造酒屋・揚酒屋・木挽・桶屋・瓦焼・七りん焼・石花灰焼・紺量・人工などがいた。

 全国的商品集散センター
 以上で、赤間関の港湾 地区の様子をひとわたりみてきたわけであるが、次に、商業都市としての面から、赤間関の繁栄ぶりをみてゆくこととしよう。
 前にも述べたように、西廻り航路の開通と北前交易により、赤間関には全国各地からの物産が集中した。
 その繁栄のありさまは、近松門左衛門の『博多小女郎浪枕』に「下の関とも名にたかき、西国一の大湊、北に朝鮮釜山海、西に長崎薩摩潟、唐土(からど)・和蘭陀(オランダ)の代物(しろもの)を、朝な夕なに引きうけて、千艘出づれは入船も、日に千貫目万貫目、小判走れば銀が飛ぶ、金色世界もかくやらん」と文学的に記されている。
 また、一七七五(安永四)年に来日したスウェーデンの植物学者ツンベルグの『日本紀行』にも、この頃の赤間関の状況について、
 大小様々の形式の船三〇〇そうが出入して商品の集散地となっていること、
 暴風雨のときの好避難港となっていること、
 陸上の商品も海上のそれに劣らないこと、
 多くの商人が来集して他地方では領国経済にはばまれて入手できにくい商品でも当地では取引されていること、などを記している。
 ここで仲継された商品を一七七九(安永八)年一月の『蔵敷仲使(仕)賃定書』から、地域別に分けてみると次のようになる。

 北国物――こんぶ・鯡(にしん)・数ノ子・能代干鰯(ほしか)・越後干鰯・津軽米・能代米・本庄米・最上米・庄内米・新庄米・米沢米・越後米・長岡米・加賀米・津軽大豆・野辺地大豆
 九州物――蝋(ろう)・煙草・櫨(はぜ)・黒白砂糖・七島表・酒・豊前米・筑前米・肥前米・肥後米および雑穀・肥後種子・九州干鰯・こんぶ
 中国物――蝋・繰綿・鉄・半切紙・木綿・古手・櫨・塩・楮・茶・油粕・焚炭・海産物(鯨・鮪)・地米・出雲米・清末米・中国米・因幡米・地大豆・因幡干鰯

 これをみると、赤間関を中心とした交易圏が、津軽海峡から日本海沿岸筋、中国・九州筋までの広い範囲にまでおよんでいたことがわかるであろう。

 赤間関の問屋株
 これら多種・多量の諸国物産の移出入に従事したのは、赤間関の問屋であった。
 彼らは取扱い品目や業種・業態別に、株札(かぶふだ)を所有するきまった数の商人で一種の回業者組合をつくり、仲間だけで営業を独占した。 これを問屋株(一般には株仲間という)といった。
 赤間関の問屋株は、領土である長府藩の保護をうけて営業を発展させたが、長府藩が公認したのは、おそらく田沼時代(一七六七〜八六年)に出そろった仲間であろう。


赤間関の港
幕末の錦絵に描かれた、伊崎から南部(なべ)町にかけての風景

 問屋・松魚仲買店・揚酒屋・酒造量・質屋・材木商・仲仕・呉服屋・瀬戸物量・生魚せり売問屋・搾油屋・持下り問屋・唐物店・薬種屋・日限り船屋の一五種であり、ここには、遠隔地交易にともなう廻船問屋筋から日用雜貨物を卸す商店株、また在方商品を取扱う業腫がみられる。
 それぞれ株札の制限があって、運上銀(口銭銀)を上納するかわりに、株札のないものは営業できなかった。
 このうち薬種屋の亀屋は一六〇五(慶長一〇)年の創業といわれ、現在にいたっている。
 また、生魚せり売問屋の桐山、瀬戸物屋の三宅、松魚仲買店の川崎屋なども、二〇〇年余も続いたという。
 これらの問屋株のうち、「万(よろず)問屋」とも呼ばれた問屋が最も有力であり、旅館・倉庫・運送・委託販売などの業務を行ない、ことに委託販売の取引額は、全商業の八割にもおよんだといわれた。
 初めは問屋だけで三六二枚の株札であったのが、一七九八(寛政一〇)年二月以降は四〇〇枚、別に仲間中だけで認めたものと思われる偽造札八枚が加わって、合わせて四〇八株となった。問屋は、一時、清末藩領でも組織化の動きがあったが、長府藩側の圧力で立ち消えとなり、長府藩領のみとなった。
 問屋には大間屋(本間屋)と小問屋(脇問屋または相問屋)とがあった。大問屋は藩の援助をうけた。
 このうち北前(きたまえ)商品を取扱う北国問屋(北前問屋)の力が最も強く、問屋取締方(かた)を出した。
 問屋取締方は一八三九(天保一〇)年、藩命により三人が年番(ねんばん)であたることになり、その中の一人は大年寄の者がなることになった。
 なお、北川問屋は二五(文政八)年一六軒であったが、明治の初めには一八軒余、明治中期には三二〜三三軒となった。
 一七九八(寛政一〇)年一一月の「問屋心得書」によると、問屋札は年々更新すること、一年に口銭銀三五貫二〇〇目余を一一月中旬に上納すること(これは長府藩の重要な収入であって、問屋は荷主(取引先)の変更ができず(定問屋という)、どうしても変更しなければならない時は口銭銀割力役か、在住の町の年寄役かの指図をうけることなどの規定がある。
 同年四月の新札引替の「御書出」にも、
 株札をもっているが商売をしない者(休株)でも、年銀一匁五分を上納すること、
 以後「脇方(わきかた)之客」を奪わないこと、問屋株札がなくて問屋仲買している者はその荷物を没収すること、
 小問屋の指示によって相応の商売をすること、直商売はけっしてしないこと、などを指示している。
 口銭銀割方役はいわば問屋の惣代であって仲間のうちから選ばれ、二〇人前後で構成され、口銭の割当や徴集、紛議の調停などにあたった。

 藩財政と赤間関の経済力
 長府藩ではこれらの問屋株をとおして、赤間関市場を掌握すると共に、その御用所(ごようしょ)が特定問屋に関蔵米(くらまい)の払下げを行なわせたように、藩と特権問屋との結びつきが強かったのである。
 しかしこのような業種別や株札などの規制が、どれだけ完全に行なわれたかということになると、実態は時代と共にしだいに乱れてきている。
 先に紹介した「問屋心得書」によって、藩は問屋制の規制を再び強化することを触れており、一八三九(天保一〇)年一月にも重ねて問屋株の規則の再確認と順法とを、きびしく達している。
 すなわち、近頃問屋仲買(なかがい)が乱れて横から客を奪ったり、問屋札(ふだ)をもたない者が営業をやったり、小宿(こやど)の者が大問屋の指図をうけずに商売したり、大間屋が船手(ふなて)の者と直商売したり、北国問屋の者が客方の陸揚げ申送り荷の依頼をことわったり、仲買が問屋の商売の領域に入組んだり、問屋筋が売買代銀の支払いをおくらせたり、入船のときの漕船を出すのが大問屋だけであるのにこれを無視したり、というような違反、そのほか、浜女・使用人・水先人・口銭(こうせん)徴集・問屋取締方など、きびしく定法(じょうほう)を守ることを命じた。
 しかしそれでもなお、いぜんとして貨物の争奪が絶えないので、九月には罰則を加えて、その口銭銀の削減率取引上の強い規制などを達している。
 このように、赤間関における問屋株制度が弱体になったことは、幕府が江戸・大坂・京都において、一八四一(天保一二)年頃に株仲間禁止令を出した時と同じような弊害が生じていたからである。
 つまり、問屋株が仲間うちの既得権を守ることにのみ熱心になり、おりから増大しつつあった北前交易の活発な商業活動に即応しきれない傾向が出てきたからである。
 長府藩が問屋株制度の厳守をたびたび触れたのは、藩財政の有力な収入源であるこの制度をなんとかして守ろうとしたためである。
 しかし北前船の寄港は、南部町だけではなく、清末藩領の伊崎にもひろがっていった。

 商業上の機関として、米会所が文政年間(一八一八〜三〇年)、藩の許可を得て神宮司町に設立された。 これは、蔵米や廻米のせり売買で相場をたて取引するものである。
 一八六一(文久元)年、藩営にして物産会所と改称し西南部町に移したが、翌々六二(文久三)年一一月、さらに諸荷物会所と変えて東南部(ひがしなべ)町に移した。
 これがさらに六七(慶応三)年三月、藩営の繰綿(くりわた)会所と称してその分店を田中町に設立、六九(明治二)年旧幕府に対する配慮もなくなったとして、この両者とも正米(しょうまい)会所と改称し、藩の運営から赤間関商人の手に移した。
 ここでは一八六三(文久二)年、正米(現物)の受渡しのみを行ない、帳合(ちょうあい)米を認めず、買埋めや売埋めの残分は必らず現物で行なうことにした。
 この建て米は、のちに防長米を中心にした。なお、正米受渡制は当地がわが国最初で、これがのちの全国の取引所で行なわれることになったものである。
 なお、長府藩士萩(はぎ)本藩に影響されて、越荷方(こしにかた)役所を赤間神宮のある紅石山の西南、関門海峡に近く(南部町)に設けたようである。
 また、赤間硯(すずり)は近世中期にすでに有名で、尾張の商人菱屋平七の一八〇一(享和元)年の『筑紫紀行』にも「此地の名産にて硯石を売家多し」と述べている。
 赤間関の発展は長府藩はもとより、萩本藩にとっても経済的発展のドル箱となった。
 赤間関の発展の中から藩の指導のもとに遠隔地交易に活動していく豪商、たとえば豊浦郡殿敷村出身の中野半左衛門や豊浦郡横野村出身の白石正一郎のような、薩長交易をはじめ、瀬戸内・九州各地との取引に進出する人物を生み出していった。
 彼らは商業上の利益を追求するばかりでなく、尊攘志士のパトロンとなり、また藩政にもかかわって、明治維新樹立のかげの貢献者となったのである。


越荷方役所跡

 関門の渡しと街道
 赤間関の繁栄を支えたものは、単に海運だけではない。
 赤間関は山陽・山陰両道の合流点であり、本土最西の玄関口であると共に、九州への渡海の最も近い要地でもあった。
 亀山八幡宮の正面鳥居の下の「山陽道」の石碑は、一八七八(明治一一)年の建立のものであり、その東側にあった堂崎渡場には、津口(つぐち)番所(関所)が設けら
れ、出入する人々を検問し、笠・頭巾(ずきん)をとることや乗物で通る者は戸を開けること、関より出る女は証文を渡す、負傷者・死人・不審者は証文があっても渡さない、堂上(公家)・大名でも不審があれば改める、といった高札が立てられていた。
 関門海峡の渡海はきわめて難航であった。江戸の洋画家の司馬江漢の『西遊口記』に、一七八八(天明八)年、この海峡を渡ったが、船を出す出さぬで論争があり、ようやく船出したが、西風吹き荒れて大波が高く、船は左右に大揺れして、「帆は横にまがり、船かたむき、潮、舟の内に入り、屋倉に入りたる者は、ふろに入たるごとく、皆々死したる者のごとく、へどをはき、誠(まこと)に舟くつがえらんとす」と記している。
 また、京都の儒医であった橘南谿(たちばななんけい)の『西遊記』にも、漁船を雇い、下僕と船頭二人の計四人で乗出したが、


山陽道の碑

 「初めのほどはさもなかりしが、中流に至れば誠に大河のごとく、逆巻く大波みなぎり落つ。常々なれし船頭なれど、急流に押落とされて、はるかに筋違いにこそ渡りぬ」として、海でありながら水勢は川のようである、小舟も木の葉のように揺れてすわることもできず、強く揺れて心地も動き、おもしろい風景も十分に眺められず、かろうじて渡り着いたと書いている。
 一六○四(慶長九)年、幕府は主要街道に一里塚を築くよう命じているが、赤間関では南部町を起点としたらしい。
 長府藩領で里標を建てたとするのは一七四三(寛永三)年七月である。
 市域の脇街道としては、南北の木屋川筋と、東西の西市〜滝部〜肥中筋と、南北の粟野〜滝部〜二見筋と、東西の長府〜秋根〜安岡筋との四路線があり、宿駅や一里塚があった。
 これらの道路の補修は道奉行の所管で、沿道の家々に命じ、道の中央部を高くするようにさせ、家や門が道にはみ出ないよう、また溝をつくるよう、旅人の便をはかった。
 幕末になって社会不安がつのり、人馬の往来が激しくなると、道路の補修もしばしば命ぜられた。
 これと関連して橋の補強も行なわれた。長府領と清末領との境にある神田橋が、一八一一(文化八)年に板橋から石橋に改められたのはその例で、経済上よりは軍事上の要請で、新道がつくられる所もあった。

  4 近世の文化と生活 top

 オランダ・カピタンの通行

 日本史上、よく知られているように、幕府の対外政策の基本は鎖国であった。
 ただしオランダと清(しん、中国)、のちには朝鮮の三国だけが、制限つきながらも国交を認められていた。
 オランダは長崎の出島に商館を建て、清も長崎に唐人屋敷をつくり、オランダ船・清国船ともに船数・貿易額に制限を加えられて、長崎奉行の監視のもとで貿易した。
 一六六一(寛文元)年から、オランダの商館長(カピタン)と将軍との会見が行なわれるようになり、これが幕府が外国事情を知る唯一の窓口となった。
 オランダ・カピタン一行は、もとは長崎〜小倉間が陸路、平戸〜江戸間が海路となっていたが、一六五九(万治二)年から、長崎〜小倉間が陸路、下関〜大坂間が海路、大坂〜江戸間が陸路となったが、いずれにしても関門海峡を通過し、赤間関に一泊した。一六九一(元禄四)年の時には、一行一五〇人余、道中三〇日を要した。
 宿泊は本陣または寺院で、大名の旅と出会ったときは一般の宿屋に泊まった。赤間関では東の本陣(伊藤邸)か、西の本陣(佐甲邸)かに泊まったが、この際、在地の日本人と接触する機会が生じ、外国事情や文化を知り学ぶ唯一の場となった。
 カピタンの随行員の眼に触れた下関の情況を、いくつか紹介しよう。
 一六九一(元禄四)年と翌年と二度にわたってカピタン一行に随行したドイツ出身の医師、エンゲルベルト・ケッペルの『日本古今記』(ヒルドレス訳)に、
 「下関は長門国にあり、戸口四〇〇〜五〇〇戸で、一条の長路とこれに連結する少数の小径に並んでいる。
 その多くは日用品を販売する商店と船相手の店である。また、避難するか、もしくは物資を供給のために入港する船舶は、日に二〇〇艘をくだらない」と。
 一七七六(安永五)年カピタンに随行したスウェーデン出身の植物学者・医師カール・ピーター・ツンベルグは、
 「下関は日本国の太守・大官のいる所ではないが、重要な位置にある。
 その港は周知されていて船の出入が激しく、大小様々の型の船三〇〇艘をみられる。
 沿岸貿易の商船は往きか帰りにこの港に商品をいくらか置いていく。安全な避難港になっている。
 陸上の商売も海上に劣らず利益をもたらしている。
 この土地は商人がこの国のあらゆる所から群集しており、各種多量の物資を入手できる。これは外の土地では得られない」と。
  一七九八(寛政一〇)年、オランダ商館の書記として長崎に来て、一八〇三(享和三)年にカピタンとなり、カピタンとして三度江戸に参府したベンドリック・ズープは、『日本回想録』に、
 「下関では我らは旅館に宿泊の指定を受けず、町名主の両家に交互に一泊した。
 その主人は和風の豪邸に住んでいる。彼らは浜辺に私らをむかえ、宿まで随伴し、滞留中歓待した。
 ここに数日休むことを例にしている。長崎を先発した船もここで会い、陸運の荷物も船に積みこんだ。
 船中は宿泊できるように準備し、我らも乗船した。
 ときとして逆風のために八日間も出帆しないことがあり、私も一度経験した。
 そのときは娯楽とか、社寺の見物にいって時をすごした」と。
 ファン・オトバメア・フィッセルは一八二二(文政五)年江戸に行ったが、その著『参府紀行』に、
 「下関は商業地として商船が多く出入している。
 商品は米・麦・その他の穀物・干魚・木炭等を主とし、また石細工もはなはだ巧みであるので、我らも小品を若干買った。
 この町は海にのぞみ、ことに阿弥陀寺をもって知られている」と。
 ドイツ出身の医師でカピタンに随行したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトは、『江戸参府紀行』に、一八二六(文政九)年二月、
 「白く青くはせいく帆と数多き漁船は、遠く広く海湾の鏡面をにぎわし、日本の船々の歌や掛け声は、近く遠く起こって、我が船員もこれに応じて歌い出し、阿弥陀寺のこもりたる鐘の音は、東北から北へ鳴り響いて、日本の四ツ時(午前一〇時)を報じた。 それより一漕ぎ、二漕ぎごとに海門の入口を開けて満珠・千珠の二つの小島は相並んで、さながら水先案内のごとく導いた」、
 「阿弥陀寺は他の二、三の堂・僧堂と共に町の東端の丘の上にあって、そこへ行くには、たいていは漁師や農民の住んでいる阿弥陀寺町という町を通る」と書いている。
 さらに幕末になると、イギリス公使オールコックの『大君の都』には、下関が貿易上最適地にあり、西日本の商品の集散地で、オランダ・イギリスの商品も小売りされている、と述べている。

 日本人との交流
 こうして外国人にも、赤間関の地は平家伝説の歴史のある、しかも商品集散の一大中心として出船・入船が輻湊(ふくそう)し、かつ風光明媚(めいび)な景勝地とみられていたのである。
 しかもこうした外国人に接した赤間関住民のなかに、その文化に学ぼうとする人物があった。
 さきのシーボルトが阿弥陀寺町に住む赤間関大年寄の伊藤杢(もく)之允邸(本陣)に招かれた様子を次のように記している。
 「オランダ人の熱烈な友人である第一の大年寄の宅で、我々は夕食に招かれた。
 ファン・デン・ペルヒ(前のカピタンのスープが伊藤をこう名づけた)は、全くヨーロッパ風の家具を置いた部屋に我々を出むかえ、もてなしたのであるが、……オランダの衣装を着て出て来た」と記している。
 そして伊藤はオランダ名の名刺を出したという。
 またシーボルトは、彼の力をかりて、海峡の測量や動植物の採集をしたともいう。
 長府藩の藩医松岡道遠は永富独嘯庵(どくしょうあん)の甥にあたり、医術の指導もうけているが、シーボルトから数種の新薬と『薬品応手録』を得、教えをうけている。
 慶長の役以来、国交が中絶していた朝鮮とは、対馬の宗氏を通じてその回復がはかられた。
 一六○七(塵長一二)年五月、はじめて朝鮮使節が来朝して以来、将軍の代がわりごとにその通信使(使節)が来るようになった。
 その一行は国書をたずさえ、正使・副使・従事の三使臣以下三〇〇〜四〇〇人であった。
 北九州の小倉や赤間関を経て、瀬戸内を航行し、沿岸の諸大名と交歓しながら大坂を通り、淀に上陸して二分し、一方は京都の朝廷に、他方の主力は近江の朝鮮人街道から名古屋・東海道をくだって江戸に行った。
 一六一七(元和三)年八月の来朝から一八一一(文化八)年七月の対馬における来朝まで一二回を数え、この経費は毎回一〇〇万両にも達したという。
 このうち、赤間関で送迎したのは八回で、風待ちや準備のためしばらく滞留した。
 藩主毛利氏は多額の経費を投じてその接待をはかり、また二〇〇そう余の送迎船と数百そうの警備船を配備した。
 経費はすべて藩費ですかなうため、藩財政を圧迫し、家臣には御馳走米を賦課し、赤間関住民からは、臨時金を上納させた。
 宿泊は、正使が阿弥陀寺に宿泊したが、他の使臣らは本陣・脇本陣を利用したであろう。
 赤間関住民が雑役に使われたことは推察できる。
 旧記によると、一七四八(延享五)年と六三(宝暦一三)年の接待のための藩庫支出は、合計銀四貫八七〇目であり、このほか、宿泊や宿駅・休憩地の経費に道中の雑費などを加算すれば巨額の出費になったことがわかる。
 しかし他面、使節に応待した藩主や学者らは、筆談で交歓し、詩歌を加わし、それぞれ故国の名器・珍品・書画・骨董の贈答があった。
 今日、この時に取交わされた文化財で現存しているものがある。

 藩校と官学
 長府藩では、学問の主流は儒学で、その中でも朱子(しゅし)学が重視され、官学となった。
 一七〇二(元禄一五)年一二月のいわゆる赤穂浪上の仇打ち後、岡島八十右衛門ら一〇人が江戸の長府藩邸にあずけられ、翌年二月切腹したが、これを藩のほまれとし、また家臣教育に活用した。
 一七九二(寛政四)五月、長府藩校の敬業館を長府裏侍町に開設し、この開設に努めた小田享叔(こうしゅく)を都講(とこう、教授)とした。
 享叔は萩本藩の藩校明倫館の館長であった山県周南から儒学を学んだものである。
 翌月には、敬業館に演武場を開いて、文武両道を教育した。
 この中からのちに儒家五家・武臣一〇余家・算学習礼の師二家が出たという。教授には、その後、江戸から大蔵謙助、豊前(ぶぜん)の倉成善次、安芸から七口村充助、出羽から結城恒右衛門、周防から臼杵太仲などが招かれて儒臣となった。
 享叔の養子小田南咳(なんがい)は父のあとをつぎ、一八三二(天保三)年一一月、敬業館に聖堂を設け釈奠(せきてん、孔子をまつる儀式)を行ない、算・習・楽の教科も教えた。

 藩では、家臣に対して幼少のときから好学を奨励し、一五歳になると藩校に入れて、孝経・論語・詩経・書経などの素読・暗誦をさせ、不学の者にはそのわけをとどけさせた。
 一八六四(元治元)年二月、敬業館を城内に移し、文学場を講文堂、武術場を練武場と改称した。
 また同年三月、藩上の熊野直介・福田扇馬が、幼少の子弟(一〇〜一五歳)を対象に文武を重点にした集童場を裏待町(古江小路)に開設した。
 清末藩では一七八七(天明七)年、藩校の育英館を開設し、萩(はぎ)本藩の儒臣片山鳳翩(ほうへん)を招いて教授とし、学規を定めた。鳳翩は吉敷毛利氏の家人(けにん)で、選ばれて山口の有吉高陽らに学び、のち京都にも遊学、帰郷してから郷党の指導にあたって名声があり、育英館で経書を講じた。
 彼の友人国島京山(きょうざん)はもと清末藩の儒官で、一時長府藩主に召されて講説したことがあった。
 萩本藩の明倫館の講師佐々木竜原も育英館の教育に協力した。
 一八五二(嘉永六)年教科に算学を加えたが、清末藩の財政窮乏から衰退し、五七(安政四)年に本藩から釈祭のことの照会をうけた時には、釈奠を中絶しており、館名も稽古場(けいこじょう)となっていた。


敬業館と集童場の跡

 寺子屋と民間の学問
 一般庶民を対象とした寺戸屋も幕末に発達してきた。これは、商品経済が発達したことにより、実用の学問としての読み・書き・そろばんが必要になり、奉行や郡代(ぐんだい)の許可を得て、一〇〜二〇人程度の寺子(生徒)を集め、浪人・医師・僧侶・神官らが教師となり、一対一の教育で行なったものである。
 教科は道徳を中心に、習字も日用文字・潜状の書きかたなど、実用的のものであったが、そのなかに生活規範や順法精神を含めさせた。
 市域では、竹崎の富豪三輪賢克の養子となって古文辞(こぶんじ)を修めた三輪東皐(とうこう)が赤間関で創設したのが最初の私塾といわれ、入門二〇〇人といわれる。
 このあと一八二一(文化九)年、同じ竹崎で清末藩の船頭であった鷁頭(げきのず)利宣が創設した鷁頭塾がその次といわれる。
 右表のように、赤間関を中心に各町とその周辺に寺子屋が開設されている。

 市域出身の学者の中で、すでにみたように京都や江戸などの有名な学者の開いている塾に入門する人もあり、また比較的近い豊後(びんご)の日田(ひた)にあった広瀬淡窓・旭荘(きょうそう)兄弟の咸宜(かんぎ)園に行って儒学を学ぶ者もあった。
 また豊前(ぶぜん)行橋(いくはし)の私塾、村上仏山の開設した水哉(すいさい)園にも赤間関から入門する者が多かった。
 市域出身の儒学者として著名な人物には、伊藤好義斎、甥でそのあとをついだ伊藤澹斎(たんさい)、三輪東皐(とうこう)・水富独嘯庵、小田享叔らがいる。
 著名な文化人としては、広江殿峰がいた。
 彼は西細江町の旧家で醤油の醸造業を経営していたが、絵と印章彫刻に巧みで漢学にも精通していた。
 自宅の西江堂を開放して、西日本の文人墨客を招待した。頼山陽・田能村竹田らとも親交があった。
 画家では、小田海僊(かいせん、百谷)があり、新地町の生まれで、京坂に学び、漢土名家の刺激を受けて勉励し、頼山陽と親しくして、名声が世に高まった。
 狂歌で有名な田上菊舎は豊浦郡田耕村出身で、夫の死後、実家に帰り、出家して文墨にふける生活に入った。
 生涯を遊歴と風流に送り、詩歌・書画・琴曲・茶道もよくした。長府の徳応寺に「雲となる花の父母なり春の雨」の句碑がある。
 市域をおとずれた文化人はきわめて多く、彼らの多くは、この地の景勝をうたい、歴史を語って、後世に伝えている。
 紀行文には、長久保赤水『長崎行役日記』、古川古松軒の『西遊雑記』、司馬江漢の『西遊日記』、吉田重陽(菱屋平七)の『筑紫紀行』、橘南谿の『西遊記』などがあり、詩文としては、山県周南・滝鶴台・池大雅(いけのたいが)・田能村竹田・頼山陽(らいさんよう)・梁川星巌(やながわせいがん)・伊藤常足(つねたり)・広瀬淡窓・広瀬旭荘らが作品を残している。

 社寺と祭り
 近世は町人文化が栄えた時代である。中世からの文化的な伝統をもつ長府に対して、赤間関は西日本の重要な商品経済の中心地となって「西の浪華(なにわ)」と評されて発展したことは、先にみてきた通りである。
 赤間関における商売の業種をみても、港町としての宿屋・料理茶屋・煮売屋をはじめ、運送されてくる商品の取引や漁業関係・生活物資・嗜好品などを販売する卸し・小売りの商家があり、遊興場なども発達した。
 このため、生活が華美になってきたとして、しばしばそれを抑制する触れも出され、長府の武上が赤間関の遊郭にいくことを禁ずる禁令もしばしば出されたりした。
 庶民の間には、古くからの社寺に対する信仰が根強く、神も仏も同様に拝み、その祭礼も経済の発展に即して盛大に行なわれるようになった。
 近世において、市域で創建された神社には、一六六五(寛文五)年の白崎神社、一七二○年代(享保)の大国神社、一七六七(明和四)年の六連(むつれ)八幡宮、一七七一(明和八)年の福江八幡宮、一八二〇(文政三)年の竹ノ子島金比羅宮、五七(安政四)年の恵美須(えびす)神社などがある。
 また藩主はじめ庶民の手で、神社の再建・修補・寄進されたものがあり、その島井・燈籠などもいまに残っている。
 また、寺院は寺請け制度の実施と共に、市域では二一か寺が創設され、一か寺が移転し、中興されたもの、寺格の昇格したものがあった。
 長府の三大寺とされた功山寺には一五の末寺、日頼寺には六の末寺、覚苑寺には二一の末寺が、赤間関はじめ市域各地に分布していて、長府藩の寺社奉行のもとに統轄されていた。
 なお、市域の歴史を語る時にはしばしば出てくる功山寺は、中世のころには長福寺として知られた寺である。
 一六五〇(慶安三)年、長府藩初代藩主毛利秀元の死去の際、その法号智門寺殿“功山”玄誉大居士にちなみ功山寺と名を改め、長府毛利氏の菩提寺となり、寺領二一○石余を得た。

 庶民の社寺に対する信仰と関連して、その祭礼が年中行事化して、それが封建的権力のもとに圧迫されていた住民に開放感と慰安をもたらすものとして、とくに近世中期以降、盛んに行なわれた。
 この中で注目されるものは、亀山八幡宮の亀山能、忌宮(いみのみや)神社の数方庭(すほうてい)と散楽(さんがく)、赤間宮の先帝祭、一の宮神社(住吉神社)の和布刈(めかり)祭りの神事とが代表的なものであった。
 亀山能は奉納能の中でも重要なもので、秋祭りの祭事の一つとなり、長府藩主と赤間関住民の手によって続けられ、一七九二(寛政四)年には能役者六二人(男二○人、女三二人)が記載されている。
 数方庭(すほうてい)は、伝説上の「三韓征伐」の出征または凱旋時の喜びを伝えたものといい、忌宮神社を目ざして藩士・庶民あげて種々工夫した幟(のぼり)を立て、灯籠をかかげて、笛・大鼓・鉦(かね)のはやしの中を踊りながら参殿し、境内の庭で踊りまわるという神事である。
 散楽は、放生会の際の御供神事として行なわれた。
 先帝祭は、赤間宮の安徳天皇の法会(ほうえ)として毎年三月二四日に行なわれ、赤間関の稲荷町の遊女が古代の装束・作法によって町を道中し、「八文字」を踏んで参拝する華麗さに、遠近から見物人があふれたという。いまもなお毎年盛大に行なわれている。
 藩では、これらの行事の花やかさに対し、時には自粛を命じたが、禁止することはできなかった。
 和布刈(めかり)祭りは旧暦一月一日、門司の和布刈神社のものとは異なり、一般には非公開の形で行なわれる神事である。


数方庭

 神功(じんぐう)皇后が当社創建の時、元旦の未明、神主に壇之浦の和布(わかめ)を取らせ神前にそなえさせたという故事になぞらえ、中世以来、現在までも厳粛に行なわれている。
 神事の式次第は口外されず、一般の人はこの神社から壇之浦への行列の火を見ることは禁ぜられ、また漁師もこの神事がすむまでは和布をとって売らないという禁忌(きんき)がある。
 厳冬の元旦、壇之浦海岸の暗やみの中で大宮司の和布を取るあかしの松明の光が波に揺られている遠景は、まことに印象的である。

 遊郭町の盛衰
 最後に遊郭と惣嫁(そうか)についてみよう。
 遊郭は赤間町の北にあり、一六八二(天和二)年に出版された井原西鷏の浮世草子『好色一代男』に「下の関いなり町」とあり、近世初めから遊女町として知られていた。 その賑わいは長久保赤水の『長崎行役日記』に

 「稲荷町といふ所は娼家あり、其中に歌舞伎する茶屋三軒、銀三〇〇目あたふるものあれば、俄(にわか)にも舞(まう)といふ。 その夜、幸に大坂屋に興行あり、舞台は江戸の湯島芝居よりも広し、装束はさかひ町にも劣らず、間には錦を着たるもあり」
と記して、茶屋・料理屋などの繁栄をしのばせている。
 しかし一八〇二(享和二)年四月の菱屋平七の『筑紫紀行』では、稲荷町の遊女屋は三〜四軒、この町の西側にあった裏町はかつて揚屋(あげや)町があったが今はなくなり、この地の遊女屋で遊宴していると記し、藩の緊縮令のためさびしくなってきたとしている。
 前にみた一八三八(天保九)年の『赤間関人別帳』では、稲荷町軒数九軒のうち六軒が遊郭に関係し、大坂屋太良右衛門方の女郎二三人、禿(かむろ)一二人、三味線師匠七人を筆頭に、合計六軒で女郎五六人、禿三○人余、三味線師匠二三人としている。遊郭が商港の発達と関連して繁昌したことがわかる。
 また、竹崎・伊崎などにも遊郭があった。
 遊郭が町の一画に集まって客を待つのに対して、入港してきた船客を沖に出迎えて営業したのが惣嫁(そうか、下級遊女)で、沖女郎(おきじょろう)・沖惣嫁・浜出女ともいわれた。
 もと壇之浦ではじまったのが、西へ移っていったものという。
 この抱(かか)え主は豊前田(ふぜんた)・竹崎・今浦に店をもち、最盛期には百数十軒、大きな店では常時四○人くらいの遊女を抱えていたという。
 一七九二(寛政四)年と一八三八(天保九)年との稲荷町・裏町の男女の人数をみると赤間関の戸数・人口の表参照、女の数が男にくらべて著しく多い。
 豊前田町をみると、寛政の場合、女の数が男よりかなり多く、この町が東方の稲荷町に対して惣嫁の町であったことを物語るが、天保期になって、これが逆転しているのは、惣嫁が衰退したことを示していよう。
 しかし幕末期になると東の遊郭が衰退していくのに対して、西の方がとって変るように繁昌していった。


惣嫁
 安藤広重の錦絵に描かれた北前船
と惣嫁。小舟に乗った二人が惣嫁。

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