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一章 下関のあけぼの
1 旧石器から縄文へ
下関から出た旧石器/旧石器時代の生活/下関の縄文遺跡/
フグを食べた縄文人
2 弥生時代と郷遺跡
縄文から弥生へ/まず六連島へ/綾羅木郷遺跡の発掘/
保存か開発か/貯蔵竪穴と溝/竪穴の用途/住居跡はどこに/
海の幸と山の幸/郷遺跡の遺物の特色/弥生の墓
3 古墳とクニの酋長
クニの支配者の出現/変化する古墳/古墳時代の住居跡 |
1 旧石器から縄文へ top
地球上に人類が登場したのは、地質年代でいう新生代第四紀前半の洪積世(約一〇〇万年前〜二万年前)である。
この頃の人類は、石を打ち欠いたり、動物の骨を加工して道具として使用しいたが、まだ土器ををつくる知識はもっていなかった。
この時代を考考学では旧石器時代と呼んでいる。
この頃の人類は、化石として発見されることから化石人類ともいかれ、古い順に猿人・原人・旧人・新人に区分されている。
もっとも古い猿人の化石人骨は、一九二四年にアフリカで発見された。頭骨はゴリラくらいの脳しがないが、足は直立して歩行していたことがわかっており、アウスとフロピテクスと名づけられ、いまから七五万〜二〇〇万年くらい前と推定されている。
日本ではかって多くの考古学者が、わが国には旧石器時代は存在しなかったと考えていた。
ところが一九四九(昭和二四)年、群馬県赤城山南麓の新田郡笠懸村の岩宿遺跡で発見された石器が、一万年より以前の関東ローム層から発見されたことから、日本にも旧石器時代があったことがわかり、研究が始まった。
現在では、全国に一〇〇〇か所をこす遺跡が発見されている。
これらの遺跡のうち、栃木県葛生・愛知県豊橋市牛川・静岡県浜北市・同引佐郡三ヶ日町の石灰岩の採石場から、沖縄県では洞穴から、化石人骨が発見されている。
下関から出た旧石器
下関市でも数か所の旧石器時代の遺跡が確かめられている。
弥生時代の遺跡として有名な、綾羅木郷(あやらぎごう)遺跡では、一九五一(昭和二六)年頃、土手にのぞいていた石を取りだして調べた結果、礫器(れつき)と呼ばれる粗雑な石器で、手でにぎって使う道具であることがわかり、また近くの畠の中にも弥生時代の石器にまじって旧石器が落ちていた。
その後も、弥生時代の遺構の調査の時に旧石器が発見されている。
郷遺跡は、洪積世に飛砂が堆積し、のちに地表が赤褐色に酸化してできた土壌である。
旧石器は、赤褐色の土が堆積した時期に使われたのであろう。
弥生時代になって貯蔵用竪穴や溝がつくられる時に、偶然掘りだされたと考えられている。
郷遺跡で発見された石器は、下関市教育委員会の水島稔夫氏が分類・整理したが、それによると、礫(れき)を両側から打ち欠いて先端に刃をつけた粗雑な石器であるチョッピングツール、ややていねいに両面を打ち欠いてつくった斧(おの)形石器、先端を打ち欠いて鋭利にとからせ、矢の先に使った先頭器あるいは先を鋭くとがらせ刀をつけた錐(きり)、ナイフとして石をうすくはぎとった剥片(はくへん)石器、台形石器と呼ばれる小型のナイフか矢の先につけたと考えられる小さな石器や、石器の材料として使った石核石器を加工した時にできた石屑(くず)などにわけられる。 |

旧石器時代と縄文時代の遺跡
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石器に使っへ石材は、硅(けい)質岩や玉髄(ぎょくずい)が大部分をしめており、これらの石器の組合せからみて、郷遺跡は、旧石器時代後期の遺跡と考えられている。
郷遺跡で発見された台形石器は、秋根遺跡の発掘調査でも偶然発見された。
使われた石材は、大分県鶴見岳で産するチャート(なめらかで固い堆積岩)であることが知られている。
このほか掻器(そうき)と呼ばれる小型の石器がある。長さ約三センチの亀の甲のような形をしているが、鉋(かんな)のように物をけずる道具として使われたようである。
また小刀として使った剥片石器もあり、発見された石器の種類は郷遺跡によく似ている。
下関市横野町の北に、海岸から起伏にとんだ赤褐色の粘土層に覆われた丘陵がつらなっている。
国道一九一号線に面した丘陵の崖面の、砂まじりの礫の上から、D字形をした削器(さくき)が発見されている。
この石器は、手ににぎって皮をはいだり、削ったりする道具である。
一九六四(昭和三九)年三月に行なわれた発掘調査で、剥片石器や剥片なども発見された。
削器の材料はこの付近でも採集できる石であるが、他の石器は下関には産出しない 黒曜石やホルンフェンス(変成岩という岩石の一種)を使っていた。
武久(たけひさ)町笹山では、地下五〇〜六〇センチの地下から、大分県姫島でしか産出しない黒曜石でつくった有舌(ゆうぜつ)尖頭器(せんとうき)が発見された。
投げ槍として使ったもので二等辺三角形に近い形をしており、先端は鋭利にとがらせ、両辺にあたる部分は細かく刻んで、鋸(のこぎり)の歯のような刃をつけ、根元にはえぐりをつけて柄をしっかり固定する工夫がされている。
武久から大坪に向かう海岸沿いの崖に、厚く堆積した礫層がある。礫層の中から楕円形の礫を両端から打ち欠いた粗雑なチョッピンクツールが発見されている。
旧石器時代の生活
以上、下関市内で発見されている遺跡や石器について説明したが、下関における旧石器時代の研究は十分になされておらず、わずかな石器だけでは、当時の人達の生活を復原するには十分とはいえない。
ただ、発見されている石器の組合せから、一万年以上の昔、旧石器時代後期には、下関の市域に人類が生存し、生活をしていたこと、石材は遠くから運ばれたものがあることなどはわかっている。
この時代については、今後の研究に期待したい。
この旧石器時代の次に続く時代は、新石器時代と呼ばれるわけであるが(中石器時代を間にいれることもある)、日本史のうえでは、ふつう縄文時代と呼ぶことが多い。
縄文時代とは、土器をつくる時に縄を巻きつけた道具で表面をころがし、形を整えた跡が残っていることがら、この土器を縄文土器と呼び、その土器のつくられた時代をいう。
ふつう早期・前期・中期・後期・晩期の五期にわけでいる。
縄文土器がつくられはしめたのは、今から約一万年前の沖積世の初め頃で、この時期から日本人が土器を使い始めたこの時代は西暦前二〜三〇○年頃まで続いたという。
縄文時代の起源については、最近の発掘調査で、長崎県の福井洞窟・同泉福寺洞窟・愛媛県上黒岩の岩陰から発見された遺跡が、約一万二〇〇〇年前と考えられ、従来の説よりさらに古いい年代までさかのぼるようになり、これを草創期と呼んでいる。
出土した土器の表面心は、細い粘土のひもをはりつけ、刻みをいれており降線文(りゅうせんもん)土器と名づけられている。
使われていた石器は旧石器時代の終りころの特徴をよく残している。
最初につくられた縄文土器は、口が広く底が厚く尖っており、地面に突き立てて食物を煮たきしたと思われる。
時代がすすむにつれ、製作にも工夫が加えられ、土器の底は平たく、形も種類も多くなる。
さらに、日本各地で地域的な特徴を強くもって発展していく。
下関の縄文遺跡
下関市域の縄文時代の遺跡のなかで、紫野遺跡は縄文早期の段階にあたると考えられている。
この遺跡は、安岡町の観音岬(村崎の鼻)と呼ばれる響灘に突き出た小さな半島の南側にあり、標高約一〇メートルの遺跡一帯は、現在民家が蜜集して、かっての面影をとどめていない。
遺跡からは、黒曜石でつくった小型の尖頭器と数百点にのぼる石鏃(せきぞく)・掻器・錐と、石器をつくった時の石くずである剥片が発見されている。
遺跡の年代をきめる手がかりとなったのは、押型文土器と呼ばれる磨滅した縄文土器の細片であった。
石器の材料となった黒曜石は、佐貿県伊万里(いまり)産が大部分を占めており、ほかに大分県姫島産の黒曜石や安山岩・水晶・頁岩(けつがん)が使用されていた。
発見された尖頭器や石鏃の量から、紫野では狩猟を中心にした生活が行なわれていたと推測される。
一九五七(昭和三二)年、梶栗浜(かじくりはま)遺跡(富任町)の発掘調査を行なった時、砂丘の中につくられた弥生時代の埋葬墓の下に、小石を含む古い砂丘がみつかった。
現在の地表から約一七〇センチも下の砂丘の上で、縄文土器の破片約二〇〜三〇点が発見された。 復原してみると、底の平らな深鉢になった。
製作の特徴は二枚貝のふちで表面を削って形を整えた条痕(じょうこん)文土器とよばれる前期の土器であった。
この土器は、縄文時代前期の滋賀県石山貝塚や熊本県曽畑(そばた)貝塚から出土した土器の特色を合せもっている。
曽畑貝塚の土器は、櫛の歯のような道具で表面に幾何学文様をいれた朝鮮の櫛目文土器によく似た特徴をもち、縄文時代早期から前期にかけて朝鮮半島と西日本の関連をさぐる重要な資料である。 |

縄文の深鉢形土器
(梶栗浜遺跡下層出土) |
曽畑式土器の影響をうけたこの型式の土器は、安岡町神川遺跡・彦島の宮の原遺跡や王司(おうじ)町神田川下流で干潮の時にあらわれる砂洲からも発見されている。
神田遺跡は、県立下関工業高校の南半分を占める大規模な遺跡として知られている。
一九五〇(昭和二五)年、当時小学生だった植竹顕一氏が石斧(せきふ)を発見し、貝塚があることが知られていたが、七一(昭和四六)年から、校舎の改築が行なわれることになり、山口県教育委員会によって発掘調査が行なわれた。
神田遺跡を残した早期末頃の人たちは、海進期(海水面の上昇や地盤の沈降のため、海が陸上にまで広がること)と呼ばれる温暖な気候にめぐまれた環境で生活していたが、海水面が高いため一段高い東寄りの丘陵で生活していたらしく、使いすてた土器などが丘陵の崖にすてられていた。
次に、砂丘の上に建てられた由緒ある神社である彦島八幡宮の境内にある宮の原遺跡は、一九五九(昭和三四)年に発掘調査が行なわれ、土器や石錘・石鏃(せきぞく)などが発見された。
ここの砂丘は海成砂層と呼ばれ、海中で堆積したものである。
発見された土器には煤(すす)がついたものとそうでないものとがあり、土器を使い分けたように思われる。
また神田川の河床から発見された土器も、干潮の時にすがたをあらわす砂洲の中からであった。
これらの土器は、表面が磨滅しているので、元々そこに集落があったのではなく、上流から流れてきて発見された所に埋まっていたものと思われる。
これらのことから、梶栗浜・宮の原・神田川の砂洲などの遺跡は、神田遺跡と同じく、その集落は、丘陵上の高い位置にあったと思われる。
やがて縄文時代中期頃になると、寒冷な気候と共に、海退期(海進とは逆に、陸地の隆起などにより海水面が下降すること)と呼ばれる時期がおとずれ、海岸線は後退し、北浦の各地で砂丘が形成された。
神田遺跡では、約二メートルもの厚さの砂丘ができ、その砂丘上でも縄文人の生活が始まった。
神田遺跡の南約三〇〇メートルの位置にある潮待(しおまち)でも貝塚がつくられた。
この二つの遺跡の人たちは、九州の阿高(あたか)式土器を使っていた。
また宮の原遺跡の土器は、山口市秋穂(あいお)町美濃ヶ浜・福岡県宗像(むなかた)の両遺跡から発見された土器によく似ている。
この頃、潮待貝塚の北側では、湿地帯をのぞむ丘陵の先端に、幅八〇センチ、深さ約九五センチの溝がほぼ東西に掘られている。
おそらく溝の東寄りの丘陵に集落がつくられていたと思われる。
後期前半頃になると、再び温暖な気候が続くようになり、海水面も現在より五〜六メートルも上昇したといわれる。
潮待貝塚や神田遺跡も一時は海底か海岸になっていたようである。
やがて後期中頃になると、寒冷な気候にもどり、再び海水面が後退し、この頃に潮待(正町)に貝塚がつくられた。
貝塚は東西に七メートル、南北に約四メートルの楕円形をしており、高さは約九〇センチで、当時の人たらが使い、こわれて捨てた土器や石器、食べ物の残りかすを捨てた場所である。出土した土器は、福岡県玄海町鐘ヶ崎貝塚・岡山県笠岡市津雲貝塚の土器に似た、後期中頃の土器である。
石器には石斧、石鏃、動物の皮を剥ぐ石匙(いしさじ)、木の実などを割る叩石が、装飾品には貝輪、滑石(かつせき)製の垂飾(すいしょく)、直径二センチばかりの土製の耳環などがあった。
フグを食べた縄文人
貝塚から出た当時の食物の残りかすからみると、当時の食料としては貝類が多く、淡水産・半鹹(かん)半水産の貝が採取されている。
動物には、イノシシや小鳥類、魚にはフダの骨も残っている。
この頃神田石跡では、洪積世の粘土層を深く掘下げて、貯蔵用の竪穴がつくられていた。
平面は楕円形に近く、断面はほぼ垂直か、なかほどでふくらみ加減につくられ、深さは三〇〜二〇〇センチと一様ではないが、床には四本の細い柱が壁ぎわに掘られ、地上で屋根をささえだものと思われる。
この貯蔵庫の近くの砂丘を掘りこみ、三〇歳前後の男性と性別のわからない幼児の埋葬が行なわれていた。
このほか垢田(あかだ)町・長府安養寺町・六連(むつれ)島でも後期の遺跡が発見されている。
六連島では、馬島(うましま、北九州市小倉北区)と向かいあった島裾のごくせまい範囲に、二〜四軒の小集落で生活をいとなんていたようである。
ここでは比較的気候の温暖な春から秋にかけて、漁撈や狩猟を行なった季節的な移住だったらしく、発見された魚の骨がそれを物語っている。
また波で打寄せられたらしい五〜六歳ぐらいの子供の骨も発見されており、天変による災害にあったことも考えられる。
六連島での夏季の移住生活は、縄文晩期から弥生時代中頃まで続いていたようである。
このほか縄文晩期の生活跡は、秋根町でも確認されている。現在は新下関駅の西側にあたる丘陵に土壙(どこう)墓が残されており、この周辺からも晩期の浅鉢や深鉢の土器片が発見されている。
この頃の北九州では、すでに弥生文化が受入られており、弥生土器も使われるようになっていたが、この文化が六連島まで到達していたことはわかっているけれども、本州ではまだ発見されていない。
2 弥生時代と郷遺跡 top
縄文から弥生へ
縄文時代の終末期である縄文晩期になると、九州西北部には稲作が伝えられ、弥生土器と縄文士器が並行して用いられるようになる。
そして狩猟や漁撈(ぎょろう)の生活から、しだいに農耕を中心とした生活に入り、弥生時代をむかえる。
この稲作農耕は、西暦前三〇〇年頃、中国の揚子江流域あるいは江南地方から伝えられたといわれ、それ以後紀元三〇〇年頃までの約六〇〇年間を弥生時代という。
弥生時代の初めころは、半農半漁猟の生活をしていたようで、多くは海岸や湿地に近い丘陵に小集団で竪穴住居をつくり、湿地帯を利用して稲作をしていたといわれる。
海岸近くの丘陵で集落をいとなんだ集団には、縄文時代後半に形成された砂丘にかこまれて海から切りはなされてできた水たまりを利用して、水田を開いたところもある。 |

弥生時代の主要遺跡
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水田を耕作するための鋤・鍬などの農具に木製品が使われており、ぬかるみに入るための田下駄や田舟も使っていた。
日用品として使われた石器としては、糸をつむぐ紡錘車(ぼうすいしゃ)、稲の穂刈りに使った石庖丁、木をくりぬく抉(えぐ)りの入った片刃石斧(せきふ)など、種類も豊富になり、つくりも精巧になった。
死者の埋葬は、地表を掘りこんでつくった土擴墓のほか、板石を長方形に立て並べ、蓋(ふた)をかぶせた組合式箱式石棺墓、大きな壺や甕(かめ)を便った甕棺墓など、中国や朝鮮半島の葬法が伝えられ、しだいに普及していった。
このように弥生時代には、稲作の普及と共に共回生活かより強固になり、集落も大きくなり、ムラを支配する酋長が出現する。
つまり、日本の古代国家の母胎となった社会が弥生時代で、朝鮮半島や中国からの影響を強くうけた時代である。
そこで、これから、下関市域での発掘の成果から、弥土時代の社会生活の一端をみていこう。
下関の市域で発見されてい弥生時代の遺跡は、約六〇か所にもなる。
これらの遺跡は、海岸から山間部にかけての広い範囲にあって、縄文時代の遺跡の数にくらべると、約六倍にものぼる。
まず六連(むつれ)島へ
下関市域でもっとも早く弥生文化を受入たのは、響(ひびき)灘に浮かぶ六連島、続いて当時の山陰側の海岸近くにあった丘陵だった。
まず六連島では縄文時代後期頃に、気候の温暖な春から秋にかけての期間、移住生活をおくったと考えられていることは、先に述べたとおりである。
遺物を含んでいる地層から縄文時代晩期の土器と弥生土器が一緒に発見されたが、土器の発見された場所では、生活の跡を物語る住居跡などの遺構はわかっていない。となりにある馬島の岩陰の洞穴から発見された土器により、縄文・弥生の土器を組合せて使っていたことが知られていることから、弥生文化が九州から本州に伝わってきた道筋を知ることができる、興味深い遺跡である。
さて、六連島に到達した弥生文化は、やがて本州の山陰沿岸にも伝えられる。
山陰側の海岸平野には、縄文時代後半から形成された砂丘が西あるいは南向きに連らなっており、砂丘の背後には、上流から流れこんだ淡水のたまる湿地ができ、増加した水流が砂丘の一部を押し開いて海にそそいでいた。
弥生人が初期の水田耕作を行なうには、このような地形がもっとも適していたとみられ、低地は水田、丘陵は集落、砂丘は墓地として長く利用されたようである。
このような地形は、幡生(はたぶ)・綾羅木(あやらぎ)・安岡・吉見(よしみ)・吉母(よしぼ)などのほか、豊浦郡の豊浦町・豊北(ぼうほく)町にもあり、遺跡として、下関市域では綾羅木郷遺跡、豊浦町では中の浜遺跡、豊北町では角島の沖田遺跡があげられる。
郷遺跡は幃羅木から安岡にかけて弓なりにそった現在の海岸線から、約七〇〇メートルほど内陸にある。
遺跡は一八八九〜九〇(明治二二〜三)年頃、豊浦中学校(現在の豊浦高等学校)の教師だった鍵谷徳三郎という人が、寺屋敷という所で弥生土器や石斧を発見したことから知られるようになった。
その後、第二次大戦が終るまでは忘れられていたが、一九五〇(昭和二五)年頃から、故人となった吉村次郎氏や民間の研究者が、下関市内や豊浦郡の遺跡分布調査を行なううちに、郷の集落や畠のなかから遺物を発見し、北西側の丘陵で古墳時代の首長の墓である前方後円墳(若宮古墳)や形のこわれた若宮南墳なども発見した。
遺跡の南には綾羅木川が低湿地をつくり、その南岸に伊倉(いくら)、北には梶栗(かじくり)川をはさんで梶栗や引田(ひきた)の丘陵が連なっている。
綾羅木郷遺跡の発掘
九五六(昭和三一)年秋、下関市教育委員会は山口県と共同で、山口大学の小野忠凞(ただひろ)教授の指導のもとに、南東側の宅地に接した畠をはじめて発掘調査した。
この時の調査では、弥生時代の貯蔵用竪穴一五基のほか、柱穴などがみつかっている。
貯蔵用竪穴の平面の形は、円形・楕円形・隅丸方形・隅丸矩形など様々な形があり、直径も五〇センチから一一六〇センチと一様ではない。
断面は、上がせまく底の広い鉤状のもの、上も下もほぼ同じものがあり、深さも一定していない。
これらの遺構は、不規則に掘りこまれ、なかには二つ三つの遺構が重なりあったものもあり、これを使った弥生人たちが一定の限られた地域で生活をしていたことが考えられる。
遺構のうち第七号竪穴は、床の壁ぎわに五組の壷や甕が並べ置かれていた。
それらのうちには、壺の口を欠き甕で蓋をしたもの、甕の上に甕をかぶせたものがあり、なかには人骨が入っていた。
これらについて、調査を担当した小野教授は、弥生時代前期の末頃に、貯蔵用の竪穴を利用して、子供の遺骸をおさめたのではないかと考えている。
この頃、郷遺跡の北西側の砂丘では梶栗浜(かじくりはま)遺跡と呼ばれる立派な墓地がつくられていたのに、ここで埋葬しなかったのは、弥生社会では、死んだ子供に対する特殊な葬送の習慣があったのかもしれない。
その後、一九六五(昭和四○)年六月に採土工事のため寺屋敷で、同年の七月下旬には遺跡南側の畠で、人類学者の金関丈夫博士をはじめ考古学・民俗学・地理学の研究者の協力を得て、下関市教育委員会が発掘調査を行ない、遺跡の価値が高く評価されるようになった。
この頃わが国では自動車エンジンの鋳型(いがた)の材料として欠くことのできない珪砂(けいさ)の開発に乗出していた。
郷遺跡の地下にも、良質の硅砂が埋もれていることに目をつけられていたのである。
そこで、農地をもつ地主としては、珪砂を採掘し地盤をさげることになれば、農作物を栽培するにも好都合だと考え、採砂業者と採掘の契約を結ぶこととなった。
ところが硅砂を採択すれば、遺跡を破壊することになるので、下関市教育委員会では、地主や業者と協議を行くない、硅砂を採掘する前に発掘調査を行なうこととなった。
発掘調査は、一九六五(昭和四○)年一〇月から、下関市教育委員会が主体となり、金関丈夫博士を団長に、国分直一博士をはじめ多くの考古学者の指導をうけた民間の研究者で組織した下関始原(しげん)文化研究会が調査の中核となって進められた。
発掘は、日曜日や休日も返上して、下関市立大学をはじめ市内の中学・高校のほか北九州の高校や大学の考古クラブ員、民間の協力者が参加して進められた。
調査が進行するにつれ、その成果は新聞・ランオ・テレビなどによって報道され、研究者のみならず多くの人たちの関心を高め、遺跡を保存ずる要望が強くなってきた。
こうした郷遺跡の調査がきっかけとなり、民間では郷土の文化財を守る会が結成され、地道な保存運動が繰広げられることとなった。
保存か開発か
ところが、一九六八(昭和四三)年になって、採砂工事は急ピッチになり、発掘調査が追いつかなくなった。
昼間の勤務や授業が終ってかけつける下関始原文化研究会員や学生たちによって、懐中電灯やロウソクをつけ、夜半まで調査が続くことも多くなった。
そのため参加者の中には、疲労で倒れる者もでてきた。
このような緊迫した状況のなかで、下関市教育委員会でも、遺跡を保存するために地主や業者と再三にわたって協議を重ねるうち、国の史跡として保存する案が作成され、一九六九(昭和四四)年三月に文化庁の文化財保護審議会で審議されることとなった。
ところが三月八日土曜日の夕刻、発掘調査を終って遺跡から引きあげようとしていた時、近くの工場に止めてあった一一台のブルドーザが遺跡に進入してきたのである。
ブルドーザは、史跡として保存しようとしていた畠の一部や、調査中の畠を破壊し始めた
この突然のできごとに急を聞いてかけつけた調査員や学生たち、下関市や山口県の職員たちの制止も容易に聞入れられなかった。
ようやく夜中をすぎるころ、やっと破壊を中止するという約束を取りつけ、全員が現地から引きあげたのち、再び破壊が開始され、翌朝まで続けられた。
この事件は、翌朝のニュースで全国に報道され、遺跡保存と産業開発の問題として論議され、行政の機関として文化財保護への態勢を確立するきっかけとなった。
一方、文化庁は、異常な事態のなかで、郷遺跡を国の史跡として指定するために異例の措置をとり三月一一日には文部大臣の決済をとり、官報に告示した。
こうして史跡に指定されたのちも、指定からはずれた畠については、一九七一二昭和四七)年四月まで発掘調査が続けられた。
この間、指定をうけた地域のうち、若宮古墳のある丘陵について、文化庁を相手どって業者と地主から指定取消しの訴訟が起こされたが、七一(昭和四六)年に和解が成立し、現在は、郷遺跡史跡整備の計画が進められている。
この七年間の発掘調査で、郷遺跡には縄文時代の遺構は認められなかったものの、旧石器時代から中世までの遺構が発見された。
なかでも弥生時代の遺構がその中心を占めている。
弥生時代の郷は、前期の中頃から中期前半までの約三〇〇年のあいだ集落が存続し、その後、古墳時代の初頭に再び集落がつくられている、ということがわかった。

貯蔵用竪穴の断面(左)と溝の断面(上、綾羅木御遺跡)
貯蔵竪穴と溝
弥生時代の遺構としては、約七〇〇基の貯蔵用の竪穴と数条の溝が発見されている。 |
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これらの遺構は、標高九〜一五メートルの赤褐色をした丘陵を掘下げたもので、竪穴の底は赤褐色の上を床としたものや、さらに深い硅砂の層に達しているものもある。
貯蔵庫の平面の形や断面・深さなどは、一九五六(昭和三一)年の発掘調査のときと同じく、様々の形態があり、一定していないが、一部には、底の中央に直径三○センチ前後の柱穴かと思われ
る穴を掘ったものがあり、まれには排水用と考えられる小さな溝をつけたものもあった。この貯蔵用竪穴には、縄文時代後期につくられた神田遺跡の遺構によく似たものもあった。
溝は、断面をみると、上が広く、底は鋭角にせまくなり、V字に似ており、深さも一〜二メートルあるものもあった。
地上での溝の幅は三メートルを越すものもあり、これは普通の排水溝とは考えられない。
この溝も縄文時代後期の潮待(しおまち)貝塚で発見されたものとよく似ているが、このような溝は、普通、集落の境界として周りにめぐらしたり、墓地との境にしたりする例が多いようである。
郷の貯蔵用竪穴や溝は、遺跡の全面に掘られているが、一段高い西側の地域では少なくなる傾向がある。
もっとも古い竪穴や溝は東南側に多く発見されており、西に広がるほど時期の新しい遺構がふえてくる。
このことから、この台地の利用は、東あるいは東南側の現在の郷集落のある地域から始り、しだいに西に移ったことがわかる。
溝は貯蔵用竪穴が新しくつくられるごとに古い溝を埋め、新しく掘ったものであろう。
最初の溝は弧を描くようにカーブしていたが、最後に掘られた溝は遺跡をほぼ直線で南北に横断していた。
竪穴の用途
この竪穴が貯蔵用の施設として使用されていたことは、床の壁ぎわに壷や甕などが並べ置かれていたことからも推察される。
地下に掘下げた施設だから、一定の温度を保つことができる反面、欠点としては湿度が高く、梅雨のときなどには貯蔵していた食料が腐敗したりすることも多かったと考えられる。
貯蔵用の竪穴も、古くなったり、こわれたりすると、本来の使い方からはなれて、他の用途に使われていることが多い。
たとえば床には土器を並べた状態でその上に新鮮な土を厚く盛り、踏み固めて新しく床を張って再利用したものがある。
また使っているうちに、雨などで崩れることもあったらしく、このような竪穴はごみ捨て場として再利用されている。
穴の中には、貝・魚骨・獣骨など食料の食べかす、こわれた土器、近くで焼いた生焼けの土器の破片、植物の繊維などがすてられている。
特殊な例としては、小児の埋葬に使われることもあった。
また収穫した米を保存するために、竪穴をかまどとして利用して焼米(やきごめ)をつくっていたようである。
最初から別の目的でつくられた竪穴もあった。遺跡の東側では、土器の原料となる粘土を採取するために深い竪穴を掘っている。
この土器を焼くための窯も一例発見されている。
長方形の竪穴の底に斜めに床を張り、この上に並べて焼いたようである。
貯蔵用竪穴は、郷遺跡以外でも発見されている。
当時の山陰沿岸に接した富任(とみとう)の辻・七辻、梶栗、稗田(ひえだ)高山、梶栗川北岸の引田、低湿地をのぞむ稗田丸屋、また綾羅木(あやらぎ)川の両岸にある丘陵の伊倉、秋根、下有富、石原塚の原、山陽側では木屋川上流の吉田堂の尾、その支流である田部川上流にある内日(うつい)中学佼、神田川上流の鎧(よろい)、清末町阿内(おうち)などで発見されている。
堂の尾や鎧遺跡では、竪穴の中に食料にした貝のからが投棄されていた。
次に溝の用途をみてみよう。郷遺跡で発見された溝は、地表で幅が二〜四メートルもあり、またいで渡ることができないものもある。
この溝は南東から西へ新しく掘りなおされ、古い溝は意識的に埋められており、貯蔵穴がふえ倉庫群が西にひろがったことを物語っている。
なかには古い溝を掘りひろげたり、西端の大溝は、古い溝に新しい溝をついで使用していた。
深いものは二〜二・五メートルもあり、排水溝以外の目的が強かったようである。
溝を掘下げて調べてみると、底には厚さ一〇センチくらいで粘土が推積しているので、最初のころは水がたたえられていたことがわかる。
溝の底や斜めの壁に柱穴が残っている場所があったが、幅の広い溝を渡るために橋のような施設があったのであろうか。
溝が不要になると、大量の土を投入したり、土器や石器などを投棄して、意識的に溝を埋めることもあった。
土器の中には、完全な形をして十分使えるものもある。
ひとつの例として、甕(かめ)の中に幼児の骨が入っていたことがあり、貯蔵用竪穴を埋葬に転用していた例と考えあわせると、当時の葬法を考えるうえで興味深い事実である。
住居跡はどこに
郷(ごう)遺跡では、これまでの調査で住居の跡は発見されていない。
数百にのぼる貯蔵用竪穴が不規則に掘られ、その周辺にはかなりの空地があるところからみると、のちの時代に耕作地として利用するために丘陵を削った時、浅く掘りこまれていた住居跡が消失したのでけないか、という推測がある。
その理由は、貯蔵用竪穴から発見される遺物に、食料の残芥(ざんかい)があることによっている。
他の考えかたとしては、南東側の風当りの少ない現在の集落の下にあるのではないかといわれているが、どちらにしても、郷遺跡の住居跡については、今後に残された研究課題といえよう。
郷遺跡からは綾羅木川をはさんで南東に伊倉(いくら)遺跡がある。
いまは新幹線の新下関駅の操車場になっている亀の甲地区は、一九七一(昭和四六)年、山口県教育委員会が発掘調査を実施した。
標高約一五メートルの丘陵には、郷遺跡よりわずかに新しい弥生時代中期の貯蔵用竪穴群と、後期から古墳時代初頭にくだる竪穴住居跡一〇棟が発見されたが、ここでも弥生時代の竪穴住居跡は削り取られており、平面形が円形をしていたことしかわかっていない。
さて、郷遺跡の弥生人は、川辺の湿地価を利用して水稲桝作を行なうかたわら、狩猟や漁撈を行なう半農半漁の生活をしていた。
郷の人たちが残した米は、貯蔵用竪穴の中に落ちでいたもののほか、意識的に大量に残していることもある。
この米は、土器の中からは発見されることはなかった。
これらの米は、すべて炭のように黒く炭化しているが、米の中には長く保存するために火をとおして焼米(やきごめ)をした習慣の認められるものもあった。
米の種類は現代の私たちが食べている日本型(ダヤポユカ)と呼ばれるもので、短粒米と丸味の強い円粒米に細分される。
大陸から日本にもたらされ、栽培された時には、細長いインド型(インディカ)はすでに改良されていたのである。
この米を栽培した場所すなわち水田は、調査を行なっていないので、はっきりしないが、当時の地形は現在より約五メートルほど低かったことが推定されているから、綾羅木川のある南側は海水の入りこむ湿地帯とみられるし、北は梶栗川をはさんでやや高くなっているので、水田は梶栗・引田・郷に取りかこまれた地域にあった可能性が大きい。
当時の栽培植物は米のほかに、ムギ・モロコシキビ・リョクトウ、それにアズキとアワかキビらしい炭化物がある。
このほかモモ・ウメ・クリ・ヤマモモなどの果実類、イチイガシ・スダジイなどの木の実、アカメガシワ・ハシバミ・アカザ・エゴなど草の種子、野菜の一種といわれるヒユの種でなどがある。
アワかキビらしい種子は、もしアワと断定できるならば、福岡県飯塚市の立岩遺跡の弥生時代中期のアワより古い栽培になり、今後の研究が待たれる。
ウメは中国の四川・湖北省の山岳地帯に原生するといわれているが、日本では東京都で弥生時代後期の遺跡からも発見されたことがあるので、郷遺跡からの発見は日本で最古の例となる。
もっとも量の多かったイチイガシの実は、アクは強いがなまでも食べられる。
ハシバミの種子も塩づけにして食用にでき、エゴはつぶして川に流し、魚をとる時に使えるということである。
海の幸と山の幸
郷遺跡の弥生人たちが、狩猟を盛んに行なっていたことは、発見されている数百の石鏃(せぎぞく)からもわかる。
捕食していたと思われる動物は、イノシシ・ニホンジカ・タヌキ・クマ・ネズミ・モグラ・ニホンザルなどの陸にすむ動物のほか、クジラ・ニホンアシカのような海の動物にまでおよんでいる。
なお、ニホンジカは雄鹿だけを狩猟していたようである。
これらの動物は、食料として重要なタンパク源となったほか、毛皮は衣類に、骨は加工して道具とした。
貝殻や魚骨・獣骨にまじって、シカやイノシシの骨を加工してつくった、ヤス・アワビオコシ・ぬい針・刺突具などが発見されている。
彼らはまた、海浜に近い丘陵で生活していたこともあって、魚や貝も大量に捕食していた。
魚にはマダイ・キチス(キビレともいい、クロダイ=チヌの一種)やフエダイ科の魚などの沿岸性の魚類が多く、まれにサメ・エイなどもとったようである。 |

骨製ぬい針
(綾羅木郷遺跡出土)
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土錘(どすい)・石錘と呼ばれる網のおもりが大量に発見されており、弥土人たちが協力して地引網も引いていたことがわかる。
貝には二枚目や巻貝があり、河川・沼・田などの淡水域、河口や葦の生える潮間帯域、河口に近い浅海域などで採取したものに分けられる。
もっとも量が多いのは、淡水域のカワニナ・ウミニナと汽水域(海水と淡水とが混じりあった水域)のヘナタリ・ヤマトシジミである。海水域では、ハマグリ・ケガキ・オキシジミ・イガイ・クボガイなど種類が多く、これらは岩礁と砂浜に生息するものとにわけられる。
このほかアカウニ・ムラサキウニを捕食しているが、現在採取されているバフンウニはみつかっていない。
これらの貝の中には、現在、すでに綾羅木海浜では採取できなくなったものが多く、現存するものでも貝の形はより大きく、たとえば直径約一六センチものアワビ貝は六〜九年貝に相当し、サザエは最高一〇センチ、チョウセンハマグリは約一〇センチもあった。
これらの貝類が水深一〜二メートルの浅いところから採取されたことを考えると、当時の綾羅木海岸周辺の貝の生息域は豊富であり、魚類や獣類をも含めて、郷遺跡では、動物性のタンパク源にこと欠かなかったようである。
郷遺跡の遺物の特色
郷遺跡は、北浦(山陰側)沿岸で、豊浦町中の浜遺跡と共にもっとも古い弥生遺跡と考えられている。
郷遺跡の土器は、北九州の土器と比較すると弥生前期中頃とみられ、壺・甕・鉢が圧倒的に多くつくられている。
壺の特徴から、前期の土器を古い順にT〜V、中期の土器をWとしている。
Tの時期の壷や甕は、高さ一五〜三〇センチ程度だが、Uの段階になると壷も甕も大形になり、壷は胴が大きくふくらみ、口の内側にヘラで横に一本の線を入れるものがある。
Vの段階では、高さ二〇〜六〇センチの大小様々な壺や甕がつくられ、形も用途に応じて変化し、ミニアチュアの土器がふえてくる。
Vの壺は、北九州市八幡区で発見され、かって高槻(たかつき)式土器と呼ばれており、福岡県玄海町から響灘(ひびきなだ)沿岸の地域で多く発見されている。
その影響は山陰沿岸・瀬戸内海にまで広がっている。
TからVの段階の土器は、粘土に砂をまぜた重量感のあるもので、胴にはヘラやタマキ貝などを使って幾何学文様を描き、酸化鉄を材料にした赤い絵具を塗っている。
Wの段階すなわち弥生中期になると、北部九州の回転台をまわしてつくった軽くて精巧な中期の土器が搬入されはじめる。
この頃から郷遺跡では極端に遺構の数が減り、主要な河川をさかのぼって遺跡が広がっていく。
中期中頃から後半には、形山(かたちやま)遺跡・蒲生野(かもの)横田遺跡のように標高四〇〜五〇メートルの高い位置にも集落ができ、後期には再び低い丘陵におりてくる。
石器の多くは砥石で砥いた磨製石器がつくられ、農作業に使う石庖丁・石鏃、織物の糸をつむぐ紡錘車などの新しい石器や、鉄製の鎌ややりがんななども使われるようになる。
装身具には、直径三ミリくらいの貝小玉のほか管玉(くだだま)・翡翠(ひすい)の垂(たれ)飾りなどがある。
めずらしいものとしては、古代中国に登場した陶塤(とうけん)と呼ばれる笛が、郷遺跡で発見されている。
陶塤は、福岡県宗像郡から松江市、京都府丹後半島の弥生時代前期の遺跡からも発見されており、響灘から日本海沿岸に楽器を使った弥生文化をもつ集団がいたことを知ることができよう。 |

陶墳(綾羅木郷遺跡出土)
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弥生時代の埋葬 組合式箱式石棺墓(梶栗浜遺跡)
弥生の墓
死者に対する儀礼としては、弥生時代前期に、中国や朝鮮半島で行なわれていた板石を組合せた組合式箱式石棺を使った葬法が取りいれられた。 |

供献土器 前期の弥生土器
(梶栗浜遺跡出土) |
梶栗浜遺跡では、一九二二(大正二)年、一基の石棺墓の中から、朝鮮半島でつくられた多鈕細文鏡と細形銅剣二口と弥生土器とが発見された。
その後、大阪府で国産の青銅器である銅鐸(どうたく)と多鈕(たちゅう)細文鏡が出土したが、その銅鐸の製作年代をきめる手がかりになったのが、梶栗浜遺跡の銅剣や鏡と共に出土した弥生土器であったことは、あまりにも有名である。
この遺跡は、郷や梶栗の弥生時代前期から古墳時代にかけての墓地である。
発掘調査によって、前期の墓は組合式箱式石棺、木棺を入れたと考えられる石組み、礫を長方形に敷き並べ床に板石を敷いた石囲(いしかこい)、壺に甕をかぶせた合蓋壺棺、中期の土壙(どこう)墓が発見された。
石棺墓や石組みのそばには一〜二点の壺を据え置いて、石棺墓の上には砂を盛り、板石を敷き並べ墓石としている。
北浦沿岸にある同時代の中の浜や土井ヶ浜の埋葬にくらべるとていねいな葬法である。
中期の埋葬の例として知られているのは、吉母(よしも)浜と稗田(ひえだ)地蔵堂の二つの遺跡がある。
吉母浜では梶栗浜遺跡と同様に、当時の海岸砂丘を墓地とし、北部九州から持ちこまれた美しい丹塗りの土器をそなえていた。
この遺跡では、土井ヶ浜や梶栗浜でもみられたが、男性の墓は加浜の礫を長ぷ形に並べた質素な石囲の中にあるのに対し、女性にはなにも施設がなかった。
地蔵堂遺跡は、綾羅木(あやらぎ)や幡生(はたぶ)の低地が一望できる標高約四〇メートルの丘陵頂部で一基の組合式箱式石棺が発見された。 なかに中国の前漢時代の内行花文鏡と棺内の両側に、全面を鍍金(メッキ)した蓋弓帽(がいきゅうぼう)がおさめられていた。
鏡には有名な中国の詩人である屈原(くつげん)の「清白にして」という詩が鋳(い)出されていた。
蓋弓帽は、元々馬車の上を覆ったかさの骨にかぶせる金具で、古代中国の歴史書である『後漢書』に、青いかさに金色の革飾りをつけた蓋弓帽は皇族の乗物であると記され、同じく古代中国の『周礼』(しゅらい)という書物には、かさの骨は二八本あったと記されている。 |

内行花文鏡(右)と蓋弓帽(左)(地蔵堂遺跡出土)
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地蔵堂の蓋弓帽の先には、四葉の革飾りと中央に動物の頭が鋳出されている。
地蔵堂で発見された二本は、出土状況からみると蓋弓帽だけが渡来したと思われる。
丘陵の頂上に葬られた墓の主(ぬし)、渡来の経路など、いまだに謎はとけない。
いずれにしても、金印(志賀島で発見された「漢委奴国王印」)よりも早く渡来した蓋弓帽は、弥生人がみた最古の黄金の色であったろう。
3 古墳とクニの首長 top
クニの支配者の出現
稲作農耕の定着と共に、弥生時代後期頃の西日本では、中国の『魏志倭人伝』に記載されているように、邪馬台国(やまたいこく)をはじめ小国家(クニ)が分立し、宗教的・呪術(じゅじゅつ)的能力をもつ人物が、国の統率者として政治を行なったと考えられている。
このような社会構成のなかで、より広大な耕地の開拓がすすみ、経済力の上昇に伴い、クニとクニとの力関係に差ができて、地方のクニはしだいに統合されていき、これが日本史のうえで大和国家の統一となってあらわれる。
ここに、政治を行なう者と一般農民との間に、生活状態の差異が大きく開き、支配する者とされる者とがわかれる階級社会へと変貌していった。
地方の豪族やクニの統率者は、土を高く盛りあげた巨大な墓に葬られるようになる。
一般に世界各地では、国家的統一の行なわれた初期に、大型の墳墓がつくられており、日本では三世紀末ないし四世紀初めから、六世紀末頃までを古墳時代と呼んでいる。
古墳は、外形から、前方後円墳・円形墳・方形墳などにわけられるが、前方後方墳・双方中円墳など特殊な形をしたものもある。
このうち前方後円墳と円形墳は、古墳時代初期から終末期にいたるまでつくられるが、とくに各地に残るもっとも巨人な前方後円墳は、クニを治めた首長たちの墓といわれている。
下関市には五基、豊浦町には一基の前方後円墳があるが、豊浦町以北の山口県山陰側にはまだ発見されていない。 瀬戸内海側では、山陽町の長光寺山古墳を西限とし、山口市・防府(ほうふ)市から東部に分布している。
下関市近郊でもっとも古い延行(のぶゆき)町の仁馬(じんば)山古墳は、前方部を西に向けほぼ東西に全長七四メートル、後円部の直径四六メートルの規模をもち、前方部の幅が後円部直径の半分の長さで、精密な測量のもとに築造されている。 この古墳の南北両側には、それぞれ一基の円形墳がつくられている。
仁応山古噴は、四世紀中頃から五世紀初頭頃に築造されたと推測される、九州最古の大分県宇佐市の赤塚古墳・春日山古墳に外形がよく似ている。
未調査であるため、埋葬の状態は不明だが、外形からみて、畿内の影響を強くうけた古墳で、山陽町長光寺山古墳と共に、この頃の大和朝廷と密接な関係をもった首長の墳墓ではないかと思われている。
仁馬山古墳についで、遅いくとも五世紀ごろ築造されたと考えられる若宮古墳は、郷遺跡の北西丘陵に前方部を南に向け、ほぼ南北に全長約四四メートル、後円部の直径約二三メートルの規模をもっている。 |

市域の主な古墳
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後円部には、長さ約三メートル、幅約一二メートル、高さ約一・一メートルの箱式石棺一从が埋葬されていた。
変化する古墳
この箱式石棺は、九州の弥生時代の伝統をもつ箱式石棺であることから、この頃九州からの政治的な影響力を強くうけていたものと考えられる。
石棺の蓋(ふた)石は、約二〇センチの厚さの白色粘土で覆われているが、第一回の埋葬が行なわれたあとに、石棺の南側を開き、再び追葬(ついそう)が行なわれた形跡が残されていた。
石棺の内面には、鉄丹(に)を塗っており、二体以上の人骨が発見された。
迫葬のためか内部は乱れており、硬玉(こうぎょく)製曲玉や碧玉(へきぎょく)製管玉などの装飾品、鉄剣・鉄刀・鉄斧などの鉄製品がそなえられていた。
観音岬古墳は、安岡町観音岬(村崎の鼻)の先端に、前方部を海にむけて南西から北東に約五四メートルの長さをもつ、未調査の古墳である。
現代の造成工事のため、誤って前方部を削り取られてしまったが、前方部が大きく開く特徴をもち、五世紀頃の古墳と考えられる。
六世紀頃になると、朝鮮半島から伝えられた土木技術によって、古墳は人口を横につけ、短い石組の通路の奥に石室を設けた横穴式石室と呼ばれる構造に変り、必要に応じてなかに入ることもできるようになった。
また岩谷古墳・秋根古墳・女郎(じょろう)ヶ迫古墳のように、埋葬を打なう奥室と供物(くもつ)を置く前室の二室をもつ古墳もつくられるようになった。
若宮古墳の東側丘陵にあった上の山古墳は一九一二(明治四五)年頃、川北神社を造営する時に壊されてしまっていた。
土地の古老の伝承によると、前方部を南に向け南北に約一〇〇メートルの大きさをもつ下関市では最大の古墳だった。
横穴式石室の中からは、鏡(六鈴鏡)、腕輪(鈴付釧(くしろ)・銅釧)、水晶や碧玉の管にメノウや水晶の曲玉・ガラス小玉などの装飾品、王者の象徴といわれる三輪玉などが発見されたが、現在、東京国立博物館に保管されている。
遺物の内容から、この墓の主は、六世紀頃に、少なくとも綾羅木・安岡一帯に君臨した王者であったと思われる。
上の山古墳よりやや古いと考えられる宮山古墳は、生野八幡宮の社殿裏にある。一九五八(昭和三三)年、天理大学の金閣恕教授が現地をおとずれ、はじめて前方後円墳であることがわかった。
前方部は西に向き、ほぼ東西に全長約二二メートルの規模をもっている。
一九一二(明治四五)年頃、神社境内の拡張をした時に、南西を向いて開く横穴石室の入口が発見され、中から四点の曲玉が発見されたと伝えられている。
六世紀になると、横穴式石室を墓室とした円形墳が数多くつくられるようになる。
椋野(むくの)町にあった岩谷古墳や吉母(よしも)の下方古墳のように単独に造営されることもあるが、秋根古墳・有富(ありとみ)古墳・工領(くりょう)古墳・傍示(ぼうじ)古墳のように二〜五基がグループになることが多くなり、平坦地から山の斜面や尾根に並ぶこともある。
また吉田や吉見の上越(かみごし)のように、小さな墳丘の下に箱式石棺を使う習慣も残っている。
莫大な労働力をついやしてつくられる古墳は、何回かにわけて土を築くことが多く、岩谷古墳では造営工事のなかばで石室入口の上と後に須恵(すえ)器の大甕(かめ)を据えおき、祭事を行なったのち、さらに土盛りをして古墳の形を整えていた。
古墳時代の住居跡
綾羅木(あやらぎ)川の上流では、弥生時代後半に標高四〇メートルくらいの丘陵や山の斜面で生活をしていた人たちも、古墳時代の初めには標高一〇〜二〇メートルの丘陵に住居を構えるようになった。
古墳時代はじめの遺跡である秋根遺跡では、幅約一メートルの浅い溝が東から西へまっすぐに流れ、この両側に竪穴住居がつくられており、平和な集落を想像させる。
このうちの一軒は、D字形に囲まれた溝の中央に建てられており、集落のなかで特殊な意味をもつ家屋かもしれない。
住居の外形は、正方形や長方形に浅く掘りこまれ、壁ぎわには細い溝をつけ、中央には炉がある。 |

竪穴住居跡(秋根遺跡)
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住居の一端を一段高くする北部九州の古墳時代にもみられる構造と似たものもあった。
炉跡を中心に、正方形に四本の柱穴が掘りこまれ、屋根を支えていた。
住居跡や溝の中から、島根県や鳥取県一帯で祭事や墓にそなえられている鼓(つづみ)形器台や、注口土器と呼ばれる土師器が発見され、北部九州の弥生時代後期の影響を残す土師器の甕と一緒に使われていた。
五世紀頃になると、朝鮮半鳥から渡来した工人たちが、大阪府の陶邑(すえむら)で登窯を築き、須恵器と呼ばれる土器を焼きはじめ、焼物の技術はしだいにひろまっていく。 六世紀初め頃には、下関でも須恵器が使われるようになり、郷遺跡・伊倉遺跡・秋根遺跡に、この頃の住居跡が発見されているが、登窯はまだ発見されていない。
弥生時代前期に繁栄した郷遺跡では、六世紀頃の住居跡が、台地南寄りに四軒発見されている。
一方、住居跡からは、土師器や須恵器にまじって、祭りに使われた滑石(かっせき)の鏡や剣の小さな模造品や臼玉が発見された。
この模造品は、神田遺跡の砂丘の中からも、釧(くしろ、腕輪)と剣が発見されている。
三・四号住居跡では、壁ぎわにかまどが築かれ、煙出しと呼ばれる煙突がつけられていた。
秋根遺跡では、かまどの上に据えた土器を安定させるための支脚が置かれていた。
吉母浜遺跡では、砂丘の中に持ち運ぶことのできる土師器のかまどが置かれており、当時、海浜で作業する時に使われたものと思われる。
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